「男のコって本当に戦争ゴッコが好きなんだから…」
…こう語ったのは、加藤登紀子女史。宮崎駿監督『紅の豚』で、ヒロイン(?)のジーナ役を演じるに際してのお言葉だそうです。
このお登紀さんの言葉は、宮崎監督のツボを突いたらしく、各メディアで紹介するときの語調が、「そうそう」というカンジで妙に嬉しげだったように記憶しています。うろ覚えではありますが、「僕は戦争はキライだけど戦争ゴッコは好きなんだ」なんて発言もあったような…。
「戦争ゴッコ」と「戦争」の違いってなんだと思います? 「答え」というか「定義づけ」は幾つもあるでしょうが、わたしの思いついた解答例はこれ。
“女子供”を排除しているかどうか。
「排除している」方が「戦争ゴッコ」。
「逆」だと思います? でも、「戦争ゴッコ」=「楽しいもの」、「戦争」=「悲惨なもの」と言う前提条件を与えると、こうなるんですよ。
「男のコ」だけでやっている分には、どんなに「厳しい(ハード)な」局面になっても、その「厳しさ(ハードさ)」を含めて、やっぱり「楽しいこと」じゃないかしら…って気がしちゃうんですよね(^^;)。
「男のコ」っていうのは「子供」じゃないかって? ええ、でも「当の男のコ達」は、自分たちのいる「(戦争ゴッコの)戦場」を、「男の世界」と呼び、「女子供は入ってくるなよ」って言っているように見えちゃうんですね。
「真剣勝負」だとか、「意地・プライド」だとか、或いは「男の友情」だとか……そういった、いわゆる「男のロマン」なんてものが成立するのは、「戦争ゴッコ」だからこそ、だとわたしは思います。
なんだかんだ言って、それを「楽しんでいる」「好きでやっている」のであれば。
そして人間って奇妙なことに、ホンモノの「戦争」の最中にも(或いは「最中だからこそ」)、「戦争ゴッコ」をしちゃうんじゃないかな…なんて、わたしは思うんですけど、それについてはまた後ほど詳しく述べるとして……
さて、話を『ボトムズ』に戻しますと……まず「戦争」というのが大きな背景としてありますが、それと同時に、「戦争ゴッコ」の側面も極めて強いことに気づかされます。「バトリング」なんて、まさにそのものですよね。
あれはあれで「ハード」で「リアル」な「男の世界」……なんでしょうね。
たとえていうなら、競輪場とか、競艇場とか。すっかりオシャレで明るいムードになってしまった(らしい)昨今の競馬場に比べると、柄の悪そうなオッサンが大勢うろついていそうで、女性には未だ敷居が高そうな世界。
#実際に覗いたことがあるわけではないので、実状にそぐわなかったらゴメンナサイ、ですが。
猥雑で胡散臭いけど「男のロマン」の感じられる世界……っていうと、後は、「雀荘」とか、「本場(南米や欧州)のサッカースタジアム」とかもそんなかんじでしょうか(生憎どちらも未経験ですが(^^;;))。要するに「ギャンブル場」。「きったはった」の鉄火場で、時には血も見る、死人も出る。確かにある意味では、そこも「戦場」と呼べるのでしょう。
だけど……キリコが言うように、「所詮あそびだ」(=戦争ゴッコ)と言うのも一面の真実です。
キリコが生きてきたのは、ホンモノの「戦争」。これはもう、“女子供”も容赦なく巻き込み、「男のロマン」もヘッタクレもない、ただただ「悲惨なもの」です。
『ボトムズ』の初期の構想が、「戦争帰りの心を病んだ若者が、バトリングで各地の街を回る旅の中で、心のリハビリと社会復帰を果たす物語」……だった、というのは有名な話ですが、してみると、こういう定義もできるかもしれませんね。
人間性を否定し、人の心に傷を負わせるのが「戦争」。
人間性の発露であり、人の心を育むのが「戦争ゴッコ」。
ええ、「戦争“ゴッコ”」と言っても、けっして馬鹿にしたわけではなく、むしろ「人間にとって必要不可欠なもの」なんじゃないかしら? 「意地・プライド」「友情」……そんな、人間が人間であるために必要な「尊厳」とでもいうべきものを育むために。
だけどキリコは、その「戦争ゴッコ」の中には入って行けなかった。件の控え室のシーン、「所詮あそびだ」のセリフの直前には、「もう戦争は終わったんだ」なんて言ってますが、彼自身は「戦争」から抜けられてない。
そんなキリコが「可哀相なヤツ」だってことが、視聴者に解るのは、実はず〜〜っと後のことだと、わたしは思うのです。
この時、スタジアム控え室のシーンでは、むしろ「かっこいいヤツ」に見えませんでしたか?
