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 08. 見上げた空に

 

「なんでこんなところに?」

 知らず、声に出していた。

 慌てて口をふさいで、辺りを見回してみたところで、犬の散歩中の女の子と、新聞の競馬欄に釘付けになっている浮浪者らしき老人と、噴水付近で弁当を広げているOLらしき女が3人がいるだけで。
 どの顔も、公園の隅でホットドックを片手にたたずむ男のことなど、気にかけていなかった。

 ふうっと肩から息を抜いて、萩原は目当てのベンチに腰かけた。
 人生80年、1日24時間、昼飯にあてられる時間は短い。
 さっそく、と公園入り口の出店で買った、ホットドックにかぶりつく。
 本日の昼食230円なり。
 少し、マスタードをかけすぎてぴりりとしびれた舌の上で、値段の割にはまあまあとの評価を与える。

 ベンチの背にもたれ、見上げた空に浮かぶ雲。
 ゆっくりと動かしていく風が、平日の公園内を犬と一緒に走り回っている。
 さらさらと揺れた木の葉の隙間から漏れてくる日差しが、穏やかに、先ほどの失態を包み込んだ。
 自分がいかにちっぽけな存在であるのかを悟る。

 萩原は再び、なんでこんなところに、の元凶を探った。

 ちょうどベンチに腰掛けた目線に来るように、高さが調節された看板。
 赤い文字で、ペンキ塗りたて注意、ならわかる。
 しかし、頭上注意とは?

 突然、ぽっかりと、日常に穴を開けて迷宮の入り口が現れたような。
 萩原はわずかに興奮して、残り三分の一になったホットドックを、一気に口の中へと押し込んだ。
 かけすぎたマスタードが、唇の端に染みた。まだ一口でいくにはタイミングが早すぎたらしい。
 むせ返りそうになりながら、なんとか最後まで押し込む。
 親指で口の周りをぬぐいながら、水分が増した目を看板から上へ上へと動かしていく。
 見上げた空に、サッカーボールが浮かんでいた。

 

 

 石崎くん必殺の顔面ガードです!

 そんな、キャプテン翼の実況中継が浮かび上がって、すぐに沈んだ。
 ばこん、となんとも間の抜けた音が、公園内に響いた。

 てんてんてん、とボールは小さなバウンドを繰り返して、看板にぶつかって止まった。
 頭上注意。
 それは、人生への教訓だった。

 

 

 

「すんませーん」

 舗装された道路を走ってくる硬質な音で、スパイクシューズだと分かった。
 ナイキかもしくはアディダスか。赤くなっているであろう額のあたりをさすりながら、指の隙間からメーカーを確認する。
 萩原が痛みを封じ込めて顔を上げると、そこには全身をユニフォームに包んだ、一人の少年が立っていた。

「すんませーん、ボールー・・・」

 伸びる語尾が、擦り切れる寸前の神経を刺激する。
 と言って、230円のホットドック程度では怒る気力も溜まっておらず。
 萩原は黙って、看板の下で転がっているサッカーボールを指差した。

「あ。あんがとうございまーす」

 り、が正確に発音される前に、鼻のあたりでずっこけている。
 萩原は、再び空を見上げた。
 すでにそこにボールはなかった。しかしさらに向こう、後方に、巨大な建造物を発見した。
 つい先ほどまでは、ただの建物としか認識していなかったそこは、よーく耳を澄ましてみると、春うららかな公園のものではない音が混じっている。
 ピー、という一際高いホイッスルが鳴り響く。
 どうやら、サッカーの競技場であったらしい。

「あのー」

 語尾を伸ばすんじゃない。仮にもスポーツマンの端くれならもっとはっきり発音すべきだ。
 と、説教してやる。少年の胸に抱えられた、わずかに黄色いマスタードがついているサッカーボールに向かって。

「もしかして、昼飯中っだったすか?すんません、邪魔して」

 そう言って、少年はなぜか萩原の隣に腰を下ろした。
 思い切り怪訝そうにした顔をまんまと無視して、少年はスパイクシューズの紐を結び直し始めた。

 よく日に焼けた小麦色の肌、うっすらと汗が浮かんでいるが、けして不潔ではない。
 しかもサッカー部ときた。こういう奴が女子にはモテるんだよな、け、と萩原は数十年分のやきもちを、少年に対して抱いた。
 ないものねだりな性格だけは、どれだけ年齢を重ねても治りそうになかった。

