疑うよりも信じてよ

 

 Liar

 

 いつから私はこんなに臆病になった?
 人から向けられる好意や愛情を、素直に信じられなくなった。
 傷つくのが怖くなった。
 どうやら失恋は人を疑心暗鬼にさせるらしい。

「――ねぇ先生?」
「え? え、あ、ごめん――ちょっとぼーっとしてた」

 大丈夫? 疲れてるの? なんて気遣わしげな視線を彼は向けてくる。その目を真正面から受け止める勇気がなくて私は下を向いた。まぶたを押さえてみせたりして、疲れてるのってジェスチャー。覚えていくのはこんなずるいごまかし方ばかり。
「週明けにレポート提出でね、最近ちょっと寝不足気味なの」
 嘘じゃない。課題提出は本当。ただ、夜眠れない理由は本当はそうじゃない。嘘の中に真実を所々散りばめるとその嘘はもっともらしく聞こえるんだって。そんなことを教えてくれたのもあの人だった。あの人と付き合って覚えたのはろくでもないことばかりだ。
「……それ本当? 本当は――あの人と会ってたんじゃなくて?」
「違うよ」
 うん、それも本当。会ってなんかない。本当は――電話があっただけ。
 会わないか、みちる。久しぶりに食事でも。
 返事はしていない。
 先週の授業の帰り、彼のご両親はオペラ鑑賞だとかで家にはいなかった。お互いに二時間半の授業の後お腹すいたね、って駅前のファミレスに行ったんだった。
 なんで会っちゃったんだろう。出会うはずなんてない、縁もゆかりもない場所だったのに。外回りでね、本当はこの辺りは僕の管轄じゃないんだけど今日は同僚が病欠で仕方なく――でも、こんなところでみちるに会えるなんて。うれしいよ、とあの人はあの頃と変わらない笑顔で私に言った。
 悔しくて涙が出そうになるのを、下を向いてごまかした。
 私はうれしくなんてない。会いたくなかった。顔なんて見たくなかった。
 私の携帯の番号が変わっていないことを確認して、連絡するよとあの人がいなくなった後。隣りで呟くような声で矢野君は言った。
『……今の、彼氏?』
 顔を上げられなかった。彼の目を見られなかった。
『元、ね』
『年――随分上に見えたけど』
『そうね。奥さんも子供もいる人だから』
 そうだ。そうだった。奥さんがいる人を好きになったんじゃない、好きになった人に奥さんがいただけ。そんなきれいごとが通用するなんて思わない。私がしていたのはいけないこと。そんなことわかってた。
 軽蔑、されてしまうのかしら。ご両親の耳に入ったら大変。大事な時期にそんなふしだらな女、息子に悪影響を及ぼしかねないって首にされちゃうかしら。だとしても、しょうがない。
 高三ってどんな年齢だったっけ。もう忘れてしまった。それっていけないことだろうって嫌悪感を表すのか、自分には関係ないと無関心を貫くのか――
 矢野君は、そのどちらでもなかった。
『先生って、年上好み?』
『……えぇ?』
 そ、そうなのかな。考えたこと、なかったな。高校のとき一人だけ付き合ってた人はやっぱり一つ上の先輩だったけど、自分の好みをこうと決めたことはない。
『そんなことはないと思うけど』
『……ふぅん』
 意味ありげなため息をついて、気遣わしげな視線を向けてきながらけれどそれ以上彼は何も言わなかった。きっと年相応の好奇心。失敗した。何も素直に認めることなんてなかったのに。適当にごまかしておけば、それで済んだのに。
『いいこと聞いた。じゃあ年下は?』
 ――どういうつもり?
 年下は? ってその問いが、俺は? っていうニュアンスを含んでいるように感じたのはたぶん自信過剰。からかわれてるんだと思った。
 人懐っこい笑顔。少し長めの栗色の髪。机に向かって、いつも並んで座ってるからよく見える。伏せると女の子みたいに長いまつげ。私がロングカールマスカラで精一杯ボリューム出してるっていうのに。授業中に見せる表情は、とても真剣。
 わざわざ年上の女からかわなくたって、恋のお相手には不自由しないでしょう?
『ちがうよ先生。からかってるわけじゃないから、そんな怖い顔しないで』
 冷静に言い当てられて、平静さを失った。とっさに言い返せない。言葉に詰まる私の口もと数十センチのところまで彼の顔が近づいてくる。
『考えてた計画と違うんだけど、ちょうどいいから方針変更。
 ――先生、俺とはそういう気にならない?』
 平然と、彼はそんなことを言った。


