+体温+
*読まれる前に。
5万打で人気投票だ、の一位記念短編です。
ネタバレがありますので、本編08話以降に読むのがおすすめです。
番外編 秘密
二年生になった春。
初めて教室に入ったとき、見知った顔を探してぐるりと教室を見回した。
ふと、廊下側の一番後ろの席で、目が止まった。
身体のサイズに比べて、その存在感は絶大だった。
クラスの中でたった一人、違う形の制服を着ている。
清潔な印象は校則に従ったもので、けして派手ではなくて。
けれど、まっすぐに伸びた髪が、控えめな態度を打ち消して、強烈に主張していた。
柳原はとても女の子らしい、女の子だった。
クラスの中で女子が一人きり、なんて状況を想像してみて、同情した。
特に、柳原みたいな女の子には、きついだろうな、と。
てっきりすぐに、学校のほうから何かの措置がとられるだろうと思っていた。
でも、今の今までそれらしいことが行われた様子はない。
当の柳原本人が、一言も不満を漏らさなかったせいだった。
意外だった。
柳原はあまり社交的なほうではないように見えた。
でも、誰と言わず話し掛けられれば気さくに応じていたし、なんとかクラスの中に溶け込もう、と努力しているのが伝わってきた。
クラスメイトと楽しそうに談笑する姿を見て、また少し、柳原への印象が変わった。
「あれじゃ、勘違い野郎が増えるだろうな」
あるときぽつりと赤井が吐いた。
その言葉を否定する気にはなれなかった。
中間テストの頃になって、誰々が柳原に告白した、と言うような噂を耳にするようになった。
そのほとんどは、赤井の口から聞かされたのだけど。
どこから仕入れて来るのか、赤井は誰よりも早く、そういう類の情報を掴んでいた。
実は当の本人よりも早いんじゃないか、と思うこともあるくらいで。
いつのまにか、赤井にもたらされた情報をもとに、柳原を目で追いかけるようになっていた。
告白の返事はすべてノーだった。赤井から聞いた内では。
そのたびに、柳原は自分を責めているように見えた。
おびえや恐怖、困惑といったものを、態度から感じ取れるようになったのも、ちょうどこの頃からだった。
「いっそのこと、適当に誰かと付き合っちゃえばいいのにな」
その言葉も否定する気にはなれなかった。
けれど、適当、というのは柳原には難しいんだろうなと、ぼんやり思った。
音もたてずに、柳原が寝返りをうった。
窓側に向き直した顔に、まともに太陽光線が当たっている。目頭のあたりにうっすらと光るものが見えた。
灰谷は音を立てないように席を立ち、カーテンを閉めた。シャっと軽い音が図書室内に響いた。
(そういえば、よく寝返りをうつよな……)
と思って、灰谷は小さく笑った。
ただのクラスメイトにそんなことを思われては、彼女も心外だろう。
柳原は弱っていたから。
伸ばされた手をろくに選ぶ余裕もなく、掴んだだけで。
そんな特別なことを思う資格が、自分にあるとはとても思えなかった。
少なくとも、ここにあるのは、柳原が望むような純粋な気持ちじゃなかった。
また、瀬名が期待してくれたような無償の、ボランティア精神でもなくて。
赤井が言っていた、責任をとるというものとも違った。
手を貸してほしいと言われて、そうした。
あのとき、保健室で。
柳原はこんな風に寝返りをうった。
額にのせたままにしていた手に、流れた髪がはらはらと降り掛かった。
(……寝た、のかな)
ときどき乱れて、ときどき穏やかになる。
覗き込むようにして、その呼吸に耳をすました。
本当に眠っているようだった。これで少しは楽になれるかもしれない。
そう確認してから、ゆっくり手を離そうとした。そっと、気付かれないように。
そのとき不意打ちで、柳原がまた一つ、寝返りをうった。
「ん……」
ごろんと、仰向けの、元の位置に戻って、また眠り始める。
胸のあたりまで引き上げられた白いシーツが、上下を繰り返していた。
ときどき乱れて、ときどき穏やかになる。
動いた拍子に、顔を覆うようにした髪のその端を、口が食べてしまっていた。
少し考えてから、その髪をどけようと、手を動かした。
指先が、常温よりも高い、少し汗ばんだ温度をかすめた。
一瞬、手のひらに残っていた熱に全身が包まれたような気がした。
頭で思うよりも先に、手が動いていた。
そっと、上気する頬に触れた。
顔のラインにそって、何本かの指で曲線を描くようにして、そして、たどりついた。
柔らかく親指の先で、唇に触れた。
カサカサとしていて、水分が足りていなかった。
熱かった。
もっと、という強い欲求は、柳原の手によって捕まった。
瞬間ぶわっと体中から汗が噴き出すのを感じた。
「……なにやってんだ、オレ」
呆然と、声にした。
自分でもびっくりするくらい、驚いた。
信じられない気持ちと一緒に、手を引く。
すぐにここから立ち去ろうとして、かなわないことを知った。
ずっと強い力で、手を握られていて。
おとなしく背もたれに体重を預けて、キィと椅子を鳴らすのが精一杯だった。
灰谷は机の上に置いておいた文庫本を手にとって、適当なページを開いて指を挟んだ。
カムフラージュだった。今、柳原が目覚めたときの、言い訳にするために。
見慣れたように錯覚する寝顔を見ながら、灰谷は思う。
柳原を助けてやりたい。
今はその気持ちだけでいい。
おびえて、怖がらせることのないように。
傷つけて、泣かせることのないようにしたかった。
でも。
そのまさかいきなりで、泣かせてしまった。
灰谷は素直に驚いて、すぐに後悔した。言わなければよかった、と。
少し遅れて、柳原の手が触れてくるまで。
あのときよりもずっと冷えた体温を感じて、この手を裏切りたくない、と思った。
けして、気づかれることのないように。
こんなあさましい気持ちは、ずっと底のほうに隠しておく。
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