冬だというのに今日は快晴。
待ち合わせは喫茶店。
閑静な住宅街の中にぽつんとあるこじんまりとしたカフェだった。知る人ぞ知る、みたいな穏やかな空気。大学の友達が家族でやってる小さなお店。一度行きたいと思ってた。
駅からちょっと歩くよって聞いてたし、なんだか気持ちがそわそわしていて。落ち着かせるために少し街の中をぶらぶら歩いてからにしようかなんて考えて早めに家を出てきたら、約束より一時間も前に着いてしまった。緊張してる証拠だ。
久しぶりに、カーラーで髪を巻いてみた。買ったばかりの膝丈よりもほんの少し短めのスカートを初めて着てみた。スウェード素材の、黒とグレーの細かな格子柄。一目惚れして買ってしまったやつだった。厚手の黒いタイツとこげ茶色のロングブーツを合わせる。ふんわりしたオフタートルの白いアンゴラニット。これに似合うね、ってあの人がピアスとお揃いで買ってくれたピンクトルマリンのペンダントに自然に手が伸びてしまって、慌ててアクセサリケースの中に戻した。
これじゃまるで今でも好きだといってるようなものだ。
こんな、すぐに目に付くようなところにしまっておいちゃだめ。捨てる勇気は、まだなかった。 考えて、気に入ってる蝶々のモチーフのペンダントをつけることにする。ピアスはやめた。髪を巻いてしまったから、うるさくなりすぎるような気がした。
ばかみたい。別れた男に会うために、なんでこんなにおしゃれしてるんだろう。
そういえば、年下の教え子と授業と関係ないところで会うのも初めてだった。
短めのスカート、もしかして子供っぽすぎる? クラシカルなグレンチェックの膝丈スカートと見比べて少しの間、迷った。考えても決まらなくて、ため息をつく。
なんのために、誰のために、おしゃれをしたいんだろう――私。 *
店の奥がオープンカフェになっているのが見えた。友達が天気のいい日には外でもお茶が飲めるんだと言っていたことを思い出す。……そりゃお天気はいいけれど。今日はちょっと、寒くない?
ところどころ蔦が絡むレトロな感じの手すりに手を置いて、中を少し覗き込むようにしてみた。こんな冬の日のオープンテラスでもちゃんと何組かお客さんが入ってるのが見える。今は花をつけていないプラタナスの木。今日じゃなければ私も外のテラスでゆっくりお茶を飲みたいけれど。……今日は、だめだ。今は時間がありすぎる。そしてきっと、ゆっくり落ち着いてお茶なんて飲めやしない。今日何度目だろう、小さく息ため息をついてお店の入り口へと向かいながら――その中に、見知った顔を見つけてしまって私は反射的に足を止めた。
「矢野君……?」
え、うそ。早くない?
腕時計を確認する。約束の時間までやっぱりあと一時間。彼も早く着きすぎちゃったの? 気づくかな。彼の視線を捉えるように右手を上げかけて。
寸前で、踏み止まった。
「基くん! ごめんね、急に呼び出して」
「久しぶり。大丈夫だよ、時間、一時間くらいしかないんだけど」
相談ってなに? と問う矢野君の声が遠くなる。耳鳴りみたいな。なに、それ? 上げかけた手を下ろして、そっと拳を握り締める。