「先生、携帯震えてる」
 ぼんやりと、その時のことを思い出していた。先生、ともう少しだけ大きい矢野君の声で我に返った。
 勉強机のすぐ脇に立てかけておいた大きめのショルダーバッグ。レポートの資料もあるし、今日は矢野君に参考書を何冊か持ってきていたから。
 携帯は、外側の小さいポケットの中で規則正しく震え続けている。
「あ、ごめんね」
 いつもなら授業の前に電源を落としておくはずだった。オフにしようと伸ばした手が止まる。点滅するディスプレイに表示された電話番号。発信者の名前はない。
「……どうしたの、出ないの?」
 出てもいいよ、と優しい声で言う。でも、どうして? 目が笑ってない。
 出られるはずなんてない。別れた時にメモリは消してしまった。だから表示されるのは番号だけ。発信者の情報なんて何一つ出ていない。わかるのはたった十一桁の数字だけなのに。
 わかってしまう番号――あの人の。
「出ないの?」
 出られない。出ちゃいけない。もう終わりにしたことだから。
 やんわりと矢野君の手が伸びてきて、私の手の中から携帯を奪っていった。振動と音が唐突に途切れる。彼は冷めた表情で私の携帯を睨んでる。
「元彼だって、言ったよね」
 もう別れたんだよね? ふっと目線を上げて。穏やかに、けれど触れたら切れてしまいそうな冷たい眼差しで視線を絡め取られる。やっとの思いで頷いた。なんでそんな怖い顔するの、私が誰と付き合ってたって関係ないでしょう。そんな怖い目しないでよ――年下の、くせに。
「メモリが消してあるってことは、先生はよりを戻す気はないってことでいい?」
 もう一つ、頷く。不毛な恋愛はもう散々。
 ちかちか、と断続的に数回赤いランプが点滅する。
「……彼はそうでもないみたいだよ?」
 その言葉でメールを送ってきたのがあの人だとわかった。
「なんて?」
 意外、って表情で矢野君が顔を上げた。「見ていいの?」
 どうしてそんなこと、言ってしまったんだかわからなかった。もう別れたんだからやましいことなんて何もしてないんだ、って必死で伝えようとしてた。
 どうして? ただのバイト先の教え子に、なんて思われたって構わないはずなのに。
 彼の長い指先が慣れた手つきで小さな携帯を操作する。片方だけの眉が器用に上げられた。
「なんかめちゃめちゃ未練がましいよ? ――会いたいって。
 どうするの? 先生」
 どうしてそんなこと言うの?
 どうして今さら会いたいなんて言うの。
 どうしてそんなに私のこと気にするの。
 どうすればいいかなんて私だってわからない。
「……会う?」
 無言で首を横に振った。今さら会う理由なんてない。でも、偶然の末にもう一度手繰り寄せてしまった糸を自分の手できっぱり切り捨てる勇気もない、弱さ。
「ねぇ先生、一つ提案があるんだけど聞いて?
 先生にその気がないならもう一度会って本人にはっきり言うべきだ。いつまでも電話に出ないメールも無視、だけで曖昧なまま逃げ続けることなんてできないよ」
 わかってる。そんなこと。だけどもう一度会ってしまったら流されずにいられる自信がなかった。情けないって、そんなこともわかってるよ。だけど。
 一度はとても好きだった人。
 報われない、続けることに未来を見出せない関係だったから、泣きながら自分から別れを告げた人。
 たとえそれが、弱さでも。
「……自信、ない」
「うん。だからここからが提案」
 その日初めての優しい声と笑顔。

 俺を一緒に連れていってよ。
 とりあえずはその日一日だけの限定彼氏でいいや。先生と今付き合ってるのは俺だから、先生のことは諦めてくださいって――俺がその人に言うってのはどう?

   *

 冗談だと思ったのに、矢野君は本気だった。
 ガラス窓越しに、友達の後ろ姿を探したけれどもう見えなかった。今にも泣き出しそうな顔をしていた。大丈夫かしら。あの子、ちゃんと自分の気持ち、伝えられるだろうか。
 テーブルの上の携帯に視線を戻す。ディスプレイに表示された十一桁の数字。あの時、彼はついでのように自分の番号を私の携帯に記憶させてしまった。
 矢野 基。
 番号の下にシンプルなメールアドレス。モトキ、ヤノの後に電話会社のドメインが続く。
 ――土曜日、約束の場所に行く前にどこかで待ち合わせしましょう。
 ――待ち合わせ? どうして?
 ――土曜日は一日、俺限定彼氏でしょ? お茶くらい付き合ってください。
 ため息がこぼれた。
 本気なの? あの子。俺じゃそういう気にならない? なんて夢みたいなこと言ってた。ふざけないで、って怒っているような声を出したら、ふざけてなんかいません、と同じ怒ったような声で即座に言い返された。
 どこまで信じたらいいの。
 ……ねぇ、本当ならいつからそんなふうに思ってたの?
 ――さみしいとか声が聴きたいとか、そんな顔してそんなこと言っておいて、何が弟よ。
 ついさっきはるひに言った自分の言葉を思い出した。
 彼女がいなくなったテーブルの上には冷めたコーヒーがひとつ。知らない女の子とキスをしていた彼女の血の繋がらない弟。どんな気持ち? って私がたきつけた。
 だって答えなんてとっくに出ているはずなのに。
 さみしいとか声が聴きたいとか。それが恋でなくてなんだというの?
 少なくとも私はそうだった。週末はけっして会えない奥さんも子供もいる男の人。平日の夜だけ、限られた時間。いつもいつも足りなかった。毎日会いたいと思ってた。
 それが恋だと、私は思ってた。
 今でも思ってる。あれは恋だったと。けっして報われることのない。
 だとしたら、この気持ちはちがう。
 不安定で、ゆらゆらしてる。落ち着かなくて。いちいち彼の言うことに動揺して、ふらふらしてる。――年下の、男の子に。
 きっと彼もちがう。
 こんなのはきっと一時の気の迷い。男の人って一度は年上の女性に憧れるっていうし。
「……なんだ、そっか」
 ああ、そうか。つい自分で納得してしまった。やっぱり本物じゃないんだわ、あの子の言う『好き』なんて。
「…………そっかぁ」


 ばか。
 どうして傷ついてるの、私。

 

 

 

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