+体温+
38 隠し事はバンソーコの下に。
今日の天気、の欄に迷わず晴れを選ぶ。前ページの今までの人の例にならって、お日様のマークを描き入れた。
まだ5時を回ってないはずなのに、空はもう暗がりを広げ始めて、昼間の青さを忘れてしまっていた。
明日からはくずれるみたいだよ。雪降るかもだって。
赤井の天気予報を思い出して、ふとまだ窓の戸締りを確認していなかったのを思い出した。
前から順番に施錠を確認していく。
わずかに息がかかっただけで、ガラスが白く染まった。外は相当冷えているようだ。
理実はふっと余分に息を吹きかけた。
白くくもった中に、今日のお日様のマークと、明日の雪だるまのマークを描く。
「遅い、なー……」
一緒に日直当番になった山下が、職員室に担任を探しに出かけてから15分ほどが経った。
今日の欠席者の理由をお互いに聞き漏らしていたので、確認しに行ってくれているはずなのだけれど。
自分も探しにいこうかと考え、入れ違いになったら困るなと理実は放課後の教室で一人、静かな葛藤を繰り広げていた。
がらっと後ろのドアが開いた。
山下だろうか、と振り返った理実の目に映ったのは、予定外の人物だった。
「……柳原、まだ残ってたんだ」
「あ、うん、日直で」
予定外なのはお互いさまだった。理由を聞いて納得したように、灰谷は自分の席へと向かった。
理実の視線が外れないのに気がついて、机の横から手提げを持ち上げて見せる。
「オレは弁当箱、持って帰るの忘れてさ」
偶然二人きりになってしまった言い訳を探していた、お互いに。
単なるクラスメイトなら、ありえる状況のはずだ。そんなに焦らなくてもいいはず。
そう言い聞かせても、心臓は正直に反応した。
「明日、雪?」
いつのまにかそばまで灰谷が来て、窓ガラスの下手くそな雪だるまを見ていた。
理実は慌てて、ごしごしとガラスの落書きを塗りつぶした。
「いちおう、雪みたい。赤井くんの予報だと」
「赤井予報? それは当てになるようなならないような」
灰谷が笑ったのにつられて、ふわっと周りの空気が軽くなったような気がした。
理実はほっと肩から力を抜いた。
「今日の日直、柳原一人? 相方は?」
「山下くん、なんだけど。今、ちょっと職員室に行ってて」
へえ、と灰谷は言いながら、理実の前の席に横向きに腰掛けた。
どうして座るんだろう、と不思議に思ってもなんとなく口に出せない。
また余計な心配をかけてしまっているような気がした。
灰谷の横顔は何かを急かすようなことはなかったので、理実は目下の日誌に意識を集中することにした。
今日の授業内容を、一時間目から順番に書き記してある。
そういえば、まだ五時間目の授業だけ、半分空欄になったままだった。
「今日、男子って体育の時間、何やった?」
山下が帰ってきてから聞こうと思っていたことを、代わりに灰谷に尋ねた。
体育の授業は、男女別々で行われる。
クラスでたった一人の女子である理実は、女子の人数が多い文系の選抜クラスに混じって授業を受けている。ちなみに、今日は体育館でバスケをした。
灰谷は少し前の記憶をたどるようにした。
「柔道、だな。乱取り稽古」
言われたままを書き込む。
柔道とか、女子にはない種目なので、ちょっと想像がつかない。
もう少し詳しく聞いてみようと理実が顔を上げると、なぜか灰谷の視線は理実の肩のあたりに。
「……柳原のここ、赤くなってるよ」
とんとん、と灰谷は指で自分の首と肩の間のあたりを示した。
ここ、と、指されたあたりを理実は押さえた。けれど特別な違和感はなく。
首を傾げながら、冷えた指先で原因を探るうちに、途端に思い当たった。
少しの痛みと、少しの熱と。
ばっと首まで真紅に染め上がったのを見て、今度は灰谷が首を傾げる。
「あの、これは、その」
