李基允氏と?相度氏の「墓石」と追悼碑


 
 1.二人の「墓石」について


 熊野灘からの潮風が容赦なく吹き付ける無縁墓地に無縁仏となった無数の墓石が積み上げられ、その中に李基允(イギユン)氏と?相度(ペサンド)氏の「墓石」はひっそりと、そして離ればなれに置かれていた。その「墓石」には、二人の日本人式の姓「春山」、「秋山」から文字をとって,「春雪信士」、「秋相信士」という四文字の戒名が彫られ、横面には「明治三十五年 月生 鮮人 春山清吉」、「明治三十年二月生 鮮人 秋山正吉」と刻まれていた。
私が初めてこの「墓石」を見たのは、一九八九年一月だったが、その時は「墓石」に刻まれていた「鮮人」という文字を目の当たりにしてもこれがただ単にその当時の朝鮮人差別を印す歴史的な資料にすぎないものだとしか感じなかったような気がする。それは「春雪信士」、「秋相信士」という四文字の戒名も日本人のものであれば六文字であるのにわざわざ格を落として(差別して)、四文字にしてあるのだという話を聞いた時も同じだったように思う。
 しかし、今、二人の「墓石」について考える時、ただ単にそれは過去の日本人の朝鮮人に対する差別を残す歴史的資料だけではないように思う。
それではなぜ、李基允氏と?相度氏の「墓石」がそこにあるのかについて述べていくことにする。

2.「木本事件」とは


三重県木本町(現熊野市)の木本トンネル工事のために、もっとも多い時で二〇〇人の朝鮮人が働きに来ていた。工事が終わりに近づいた一九二六年一月二日、朝鮮人労働者の一人が、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられ、翌一月三日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本の住民が労働者の飯場を襲い、飯場を打ち壊し、家財道具を破壊したのである。それに反撃しようとして立ち向かった李基允氏が消防手らに包囲され鳶口を頭につきたてられて殺された。その後、木本在郷軍人分会員が日本刀や銃剣を持ち、山に逃げた朝鮮人労働者に対して襲撃を行った。武器を持ってせまってくる在郷軍人らに対し、朝鮮人労働者はダイナマイトで反撃していた。その頃、木本町内にいた?相度氏は、いったん木本警察署に寄り、同胞の所に向かおうとしたのであるが、途中で在郷軍人や消防手の集団に包囲され殺害されたのです。二人を虐殺した在郷軍人や消防手は木本警察署長の要請を受けて木本町長が召集したものであった。
 その時から三日間、木本町や近隣の村々の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民は、竹槍、鳶口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人を追跡し、捕らえ、さらには木本町の全ての朝鮮人を町から追い出したのである。
 信じ難いことであるが、二人の遺体は極楽寺の墓地に放置され、遺体には鳥が舞おりていたという。木本町の住民たちは、二人の遺体までも粗末に扱ったのです。
 「木本事件」は一九二三年九月におこった関東大震災時の朝鮮人大虐殺と全く同質なものであった。二人が殺されてから四カ月後、二人の雇い主であった田中孫右衛門が極楽寺の墓地に二人の「墓石」を建てたのである。

3.追悼碑建立の取り組みについて


私たち「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・?相度)の追悼碑を建立する会」は、一九八八年九月から二人の追悼碑建立のために活動を始め、一九九四年十一月にようやく追悼碑を建立することができた。この六年間の活動の中で多くのことを私たちは学んできたと思う。
 この運動が始まった頃、追悼碑建立の呼びかけを他の人たちにした時に、「そんな昔のことを今やってもどうしようもないのではないか」とか、「今、起こっている問題に取り組んだほうがいいのではないか」などということをよく言われた。しかし、本当に「昔のこと」で、「現在取り組むべき問題ではない」のだろうか。 

