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アストラギウスの宗教事情? または「ヒーローの条件」

「神なら……死んだはずだ」
 5話で、幻覚剤を打たれて尋問されたキリコが答えたセリフ。『野望』のラストの口パク「たとえ神にだって……俺はしたがわない」(小説『ザ・ファーストレッドショルダー』より)と並んで、キリコの「かっこよさ」の真骨頂として、なかなか評判のいい(らしい?)セリフみたいですね。
 でも、これって冷静になると、そんなに「かっこいい」セリフかどうか、ちょっと疑問がありますね。と言うか、このセリフを「かっこいい」と評価づける為には、それなりの前提条件が必要なんじゃないか……と。
 キリコが、「何も信じない」人間であるということ、およそ社会で「権威」と呼ばれるようなものに対してまったく価値を置かない人間である、ということについては異論はありません。ただ、「それだけ」をもってして、彼を“反骨・反権威・反体制のヒーロー”と呼べるのか?…ということについては、わたしは非常に疑問を抱いています。……まぁ、そちらについてはおいおいお話しするとして(^^;)。
 ここではとりあえず、キリコちゃんからは「死んだはずだ」と言われちゃった、アストラギウスの「神」について。

 「無神論」というのが、その人の「主義主張」ないしは「スタイル」として通用するためには、元々「神」が確固として人々の意識の中に存在する社会でなくては、ダメなんじゃないかしら? 哲学・思想系の話題には、ほとんど知識がないんで、ツッコミ入れられると困っちゃうんですけど、ニーチェの例の言葉は、そもそも、「キリスト教的倫理観」が支配的な西欧社会という前提があってこそ……という印象があるモノで。*1
 言葉を換えれば、「絶対的なカミサマ」観に乏しい現代日本のような社会からは、ニーチェは出ないんじゃないかなぁ……と。「神は死んだ」なんて言われても、「あ、そう?」位で終わっちゃいません? 「そんな意固地になって否定しなくても……」とか思いつつ、「まぁ、あんたがそう言うんなら、それでいいんじゃない?」程度。(そう思うのはわたしだけ?)

 で、話を『ボトムズ』に戻すと、「神を信じない人間には、幻覚剤での誘導尋問は効かない」ってことは、裏を返せば、あの世界の(大多数の)方々には「絶対的なカミサマ」観があるのでしょうか? 
 後に出てくる「ワイズマン」は、少なくとも、表だっての認知や信仰はされていなかったようですが……。更に後に出てくる「マーティアル」も、「宗教団体」ではあるけれど、「カミサマ」というか《絶対者》を崇めているようには見えなかったなぁ……。たとえば、マーティアルの信者が同じようにクスリを使って尋問されたら、信者の彼ないし彼女は、いったい「何」に向かって答えるのでしょうか?
 「武の精神」? それは《絶対者》ではなく「教義」では? 「武の精神に“則って”答えよ!」と迫ることはできても、「武の精神に“対して”答えよ!」とは言えませんよね?
 そしてマーティアルは組織的にはカトリック……法王庁*2に似たものがあるようですが、ならばカトリックにおける「法王」が「神の代理人」であるように、マーティアルの「法皇(あ、カトリックとは字が違う*3)」は「何か」の「代理人」なのでしょうか? その「何か」とは?
 ボローやキリィは、マーティアルからは「異端の教えを崇めた」とされたわけだけれど……。それはつまり、マーティアルから見て、キリィ達の「カミサマ」である「ワイズマン」が「ニセモノのカミサマ」であり、キリィ達は「偶像崇拝」の罪を犯した……ということになるのかしら?
 じゃ、マーティアルにとって「ホンモノのカミサマ」って?
 また、宗教では「タブー(罪)に対する恐怖(罰)」みたいなものが、「カミサマへの信仰」にもまして、信者に対して力を及ぼすことが多々ありますよね? 具体的に言うと「地獄」の概念。
 「教義に外れたことをすると、地獄に堕ちるぞ」ってヤツ。マーティアルの教義には「地獄」はあるのでしょうか? 或いは、一般的なアストラギウスの人々の意識の中には?