なんて説明すればいいんだろう。
よく考えてみると説明する必要はどこにもなかったんだけれど、理実は必死に言い訳を探した。
その慌てぶりは何よりも雄弁で、あ、と思い当たったように、灰谷がわずかに理実の顔の赤さを伝染させた。
なんともいえない居心地の悪さを一緒になって、味わう。
「……体育のときってさ」
いきなり何を言い出すんだろう、と思いながら、理実は灰谷を見た。
横顔は言いづらそうに、理実から視線をそらした。
「柔道の乱取りの相手、自由選択なんだけど、今日は妙に申し込みが多くて変だなと思ったんだ」
灰谷の指がまた、自分の首と肩の間のあたりを示す。
「それ、オレのせいにされたんだな、たぶん」
付き合い始めと違って、終わりは大っぴらに宣言する必要はなくて。
まだ、理実と灰谷との仮の関係が終わったことを知っている人は少ない。
つまり、理実はまだ灰谷の存在に助けてもらっているというわけで。つまり、
「ご、ごめんなさい!」
やっと、理解した。
このアトが、どういう意味を持ってしまうのかということを。
思いもしなかった自分を恥じて、また迷惑をかけてしまった事実に胸が痛む。
灰谷はいつもどおり、いやいいんだけど、と簡単に許して、それからふとまた何かに思い当たったように呟いた。
「……もしかして、赤井?」
理実は頂点に達する気恥ずかしさを押し込んで、一つ頷いた。
さすがに灰谷の顔をまともに見ることはできなくて、空気が二人分の沈黙を吸い込んでだんだん重くなってくのを感じた。
今朝から会った何人もの顔が浮かぶ。
理実はアトの残っているあたりをぎゅうっと強く押さえつけて、恥ずかしくていっそ死んでしまいたいと思った。
でも無理なので、これから家に帰るまでの道程を思うと、絶望しそうになる。
視界のすみでごそごそと灰谷が動いた。
ポケットから取り出されたバンソーコが一枚、机の上に置かれる。
「貼ると余計目立つかもしれないけど、いちおう。……いる?」
理実はどうにか一つ、頷く。
それを見て、灰谷の手がぺりっと器用にバンソーコの外紙をはがした。
ありがとう、と受け取ろうとした理実の手をちらりと確認して、灰谷が一瞬黙り込む。そして、無視をした。
「貼ってやるよ。自分じゃどこだかよくわかんないだろ」
え、と声にもできないまま。
固まった理実の、首と肩の間のあたりに、新しい熱が触れた。びくっと身体が勝手に反応した。
制服の襟に指が掛けられて、少しだけ外側に開かれる。
冷えたバンソーコが皮膚に貼りついて、その周りを押さえるようにわずかに力がかかる。
理実が瞬きを忘れたほんの数秒間。
「……はい、できた」
理実はバンソーコを自分で触って確かめてから、ありがとう、となんとかお礼を声にした。
どういたしまして、と答えた灰谷の横顔はどこか、うまく言えないけれど、厳しくて。
なんとなく、また余計な心配をかけてしまっているような気がした。
バンソーコの下にすべての意識が集中してしまって、遅れて教室にやってきた山下にも余計な心配をかけてしまった。
もう灰谷は帰ったあとだったので、山下は不思議そうに尋ねた。
「柳原さん? ……大丈夫?」
大丈夫じゃなかった。死んでしまいそうだった。
でも無理なので、結局は山下に見送られながら、学校を出た。
外の冷えた空気に触れて、ぶるっと足元から寒気が走る。
理実はもともと平均体温が高めなので、夏よりは冬のほうが好きだった。
ただ吐き出す息まで白く凍りついてしまうような寒さは、さすがにつらい。
忘れようとしても、すぐに思い出してしまうから。
そっと、首と肩の間のあたりに当てられたバンソーコの存在を確かめる。
触れた指はびっくりするくらい熱かった。
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