+体温+

  03 てのひら体温計。  

「あれ、柳原さんだ」
 進行していた会話とはなんの脈絡もない発言だった、と思う。
 友人の言葉の矛先を振り返ると、電車のドアにもたれ掛かった柳原理実がいた。
 物憂げに俯いている彼女は、頬がほんのりと赤く染まっており、足元が少しおぼつかない。
 そんな風に見えてしまうのは、前知識があるせいかもしれないんだが。
 午後からの授業で彼女の姿を見かけることはなかった。
 ということは、つい先ほどまで保健室で休んでいたんだろう。
 両手で提げている鞄は頼りなさげで、今にも滑り落ちて音を立てそうだった。
 灰谷が車内を見渡すと、すべての座席が埋まっており、柳原と自分たち以外に立っている乗客はいなかった。
「心配?」
 にやにやしながら赤井が聞いてきた。
 灰谷はきょとんとして、連れの友人を見た。そのにやにやの意図することはわかりやすかった。
「……オレってそんなに顔に出るか?」
 灰谷が苦笑交じりに言うと、赤井はいいやと言って更に笑った。
「お前は随分わかりにくい性格だと俺は思うぞ」
 この赤井知也とは、二年生になって初めて同じクラスになった。
 生徒会会長を他薦でやらされるほど、生徒からも教師からも人望が厚く、校内でも屈指の有名人だ。
 成績のほうでもその優秀ぶりは発揮され、入学以来トップは彼のための指定席となっている。
 ただたった一度だけ、数学で途中の掛け算をミスした際に、灰谷と順位が入れ替わったことがあった。
 それ以来なんだかんだで関わりあい、仲良くなった。
 赤井は時々その頭のよさで、人をからかって面白がるクセがあるらしい。
 ということに気づいたのは最近になってからだ。
「赤井、とってもお互い様だと思うぞ」
 そりゃ光栄。と言い捨てて、赤井は車内を一直線に歩き始めた。どこへ、とわざわざ聞く必要はなかった。
 特に異論はなかったので、灰谷も後に続いた。


「柳原さん」
 柳原は、顔を上げて元々丸い目を更に丸くした。
「赤井くん。……灰谷くん?」
 誰かに見られているなんて、露にも思っていなかったんだろう。
 近くで見てみると、額は少し汗ばんでいるし、呼吸もしづらそうで。
 つまり、とても具合が悪そうに見えた。
「柳原さん、大丈夫? まだ熱あるんじゃない?」
「ううん。もう平気。寝たら随分よくなったから」
「席、譲ってもらおうか?」
「あ、いいよ。平気だから。ほんとに」 
 たぶん。これは嘘ではないんだろうが。
 でもこんな時まで無理して笑うこともないのにな、と灰谷は思った。
 そうさせている自分への罪悪感も一緒に。
 横を見ると赤井も同意見のようで、困ったねと言った具合に広い肩をすくめている。
 例えば柳原はたぶん、自分たちが消えるまで努めて元気なフリを続けるんだろうな、とか。
 そういうことはとても想像しやすいことだった。
(……しょうがない、かな)
 灰谷はすっと、額に手を伸ばした。
 柳原は一瞬ビクリとして体を硬直させた。
 手のひらに伝わってくる温度。
「……、……」
 まるで叱られるのを怖がる小さい子供のように。
 恐る恐る柳原が顔を上げた。
「熱い」
 と短く、灰谷が診断をくだした。
 ごめんなさい、と消え入りそうな声で柳原は言った。 



 * * *

「さてさて。じゃあ病人さんはこちらへどうぞ」
 満面の笑顔で赤井が手招く。
 さっきまでは確かにふさがっていたはずの座席が、二人分のスペースを空けて待っていた。
 理実が首をかしげていると、赤井の隣に見知らぬ二人組の女性が立っているのに気がついた。
 どうやら彼女たちが席を譲ってくれたらしい。
 理実が頭を下げようとすると、いいから座りな、と灰谷に促された。
 車内に赤井とその女性たち以外立っていないのを確認すると、少し考えるふうにしてから灰谷も隣に座った。

 なぜ、こんなことになっているのか、理実にはいまいちわかっていなかった。
 熱のせいで、物を考えることがとても億劫になってしまっていて。
 少し馬鹿になっていたらしくて。
「柳原って」
 電車の騒音に負けない、でも頭痛に響かないぐらいの音量で灰谷が言った。
「どこの駅で降りるの?」
「えっと……次の次の駅」
「駅からは歩き? 家に着くまでどれくらい?」 
「徒歩で10分くらいかかるけど」
 けど、と理実は切った。
 灰谷がこの先言いたいことが、こんな頭でもなんとなく分かったからだ。
「あのね、でも」
「赤井」
 でも、私大丈夫だから。と理実は続けることができなかった。
 すっかり女性達と意気投合した様子の赤井は、形のいい眉を上げるだけでそれに答えた。
「オレ、柳原を家まで送ってくるよ」
 赤井は少し虚をつかれた顔をして、でもすぐにいつもの笑顔に戻ってオッケーと口の形を動かした。
 それからも続けて口を動かしていたが、理実には何と言ったのかわからなかった。
 ただ灰谷が、バーカ。と小さく呟きを返すのが聞こえた。

 駅に着くまでの間、理実はなんとかしなくちゃと思考を巡らせた。
 が、ただでさえ馬鹿な頭は熱のせいで拍車がかかってしまっていて。
 かなり馬鹿になってしまったらしくて。
 結局、何もできないまま目的の駅に着いた。


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