矢野君の向かいに腰を下ろしたのは同い年くらいの女の子だった。黒いダッフルコートに手編みっぽい白のマフラー。肩につくくらいの髪が外側にはねて。元気よさげな、……かわいい感じの女の子。
喉の奥に何か詰まってるような息苦しさ。たった今開けようとしていた白木のドアに反射的に背を向けた。
見ちゃいけなかったような気がして。
ううん、ちがう。見ないほうが、よかったんだ。見たくなかった。
彼のあんな顔――
*
やけに息苦しくて、そうしてやっと自分が走っていることに気が付いた。
歩調を緩める。それでもまだ駆け足。一度立ち止まって深呼吸する。そうしてまた歩き始める。今度はゆっくり、少しずつ。
なぜだか、すごい焦燥感。目のふちにほんの少しだけ涙が滲んでいるのが自分でわかった。マスカラはウォータープルーフだから落ちる心配はないけれど、バッグの中のポケットティッシュを一枚引き抜いて、そっと目のふちに押し当てた。
とにかく落ち着かなくちゃ。駅前にコーヒーショップのチェーン店を見つけて迷わずそこに入ることにする。店の中は少し強すぎるくらいに暖房が効いていて、暑い。
アイスコーヒーの冷えたグラスが指先に気持ちよかった。何も入れない黒い液体を透明のストローでからからと意味もなくかき回す。それで、ようやく、少しだけ落ち着いた。
火照った頬をハンカチで押さえた。涙はもう乾いてる。脂なんて浮いていないけれど、化粧ポーチの中から脂取り紙を取り出して額と、頬と、丁寧に押し当てた。店内にお客さんはまばら。店の奥だし、とそのままファンデーションのコンパクトケースを開いて簡単に直してしまう。
うん、大丈夫。お化粧は崩れてない。目のふちが少しだけ赤いけど、きっとまた外を歩くうちに火照りは静まってしまうだろう。何も動揺することなんてないんだ。最初から、一人で会いにいけばよかった。彼についてきてもらう必要なんてなかった。
必要ない。年下のあの子なんて。
やっぱり今日は一人で行くから。だから待ち合わせたお店にも行かない。
素っ気なさすぎるかも、と思ったけれど、他に適当な言葉も思いつかなくてそのまま送信した。二分くらいですぐに返事が返ってくる。
どうして? 先生、何かあった?
何かなんて、ない。たぶん少しだけ浮かれてた自分。目が覚めただけ。
何もないよ。とにかく一人で行くから。矢野君、来なくていいよ。
メールが返ってくる。一通。開けないでそのままにしておいた。少ししてもう一通。それがなんだか苛々させて、苦しくて。
私は携帯の電源を切った。
*
「――みちる?」
何度か足を運んだことのあるシティホテルだった。中心に大きな観葉植物の鉢が置かれた扇形に広がるフロア。ふかふかのソファが気持ちよくて、くつろげて、好きだった。
ホテルっていうのは不特定多数の人が集まる場所だから。誰が誰と会ってようが誰も気にしやしないんだ、と教えてくれたのもあの人だった。
「――柴崎さん、」
どうして、と問うと彼は照れたように微笑んだ。みちるこそ。
時間をつぶすあてもなくて、結局あれから直接彼との待ち合わせ場所に来るしかなかった。時間にはまだだいぶ、早い。
「なんか、落ち着かなくてね。みちると会うなんて久しぶりだから」
何度か携帯にも連絡入れようとしたんだけど、電源、切ってたの?