 ……実はわたしの思索は、ここで行き詰まっています(^^;;)。これ以上考えるには、まず現実の宗教に関する知識が、わたしは乏しすぎて(^^;;;)。また『赫奕』を「マーティアル」に注目しながらじっくり見直す必要もありますしすね。
 というわけで、この小文は疑問を投げかけるだけで終わってしまいますが、お許しください。
 ただ、わたしがこの疑問を通して考えたいのは、けっして「マーティアルとは何ぞや?」あるいは、「(アストラギウス及びわたしたちの世界に於ける)神とは何ぞや?」などではないです。
 もっとも、「マーティアル」に関しては、前述の疑問に対する答えとなるような描写があると、『赫奕』で新たに登場した主要キャラである「テイタニア」の内面を理解する材料が増えて、わたしとしては嬉しいのですが……。
 たとえば、彼女は小さい頃からマーティアルの信者だったのか? じゃ、毎週礼拝に通ったり、お食事の前にお祈りしたりしてたのか?(そもそもそういう風習がマーティアルにあるとして、ですが……) 或いは、イタズラをして叱られた時に、何か「マーティアルの教義」に基づいたお説教をされたりしたのか?……なんてことが明らかになると、グッと彼女のキャラクターの厚みが増すと思うのですが。

 だいぶハナシが逸れましたが(^^;;)、改めて、わたしが追求したいテーマを言えば、これは単純。
 「キリコとは何ぞや?」ただそれだけ、です。

 『赫奕』以来、キリコに対してある種のヒーロー像を託して語られることに、わたしはアレルギーと言えるどの非常な違和感を感じています。その「ある種のヒーロー像」のひとつ、“反骨・反権威・反体制のヒーロー”それ自体は、それなりに「魅力的」だということは認めます。ただ、キリコが本当に「それ」であるのか? については、(繰り返しますが)わたしは疑問を感じています。
 なぜなら、キリコに対してそれを期待する層は、ほぼもれなく「フィアナ不要論者」と同一であるように感じるから。
 「たかが女一人」の存在で揺らいでしまうような「ヒーロー像」って、どこかに「ウソ」がある気がするんですよね。これはもう、わたしの非常に感覚的なもので、再三説明を試みてはいるものの、未だに上手く説明できなくて、歯がゆいのですが、ここでまた、性懲りもなく挑戦してみます(^^;)。

 「何故フィアナの存在によって、キリコの“反骨・反権威・反体制のヒーロー”像が揺らいでしまうのか?」に対しては、「実はキリコは、“反権威のヒーロー”などではないからだ」……というミもフタも答えになってしまうのですが、それだけではあんまりですので(^^;)、ここでちょっと視点を変えてみます。
 「“反権威のヒーロー”とは何か? その条件とは?」この前提から考えてみましょうか。
 まず第一には、その人間が「既存の権威を信じない」こと。これは、キリコちゃんもクリアしています。ですが、「それだけ」で「十分」と言えるでしょうか? わたしは、そうは思いません。
 “反権威”であるためには、「既存の権威を信じない」だけで十分でしょうが、“ヒーロー”であるためには、別の条件が必要であるように思うのです。それは何か?
 非常にありきたりな答えのようですが……「ただ己のみを恃みとし、己のみを信じる」ではないでしょうか? そしてキリコは、「“反権威”の条件」を満たしてはいるけれど、「“ヒーロー”の条件」については(ウド〜『赫奕』まで程度差はあれ)「未だに自覚が足りない」……ようにわたしは見ています。
 そういう意味では、「本当に何も信じない(ニヒリズム?)」人間、と言うこともできるのかもしれませんが……わたしには、キリコがそんなご大層なものとも思えない。
 わたしの目に映るキリコは、「自分すら信じていない」というよりも、「信じる信じないといった次元で、“自分”を客観視して見たことがない」……要するに「お子ちゃま」な気がしちゃって(^^;;)。
 断っておきますが、わたしはけっしてキリコを「貶める」意図の元に、「キリコ=“反骨・反権威・反体制のヒーロー”」観に疑問を呈しているわけではないです。そんなものでなくったって、たとえ「自覚の足りないお子ちゃま」だったとしても、だからこそキリコはいっそう「魅力的」ですし、「今後の成長の見込み」だって充分あると期待していますから(^-^)。

1999.10.29


*1:阪神ファンが巨人をやたらと貶したがるのは、なんだんだ言っても「巨人=“球界の盟主”(コレも胡散臭い表現だ)」という「前提」を認めちゃってるから……みたいなもの(^^;)?

*2:わたしの乏しい知識によるイメージは、ルネサンス期、政治的にも強大な力を有していた頃のそれです。もっと言うと、塩野七生の「神の代理人」他に登場するアレッサンドロ6世(チェーザレ・ボルジアの父親)。

*3:「法王」の表記は、塩野七生著『ルネサンスの女たち』『チェーザレ・ボルジア或いは優雅なる冷酷』より。
また、山川出版社「新版 世界史用語集」(1985年発行の第3版…ふっる〜(^^;)!)に依れば、「法王」を「教皇」の俗称として記述しています。
マーティアルの「法皇」の表記は、LDボックス「コンプリートIV」付録ブックレット各話解説より。


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