+体温+

  28 返却、お願いします。  

 個人カードが見当たらないのは、理実が灰谷を特別扱いしたせいだった。
 しきりに反省した態度で差し出されたカードを、理実は丁寧に、お預かりします、と受け取った。
 本の題名と、貸出日、返却日の欄に今日の日付が、それぞれすでに書き入れてある。
 さらに、ほとんどの生徒が無視をする、感想という欄にも、きちんと一言、面白かった。と書かれているのを見つけた。
 理実は抑えきれない微笑みを浮かべながら、返却の印鑑だけを押して、灰谷に個人カードを返した。
 そして、図書カードのほうは、本の背表紙裏にある袋の中へとしまう。
「……そういえば、亨って名前なんだよね」
 何を今さら当たり前のことを言ってるんだろう。
 いつものように言ってから後悔したけれど、灰谷は、うん、と律儀に答えてくれた。
 理実は内心ほっとしながら、思ったことを続ける。
「灰谷くんによく似合ってるね。響きとか」
「そう、か? 考えてみたこともなかったけど」
 言いながら、理実は灰谷と一緒になって、カードに記入された名前を見つめていたので、不意を打たれた。
「柳原にも、理実ってよく似合ってるよな。なんか、かわいい感じして」
 付き合ってるのに、下の名前で呼ばないの? って、依子に聞かれたことがあった。
 そのときは、あははって笑ってごまかしたけど。本当のところは、ごまかせていなかったみたいだ。
(……依子、たったこれだけでこんなふうになるんだったら、たぶん一生かけても無理そうだよ)
 理実は、赤みの増した頬をそっと暗闇の中に隠した。



 図書室は、いつもより少しだけ騒がしい。
 開けっぱなしになっている窓から、夜風とともに、校庭の光と音が入り込んでくるせいだった。
 時計を見なくても、時間の流れがわかって、だからこそ余計に、沈黙が存在感を持っていた。
 けして切羽詰まったような、嫌な感じではなくて。どちらかというと、穏やかで、優しい。
 二人の間に落ちて来ても、焦って壊さなくてもいい感じで。
 一生このままでもいいな、なんて思い違いをしてしまいそうになるくらい。
 本当なら、こんなところにいるんじゃなくて、みんなに混じって校庭で騒いだほうが楽しいんだろうな。
 理実はちらりと灰谷の顔色を伺った。そしてもう一度、選ぶ。
 静かに呼吸をくり返して、全身に酸素を送る。パワーに変換して。
 がんばれ。
 励ましと一緒に、カウンターの隅に置かれたままになっている手に向かって、理実は手を伸ばした。
 


 * * *

 突然触れた温もりに、驚いた。
 繋がった手の先には、薄暗い中でもわかるくらい、顔を赤くした柳原がいて。
「灰谷くん、あの、ね」
 と、全身から搾り出すように声を出すので、早鐘を打つ心臓をなだめながら応じる。
 話したいことがある。
 そう言われたときから、耳をふさがずにきちんと最後まで聞こうと思っていた。
 なるべく柳原が話しやすいように、なに? となんでもないふうを装ってみせる。
「私も返さなくちゃいけないもの、あるの」
「……? オレ、なんか貸してたっけ」
「手を」
 貸してくれたでしょう?

 一回目は、柳原が具合を悪くして、付き添った保健室で。
 二回目は、柳原を家に送る途中の帰り道で。
 三回目は、仮の契約を結んだ図書室で。
 灰谷は思い返しながら、合計三回って多いのか少ないのか微妙だな。と、少しずれている感想を抱いた。 
「返さなくちゃってずっと、思ってて」
 まっすぐ、視線がぶつかる。
 柳原がこんなふうに話すのは、珍しいような気がする。俯かずに、相手の目を見て。
 つまり、それだけ決意の強さを表しているわけで。
 正直なところ、灰谷は戸惑っていた。
 この手は、前に触れたときと同じように、女の子らしくて、細くてやわらかい。
 今だって、ほんの少し力を入れただけで折れてしまいそうで、怖いくらい。
 この感触は、最初のときからずっと変わっていないのに。
 でも、もう手を離しても一人で立っていられるから大丈夫だって。
 繋がった手から、力強く伝わってくる。
 


 * * *

「 ―― わかった。仮のお付き合いは、今日でおしまいだな」
 穏やかな声で告げられて、理実はこくり、と一つ頷いた。

(―― これで、おしまい)
 びっくりするくらい簡単で、拍子抜けしてしまう。
 自然の流れに従って、ゆっくりと離れていこうとした理実の手を、灰谷の手が引き止めた。
 灰谷くん? という、理実の戸惑いの声とともに、くるりと手首がひねられる。
 カウンターをまたぐ橋のような形の、握手をする。
 繋がったところからじんわりと、まだ大事なことをいい忘れているのに理実は気がついた。
「あの、ありがとう。灰谷くんのおかげで、私もう一度、頑張る気になれたから」
「いや、オレのほうこそ。大見得切った割に、あんまり役に立てなくて逆に申し訳ない」
 軽く頭を下げた体勢のまま目が合ったので、お互いから少し苦笑が漏れる。
「ううん。すごく助けてもらったよ。だから、ほんとに、ありがとう」
「そっか、ならよかった」
 バチバチ、という音とともに夜空に花火が打ち上がった。目が、窓の向こうへと吸い寄せられる。
 軽やかな音楽が聞こえてくる。そういえばフォークダンスあるんだって、チラシに書いてあったな。
 前だったら、知らない人と、しかも男子と踊るだなんて、まったく、考えられないことだったんだけど。 
「……私、こんな、いいものだって知らなかったな」
「なにが?」
「誰かと手を、繋ぐのとか。気持ちいいんだね、人の体温に触れてるのって。すごく、落ち着くっていうか」
「あー……そうだな」
 きゅ、と手に力がこもった。
 特別に、どちらの意志からと言うわけではなくて。
 偶然が一瞬、重なっただけにすぎない。
 実際、それ以上の意味を持つことはなく、ほんの少し二つの胸を締め付けただけで、夜空に散った花火のように消えた。


 最後の花火と一緒に、手が離れた。
 手のひらにはじっとりと汗をかいていて、今さらながら恥ずかしくなる。
 向こう側では同じく、灰谷も気にしているようで、グーとパーを盛んに繰り返している。
 しばらくそうしていてから、何か思いついたように、暗がりの中で二つの目がきらりと光った。
 カウンターの上から何かを盗み取って、手の中に隠して。
「柳原、もう一回手、出して」
「うん?」
 言われたとおり差し出した理実の手のひら。その端っこに、小さな感触が押しつけられた。
 理実は、まじまじと残された赤いしるしを見つめて、笑った。
 灰谷の手からそれを奪い取って、同じように押し返す。容赦なく、手のひらの真ん中に。
 返却完了しました、のしるしを。


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