+体温+

  11 赤信号は止まれ。  

 五分前だ、と思った。
 携帯電話のディスプレイを見て、赤色を示す信号を見て、理実は地団駄を踏みたくなった。
 昨日のうちに準備をすませて、今朝は早起きにも成功した。
 なのに、出かける直前の、玄関で靴をはくときになって、一つのことが頭をよぎった。
 髪をアップにして、ほんの少しだけ化粧もしていた。
 おろしたての真新しいスカートを見て、理実は急に恥ずかしくなった。
 淡い水玉が浮かぶ、女の子らしいスカート。
 だって、男の子とデートするのなんて初めてで。
 それなりに気合を入れて、それなりにおしゃれもしてみたかった。
 でも、これは別に、本物じゃないわけで。
 散々迷った末、スカートだけジーンズにはき変えた。
 そんなこと、迷わなければよかった。
 信号が青に変わった瞬間。できるだけ人とぶつからないように走り出す。
 日曜日の駅前の道路は、人の大洪水だった。
 その波にさらわれないように、目的地を目指す。できるだけ速く。
 地下鉄の入り口の、電話ボックスの横に立っているのを見つけた。
 息を切らして走ってくる理実を見て、彼は驚いたように手の中の携帯を開いた。
 まだ約束の五分前だった。

「おはよう」
 と、場所が教室じゃないことと、制服を着ていないこと以外はいつも通りで、灰谷が言った。
 理実は大きく息を吸い込んでから、おはようと返した。
「そんなに急がなくても、まだ時間大丈夫なのに」
「うん。わかってたんだけど」
(でも、灰谷くんは絶対、約束の五分前には来てるだろうなぁって思ったら)
 走らずにはいられなかった。
 と、口にはせずに、開始時間まではまだ少しだけ余裕のある映画館に向けて一緒に歩き出した。



 家族の絆をテーマにした、アットホームな雰囲気の映画だった。
 巨大な怪獣や派手な銃器は出てこない、これと言った事件も起こらない。
 恋愛要素と言えるのは、熟練した夫婦愛だけ。
 涙を流せるような、感動的な場面もない。
 映画が終わったそのままの足で、目に付いた喫茶店に入った。
 席についてまず、理実はほぅと息を吐き出した。
「すごーく、素敵だった。オープニングとかの音楽も」
「ちょっと古めかしくて、ミュージカルなんかに使われてそうな曲だったな」
 店員がメニューを運んできたので、テーブルに広げていたパンフレットを閉じた。
 二人とも同じランチセットを注文した。

 食後に運ばれてきたアイスレモンティーに、理実がシロップを注ぐ間に、灰谷はコーヒーに角砂糖を三つ、放り込んだ。
 スプーンがカップの中に円を描く様子を、理実はじっと観察した。
 こんなふうに新しい面を知るたびに、どれだけ自分が彼のことを知らないのか、意識する。
「柳原が付き合ってくれて、助かった」
 映画の感想を一通り言い合ったあとで、灰谷が言った。
「こういう映画って、男一人だとなかなか観れないから」
「一人って……。誰かと一緒に観に来たりしないの?」
「うーん、映画に付き合ってくれそうな奴って、あんまいなくてさ」
「でも、ほら、赤井くんは?」
「赤井?」
 灰谷の目が大きく見開かれた。
「……たぶん、赤井が付き合ってくれるとしたら、アクションとかSF映画だけだろうな」
 どこか考え深げに、灰谷が言った。なぜか少しだけ笑いながら。
 学校ではいつも一緒にいるように見えるのに、意外だった。
 それとも、男の子ってそんなものなんだろうか。
「あとは、ホラーとかサスペンスとか」
 あと、と更に続けようとして、不自然な間があいた。
 理実と目が合うと、灰谷はごまかすように、コーヒーを一口飲んだ。
「……あいつと出かけると、決まって女の子もついて来るんだ」
 抑えた声が、本当に困っているように聞こえたので。
 灰谷くんにも苦手なものなんてあるんだ、と変なところに理実は感心した。

 一口、アイスレモンティーを飲む。
 座っているのは、窓際の席だった。
 道路は相変わらず人でいっぱいだった。
 あの人たちからは、自分たちでもちゃんとした恋人同士見えているんだろうか。
 ふと理実はそんな想像をしてみて、すぐにやめた。
 だって、本物かそうでないかなんて。
 スカートかジーンズかの差ぐらいじゃ、区別のつけようがなかった。
 ズズズ、という不快な音が理実の耳に飛び込んできた。
 ストローの先が、いつのまにか氷だけになっている。
 反射的に、ぱっとストローを手離した。
 カラン、と一際高い音が鳴ってしまって、理実は思わず俯いた。墓穴だ。
「じゃ、行こうか」
 苦笑を堪えつつ、灰谷の手がレシートを掴んだ。
 慌てて、自分のは自分で払うから。と理実が告げる。
 特に灰谷からの反論はなく、別々に勘定をすませた。


 店を出ると改めて、理実は自覚した。
 例えばこれが篤郎だったら、いつもよりスピード割増で歩かなければいけなくて。
 こうやって、自然に、歩くスピードを合わされることに、とても慣れていなかった。
(どうして、助けてくれたんだろう。本当にこのまま、頼ってしまっていいのかな)
 二つの気持ちが交互に、理実の頭を支配する。
 灰谷のことを少しずつ、知るたびに、その気持ちは強くなった。
 赤井や女の子たちと一緒に映画を観て、困ったりする。
 そんな自由が、灰谷にはあるはずなのに。

 だから一つだけ、約束をした。
 映画を観たあとに、入った喫茶店で。
 アイスレモンティーとコーヒーを全部飲み干して、ごまかせなくなる前に。
 会話が途切れた隙間を狙って、理実は切り出した。
「灰谷くんに誰か好きな人ができたら、私、すぐに離れるから」
 なんとなく、顔を見ることができなくて、代わりに空中で止まったままのコーヒーカップを見ていた。
 ゆっくり小皿の上に戻っていく。カチャン、と痛い音がした。
「オレも、柳原に本当に好きな人ができたら離れるよ。すぐに」
 当たり前のように、灰谷が繰り返した。
 理実はそれを聞いてほっとした。裏側で、少しだけ淋しくなった。なぜなのかはわからなかった。
 どちらかに本当に好きな人ができたら、この嘘の関係はおしまいにする。
 とん、と軽く、隣の腕に肩がぶつかった。
 ちょうど信号が青から黄色、点滅して赤へと変わるところだった。
 流れを寸断されて、横断歩道の向こう側とこちら側で、たくさんの人が立ち止まっている。
 隣には、灰谷が立っていた。
(ああ、そっか)
 理実はすとん、と理解した。

 本当に好きになったらおしまい、なんだ。


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