ムサい男達が真剣に、命を的に稼いでいる鉄火場を、「所詮は遊び」とクールに言い放つキリコは、たとえて言うなら、「1Aのチームのベンチにふらっと現れたメジャーリーグのエース」。
観る側は、「こいつはもっとビッグなステージ、ハードな修羅場を経験しているんだ」って思っちゃいません?
でも違うの。キリコが頭の先までどっぷり浸かっている「戦場」は、「晴れ舞台」なんかではなく、「地獄」。「これだけの修羅場をくぐってきた」という「誇り」になんて到底ならない、ただただ「忌まわしい」だけのシロモノ。
4話「バトリング」からちょっと先へ飛んで、10話「レッド・ショルダー」でも、キリコは言っていますね。「レッドショルダーだった痛みはこいつらにはわかるまい」。
ここでうんうんと肯く視聴者も、実はわかってないんですよ。このキリコを「カッコイイ」って思っているウチは!
キリコの「痛み」「傷」を、視聴者にも「忌まわしい」と実感できるように突きつけるのは「何者」かと言うと……もう、お分かりですね。フィアナであり、ゾフィーであり、即ち“女子供”なのです。
否応なしに「戦争」に巻き込まれ、傷つき、大切なものを奪われた者達が、「奪った者」であるキリコを、責め、詰る。その過程が、観る者には、キリコもまた「戦争」によって「奪われた者」であることを見せつける。
RSの映像を前にしたキリコを見つめるフィアナの瞳に、サンサでキリコを罵るゾフィーの言葉に、ズッシリと胃が重くなったり、心臓がキリキリと痛くなったりはしませんでしたか?
「それ」こそが、キリコの言う「レッドショルダーだった痛み」(のごく一部)ではないでしょうか?
「ハードでリアル」な「戦争ゴッコ」には、「女子供」は不要……かもしれません。だけど、ホンモノの「戦争」の「ハードさ」「リアルさ」を観る者に伝えるには、“女子供”の存在が不可欠……だとわたしは考えるのです。
『ボトムズ』は「戦争もの」であると同時に「戦争ゴッコもの」である。
どちらも、TVアニメ史上稀にみるほど、「ハード」で「リアル」であるが
「戦争もの」としての「ハード」「リアル」を観る者に伝える役を担うのは
……他でもない「フィアナ」である。
フィアナフリークの牽強付会(「こじつけ」と読んで下さい)だと思います?
ま、否定はしませんけどね(苦笑)、一面の真実は突いていると思うんだけどな。
最後になりますが、先に予告した「人間はホンモノの『戦争』の最中にも『戦争ゴッコ』をするのかもしれない」という件について。
これまでにお話しした「戦争」と「戦争ゴッコ」の定義づけから、もう既にお分かりいただけるかと思いますが……。
たとえば、「戦記物」の中でも、「エースパイロット同士の一騎打ち」みたいな「英雄譚」的な逸話ってありますよね? 「サイレンの魔女」みたいな「僚友のために我が身を犠牲にして……」なんてのもあるかな。「非人間的状況」の極致である「戦争」の中で、嵐の中のロウソクの灯のように儚く灯る「人間の尊厳」にのっとった行動。
そういったものが、「『戦争』の最中の『戦争ゴッコ』」だと思うのです。
それを言ってしまえば、大半のロボットアニメに描かれているものは「戦争」ではなく、「戦争ゴッコ」で、『ボトムズ』のように、ホンモノの「戦争」を扱った作品の方が、実は少数派なのかもしれませんが……。
そして、「バトリング」という「戦争ゴッコ」にはハマれなかった我らがキリコちゃんにも、実は「戦争ゴッコ」をする機会があったということにお気づきでしょうか?
ええ、クメン編の大詰め、イプシロンとの決闘です。
あれは、最後までやらせてあげたかったなぁ…。キリコだけでなく、フィアナのためにも絶対その方がよかったと思う。あの場で男二人が納得ゆくまで勝負ができたら、その後のキリコの内面とか、フィアナに対する接し方、ひいてはふたりの関係なんかも、また違ってきたような気がするのです。
とは言え、男の気持ちも、コトの是非も考えず、その場の感情で発作的に「男の勝負」を邪魔しちゃうフィアナだからこそ、わたしはいっそう愛しいんだけど(^^;;)。
あの場の悲劇は、キリコとイプシロンとフィアナと、それぞれが、どうしようもなくそれぞれであったが故の悲劇、であると同時に、
「戦争ゴッコ」の形にできれば、ハッピーエンドになれたかもしれないのに、
実際にそうなりかけたのに、結局「戦争」に流されてしまった悲劇
……とも言えるんじゃないかと。
そしてその両者を分ける鍵を握っていたのは……やはり、フィアナ(女)。
1999.10.20
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