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「野蛮人」楽譜(参考運指つき)1/2 「タンブーラン」楽譜(参考運指つき)1/2
「野蛮人」楽譜(参考運指つき)2/2 「タンブーラン」楽譜(参考運指つき)2/2
     
     
「野蛮人」楽譜
(音の高さと長さの情報以外は
ほとんど削除した状態)
「タンブーラン」楽譜
(音の高さと長さの情報以外は
ほとんど削除した状態)






変わりばえのしない2曲です。
これってサンタナだっけ、ゲイリー・ムーアだっけ、という程度の違い。

どちらかいっぽう弾けるようになればもうお腹いっぱいでしょう。
両方弾こうなんて考えるのは、何か特殊な事情がある人か、相当イカれた奴か、どちらかだと思います。


さて、タンブーラン。
どんなかたちのグラスだったか。
いいえ、タンブラーじゃなくタンブーランです。
どうやらフランス語らしいんですが、曲を聴いたうえ、この単語のスペルを見ると、何となく意味がわかってきます。

話はちょっと飛びますが。
ショパンのプレリュード15番は、ひたすら鳴り続ける変ニ音が「雨だれ」を表現していると、もっぱらの噂。
この曲に関しても似たような効果が期待されているようです。
鋭いリズムを刻み続けるバスのホ音(というより左手で叩く音ほぼ全部)が、何か打楽器を模しているらしいことは、すぐに分かるでしょう。

出てくる音だけで判断するなら、トルコ風のシンバル、という答でも、完全に間違いではない気がします。

この時代、オスマントルコ軍はフランスに来てたのか?
ラモーは凶暴なオスマン軍の行進を見て、シンバルの音色に震え上がって、恐怖の記念にトルコ行進曲をつくったのか?
なんてことはどうでもいい。
実際に見聞きしなきゃ曲が書けないようなボンクラ作曲家では歴史に残れません。

とりあえずこれはトルコ行進曲じゃないです。
なぜかといえば、タイトルが「タンブーラン」だから。
トルコ行進曲じゃない理由はそれだけです。
もし無題だったら、立派にトルコ行進曲として通用したと思います。
もし「トルコ行進曲」というタイトルだったら、それこそ誰も文句は言わなかったと思います。

なぜ「タンブーラン」だとトルコ行進曲になれないのか。
"tamboulin" というスペルを見れば答はすぐに出ます。
世界最強のオスマン軍が行進するのに "tamboulin" なんて女々しい打楽器は使いません。

それにしても。
こういう、「何かを模した音」みたいな発想って、どうなんでしょうね。
使い方を間違えると、かなり野暮ったい音楽になりそうな気がするんですけど、このラモーという作曲家の、野暮ったさに対する開き直りっぷりには、何か潔さのようなものを感じます。
これに対抗できるのはイタリアのヴィヴァルディぐらいでしょう。
ドイツにはここまで野暮ったいバロック作曲家はいないような気がします。

いや、違うってば。
いまの耳からすると、とてつもなく野暮ったいこの音楽が、たぶんバロック時代は最先端のおしゃれな音楽だったんです。

もちろん「芸術作品」なんてもんじゃありません。
ある時代に流行って今では廃れてしまった「懐古もの」、とまで呼んでは、いくら何でも失礼か。
でもそれぐらい肩の力を抜いて相手にしたほうがいいような気がします。

演奏は、Les Sauvages - 野蛮人 のほうが難しいでしょうね。
何となく、ですけど。
クラヴサン(チェンバロ)曲のわりには、横幅つかいすぎです。
あの楽器、こんな広い音域カバーできたっけ、と、まあチェンバロの鍵盤数なんてのは機種によって時代によってバラバラなんでしょうけど。
横幅を使う曲は、いろんなところが疲れます。
音が跳躍する箇所は鍵盤を睨み付けないとまず確実にはずすので、目が疲れる。
あぐらをかいた状態で弾いていると、上半身を左右に不自然なかたちでねじることになるので、肩がこる。

