黒猫と雨のシリーズ

 

 待ちぶせ

 

「よーし、今日はもうこれで終わりにしていいぞ」

 どれだけその言葉を待ち望んでいたのか。
 言われて初めて、気がついた。
 お疲れさまでした。と、ろくに顔も上げずに四方に挨拶を済まして、机の上の書類を鞄に詰め込んだ。
 前言撤回されてはたまらないので、そそくさとエレベーターを目指す。

「あ、高橋ちょっと待て」

 ちょうど、エレベーター内に足を踏み入れるタイミングだった。
 聞こえなかったことにして閉めるボタンを押すと、がこん、とドアにかかった手が、それを阻止した。

「そう、嫌うなって。明日の連絡するだけなんだから」

 楽しそうな笑い声と一緒に乗り込んできたのは、今年から同じ担当地区になった蓮見先輩だった。
 普段から笑い上戸な性格が全面に出て、その他の顔以外とお目にかかる機会はなかなかない。
 見た目はかなり優しそうに見えるので、パートナーが蓮見先輩だと言うと、同期からは決まって羨ましがられる。
 そんなやつらにはぜひ、蓮見先輩が笑顔のままメスを持つ姿を見せてやりたいものだ。
 ともかく仕事のできる人なので、その点においては、いいパートナー、いい先輩の評価は間違ってはいないが。

「明日は、中央病院の朝一のオペの立ち会いからな」
「はい、一時間前に機材運び込めばいいんですね?」
「そう。で、会社寄らなくていいから、現地集合にしよう。なんだったら今日会社の車使って帰ってもいいから」
「わかりました。そうさせてもらいます」

 各階どまりのエレベーターが、珍しく一度も立ち止まることなく滑らかに落ちていく。
 今日はカレンダーによると赤字、つまり休日だ。そもそも利用者対象になる社員が少ない、ということか。
 まだ昼と呼べる時間に帰れる贅沢はありがたかったが、半日でも睡眠時間が削られるのは痛手だった。
 新製品の売り込みがいい手ごたえだったので、早々に契約を済ませてしまいたい。と休日の朝に呼び出しをされた。先輩は利益が上がるとなれば、常識を考慮したりするはずもなく。
 数々の前例と比べてみれば、今日はまともで拍子抜けするほうだった。
 だからこそ、この余韻のまま一刻も早く家に帰りたい。
 減っていく階数に念を飛ばしているのに気づかれたのか、隣で蓮見先輩がふふ、と笑った。

「彼女と予定でもあったか?悪かったな、呼び出して」
「いいえ、別に」
「デートに車が邪魔なら、置いていっていいよ。俺が喜んで乗って帰ってあげましょう」
「別に予定はありません、て」
「じゃあ、これから俺の家に来ない?」
 ちん、と音を立てて、エレベーターが止まる。
 位置的に、開くボタンを押すのは先輩の担当になり、軽く頭を下げてから先に下りる。
 左手の薬指の光をちらつかせながら、蓮見先輩は、うちのは料理うまいよ、と嫁自慢をした。

「あー……」
 あともう一押しされたら、頷くなと自己分析していると、前から別の標的がやってきた。
 まっすぐエレベーターを目指そうとして、しまった、と足を止めた。
 笑顔、という仮面を持たない彼は、確か蓮見先輩と同期入社だったはず。
「中里」
 小走りになりそうな足をなんとか抑えつけ、蓮見先輩がひらひらと手を振った。
 中里先輩は観念したように肩をすくめて応じた。

「珍しいな。お前が休日出勤するの」
「いや、べつに俺は会社まで来る気はなかったんだけど」
「ああ?」
「頼まれたんだよ、ここまで案内してくれって」

 と言いながら、中里先輩の視線がこちらに向いた。

「高橋達樹さん呼んできてもらえますか?ってさ」
「は?」

 いきなり飛んできた話題を受け損ねた。
 誰が?という蓮見先輩の問いに対する中里先輩の鈍い対応で、嫌な予感が来た。

 先輩たちへの挨拶などはそこそこに、フロアを一直線に早歩きで抜ける。
 表玄関の自動ドアは、全面ガラス張りで、何も覆い隠したりしなかった。
 何よりも、道を行くオフィス街の住人たちの視線が、一番に教えてくれていた。

「……なんでお前、制服なんだよ」

 記憶が改ざんされていなければ、今日は休日のはずだ。
 柱にもたれて俯いていた顔が、ぱっと音を立てて上を向いた。
 一気に黒髪を後ろに流して、とびきり仕様の笑顔を浮かべる。

「わ、女子高校生だ」

 いつのまに追いついたんだ蓮見先輩が、そのままの感想を漏らした。
 茗はにっこりと笑って、はい、女子高校生ですー。と愛想を振りまいた。
 それから後方の中里先輩を見つけて、お礼を言った。
「中里さん、ありがとうございました。おかげで無事に会えました」
「ああ、お役にたててよかった」

 ほろ苦い笑みを浮かべた中里先輩に、後で菓子折りでも差し入れなければいけない事実を確認する。
 確か、中里先輩は未婚のはずだったけれど、甘いものでも平気だろうか。それよりも昼飯でもおごったほうがいいだろうか。
 余計なデータがぐるぐると頭を回る。
 どうやら、思ったよりもずっと動揺していることに気がついた。

「で、お前はこんなところまで何しに来たわけ?」

 けして優しくない言い方に、生まれながらに紳士な蓮見先輩の眉が寄る。
 本意ではない、と言い訳する。これが相手でなければ、喜んでそうする。
 茗は露ほども気にせず、ごく自然に、細い腕を絡めてきた。
 左腕に加わる重みと、温かさと。

「ひさしぶりに、達樹さんとデートしたいなぁと思って」

(……きっとオレはいつか、こいつに殺される)

 その予感の正当性を示すように、先輩たちの手が二回後頭部をはたいて別れを告げた。
 後日詳しく報告するように、と、蓮見先輩にさされた釘の痛みには、このあとしばらく悩まされることになる。

 茗の足は、オフィス街を抜けて、ショッピング街へと進路を取った。
 気がつくと、映画館の前にいた。
 気がつくと、甘い恋愛映画のチケットを握らされていた。
 なんでも、親切な男の子がタダでくれたものらしい。

「……お前さ、だったらそいつか、あの大野とでも行けばいいだろうが」
「あー、私もそうしたかったんだけどね、断れちゃったの。大野くん、休みの日は忙しいんだって」
「……ふーん」
 じゃあオレは、都合のいい身代わりか。
 頼むから大野くん、きちんと休日まで面倒を引き受けてくれ。

「おにいちゃん、ポップコーン買ってきてもいい?」

 女は怖い。そして、妹との顔を使い分けられたりしたら、もっと怖い。
 当たり前のように、おにいちゃん扱いに戻され、鞄から薄いサイフを投げて渡した。

 久しぶりに食べたポップコーンは塩っ辛く、映画の甘さと打ち消しあって、ちょうどよかった。
 途中でおりてきたまぶたを受けて入れて初めて、今日が休日だったことに気がついた。

 

 

 

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