+晴音・バレンタインデー企画・拍手御礼小話+



   左手は君に。  

 目に見えないものだって、嬉しいけれど。
 やっぱり形あるものをもらうと、改めて実感することもある。
 シンプルな包み紙に添えられたメッセージカードを手にして、灰谷は肩をすくめた。
(……いや、甘いもの好きだけど)
 良し悪しの二択で考えるなら、よし、とすべきなんじゃないかと思う。
 でも、去年よりも確実に増えた包みを個と数えるのには抵抗があるように。
 明らかに、どこかの誰かさんと一緒にいることが増えたことに原因があるような。
 その根源をこっそり探ると、よく漫画なんかで見る光景が広がっているものだと思い込んでいた自分に気づいた。
 あれ。
 灰谷は、目をぱちぱちとした。
 2月14日。チョコレート解禁祭りは、彼が会長に就任した功績でもあり。
 校内に溢れる甘いにおいの大半は、去年の統計によるとかなりの割合で彼の手の中に。
 けれど、前方から廊下を悠々と歩いてくる男子生徒の手は空っぽで。
 灰谷と同じように、その光景を見た生徒はあれというふうに首をかしげる。
 それは、ちょっとした違和感から。

 廊下で立ち止まった友人を見つけて、赤井は破顔一笑した。
 冬の突き抜けるような青空のように、実に爽やかに。
 良し悪しも、視線の意味を知りつくしているやつだった。
 ああ、と頷いて、小さな疑問に答えを与える。
「今ね、クロネコさんに預けてきた」
「……は?」
「食べ物だしデリケートだから、丁重に届けてもらえるようにお願いしといた」
 灰谷は瞬きを増やして、呆れた。
 ここまで合理的に判断されてしまうとなんというか、いいのか悪いのか。

「だって、しょうがないじゃないか」
 赤井はまるで歌舞伎役者がするように、ば、ば、と灰谷の目の前に両手を広げてみせた。長い生命線がくっきりと浮かんでいるのが見える。
「俺には、あいにくと右手と左手しかなくてね」

 両方をふさがれたら、いざというときに不自由なこともある。
 灰谷くんだって、そうでしょ?
 反論しようとした気持ちは、舌の上に苦く染みた。

(……確かにまあ、そう、なのか?)





「なんだか、甘いにおいがする」
 すっかりここの常連となった灰谷を、柳原はそんなふうに迎えた。
 移り香でもしただろうか、制服の袖のあたりにくんくんと鼻をきかせると、ふわりと笑われた。
 灰谷は紙袋を持ち上げて、苦笑いを作る。
「よかったら、一緒にどうかなと思って」
「え。でも、灰谷くんがもらったんだし」
 ダメだよ、と眉を寄せる。柳原はいつだって正しい。
 正しくて少し、悔しい。

 世間一般のチョコレートの成分比率はどうか知らないけれど。
 ただ、ここにあるチョコレートの半分以上は優しさでできているらしい。だから、
「たぶん、大丈夫だと思うんだけど」
 ぼそりという呟きに、柳原は不思議そうな顔をする。
 なんと言えば伝えられるだろうか。灰谷も困って、頭をかいた。
 右手に提げた紙袋の中、チョコレートに添えられたメッセージを。
 よかったら、彼女と一緒に。
 ほとんどがそう、付け加えてくれていて。

 嬉しいことも煩わしいことも、同じくらいたくさんある。
 だから、そのために片手くらいは犠牲にしないと割に合わないと思う。
 器用でも有能でもない自分のことは一番よくわかっているつもりだ。

(せっかくのチョコレートなんだから、もらわないとダメだよ)
 どうやって断ったらいいのか、人生ではじめての経験に戸惑っていた灰谷に、そう、朝一番で言ってのけたのは彼女で。
 いつだって正しくて、完敗で。
 だから、おとなしく右手は諦めることにした。でも。
 つん、と灰谷は空いているほうの手を伸ばして、細い手首に余る袖をつまんだ。

「……柳原のは?」
「え?」
「くれないの?」

 あ、と言い当てられたように。
 慌てて柳原は、カバンの中から、シンプルな包み紙を取り出した。
 まるで賞状授与、のような渡し方に、灰谷はひそかに笑う。
「よかったら、どうぞ」
 灰谷は空いたほうの手を出して、ありがとう、と厳かに受け取った。
 図書室は飲食禁止だ。
 それを恨めしく思いながら、勝手にゆるむ頬をひきしめる。
 情けない顔になっているだろうな、と思う。
 相手の気持ちは外から見えないもので、自分の気持ちは内から見えるもので。
 いいのかな、募った不安を晴らすのはささいなことの積み重ねだ。
 灰谷は、包みを開いて、中からひとかけらをつまんだ。
 図書委員が注意する間もなく、舌の上に甘さが溶ける。

「……おいしい」
 灰谷がこぼすと、ほっとしたように、薄く染まった頬がゆるんだ。

 

「―― あとで、みんなにもあげていいかな?」
 右手に提げられた、口までいっぱいに詰まった大きな紙袋は、柳原の律儀さの証拠だった。
 もしかして、クラス全員分、だろうか。
 灰谷は妬みを通り越して、ちょっと尊敬した。女子って大変だ。
 それに比べれば、寛大な彼氏のフリぐらいは簡単なことのように思えた。
 けれど、灰谷はわざと天秤にかけてみた。
 形のある気持ちをもらったことに、少し勇気をもらって。

「いいよ。その代わり ――」
 つい、と灰谷は、今度は強めに袖を引っぱった。
 ふわりとにおいが舞う。移り香だろうか。甘い、自分の好きなにおいだった。
 小さく震えた、まだぎこちない感触をいとおしく思いながら、耳に唇を寄せた。

 左手はオレに残しておいてね。




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