+体温+
35 ポケットから勇気。
それは今、図書室のカウンターに置いてあるはずのものだった。
どうやってここまで瞬間移動したんだろう。理実が考えをまとめている間に、もっと強い力で引っぱられた。
篤郎は自分のテリトリーに理実が足を踏み入れたことを確認して、改めて、頭だけのうさぎを見つめた。
だらんと垂れ下がった耳は、どこか居心地が悪そうで。今は見えない下の表情を教えてくれているようだった。
やがて、ホールドアップしたままだった手が下ろされ、うさぎの頭と一緒に床に沈むまで。
目を離せずにいた理実の肩を押し出すようにして、篤郎は出口を目指した。
あ、と思って、何か言おうと思ったのだけれど、まだ感情と身体がバラバラになったままで。
開いた口から漏れた音は声にならない。どうして、と聞きたかったのかもしれない。
「……それでもかぶって、しばらく反省してろ」
そんな代わりをするように、篤郎が言った。
体育館へと続く廊下の途中で、カバンの行方を聞かれた。
「えっと……教室、かな」
「じゃあ俺は着替えてくるから。……また、教室で」
その意味も深く考えられずに、理実は言われるままに自分の教室へと向かった。
開いたドアの向こうには、授業が終わってからもう随分時間が経っているせいか、誰もいなかった。
理実は、窓際の、自分の席へとたどりつき、机の横に掛けてあったカバンを持ち上げた。
ここから教室を見渡すと、いつものクセで、なんとなく目がいく。
教卓から数えて、前から二番目の席。
文化祭のあとの席替えで、引き当てた特等席。
黒板を見るとどうしても視界に入ってきてしまう背中を、気にしないようにするのは、理実にとっては少し難しい日々の作業だった。
その机は、他の机よりも傷や汚れが少ないような気がした。ひいき目が、あるのかもしれない。
理実は少し考えてから、恐る恐るその席に腰掛けた。
いつもよりも黒板が大きい。自分とは違う視界に、不思議な心地になる。
机の、指でなでた木目の間に、小さな落書きを発見した。おなかすいた、と書かれている。
理実はわずかに笑って、そして、机に突っ伏した。
不思議と、涙は出てこなかった。びっくりしすぎたせいかもしれない。
少しの痛みと、少しの熱と。
もしあのまま、篤郎が来なかったらどうなっていたんだろう。
思い出すだけでまた身体が震える。涙腺に響いて、鼻がつんとなる。
振りほどけないほどの力だった。
今まで手加減をしていた、と言っていた。じゃあ、さっきのが本気の力で。
さっきのがほんとうの赤井くん、なんだろうか。
どうしてだろう、とやはり考えはそこにたどり着く。
頭はどこか冷めたふりをしたままで、必死にある感情を受け入れないようにしていて。
でも、気づかされてしまった。
容赦なく、残酷に、強引な方法で。
ずっと底のほうに隠しておいた、願望と欲望を。
明るいところへ、引っぱりだされてしまった。
ことん、と耳元で硬質な音が鳴った。
「コーヒー。あったかくて、甘いやつ」
机のすみに置かれた缶コーヒーは言われたとおり、あったかくて甘い味がした。
制服に着替えた篤郎が、特等席の、隣の席の椅子を引いて腰掛ける。
「ごめんね。今日こそはあの頭、返せると思ったんだけど」
「……いい。あとで直接取り立てるから」
あのうさぎのぬいぐるみは、市外にある遊園地のイベント担当会社から文化祭の部活の出し物のためにもらってきたのだそうだ。
廃品同然のやつだから気にするな、と篤郎は言ってくれた。けれど、
(二回も、助けてもらったのに)
頭だけのうさぎと、身体だけのうさぎと。
自分が原因で引き裂き続けていると思うと、忍びなかった。
「……やっぱり、一発ぐらい殴っといたほうがよかったか?」
本気なのか冗談なのか、判断のつかない相変わらずの真顔に。
理実は一瞬呆けて、慌ててぶんぶんと首を横に振った。
このイトコに殴られたりしたら、さすがの会長もたまったものではないだろう。
バスケットボールが小さく感じられるほど、大きな手。
座っても近づかない視線。窮屈そうに机からはみ出している足。
普通の男子の平均よりも、たくましい身体。
気がついたら、そばにいて。
気がつかないうちに、身長も体重も抜かされていた。
かけっこの勝負では、最初から理実のほうが惨敗記録をぬり重ねていたけれど。
茶色の液体がノドを通過して、胃のほうまで落ちていく。その筋道がやわらかに火照った。
「あっくん」
名前を呼んだ。
その容姿にはもう似合わなくなってしまった名前を。
「ごめんね、ありがとう。……私、大丈夫だから」
大丈夫なんだ。
自分でも言ってから驚いて。
篤郎は少しの間、ほんとうかどうか理実を観察していた。
ぽんぽん、と。
やがて頭に落ちてきた肯定の返事には、淡い微笑みがくっついていた。
(―― うん、大丈夫)
たくさんのことに気づいて、たくさんのことを知って。
例えば、今、篤郎が部活を途中で抜けてそばにいてくれることとか。
さっき、加減なく思い知らされたこととか。
それでも変わらずに、身体の底のほうから温めてくれているものとか。
ずっと、色んな人や物から、たくさん、ほんとうのものをもらってきたから。
きちんと胸の中にしまって置いて、大事にしていこうって思うから。
だからその代わりに、理実は、ポケットから少し分だけの勇気を引っぱり出してきた。
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