携帯は切ったままだった。矢野君から電話がかかってきたりしたら、せっかく固めた意志が揺らいでしまうような気がして。頼ったりしたら、いけないから。
「座ろうか」
彼はまるで変わっていなかった。付き合っていた頃と同じように自然に私の肩に手を置いてソファに座らせる。向かいに腰を下ろしながら、通りがかったウェイターにコーヒーとロイヤルミルクティーを頼んでる。
「……覚えててくれたんだ」
「忘れたりしないよ。みちるはここでは決まってロイヤルミルクティーしか頼まなかったもんな」
優しい笑顔。別れた恋人だなんて思えない。私たちが別れてたなんて誰が思う? たぶん私たちはどこから見ても普通の恋人同士にしか見えない。
――それでも。
やっぱり彼は好きになっちゃいけない人。
私のものにはなってくれない。
「……奥さん、元気?」
「……ああ、元気だよ。先週、子供連れて実家から戻ってきた」
そうなんだ。呟くように言った声は、震えたりしていなかっただろうか。
もうすぐ二人目の子供が生まれるんだ。それが、私が別れることを決めた理由だった。聞いた時、大げさじゃなくて一瞬、周りの音が聞こえなくなった。それくらい、ショックだった。
妻が、息子を一人っ子にするのはいやだってだいぶ前から言っててね――
言い訳なんてやめて。わかった、もうやめましょう、別れましょう。
たぶんあれでよかったんだ。ずるずる続けていていい関係じゃなかった。私だって本当はもっと遊びに行きたいの。土曜日とか日曜日とか、人の目を気にしたりしないで普通に外でデートしたかった。
この人じゃ、それは一生叶わない。
「無事生まれてよかったね。女の子だって言ってたよね。柴崎さん似? きっとかわいいだろうね――」
「やめろよ、みちる」
硬い声で、そう遮られた。あんな形で別れてからずっと気になってた。悪かったと思ってる――
やめて。そんな言い訳めいたことなんて聞きたくない。あなたらしくない。あなただけが悪いわけじゃない。恋愛は一人でするものじゃない。あなたが悪いというなら、それは私も同罪だから。
「みちるのことは今でも好きだよ」
忘れたことなんてなかった、と。麻薬みたいな言葉。気持ちが揺らがないように、ぎゅっと目を閉じた。
「終わりになんてできない。みちるをあきらめることなんて、できない」
「――――ねぇ、悪いけどその辺にしておいて」
目を開けるのと、突然そんな声が割り込んできたのと、伸びてきた誰かの手が私の腕を掴むのと。すべてが同時だった。
「探した、みちる――心配させないでよ」
「や、矢野く」
どうして。どうして?
「一緒に行くって言ったのに、いいって聞かないんだ。意外に強情ですよね、彼女」
向かいに座る、別れた恋人に向けられた言葉。やめてよ、そんな言い方をしたら、まるで。
「君は?」
「矢野基といいます。今みちると付き合ってるのは俺ですから。そのくらいに、しておいてくれませんか」
あなた、もうちゃんとパートナーがいるんでしょう? 俺の彼女にまで手ぇ出すのやめてください。
今まで聞いたことのない、冷めたきつい口調だった。そんな声出せるなんて、知らなかった。
「みちる」
柴崎さんの目が私を捉えてくる。彼が言ってることが本当なのか、確かめるような視線だった。突然現れて俺の彼女だから手を出すな、なんて言い出す乱暴な振る舞いよりも、事の真偽を確かめるようとする。
「みちる」
私の腕を掴む矢野君の手に力がこもるのがわかった。思わず彼を振り仰いだら、ひどく真剣な目をして私の名前を呼ぶ。
みちる、なんて。
今までそんなふうに呼んだこと、なかったくせに――
彼に掴まれたその場所が熱をもってる。痛いはずなのに。それでも離してほしくないなんて。私、どうかしてる。
怖くて何かを言うことなんてできなかった。ただ頷くことで精一杯だった。それが答えになってしまうことを知っていて。
「――――わかった」
柴崎さんが、静かに席を立った。
今日来てくれてありがとう。元気そうで安心した。幸せになりなさい。本当なら――僕がみちるを幸せにしたかった。本当だよ。
「去り際は男らしいかと思ったけど、最後の一言は余計だな」
柴崎さんの後姿を眺めながら、つまらなそうに呟いた矢野君がひどく幼く見えて笑ってしまった。
変な子。さっきはあんなに大人っぽくて、男っぽくて――無造作に私を呼び捨てにしたくせに。
「ねぇ先生、なんで急に一人で行くなんて言い出したの?」
帰り道、プラタナスの並木道を並んで歩きながら、矢野君が言った。
もう『先生』に戻ってる。ほっとしたような、さみしいような、奇妙な気持ち。
「約束、他にあったんでしょう? 無理して私に付き合うことないと思っただけよ」
「……見たの?」
頷くと、彼は困ったような顔をした。年相応のそんな顔も、いいと思った。
「ごめん。嫌な気分にさせた? 俺的にはちょうどよかったっていうか、そこでもついでに一区切りつけたかったっていうか……それだけなんだけど」
「ふぅん……?」
よくわからないことを言う。矢野君は私よりもほんの少し歩調を速めて歩いた。疑問はあっても、口には出さなかった。話しにくいことくらいある。私にだってあった。高校生の男の子にもそのくらいあって当然だった。
「用事、済んだの?」
うん、と私を振り返る。
「ちゃんと済ませてきた。俺、モトカノと親友の恋のキューピッドだよ」
なにそれ。唐突で全然話がわからないわよ。
「うん、わからなくてもいいよ。昔の話だからさ」
それよりも。俺のこと少しは考えてくれた?
