<ウェザー・フレンド自然学校 歴史探索プログラム編>
会津の歴史を歩いてみよう!

恵日寺と勝常寺

 会津は奈良時代に花開いた仏教文化を背景にして、発展してきた。 その基礎を築いた寺が、磐梯山麓・磐梯町の恵日寺(慧目寺)と会津盆地・湯川村の勝常寺である。 ともに9世紀初頭、高僧徳一上人によって建立されたといわれている。

【徳一上人】
 天応元年(西暦781年)に生まれた徳一は、 若くして興福寺修円に法相宗を学び、次いで東大寺の学僧となった。 後に東行し、筑波山・中禅寺や恵目寺、円蔵寺、示現寺、勝常寺、などを開いた。
 当時朝廷は、仏教の教えにより国を治めようとしていた。 その役をつとめたのは天台(最澄、空海など)であった。 最澄の天台は、誰でも悟りが開けて仏になる事ができるという一乗であり、 これによって多くの人々を教化していった。
 一方、徳一上人の教えは五性分別であった。 どんな人間でもそれぞれ我があり、悟りや人生も千差万別、 その我は死によって滅びても、再生する生命に受け継がれるというもの。 悟りには色々あり、人々は仏教に対して様々な付き合い方があるという幅広さがあった。
 現実主義の徳一上人は、法相宗の教学によって人生を修業場と見極め、 すべてに仏性があり等しく救われるという最澄の天台教学と、真っ向から論争して譲らなかった。
 徳一上人は、会津一円の教化経営を目指した。 教化とは徳化であり、経営とは営々として真理を求める意である。 その意味で徳一上人は、会津に理想郷の実現を夢見ていたといえる。

【恵日寺】
 恵日寺(慧日寺)は大同2年(西暦807年)に徳一上人によって建立された。 室町時代の絵図を見ると、「戒壇」を持った奈良仏教を代表する大寺院であることがわかる。 徳一上人は寺院建立のため、多くの仏師や大工とともに会津へ訪れたものと思われる。
 奈良・平安は、物心ともに豊かな時代であった。 この時代の仏教建築物は、高度で優秀な技術に裏打ちされており、 文化の高揚期であることを知ることができる。 会津も例外ではなく、恵日寺のような大寺院が建てられた背景には、 豊かな経済力と優れた文化を受け入れるだけの士壌があった。
 恵目寺が建てられた場所は、中国伝来の風水によって選定された。
 風水では、「気」によってすべてにのものが成り立っていると考えられている。 気の流れ通路である「龍脈」、気が集中している「龍穴」、 その周囲の山並みを表す「砂」、河川や湖沼を表す「水」がある。 これらがバランス良く配置されている地形が理想とされる。 これを磐梯山麓に当てはめてみると、次のようになる。
・北の「玄武」=磐梯山。主山となり、穴の背後にあって龍脈を伝える高い山。
・東の「青龍」=川桁山。蛇行して伸びる山脈。男児や栄誉を司る。
・西の「白虎」=猫魔ヶ岳。頭を伏せた姿。女児や財産を司る。
・南の「朱雀」=猪苗代湖。穴に集まった気を水に溜める。
 まさしく、風水における理想郷である。
 磐梯山から龍脈が下り、気が噴き出している龍穴のあたり、磐梯町付近に恵日寺は定められたようだ。
 この場所で仏教は、日本古来の山岳信仰や神道とも有機的に結びついた。 磐梯山を中心に様々な山岳信仰のよりどころとして、恵日寺は大きな役割を果たした。
 以来1200年に渡り栄枯盛衰を繰り返す。 特に天正17年(西暦1589年)には、伊達正宗によって恵日寺は焼亡させられる。 現在の恵日寺は、元禄15年(西暦1702年)に再建されたが、 明治の廃仏毀釈によって堂宇や仏像・仏具類のほとんどが焼失あるいは散逸してしまった。

【勝常寺】
 弘仁元年(西暦810年)に創建された勝常寺は、同じ徳一上人によって建てられた恵日寺に較べて、 ほぼ完全な形を現代に伝えている。
 創立当時は七堂伽藍が備わり、盛時には12の坊舎と100余ヶ寺の子院を有する一大寺院であったと伝えられている。 現在残されている建物は、元講堂〔薬師堂=応栄5年(西暦1398年)再建〕を除き近世以降のものである。 薬師堂は会津中央薬師と呼ばれている。
 幸か不幸か、恵日寺のように僧兵を持つ力も、藩からの禄の拝領もなかった勝常寺は、 ただひたすら民衆のささやかな幸せを求める願いをかなえるために歩んできた。
 第二次大戦末期の本土空襲により、10万人以上の都市はほとんど爆撃されたにもかかわらず、 京都・奈良と並んで東北の平泉と会津は除外され、難を逃れた。
 仏像は創建当時の12躯を含め、30躯が現存する。 平安初期の仏像が一寺院に12躯も保存されている例は少ない。
 薬師如来坐像、日光菩薩立像、月光菩薩立像の薬師三尊は平成8年、国宝に指定された。 国指定重要文化財に、十一面観音菩薩立像、地蔵菩薩立像、聖観音菩薩立像、四天王立像、 地蔵菩薩立像(雨降り地蔵)、天部像立像(伝虚空像菩薩)が指定されている。
 薬師如来像は欅の一本作りで、高さ1m37cm。肩幅が広く、 どっしりとした姿は奈良中央の仏像に似通っているが、 額が狭く気迫に満ちた厳しい顔立ちは地方色が色濃く、勝常寺スタイルと呼ばれている。 日光、月光菩薩は穏やかで均整の取れた姿で、厚みのある下半身が特徴的である。 二重まぶたの半眼であることも珍しい。
 勝常寺も恵目寺も、会津は薬師信仰である。徳一上人はなぜ、薬師如来を信仰の中心に置いたのか。
 薬帥如来は、現世利益を求める民衆の信仰心によって支えられてきた。 勝常寺の薬師三尊も、病気を治してくれる仏であった。病に苦しむ人々に手を差し伸ベ、 正に心身ともに健康へと導いていたのである。 徳一上人は薬草を与え、多くの人々の命を救ったのであろう。 現実を直視し、病と戦いながらそれぞれの人生を切り拓き、悟りを開く。 徳一上人が伝えた法相教学には、薬師如来以外考えられなかったのではないだろうか。

 勝常寺ではつい数十年前まで、農耕用肥料としてリン酸を多く含むコウモリの糞を、近隣の農家に分配していた。 農作物が実を結ぶ時、良質の糖質を合成するために必須の物質がリン酸なのである。 萱葺き屋根だった勝常寺薬師堂には、無数のコウモリが住み着き、年問60俵ものリン酸肥料を供給していたのである。
 民衆とともに生き続けてきた徳一上人の、心の表れのような気がする。
会津学入門[一牛雄司主宰]より
参考文献:笠井尚・著「勝常寺と徳一」
2000年6月6日、五十嵐記

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