+体温+
13 柳原さん、人質になる。
そういえば、生徒会室がどこにあるのか、いまいち記憶になくて。
一階までおりたあとで、一般クラスの前を通り、体育館の前を通り過ぎる廊下を渡って。
このまま行くと新校舎だな、と理実は頭に地図を思い浮かべる。
ずいぶんと遠くまで来てしまった気がした。廊下の窓から、ちょうど反対側の三階に、図書室が見える。
ここに来るまでの間、赤井は出会った人に必ずと言っていいほど声を掛けられていた。
挨拶や歓声、業務連絡から一言情報まで。
赤井はそれらのすべてに、あの綺麗な笑顔で応対した。
新校舎に足を踏み入れると、ぱたりと生徒の姿は見えなくなった。
赤井は眼鏡を外し、胸ポケットに押し込んでから、時間掛かってごめんね。と一言謝った。
「俺なりの最短距離ではあったんだけどね」
この新校舎には、職員室や、各教科の資料室がある。
それに、先生たちの休憩室や、宿直室。
最新鋭のコンピューター室もあり、生徒に縁があるとしたら、この教室ぐらいだった。
生徒会室は、その教室群の一番奥にあった。
そこは、図書室と同じくらい、生徒と離れた場所のように思えた。
「もちろん色々デメリットも多いけど。みんなにはせめて、行き帰りの労力に見合うものだけを持って来てほしいんで、ここがベストなわけ」
「生徒会ってそんなに忙しいの……?」
理実が不安げに尋ねた。
赤井は何とも言えない笑顔を向けながら、手の甲でトントン、とドアを鳴らした。
はい、と聞き慣れた声が応じた。
* * *
ノックが聞こえたから、てっきり来客かと思った。
心細げに室内を見回す。あいにくと、生徒会役員は全員揃って、外出中だった。
先ほど最後の砦が、ちょっとトイレあたりまで。と言い残して、まだ帰ってきていないのだから仕方がない。
「はい」
応じながら、灰谷はノートパソコンの上書き保存のキーを叩いた。
長いトイレから、この部屋の主が帰ってきた。
ほっと胸をなでおろすと、その後ろからひょっこり予定外な姿が現れた。
灰谷は目と口の双方をぽかんと開けて、動揺は直で声になった。
「やなはら?」
その驚きぶりがよほど嬉しかったらしく、赤井が堪えきれない笑みを口の端に浮かべた。
頭に警告音が鳴り響いた。
「灰谷くん、ピンポーン」
そう言うなり、赤井は背後に回り込み、ゆっくりと細い双肩に手を掛けた。
柳原の全身がビクリっと震えた。過剰なほどに。
赤井は構わず、そのまま後ろから抱え込むようにして首に腕を回した。
「……なんの、つもりだよ」
低く、灰谷の声が室内に響いた。
「人質。だから、おとなしく俺からのお願いを聞いて」
柳原の顔が少し、強張りを増した。小刻みに身体が揺れている。
その向こう側で、赤井の笑みは絶えることを知らない。
たぶん、気づいててやっているのだ。
「悪い冗談よせって」
「本気だよ。一番手っ取り早い方法を、こうしてとってるだけで」
その言葉ほど切実ではない。ただ、自分にお願いをきかせたいわけではない。
この友人にはそういう、悪い癖がある。
と、灰谷は冷静に推察しながら、柳原に目をやった。
彼女はさっきから、一言も発していない。この状況に、抵抗も非難も、しない。
ただ床の一点を見つめたまま、震える両手を組んでいる。
「わかったから、早く離せ」
承諾の印を確かに受け取って、赤井はぱっと柳原から手を離した。同時に、できる限り身体も離した。
灰谷はきっと鋭い批判の目を、赤井に向けた。
赤井は軽く肩をすくめて、給湯室へと消えて行った。
この学校の生徒会室は、驚くほど贅沢な造りになっている。
応接室、給湯室、作業室、の三つの部屋から成っており、それぞれが廊下から直通できる扉を持っている。
ここは作業室だ。一般的に、生徒会の控えの間として認知されている部屋だった。
