+体温+

  01 おでこに手をのせる。  

「あの、先生」
「なんだ? 柳原」
「その、気分が悪いので、保健室行ってもいいですか?」
 自分でも声が震えているのがわかる。
 クラス中の視線が、背中に集まっている気がする。
「え、なになに、理実ちゃん。もしかして生理日?」
「かわいそー。俺がついてってあげよっか?」
 ぎゃはは、とクラスの男子たちが一斉に笑った。
 かぁっと一気に顔が熱くなるのを感じた。
 うつむいたままぎゅっと両の手を握った。
 こぼれだしてしまいそうなものをこらえるために、強く。
「よし。行っていいぞ。じゃあ、誰か付き添い……」
 はーい立候補ーと、複数の手が上がった。
「ここは公平に保健委員だなあ。ええっと……」
「私大丈夫ですっ! 一人でも」
 普段とは違う女子生徒の強い調子に、そうか? と、数学教師はやや困惑しながら退出の許可をした。
 遠慮しなくてもいいのにーという声には聞こえなかったフリをして、急いで教室を横切る。
 ぴしゃん、とドアが音をたてて閉まった。

 一瞬の静寂。

 なんとも言えない空気がクラス中に広がった。
 隣同士で顔を見合わせて、苦笑い。
 そんな微妙な空気を断ち切るように、一人の男子生徒が立ち上がった。
「先生、オレ、保健委員なんで。様子、見てきます」
「おーそうしてやってくれるか。保健の斎藤先生にも声かけてやってくれな」
 すでに心得ていたように、男子生徒は頷いた。
「灰谷ー、理実ちゃんはみんなのもんだぞお。手ぇ出すなよー」
 と、また茶化した声が上がる。
 男子生徒は教室のドアのところで一度振り返ると、顔をしかめて、お前たちイジメすきだよ。と、たしなめた。
 ドアを閉めた途端、ぎゃははとまた笑い声が上がった。
 その様子に、男子生徒はしょうがねえなぁ、と一つため息をついてから、保健室へと向かった。



 * * *

 二年生になって、クラス替えがあった。
 理実は一年の成績で、理系の選抜クラスに振り分けられた。クラス三十人。
 その中に女子は三人しかおらず、しかも一人は病気がち、一人は登校拒否。という現状で、毎日、クラスの中に女子は理実だけ。という状況も珍しくなかった。

(あー……なんかダメかも)
 理実は校舎と校舎を繋ぐ、渡り廊下の真中でヘナヘナとしゃがみ込んだ。
 朝から頭痛がひどくて、薬が苦手で飲めなくて、三時間授業を受けてこの有様だった。
 熱があるかもしれない、と思った。顔が火照って熱い。
「私、自意識過剰なのかな……」
 ため息とともに理実は呟いた。
 男子たちの言葉にいちいち過敏に反応しすぎてるのかもしれない。
 だから、からかわれるのかもな。
(あ、だめだ)
 と思ったが、目にじんわり涙が浮かび上がってきた。そんな自分が情けなくて、ますます悲しくなった。

「柳原?」
 背後上方から声が降ってきた。
「は、灰谷くん」
 理実は慌てて立ち上がり、急いで目をこすったが、間に合わなかった。
 心配そうに、灰谷が長身をかがめて覗きこんでくる。
「大丈夫か? ごめんな、あいつら悪気はないんだけど、調子のってて」
「あ、いいの。私がちょっと大袈裟なんだよ」
 理実は弁解したが、赤くなった目ではいまいち説得力に欠けた。
「ほんと、ごめんな」
 彼は重ねて謝り、理実とある程度の距離をとって歩き始めた。
 保健室まで送ってくよ、と軽く言い添えて。

 灰谷亨は、バランスのいい男の子だった。
 すらっと高い身長、頭は小さく、顔のパーツも揃っていて、と言う見かけもそうなのだけど、理実の印象の中で、なんと言うか、言葉や態度や仕草のバランスがよかった。
 気を使ってくれているのを感じるが、それを相手に意識させない感じ。

「寝てなよ。斎藤先生呼んどいたから、もうすぐ来てくれると思うし」
 ありがとう、と、ぼんやりとした視界の向こうに言った。
 言葉に従って、理実はベッドに横になることにした。
 息苦しさを感じて、リボンをほどいた。ホックを一つだけ外して制服の拘束感をゆるめる。
 ソックスも気持ちが悪いから脱いで、このまま寝るとスカートにしわがつくのが気になったが、まさか脱ぐわけにもいかないので、そのままベッドにもぐった。
 リボンとソックスをどこに置こうかと悩んでいると、灰谷が簡易イスを引き寄せてくれた。
 ありがとう、と理実が言うと、いいから寝てな、と重ねて言われた。

 ホワホワとして落ち着かない感じだった。
 ベッドの中で目を閉じたら、すぐにでもどこかに飛んでいけそうな。
 熱が上がってきたのかもしれない。
 急に、ヒヤリとしたものがおでこに触れて、ひゃ。と理実は高い声を上げた。
「あ、悪い」
 と、灰谷が手を引っ込めるのが見えた。
「熱あるかな、と思ったんだけど……随分ありそうだな、これは。体温計どこにあるとか、知らないよな?」
 理実はこくりと頷く。
「あの、ごめんね……灰谷くん。もういい、よ? 授業、戻っても」
 言ってから、自分でも情けない声だと思った。
「いいよ、斎藤先生が来るまではいるよ。ちょっと心配だし」
 悪いなぁと、理実はぼーっとしている頭で考えた。
 灰谷くんはクラスでも成績優秀なほうだし、授業サボらせるなんて悪いなぁと。
 ただもう言葉にするのも億劫になってきたので、やめることにした。
「あ、オレが邪魔ならすぐ消えるけど」
 それはなかったので、理実はゆっくりと首を振る。
「うん。じゃあ、もうしばらくいるな」
 頭のこめかみのあたりがズキズキ痛み出していた。
 うっすら目を開けると、見慣れない天井があって、なんだか不思議な感じがする。
 少し顔を上げると、灰谷が所在なさそうに教員用のイスに座っているのが見えた。
 とん、と床を蹴ったかと思うと、くるくるとイスと一緒に回り始める。
 理実はわずかに微笑んだ。意外なものを見てしまった気がした。
 まだ、斎藤先生は来てないみたい。

「……あのさ、灰谷くん」
「ん?」
 灰谷はキャスター付のイスを器用に運転して座ったままそばに寄ってきた。ただ必要以上には近寄らない。
 なに? ともう一度、優しく促す。
「あの、灰谷くんの……手」
「手?」
「手、貸してくれないかな……」
 灰谷は自分の利き手のほうをじっと見つめて、この手? と理実の目の前に広げて見せた。
「うん。おでこのところに置いてほしくて。さっきヒンヤリして、気持ち、よかったから……」
 灰谷は少し、目を見開いた。
 理実自身、何を言ってるのか、あんまりわかっていなかった。
「ダメなら、いいんだけど……」
「いやダメじゃないけどさ。……まあ手ぐらい貸し出すけど、いくらでも」
 灰谷はイスをさらにベッドのそばに近づけて、きちんと座り直した。
 ちょっと躊躇いながら、でも、手をおでこの上に被せるようにして置いてくれた。
 ひんやりとした温度が広がって、心地よかった。
(灰谷くんの手、大きくて、乾いてる感じがする……)
「気持ち、いい?」
「……うん」
 理実はそのまま眠ってしまった。


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