気付かないふりをしていた。
目が合って、そのときも、私はあんたを見てるんじゃない!もっと向こうを、もっと向こうのほうを見ていたんだから! うぬぼれないで!! 気付かないふり、してた。
教室に、鈍い音が響く。 きゃーと言う悲鳴も、机が床と鳴らす耳障りな音も、なんだか、なあなあになってしまった。あまり現実的じゃなくても、毎日続けば、なあなあ。 (こうやって人間は順応していくのかしら) 多美子は椅子の背にもたれて、天井を見上げていた。 毎日がなあなあである。 ガッシャーンッッ!と派手な音がして、さすがに教室内は一瞬で静まり返り、視線の流れができた。 それに逆らわず、多美子も身体ごとそちらに向いた。 皆の視線が、派手に割れた窓ガラスと、もう一つに。 鮮やかな。 「……キャ、キャーーー!!」 女生徒の悲鳴は教室を飛び越え、3階フロアの全教室に届く大きさだった。 鮮やかな赤い血液が、コンクリの床に飛び散っていた。 一人の男子生徒のものだと言うのに、皆すぐ気が付いた。 (ね、顔、真っ青だよ) 多美子は自分でも驚くほど冷めた目で、その状況を見ていた。 体格のいい男子生徒が、その真っ赤な血を見て、真っ青になっている。 それが、なんだか滑稽で。 「……近づくな」 あまりの事態に手を貸そうとした周りの生徒に、傷ついた声が投げられた。 「で、でも」 「近づいちゃだめだ」 腕のどのあたりを切ったかは分からないが、だらんと伸びた右手の先からポタポタと赤い雫が落ちる。 「お前も……近づくなよ、いいな?」 青ざめた体格のいい少年に、傷ついた少年は言った。 静かに。 そうして、怪我をしていない左手で、割れたガラスの破片を拾い始めた。 「オレの血に触るな。お前らなら意味、分かるだろう」
(エイズ、なんだって) 誰かがそう言い始めた。問い詰めれば、そうだよ。と本人は軽く答えた。 「そうだよ、だから?」 彼は一歩も退かなかった。 (……だから?) だから近付くな。と今、言う。 傷ついているから。
誰も動かなかった。 とりあえず、拾える大きな破片を集め、傷ついた少年はごみ箱にそれを捨てた。 誰も動けなかった。 ヒックと鼻をすする音がした。クラスの女子の大半が泣いていた。 いじめていた男子の中にも。 青ざめた、あの体格のいい少年も。 多美子は。 (私、は?) 雑巾で床をふくけれど、少年が動けば動くほど血液は床に痕を増やした。少年が拭いても拭いても。 思う前に、体が動いていた。
掃除道具入れの扉を開け、雑巾とあるだけのゴム手袋を取り出した。 「なんの、つもりだよ?」 ゴム手袋をはめて、三重にして。 一番後方から、周りを囲った生徒たちの間を掻き分けて。 多美子は彼の前に立った。 厳しい、怒りのこもった声が投げつけられた。 多美子は少年に一瞥もくれないで、その場にしゃがんでガラスの破片を拾い始めた。 「やめろってっ」 多美子は聞かなかった。また一つ、一つとガラスの破片に手を伸ばした。 「やめろよ、危ないから!」 正直、顔を上げることはできなかった。堪えていたものが一気に溢れ出してしまいそうで。見れなかった。 彼の行動も、言葉も、充分傷ついていた。もう充分だった。 ただ、手を動かすことぐらいしか。
「……っっやめてくれ!!!」
少年は多美子をここから押し出そうとして、・・・止めた。 手が、真っ赤だったのだ。 自分の血で。
ポタッと雫が落ちた。それは赤いものを薄めながら、広がった。 ポタッポタッと続けて零れた。 多美子はその透明なものの出所をそっと目でたどった。 少年が泣いていた。 止まらないものを必死に制服の袖で拭いながら、 「ちくしょ」 そう呟きながら。 どんなときにも泣かなかった彼だった。 エイズであることで、みんなに無視されても、ひどいことを言われても、今日なんて本当にエイズなのかと、面白半分で傷つけられたのだ。 それでも、泣かなかった。唇を噛み、耐えていたのを知っている。 見て知っていて、気付かないふりをしていた。 日常茶飯事のことになんか構っていられない、と。なあなあだ、と。
「なんなんだよ、お前……」 「だって泣かないんだもん!」 「はあ?」 「あんた、どんだけいじめられたって、泣かないし、怒らないし!!そんなんじゃ助けづらいじゃん!余計なお世話だって言われるだけじゃん!」 「そうだよ!ほっとけよ!余計なお世話だよ!」 「そうよっ。あんたなんて別に好きじゃないし、嫌いでもないし、どうだっていいのよ!」 「じゃあ、なんで?!」 「だって!!」 真っ直ぐ多美子は彼を睨みつけた。 「こんな場面を見ないふりできる奴なんかに私はなりたくない」 「……」 「なりたくないの」 多美子は再びガラスの破片を拾い始めた。背後で呆然と立っていた生徒の一人にほうきとちりとりを注文して。 良く分からない彼女の言い分だった。 けれど、少年は厳しかった表情を和らげた。そして、教室はゆっくりと動き始めた。 先生呼んできてーと誰かが叫ぶ。 直接手を貸すことはできなくても、何か。
「あんたは早く保健室なり病院なりに行って、傷の手当てをしてもらって」 多美子は少年の手にハンカチを渡した。 「これ以上、その……貴重な血とか涙とか流すのやめてよ。…あんたの意志を継いで、私が誰にもあんたの血には触れさせやしないから」 その言葉を聞いて、彼は少し微笑んだ。 「貴重?」 「そうよ。貴重よ。少なくともなあなあじゃないもの」 なあなあ?と彼が顔をしかめると、いいタイミングで教室の扉が開いた。 担任と、保健室の先生、まもなく救急車が到着した。
多美子はきっちり役目を果たして、教室を以前よりキレイに磨き上げた。 そして、ゴム手袋をはずして、彼の血があった部分に素手で触れてみる。 ドキドキ。 それは、なあなあとは言わない。 |