＋体温＋

　　34　頭だけのうさぎ。　　

　本能で立ち上がり、逃げ出そうとした理実の行く手を、手がふさいだ。
　前後左右、どこにも逃げられないようにと、赤井は本棚と両手を使って理実を囲む。
　硬い本棚を背に近づけるだけ近づけさせて、理実は少しでも自分のスペースを確保しようとした。
　が、すぐに赤井に詰められて、無駄な努力となる。
　短い攻防戦は理実の完敗で、でも降参なんかはしたくなくて。
　理実は仕方なく、赤井のほうを向いた。
　少なくとも、この人の怒っているのと哀しいのの理由を、知りたいと思って。
「へえ、灰谷の治療もまんざら無駄じゃなかったんだな」
　怪訝そうな顔をした理実に、赤井は至近距離でにこりと笑む。
「だってさ、柳原さんって、男、怖いでしょ？」
「……怖いって？」
「前に、俺が後ろから抱きついたときなんて固まって動けなくなっちゃったじゃない。だから、今こうして会話が続いてるだけでも進歩かなって」
　気がついてなかった？　と、聞く赤井はやはり意地悪で。
　灰谷が自分のためにしてくれていたことを、理実は実感せずにはいられない。
　守られていたのだ、と。
「二人がやってたおままごとのおつきあいってのは、医者と患者のリハビリとカウンセリング、つまり一種の治療だったわけだ」
　そんなことは言われなくても、わかっている。
　お互いに、好きで、だから付き合っていたわけじゃなくて。
　そんな事実は、最初からかけらもなくて。
　理実は病を抱えていた。もちろん、そんな大げさなものじゃないけれど。
　灰谷はそれを治すためにしばらく手を貸していてくれただけだ。
　たったそれだけのこと。それ以上も以下もない。
　それが、どうしてこんなに赤井の神経を逆なでてしまうのか。
　たぶん、理実は一生懸命弁解をしなくてはいけないのだ。
　なんでもないことだったから、すぐ終わることだったから、ほんとうのことを話さなかったのだと。

（でも、それはほんとう？）

　嘘だけの素材の中に、混ざってしまったかけらがなかった？
　もし見つかってしまったら、ごまかしようのない真実のかけら。
　少なくとも理実の中には、あった。　
　だから、言えなかったのだ。依子にも、赤井にも、誰にも。灰谷にも。
（でも、こんな中途半端に生まれたものを、ほんとうと呼んでもいいの？）

「……好きなんでしょ？　灰谷のこと」
　問い掛けた声はなぜか優しげで、中途半端な嘘を許してくれそうになかった。
　怖くなった理実は、必死に首を左右に振った。
　その様子に、赤井はため息をつく。吐き出された息は白くて、タバコの残り香がした。
「嘘だよ。柳原さんは好きなんだよ」
「どうしてそんなの赤井くんにわかるの」
　決めつけないで。
　耳をふさごうとした手が掴まる。
「俺はさ、柳原さんには割と手加減をしてきたんだ」
　ぐっと強く握り締められた手首に痛みが走る。
「女の子だからってのは根本的なこととしてあるけど、それだけじゃなくて。クラスメイトだし。それに何より灰谷の彼女だったから」
　赤井は生徒会長で、いろいろな人と繋がりがあって、そのためにその人に付属するものが大事になるんだろうって、推測ならいくらでも。
　でもそんなことがわかっても、あんまり意味がなくて。
　嘘とほんとうと、冗談と本気と、どれなのかわからなくても、この痛みだけは現実だ。
　怒っているのと哀しいのと。
「でも彼女じゃなくなったなら、遠慮はいらない、よね」
　さっきの邪魔をしたお詫びに、身代わりをしてよ。
　耳元でささやかれた言葉の意味がわかって、理実はぞくりとした。
（怖い）
　新学期が始まってから溜め込んでいた気持ちが一気に吹き出してくる。
　指の先まで凍りついて、理実の身体は小刻みに震え始めた。
　髪をかきわけるようにして、皮膚にじかに触れる、生々しい指の温度。
（怖い、怖い、怖い）
　手の大きさも、体の厚さも、声の低さも、すべて違う。
　わかっていても、どうしようもない差があって。
　どんなにがんばっても無駄だ、と理実は崖から突き落とされたような気分になった。
（怖いっ！　やだ気持ち悪いっ、助けて！）

「はっ……」
　呼びそうになった名前を、理実は慌てて飲み込んだ。
　一番近くの耳が聞き逃してくれるはずがなくて、強く、先をうながされる。
「呼べよ」
「……いや、だ」
　涙があふれるのと同じように、はっきりとそれだけはできないと思った。
　助けてもらって守ってもらって、そんなのもう、嫌なんだ。
　頼って寄りかかって、楽をしたかったわけじゃない。
　自分でなんとかしたい。自分の手で責任をとりたい。
　灰谷がしてくれたことに対して、そういうふうに返すことができたらいいな、と思っていて。
　だから、手を離す決心だってしたのに。
　赤井の気配がいっそう近づいて、髪に落ちてきた。
　首筋をなでていた指の上をなぞるように、唇の、湿った温度が触れる。
　触れた一点にすべてが集中したように、理実の身体がきゅうっと収縮した。

　少しの痛みと少しの熱と。
　それだけを残して、少しずつ離れていった。
　遠ざかっていく温度に、どうして、と問い掛ける。
　少し離れて、はじめて見えた顔が、どうしてそんなに哀しそうで、傷ついているように見えるのか。
　理実の思考をさえぎったのは、だらんとだらしなく耳を垂らしたうさぎの頭だった。
　暗いところで見ると、どこか不気味でおかしい。
　さっきまでは確かに人間だったはずの目前の顔が、急に入れ代わっていた。
「え？」
　わけのわからないまま、強い力に導かれた。手を引かれて、暗闇の中から引っぱり出される。
　見えなくても、はっきりとわかる。
　ずっと小さな頃から、気がついたらそばにいて。
　スーパーマンみたいだって理実はこっそり何度も思っていて、一度も口にしたことはなかったけれど。
　部活の途中で抜けてきてくれたのだろう、ジャージのままで。
　肩の影の形が上下に揺れているので、息が上がっているのだとわかる。
　珍しく、表情が歪められていて。
　冷たい印象はいつものこと、でもちらりと理実を見たあとの顔は厳しさを増した。
　篤郎は黙って、今は両手を上げて降参のポーズをとっている、頭だけのうさぎを睨みつけた。