この「野蛮人」という曲は、ラモー本人によって、管弦楽用に編曲されたうえ、バレエ風オペラだかオペラ風バレエみたいなものの一幕に使われているんですね。
オペラのタイトルは "Les Indes galantes" - ギャラントなインド。
「優雅なインド人」とか「華やかなインド」とか訳されているみたいです。
何かピンときません。
辞書を引くと、galant - 女性に親切な、慇懃な、みたいなことが書いてある。
ますますわからない。

youtubeで舞台の様子を見てみると、この「野蛮人」のシーンは、牛の仮面をかぶった人たちの奇妙な踊りから始まります。
次に登場するケバい男女は、イッちゃった目つきでパイプをくわえている。
これはどう考えてもアヘンでしょう。
ついでに二人の衣装はインド風というより新大陸の先住民ふう。

何だこのザマはと困惑しつつ、wikipediaでこのオペラ自体のことを調べてみると、

第一幕 慈悲深いトルコ
第二幕 インカ
第三幕 ペルシャの花
最終幕 北米の野蛮人

インドなんてどこにも出てこない。

時代の違いといえばたぶんそうなんでしょうけど、18世紀の人の地理の知識は不正確だったというような結論に持っていく話でもなさそうです。

北米にはインディアンがいて、南米にはインディオがいて、土着の人はみんなインディジェナスで、要するに未知の土地は全部インド、自分たちと違う風習を持った人間は全員インド人。
これは地理の知識の問題じゃなく、言葉の問題でしょう。
つまり、インドという単語の使い道はもともと凄くひろかった、と。

「わけのわからない場所 = インド」ならば、西のインドとか東のインドとか、世界じゅうインドだらけにしてしまっても、それをバカにすることはできません。
18世紀のフランス人の無知を笑うより、"Les Indes" を「インド人」なんて無神経な言葉に訳した人を袋叩きにするべきです。

この "Les Indes" は、「異教徒たち」とか「異教の国々」とか、そんな感じの意味でしょ。

ん、違うかな。
いや、"Les Indes" じゃなく、訳者の無神経さについて、ですけど。

「インド人」なんて訳したら、「これのどこがインドなんだ」とブーイングが出ることは、最初から予想できたはずですよね。
もしかして、無神経をよそおってワザとそうした?
何のために?
もちろん、「インド」という単語について注意を喚起するために。

昔は世界じゅうインドだらけだったと、最初から分かっている人は、まあどうでもいい。
そうじゃない人が、「何なんだこのタイトルは」と訝り、その疑問を追求する。
結果、その人はちょっとだけ物知りになる。
ささいなことですが、これはひとつの事件です。
「異教徒たち」なんて当たりさわりのないタイトルだったら、こんな事件は起こりません。
わざわざ事件を起こすという、これはいわば教育的配慮。
はいはい有難うございました、まったく大きなお世話です。

「インド」はそれでいいとして、「ギャラント」のほうは、どう訳していいの全くかわかりません。
一見ほめ言葉みたいですけど、素直に受け取っていいのかどうか、ラモーがフランス人だと思うと、ちょっと怪しい。
いや、フランス人じゃなくても怪しい。
たしかベートーヴェンがモーツァルトの音楽を「ギャラント」と呼んで皮肉っていたのをどこかで読んだような気がします。

誉めているのかバカにしているのかは、この「優雅なインド人」を日本語字幕つきで全部見れば分かるのかもしれませんが、実をいえばオペラなんてものには大して興味がない。
特にバロックオペラは、モンテヴェルディで絶望的な退屈を味わった経験があり、もう二度と見たくない。

全編とおしで見るなんて無理をしなくても、ヒントはあります。
時は18世紀。
「キリスト教だけが正義で他は全部悪」「キリスト教徒だけが文化人で他はみんな未開人」とされた暗黒の中世は、もうはるか遠い昔。
ルネサンスに目覚めてはや200〜300年、目覚めすぎて爛熟して腐敗すれすれのバロック時代です。
そうしてラモーはフランス人。
文化に関しては何事も最先端が自慢のフランス人です。

「いまどき異教徒を敵視したり馬鹿にしたりなんて、ダサっ」
「パリのモードは異教徒礼賛」
「エキゾティシズムを理解しないやつは田舎者」

たぶん本気でほめてますね、この「ギャラント」は。
レジ袋をなくせば地球にやさしいと信じている人たちにも引けをとらないぐらい本気です。

そんなことより、このオペラが今でも上演されているという事実が、何よりの証しでしょう。
バカにしているんだったらこれはとんでもない人種差別もの、上演禁止になるはずです。
















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