微かに笑ったような、でもちゃんと真剣な顔。――追求されたくなかったのに。色々な気持ちが胸で渦巻いてる。ありがとうと思う気持ちと信じたいと思う気持ちと、信じて叶わなかったときのことを怖がる気持ち。
たったの二年の差しかないのに。どうして彼はこんなにもまっすぐで、どうして私はこんなにも臆病なんだろう。なくした恋の分だけ、私は知ってる。信じることが、どんなに簡単で、それでいて怖いことかって。
だって傷つくのは、もう嫌だ。
「もういいよ。気持ちだけで十分だから」
「答えになってない」
「どうして――感謝してるよ? もう不倫なんて、」
「そんなこと聞いてない。俺が聞きたいのは先生が俺を好きかどうかってことだけだよ」
「じゃあ矢野君は私のこと本当に好きだって言える?」
何を今さら、と言いかけて、矢野君は虚を衝かれたように黙り込んだ。「え、俺言ってなかったっけ……?」
言ってない、聞いてない。俺じゃだめ? なんてそんな言葉、『好き』って言ったことになんてならない。
「うわ、ごめん、」
じゃあ言ったらちゃんと返事をくれるの? 言っとくけどノーはだめだよ。イエスしか受け付けないから。
「何なのそれ、強引」
「そのくらいじゃなきゃ先生絶対ごまかすでしょ。今の先生後ろ向きだもん」
やだもう、この子年下のくせに、生意気。なんでそんなことわかっちゃうの。
うつむいて、唇をかみ締めたら矢野君の手が伸びてきた。肩のあたりでくるんとカールした髪を優しくなでていく。
「先生が傷ついたのはわかってるから。あの人が先生を傷つけたのもわかってる。だから先生が信じたくないって思うのもわかるよ。だけどこれからずっとそうしていくつもりなの?」
右手が髪をなでて、左手が私の右の手をそっと握る。確かめるような、そんなあたたかさで。
「怖いのもわかるけど、疑うよりも、信じてよ。
そうしたほうが、何倍も幸せになれるよ」
俺がするから。先生、ちゃんと聞いて? 好きなんだ。
まっすぐな言葉。彼のまっすぐな気持ちが、すとんと胸に落ちてくる。
それにさ、先生――
「先生、実はもうけっこう俺のこと好きでしょう」
「そんなこと、」
「うそつき」
笑って、彼が髪をなでていた右手で私の顔を上向かせる。次にされることがわかってしまって、私は目を瞠った。
「だってそうじゃなきゃこんなことされて大人しくしてたりなんかしないよね?」
少しずつ、近づいてくる。
やめて、って。言うことならできるはずなのに。出てきた言葉はそんなことない、だった。
もう本当に何センチも残っていない距離で。矢野君がくっと笑う。
先生、やっぱりうそつきだ。
ふれた唇はひんやりと冷たくて、少しかさついていた。
「……そんなうそつきな女でいいわけ?」
うん、と今度は子供みたいな顔で笑った。くるくる変わる表情。男の子になったり、男の人になったり。そのたびにドキドキしていることなんて、絶対に教えてあげない。
「うそつきでもいいよ」
みちるが好きだ――
エンドレスに疑うよりも、『好き』のたった一言が何よりも大事。
それが何倍も自分を幸せにしてくれること、思い出させてくれたのが男の子みたいな男の人のような――私の、教え子だ、なんて。
悔しいから、一生教えてなんてあげない。
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