長机が中央に並べて置かれ、人数分の簡易椅子が周りを囲んでいる。
机の上には無数のプリントと、お菓子の袋や、飲みかけのペットボトル、誰が持ってきたのか灰皿には、わざわざ使った痕跡まで見られる。
片付ける暇もないくらい、務めが厳しいわけではない。生徒会の人間というのはみな、恐ろしく適応能力が高い人間の集まりなのである。
(あの会長の下でやってるなら当然か……)
灰谷は、机の上のノートパソコンをぱたりと閉じた。
なりゆきで押し付けられた事務処理はまだ少し残っていたが、今はそれどころではない。
「大丈夫?」
解放されたあとも、柳原はその場から一歩も動けていなかった。
話し掛けられて初めて、灰谷の存在にも気づいたようだった。
「あ……ごめんね」
舌足らずの子供のように、柳原が言った。
「私、足手まといになっちゃった」
「いいよ。最初から引き受けるつもりだったんだ。それより図書委員の仕事は大丈夫?」
半分は嘘をついた。
半分は気をそらせるために言った。
柳原は少し考えて、友達に任せきりにして来ちゃった。と、呟いた。
「じゃあオレ、あとで、図書室まで迎えに行くから」
だから早く、ここから出て行ったほうがいい。
柳原はしばらく黙って灰谷を見つめてから、こくりと頷いた。そして、生徒会室を出て行った。
見計らったように、給湯室のドアが開いた。
手には、二つのマグカップ。
灰谷の手で作業室のドアが閉まるのを見て、赤井は事態をすべて把握した。
「柳原さん、帰しちゃったの? 一人にしてよかったわけ?」
「図書室に……友達がいるって」
「ああ、依子ちゃんね」
赤井は肘を使って、机の上から邪魔なものを派手に床に落とした。
できたスペースに、カップを置く。
瞬間、灰谷の手は赤井の胸ぐらを掴まえていた。そのまま肩を強く壁に押し付ける。
赤井は抵抗もせずに、最初から両手を上げて降参のポーズをした。
あくまで笑顔は絶やさずに。
「ごめんなさい、手加減を間違えました」
「間違えたじゃすまないんだよっ!」
珍しく声を荒げる灰谷に、赤井の眉が興味深げに持ち上がる。
居心地の悪さを感じて、すぐに手を離した。
「……でも、これではっきりしたろ?」
赤井は衣服の乱れを流れ作業で直しながら、灰谷にコーヒーをすすめた。
そして自分のほうは、おそらく柳原の分だった紅茶に手を伸ばした。
「思ってたよりずっと重症だな。自覚症状も薄そうだし。かわいそうに」
赤井の声をぼんやりと聞きながら、差し出されたコーヒーを眺めた。
色素が濃くて、カップの底は見えない。
「気がついてないなら、たぶん、それが一番いいんだ」
灰谷の言い様に、赤井がまた少し目を見張った。
(実際、この友人は、いったいどこまで気づいているんだろう)
心の中で首を傾げながら、灰谷は努めて外に出さないようにした。
砂糖の袋を破いて、コーヒーに注ぎ込む。
白い粒が黒い液体の中に消えていく。それを二人して、ぼんやりと眺めた。
「と、言ったってさ。ああいうのは、まず本人の自覚が第一歩じゃないのか? それから、自分の恐怖の対象と向き合ってみなきゃ、治るものも治らないだろ?」
「そんな、無理やりしなくても大丈夫だと思う。時間が経てば自然と……治っていくものかもしれないし」
「だって、それじゃお前が……」
つらいだろう? と言いかけて、さすがの赤井も、そこで口をつぐんだ。
彼らしい鋭敏な感覚が、何かを察してくれたようだった。
柳原が使う予定だった砂糖の袋を破いてまたコーヒーに注ぎ込む。ぐいっと、一口飲んだ。
「……。灰谷って、甘党だったんだな」
ぽつりと、意外そうに赤井が呟いた。
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