+体温+
08 泣かれるとは思わなかった。
初めて、好きだと言われたとき。
嬉しくて、恥ずかしくて、頭が真っ白になった。
その真っ白に包まれてしまったように、色々なことをぼんやりとしか覚えていない。
ただ、
断ったあとの一瞬笑い逃したような顔と、次の日の朝に挨拶された笑顔だけは、よく覚えている。
彼は拍子抜けするくらい普通に戻っていた。
努めてそうしていたのかもしれないし、気を遣ってくれたのかもしれない。
ほっとした裏側で、そんなものなんだろうか、と思った。
今年のクラスになるまで、告白なんてものをされたことがなかった。
それどころか、男子と話す機会も滅多になかった。
それが当たり前だったのに、今はすべてが逆転して、これが当たり前になっている。
それを、いいねーと言ってくれる友達も、大変だねーと言ってくれる友達もいた。
自分自身では今の立場がいいのか悪いのか、前と比べて判断することはできなかった。
ただ、わからなかった。
わからない自分がふがいなくて、そんな自分を好きだと言ってくれる気持ちが想像できなかった。
ふと、好きってどういう気持ちだっけ、と思った。わからなくなっていた。
シャっという軽い音。
まぶたの裏が赤色から黒色に変化したのに気がついて、理実は目を開けた。
頬に冷たい、固い感触があって、薄茶色の木目が目に飛び込んできた。
自分のいる場所がどこなのかわかって、理実は安心してもう一度目を閉じた。
もう一度、目を開けたとき。
部屋の中はもう薄暗くなっていた。
どれくらい眠ってしまったんだろう、と理実は慌てて、机から顔を上げた。
「起きた?」
図書室の机は幅が広くて、向かい合うように腰掛けて使うようになっている。
理実のちょうど向こう側に、人の形をした影が座っていた。
手にしていた文庫本を閉じて、椅子から立ち上がる。
一直線に歩いてたどりついた棚にその本を返すと、また同じ場所に戻ってきた。
「……灰谷くん?」
理実の問いかけを、灰谷はかすかに笑って、肯定した。
「うん」
灰谷はさっき座っていた椅子を通り越して、理実のそばまで来ると、閉まっていた窓のカーテンに手を掛けた。
脇に寄せて、紐で束ねる。
窓の外はすっかり日が落ちていて、校庭で部活動をしている生徒の姿はなかった。
「もしかして、灰谷くんがカーテン、閉めてくれた?」
「ああ、そう。西日が眩しそうだったかったらお節介やいた。そんなとこで寝てると、また風邪ひくかもな、とも思ったけど」
灰谷の声はからかう響きを持っていて、理実は恥ずかしくなって体を縮めた。
室内は暗くて、図書室の役割を果たせていないようだった。
日光も気にするような人だったら、当然電気はつけないだろうなと思った。
けれど電気をつけずに、どうやって本を読んでいたんだろう。
(じゃあ、灰谷くんは何をしていたんだろう)
本を返したらもう用はないはずなのに、灰谷は、もう一度、理実の正面の椅子に腰掛ける。
一度理実の様子を見やって、少し考えるようにしてから口を開いた。
「……瀬名がさ」
灰谷がその名前を言い出すのを、理実はひどく静かな気持ちで聞いた。
「校庭で部活のジャージ着て走ってて、オレは帰るつもりだったんだけど、校門あたりで掴まって」
その言い方に反応して、瀬名に掴まれた腕を、消えてしまった痛みを思い出す。
理実はなんとなくそのあたりに手を置いてみた。
「心配だから様子見てきてやってくれって頼まれて、それで」
灰谷が今、目の前に座っている。
「ごめんなってさ。瀬名」
理実は首を振って、灰谷の、瀬名の言葉を取り消した。
瀬名が謝る必要なんてどこにもなかった。
「私がひどいことしたの。真剣に言ってくれたのに、私」
図書室の机は広くて、灰谷とは少し、距離がある。
理実は、自分が声を発するたびに、本の隙間に吸い込まれていくような気がした。
耳に痛い静寂を気にするわけでもなく、灰谷は机のちょうど中央を見つめて、ただ黙っていた。
理実は、できるだけ落ち着けるように、呼吸を繰り返す。
すーすーという空気の音は、たぶん灰谷まで届いているだろう。
待っていてくれているように思った。
「私、自分の気持ちが、よくわからないの」
理実はゆっくりと、けれどはっきりとした口調で言った。
灰谷が少し目をみはった。
理実はその様子になぜかほっとする。
「好きだって言ってもえると、すごく嬉しい。でもパニックになって、あとですごく怖くなるんだ。それで、私はいったい、代わりに何をしてあげられるのかなって。
……結局、その気持ちに見合うようなものが見つからなくて、断ってしまうんだけど、でもそれはすごく、その人のことを傷つけていると思う。私には想像することしかできないけど……。
私は私の気持ちがわからないから、断ることしかできないけど。でもそんな曖昧なのは、すごく失礼だって思えて」
他に好きな人がいるの? と聞かれて、答えることができない。
わからないまま、曖昧なまま断って、また傷つける。
「思ってるんだけど、どうしたらいいのかわからない……」
頑張りたいと思うのに、頑張ることができない。
そっか、と灰谷が控えめに相槌を挟んだ。
理実は頷いて、唇を噛んだ。
こんなことを話したら、灰谷に嫌われてしまうかもしれない。
それが今の今になって、すごい怖いことのように思えた。
暗がりがかぶって、ここからでは灰谷の表情はよく見えなかった。
「オレはずっと、柳原のことかわいそうだなって、思ってたよ」
突然、灰谷がそう言った。
意外な言葉に、理実はまじまじと目の前のクラスメイトを見つめた。
視線の先、そう遠くないところに灰谷がいる。それが、今更ながら不思議な感じがした。
「男ばっかのクラスの中で、柳原が頑張れば頑張るほど……そりゃ、ある程度は報われるだろうけど、でもその分、柳原の悩み事も増えるだろうなって思ってた。男と、女だからさ、やっぱり。
……かわいそうで、見ていられなくて。でもオレはずっと、誰かが助けてやればいいのに。って思ってたんだ」
ごめんな、と謝られて、理実は逆に焦った。
「瀬名とか、神崎とかさ、相応しい奴はもっと別にいると思うんだけどな」
ぽつりと独り言のように漏らしながら、灰谷は困ったように片手で頭をかいた。そして、椅子に深く座り直した。
ギィ、というきしむ音ともに、理実と目が合った。
「オレ、今、柳原をすごく助けてやりたい」
「……私?」
「うん。オレが一方的に、勝手に、そう思ってるだけだから、見返りとかそんなの、気にしないでいいし。柳原は何もしないで、普通にしてればいいから」
灰谷の言っている、言おうとしている意味が分からなくて、理実は首をかしげる。
そんな理実を見て、灰谷がいつものように笑うことはなかった。
真剣な表情のままで、言った。
「オレと、付き合ってくれませんか」
頭が真っ白になった。
それ以外の色々なことが全部、消し飛んだ。
暗がりでよく見えないけれど、でもかろうじて灰谷の少し赤くなった顔が見えた。聞こえるはずのない心臓の音まで聞こえてきた。
静かな図書室に響く音。
遅れて、それが自分のものだと理実は気づいた。
答えることはできなかった。
ただ、灰谷が差し伸べてくれた手が優しくて、おそるおそる理実は手を伸ばした。
ずっと我慢していたものが、頬を伝って落ちた。
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