 私たちが追悼碑建立の運動を熊野市で進めていく中で、地元熊野市(旧木本町)には「木本事件」に直接かかわった人たちとその家族がまだ多く生活していることから、追悼碑に対する反発や拒絶は非常に根強いものがあった。また、二人を虐殺したことに対して反省や謝罪をするどころか、自分たちのしたことを「愛町心の発露」などとして正当化する人たちまでいる。事実、二人の虐殺に最も責任のある熊野市は、韓国釜山におられる?相度氏のご遺族である?敬洪(ペギョンホン)氏にいまだに一言の謝罪も行っていない。このこと一つをとっても、「木本事件」は過去のことではなく、まさに「今、取り組まなければならない問題」なのである。
  二人の追悼碑に反発したり、これを受け入れることのできない熊野市民の感情は、何かことあるごとに日本全国で吹き出してくる日本人の朝鮮人に対する差別感情や外国人労働者に対する排外意識を凝縮したものなのである。
そのような中で建立された李基允氏と?相度氏の追悼碑は、熊野市においても、日本においてもとても大きな意味を持つものだと思う。熊野市や「木本事件」を正当化しようとしている人々は、もはや事実をねじ曲げ、ごまかすことができないはずだ。それは「木本事件」がなぜおきたのか、住民が二人をどのように殺したのかという事実を熊野市民に明らかにするものが、自分たちの目の前に突きつけられたからである。
 活動の当初、私たちはこの追悼碑を熊野市とともに建立することを目標として運動を進めてきました。「木本事件」に最も責任のある行政と熊野市民がこの事件の歴史的意味を自ら問い直すということに碑を建立する意味があると考えたからです。しかし、今回私たちは自分たち独自で追悼碑を建立しました。熊野市が一時期、追悼碑の建立に前向きな姿勢をみせ、追悼碑建立のために二〇〇万円の予算を市議会に計上し、市議会でも承認されたにもかかわらずです。
 これは追悼碑の魂である碑文の検討を熊野市と進めていく中で、熊野市が自らの責任を明らかにしようとせず、殺された二人やその遺族に対する謝罪の気持ちさえないことが明らかになったからです。「行政とともに建てることに意味があるのだから、妥協してもよい」といった意見もありましたが、そのような碑を建てたとしても殺された二人を追悼することになるのでしょうか。私たちはこのような追悼碑を到底建てることなどできるはずがありません。遺族の?敬洪さんも「謝罪の気持ちがない碑は建てる意味がない」として熊野市の態度を厳しく告発しました。
 果たして、私たちは熊野市をともに追悼碑を建立していく相手として考えるべきだったのだろうか。今の日本社会を見渡すとまだまだとてもそのような状況にはなっていないように見える。見えるというよりも自分たちの力だけで碑を建立しようと決心した時から、とても共同で碑を建てるような相手ではなかったと痛切に感じるようになった。これは六年間の活動の中で最も反省しなければならないことの
一つだと思う。私たち独自で追悼碑を建立した今、熊野市に対して今まで以上に厳しく虐殺の責任を追求していくことになるであろう。



 4.追悼碑とともに


 これから私たちはこの追悼碑を足掛かりとして、熊野市に遺族に対して誠意あ
る謝罪をさせるとともに、「木本事件」の真相をさらに究明し、それを熊野市民に明らかにしていくなどの運動を進めていかなければならない。追悼碑を建立することよりも、これからの運動を展開していくことの方がむしろ大変な作業になるであろう。昨年十一月二十日に追悼碑の除幕式を無事終えた時も、正直な気持ちとしては、追悼碑を建立した喜びよりも、これから今まで以上にしんどくなるだろうなという気持ちの方が強かった。
 今後取り組まなければならない課題は多いが、まず熊野市に対して二人の虐殺の責任をはっきりと認めさせ、?相度氏のご遺族に誠意ある謝罪をさせなけらばならない。また今までの熊野市の不誠実な態度や追悼碑建立の際にマスコミにより明らかになった「国が侵略戦争を認めていないのに、自治体が独自の判断はできない」などという熊野市の歴史認識のとんでもないあやまちを徹底的に糾弾していかなければならない。そのための一つの手段として熊野市に追悼碑はなく、
一、なぜ熊野市(旧木本町)で「木本事件」が起こったのか、つまりその背景にある当時の日本の侵略による朝鮮の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因であったこと、二、李基允氏と?相度氏が殺されたことに市が最も責

任があることを認める、三、殺された二人とその遺族に対して謝罪の気持ちを表す、以上の三つのことを明記した碑を熊野市に建てさせることが考えられる。
 また、熊野市民に「木本事件」とはどういうものだったのか正しく伝え、何が
今なお問題になっているのかを知ってもらわなけばならない。そのために「木本事件」を「愛町心の発露」と記述した『熊野市史』の訂正を求めるほか、もっと熊野市民の中に切り込んで行くことが必要になるであろう。三重県の教育関係者の手助けが必要になるが、「木本事件」のことを地元の小学校、中学、高校などの教育の場で取り上げてもらい、将来を担う今の子供や若者たちに自分たちの町で「木本事件」がおこったことを知ってもらいたい。その時、教材として李基允氏と?相度氏の追悼碑を実際に自分たちの目で見てもらった時、追悼碑はとても意味のあるものになるであろう。そのような日が一日も早く来ることを切に望まずにはいられない。

  終わりに


 これまで熊野の極楽寺に置かれていた二人の「墓石」は、大阪歴史人権資料館のご協力で、この資料館に移転し、展示されることになります。「墓石」は日本社会の朝鮮人差別を物語る歴史的な資料として永久的に保存されることになったのです。多くの人々に「鮮人」の文字と四文字の戒名の刻み込まれた「墓石」をじかに見てもらうことにより、当時の日本人の朝鮮人差別がどういうものだったのか、「木本事件」とは何を意味するのかといったことを肌で感じてもらいたいと思います。
 この「墓石」がただ単に過去の日本人の朝鮮人差別をあらわすものだけでなく、現在もそのような朝鮮人差別や外国人労働者に対する排外意識が根強く残っていることを二人の「墓石」が語っているように思えてならない。
 李基允氏と?相度氏を虐殺したのも、この「墓石」を建てたのも私と同じ日本人である。このことを決して忘れてはならない。しかし、「木本事件」の時、朝鮮人労働者とともに闘った日本人労働者や朝鮮人労働者の家族をかくまった日本人住民がいたことも事実である。そういう生き方ができるよう二人の追悼碑と共に歩んで行きたいと思う。

季刊リバティ 9(1995年3月刊)