+体温+
37 いいの?
教卓から数えて、前から二番目の席。
常に先生からの視線が気になって、自主的休憩も内職もままならない特等席。
文化祭のすぐあとに行われた席替えで、見事に引き当てたのは確か自分のはず、だったんだけれど。
灰谷は試しに、こんこん、と机の端をノックしてみた。
我が物顔をして机を占領している人物は、今に限らず最近はとんと静かなように思う。
文化祭燃え尽き症候群では、と診断する面々もいたが、なんとなくしっくりこないのは灰谷の気のしずぎだろうか。
「赤井」
今度は肩のあたりをノックしてやると、渋々といった感じで頭を持ち上げ、隣の席からイスを引き寄せ、身体ごと移った。確か、そこも彼の席ではなかった気がするのだけれど。
やれやれ、と灰谷がやっとたどり着いた自分の席の上に、見慣れない落書きが増えていた。
おなかすいた、といつ書いたかわからない独り言の下に続く、10行ほどの数式。
所々が、先ほどから教卓を囲んで数学の問題に取り組んでいるクラスメイトたちの声の内容とかぶる。
違うのは、つまずいている彼らの二、三歩先ですでに答えが出てしまっていることだった。
意地が悪いというか、なんというか。
やっぱり少し違和感を覚える。どこがどうの、と具体的には言えないけれど。
考えすぎだなと思って、灰谷は軽く息を吐き出した。
今朝は夢見が悪くて、どことなく身体が重たい。
机に突っ伏したいのはこっちのほうだ、と隣の頭を見やると、教室の入り口のところで途方に暮れている男子生徒が目に入った。普段からやや気の弱いところがある山下だった。
「……赤井、授業始まるぞ」
肩を強めに揺する。
かたくなに机にくっついていた赤井を半ば強制的に引き離して、立たせた。
その、いつもは完璧な身だしなみの中に、少しの乱れを見つけた。
今にも落ちてしまいそうな、眠たそうなまぶたと、
「お前、おでこのとこ、赤くなってる」
「あー……」
額に、小さな赤い痣ができている。
すぐに消えそうで、なかなか消えない。ちょうど真ん中にあるのでやけに目立っていた。
指摘されて思い出したように、赤井の指がそっと、その上をなでた。
灰谷は、確かあったはず、と上着のポケットの底を探ってバンソーコを引っ張り出した。
貼ったら、余計に目立つかもしれないと思ったが、いちおう。
差し出すと、赤井は少し迷ってから一枚を手の中に収めた。
「……灰谷、ごめんね?」
オレに謝ってどうすんだよ。
やっと空いた自分の席に、いまだそばに立ったまま動かない赤井にびくびくとしながらも着席した山下を確認しながら思う。
「いいよ、別に」
赤井の目が丸くなった。
そういえば、珍しく今朝は眼鏡をしていない。
素顔の赤井はいつもよりも何倍か可愛らしいというか、年相応の幼さに見えた。
「……いいの?」
しつこく確認を重ねるので、灰谷は不思議に思いながら、いいよ、と重ねて答えた。
やっぱりどこかが微妙に違うような。
頭でも打ったんだろうか、と痣の心配をした隙をつかれて、灰谷はぎゅうっと抱き締められた。
背後で、山下のひっという悲鳴が聞こえ、クラスの朝の爽やかな空気が一瞬で凍りつくのがわかった。
「……おい」
「わかってる。ほんとに二人とも大概、いい人だよね」
わざわざ耳元で囁く周到さは、彼本来のものだった。
人の心配をよそに、勝手に元に戻っている。
何事もなかったように灰谷を解放して、自分の席に戻っていく様子を見送りながら、やれやれ、ともう一度ため息をついた。
体調が優れない分だけ、視界がぼやけ始めていた。よくない兆候だ。
その中に、たぶん赤井の言うもう一人の、いい人候補を見つけた。
幸いにも、彼女の目は窓の外、雲の白い行程を追いかけていて、合うことはなかった。
始業のチャイムが鳴り、担任が入ってくる。
教卓を囲んでいたクラスメイトが散っていくのを見ながら、灰谷はしみじみとここが特等席であることを思った。
少なくとも、彼女よりも前の席でよかった。
とても厄介なことに、別れを決めて、距離を置いてからのほうが、たまに視界に入ってくる彼女を追い出すことが難しくなっていたから。
(いい人、ね)
正直に、その評価を受け止められるほどの自信はもうないけれど。
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