純白(しろ)の神殿
そこに風はない。ただ甘やかな香が、ゆうるりと揺らいでいる。空気はあまりにも――あまりにも透明で、あるはずのない地の果てまでも見渡せそうだ。大地を覆うのは鮮やかな色。透けるように薄い花弁のその花々が、漂う香の源だ。そして天をささえる柱のようにそびえる木々は、さながら宇宙樹。萌える緑の葉を繁らせた枝を四方にのばし、九天の空を持ち上げている。吹く風はあくまでやさしく、妙なる花の香を、馨しき緑を、静かに運んでいく。
そんな風景のなかに、天界の大神殿は存在していた。
大理石のようななめらかな光沢を放つ石造りの神殿は、華麗な装飾を施されたアーチ型の門柱によって支えられ、水平方向に長十字型に広がっている。いわゆるロマネスク建築の建物に似た外観だ。天使達がその中を自由に飛び回れるように高く高く創られたその神殿は、荘厳な空気で満ちていた。
その大神殿の中央を示すところにたった一つ、高く高くそびえ建つ尖塔がある。この塔は、頂上に造られた一室以外に空間はない。そのただ一つの部屋には厳重な封印が施してあるのが、にもかかわらず、階段すらないこの塔の周りを、いつも数人の天使が監視しているのだ。
この部屋の中に封印されている、たった一人の少女のために……
大神殿の一室に、二人はいた。
一人はストレートの、もう一人は軽いウエーヴのかかった髪をもち、それはどちらも膝に届くほど長く、金の光を放っていた。二人は――大天使長ミカエルはその白い衣を纏った身をソファに深く沈ませながら、大天使ガブリエルは中央のテーブルの花瓶に花を生けながら話し合っていた……神について。
大神殿の奥の間で、最後の審判の日まで眠り続ける神。神は何時目覚められるのか。神は人をどうなさるおつもりか……二人には部屋の外の喧騒に気付く余地はなかった。
「ミ……ミカエルッ! ガブリエルッ!」
バン、と大きな音をたててドアが開くとともに、部屋にラファエルの声が響きわたった。長い金髪を振り乱し部屋に飛び込んで来た美しき神の御使いは、二人の姿をみるやいなや、勢い込んで話しだした。
「ミカエル……逃げたんだ……早く……天使達に追わせて……」
よほど慌てたのか、身を屈ませ息を荒くしながら、あえぐようにラファエルは言ったが、当の二人はさっぱり要領を得ない。ガブリエルはラファエルのそんな様子を半ば驚き、半ば呆れたように見つめ、ミカエルはやさしくラファエルの方に手を掛けていった。
「どうしたのだね、ラファエル? 君ほどの者がそんなに取り乱すとは……」
「そういえば、外が騒がしいですね」
ようやく外の喧騒に気付いたガブリエルが言った。優しく静かな声。天使に性別はないが、ガブリエルはどちらかといえば女性的で、ミカエルやラファエルは男性的であった。
「ふ……二人とも、そんなのんきなことを言ってる場合か! 奴が逃げたんだぞ!」
「奴? 誰だね?」
「下級天使の誰かでしょうか?」
ミカエルとガブリエルの問いに、一度怒ったように口を開きかけたラファエルであったが、一呼吸おいて、心を落ち着かせてから話しだした。
「ルシファーだ」
「!!」
二人の表情が一変した。驚きと焦りが見えるようであった。
「バ……バカな! 何故彼女が!?」
「奴が破ったというのですか!? あの厳重な封印を!?」
「ああ、ルシファーは部屋の中で相当能力(ちから)を蓄えたらしい。見張りや、奴の逃亡を止めようとした天使達はみな気を失っている……奴は下界へ逃げてしまった!」
「ではミカエル! 天使達に下界に降りる許可を!」
だが、ミカエルはただ茫然として、ガブリエルの言葉も耳に入らない様子であった。ガブリエルは少し青ざめながらも、そんなミカエルを急き立てた。
「ミカエル! 神から全権を委ねられているあなたの許可なしには、天使は下界へいけないのですよ! もし奴が魔界の者に見つかったら……」
その言葉にハッと我に返ったミカエルは、二人の方を見もせずに、足早にドアへと向かう。二人もその後を追っていった。
神殿の中央近く――封印の塔のすぐ近くに存在するその部屋は、天使達が集合する広間で、その中央には池らしきものがあった。だが、そこにあるのは水ではない。水のように見える空間である。その周りには、大勢の天使達がざわめきながら、集まっていた。その中で一人、背の翼を広げ、池の上空で待機しているのは、大天使ウリエルであった。少しくせのある美しい金髪が、その翼のはばたきとともにゆれていた。
「ウリエル!」
ミカエルの声とともに天使のざわめきはぴたりととまり、その視線は一斉に三人の美しき大天使へと注がれた。
ガブリエルがその波打つ髪の乱れを整えながら叫んだ。
「ウリエル、あなたが天使達を率いてくださるのですか?」
「そのつもりだ。ミカエルの許可さえおりれば、な」
物言いは男性的だが、ウリエルの容姿は美しい女性のそれであった。が、はかなげなガブリエルと対照的に、勝ち気な性格が見えるようであった。
「わかった。では、我らが偉大なる父神の名において、その子ミカエルが命ずる! 大天使ウリエルとその配下の天使は下界におりて、ルシファーをつれ戻すこと! ただし手荒なことをしてはならぬ!」
「わかってる! ではいくぞ! 下界についたら人間に姿を変え、各地へ散らばれ!」
そういうが早いか、ウリエルは池に飛び込んだ。そして、その後を、大勢の天使達が翼を広げて追った。池は下界と天界をつなぐ唯一の連絡通路であったのだ。
勇ましくも華麗な天使の行軍を見送りながら、ミカエルは彼女のことを考えていた。美しき堕天使、ルシファーのことを。その瞳には、悲しみが宿っているかのようであった。
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