黒猫と雨のシリーズ

 

 黒猫よ

 

 暗い部屋の中、ぼんやりと赤い光が灯っているのを見つけた。

 そういえば小さかった頃、あの赤い光で手のひらを焦がしたことがあった。
 外気に散々いじめられた今の手には、あの熱も愛しくてたまらない。

 ネクタイを緩めて、シャツの一番上のボタンを外す。
 敷きっぱなしの布団の上に鞄を放り投げながら、赤い光を目指して歩いた。
 ストーブまでつけっぱなしにして出かけた覚えはなかった。

「ぎゃー」

 突然、畳が鳴いた。畳らしからぬ声で。
 ぐにゃと来た足の裏の感触に、ぎょっと心臓がはねる。

(やわらかい)

 思わず足を引き上げ宙に浮かした、まぬけな格好のままで、固まった。
 赤い光を付着させてしまう、それほどに白い足が目に飛び込んできた。二本、あった。
 ということは、とりあえず人外の類ではないのだと、心臓に言い聞かせる。

 白い足にまとわりつく闇がふわりと揺れる。
 二つの光と目が合って、仰向けになったことに気が付いた。

 やっと暗順応が始まって、それ以外の部分もはっきり分かるようになってきた。

「めい?」

 返事の代わりに、パチパチとまばたき。
 目を閉じたところで数秒沈黙したので、ああこいつ起きる気ねぇんだなと、悟る。

「めいー」

 ううう、と非難めいたうめきを発して、また寝返り。
 ストーブの光が横顔を照らし出した。穏やかな、安心しきった寝顔だった。
 服と服をこすれ合う音をさせて、足を折りたたみ、体を丸くする。
 できるだけ、ストーブの熱を逃がさないように。
 まるで猫のような寝方をしたいらしい。

 ……しょうがねぇな。

 特大のため息を吐き出したあと、蒲団代わりにかぶっていたパーカーを無理やり引っぺがした。

「ぎゃー」
 と、さっきから一オクターブ高くした悲鳴を上げ、袖の端を掴んだまま、離そうとしなかった。
 身長の限界まで引き上げてやると、小さな身体がわずかに宙に浮かんだ。それでも離そうとしない。
 頑固だな。

 何の前触れもなく、こちらから離してやった。
 どすん、と強くぶつかる音がして、幸いなのか、畳に吸収されて痛そうには響かなかった。
 それでやっと、茗は起きたようだった。

 

「……優しくないと思う」

 眠気がとれない、いまいち冴えない顔で茗が抗議した。

 制服を着ていた。
 茗の高校はセーラー服だったのか、とちょっとした感想を思う。
 知らなくても、別に問題なく生きていけるようなことだった。

「外、まだ雨降ってたの?」

 茗が畳の上、低い位置から、人の着替えを覗いていた。

 上着の肩を指差して教えてやる。
 明るい春を思わせる色を、台無しにしてくれたものの存在を。
 何時間前からここにいたのか知らないが、茗に雨の痕跡は見当たらなかった。
 あえて上げるなら、相変わらず洗い流したようにしか見えない長い髪の一房に、寝癖がついて丸まっているのがそうか。
 茗はこちらをちらりと見やるや、にやにやと堪えきれない笑みを浮かべた。

「……おにいちゃんの背広姿って、なんか変だよね」

 なんか、という形容詞を容認できるのも、せいぜいそのセーラー服を着ているうちだぞ、妹よ。

 茗にとっても、兄の職業なんて知らなくても生きていけるようなことだった。

 それでもなんとなく、上着を脱いだ時点で着替えを中断して、流し台へと向かう。
 熱いコーヒーを一杯、飲み干したい気分だった。

「なに、お前また家出してきたの?」

 ついでに入れてやった湯のみ(カップは自分用に使った分しかない)を渡してやると、ありがとうとも言わずに受け取った。
 セーラー服を着ているうちだけだぞ。と、目に力を込めてやる。
 なんでもない風に受け取って、茗は身体のサイズに不釣合いなでかいパーカーで素足をおおって、ずずず、とコーヒーに不釣合いな音を立てた。

「カサがなかったから、雨宿りに」

 と言う茗に、不自然なところはない。
 このアパートは、茗の高校と実家との間という立地条件だった。確かに。

「そういうときは兄弟なんかじゃなくて、別の誰か……その、大野?ってやつにでも頼ってくれよ」

 心から迷惑そうに言ったら、オーノ?と、たどたどしい発音をして、茗が顔をしかめた。
 今、お前が握り締めているパーカーの背中に、黒地に白字で抜かれたローマ字ロゴが、オオノと読める。
 と、教えてやったら、パーカーをひっくり返して、おお大野くん。と、茗が感心したように呟いた。

 借してくれる奴の名前ぐらい覚えておいてやってくれ、妹よ。

 

 

「……で、カサとタクシー代を貸し出せばいいのか、俺は」

 コーヒーのなくなったカップを流し台に運んだところで、話題を切り出した。
 もう午後、9時を回っている。
 高校生だった自分は遠い昔だったので、明日は土曜でも日曜でも祝日でもないのだから授業はあるはずだ。
 と、頭の中で確認しておく。
 茗はまだコーヒーが残る湯のみから顔を上げて、人の顔色を伺うように、見つめた。
 女の気持ちより、妹の気持ちはもっとずっと分かりづらいものだった。

 とりあえず、外出する準備をしなければいけない。
 本人に自覚症状がないようなので、しょうがねぇな、と後ろ髪に手を伸ばした。
 寝癖で丸くなっていた髪の一房を、手ぐしでほどいてやる。
 腕の中の茗は、怖いくらいおとなしくしていたので、少し油断していた。
 しゅる、と音がしたと思ったら、ネクタイを盗られていた。人質として。

「今日、泊まりたいなぁ」

 最大級の猫なで声で鳴く。

「……だめ?」

 と、わざわざ首まで傾げる。

 妹よ。

 だから、そういうことは大野にでも言ってやってくれ。

 

 

 

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