「おじさん、なんかヤなことでもあったすかー?」
「へ?」

 まずは、おじさんと呼ばれたことにびっくり。
 少年は中学生なのか高校生なのかいまいち判断できないが、それでも一回りぐらいの年齢差はある。現実は受け入れなければいけないと、自分に言い聞かせる。
 見ず知らずの少年に、敬語も無視で気軽に話し掛けられてもおじさんだから仕方がないと諦め、なぜだい?と萩原は聞き返してみた。

「おじさんみたいな人が、公園のベンチに一人で空見てたら誰でも疑うっすよー」

 はっはという快活な笑い声で、おじさんは無防備でいてはいけないと悟る。

(ヤなことねぇ・・・)

 会社の新製品の売り込み、今月のノルマがまだ達成できていない。なのにもう20日を過ぎていて、しかも今月は30日までしかないから、気が重たい。
 家では、かわいい妻が、かわいい娘を、英語教育のしっかりとした私立の幼稚園に入れるために、頭からツノを生やして頑張っている。まだ一年も先のことなのに、二人の体力が持つのか心配だ。
 あと、シーズン始まったばかりのプロ野球で、ひいきのチームが最下位を独走中だ。最初のうちしか頭を並べていられないのに、これでは先が真っ暗で、まったく見えないではないか。

(・・・こんなところだろうか)
 おじさんのヤなことにしては、どれも小粒な気がしたので、萩原は違う話題を探した。

「オレはこれでもサッカー部だったんだ」

 唐突なおじさんの言葉にも別段焦りもせずに、そうなんすかーと少年はのんきに語尾を伸ばした。

「ディフェンス専門だった。しかもサブだった」
「オレは、フォワードっす」
「だろうな。おいしいところ全部持っていきそうなタイプだ」
「それって、どんなタイプすよー?」

 ぱんぱん、と手を叩いてはしゃいでいる。いつのまにか、スパイクの紐は結び終えたようだった。
 髪は黒く短く刈り込んであり、ちゃらちゃらしてる、というサッカーへの偏見は、少年の外見からは見つけられなかった。
 また十何年分のやきもちに襲われる。一度でいいから自分も、かっこよくシュートを決めてゴールネットを揺らしてみたかった。 

「はい、パース」

 ぽん、とサッカーボールを投げられ、思わず手を出して受け止める。
 ハンド、と指摘され、反射的に手を離したのを、げらげらと笑われた。
 少年の中身は、萩原の偏見のかたまりどおりにできているようだった。

 少年は立ち上がり、もう一度萩原の足元にパスを出した。
 革靴に当たって跳ね返っていくボールを、慌てて足の裏で止める。

「思いっきり蹴ってみれば、おじさんのヤなことも吹っ飛ぶかも、すよー?」

 萩原は、少年を見て、そして背後の立て看板を見た。
 そこには赤字で、頭上注意と書かれていたが、公園内でボール遊びをしてはいけません、と警告してはいなかった。
 よし、と萩原は気合を入れて、ワイシャツの袖をまくる。
 生意気なサッカー小僧め、顔面ガードが得意な石崎くんの意地を見ていろよ。

「これでもキャプテン翼は連載開始からすべて見ているんだ」
「キャプテン翼ってなんすか?」

 恐ろしい冗談を聞いた気がしたが、まんまと無視して、萩原は短い助走をつけて、サッカーボールを蹴っ飛ばした。
 つま先からびりり、とした電気が全身を貫いて、萩原はその場にうずくまりそうになった。

 ボールは見る見ると空を目指し、そして失速し、見る見ると大地を目指した。
 きゃー!と、噴水付近で弁当を広げていたOLたちの悲鳴も、キャンキャンという犬の咆哮も、ばしゃーん、という水が砕ける音にかき消された。

「「げ」」

 おじさんと少年の呟きが、十数年の時を越えて重なり合う。
 お互いにお互いの顔を見合ってから、少年が若さの強みで、赤い舌を覗かせた。
 そして、スパイクシューズで硬質な音を鳴らしながら、噴水のほうに向かって走っていく。

「すんませーん」

 こら、と叱咤する。
 こら、少年の背中を見送っていてどうする。
 萩原はまだボールの余韻でしびれる足に喝を入れて、大慌てで走り始めた。
 生意気な少年め、おじさんの意地を見ていろよ。
 萩原は少年を追い越し、噴水付近に集まった人々に向かって大きく手を振り上げた。

「す、すんませーん!」

 

 

 

 

 

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