黄金の堕天使
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暗黒(くろ)の封印

 はるか古の時代のことである。
 まだ神が眠りに就かず、人間が生まれてすらいないころ、一部の天使達が神に対して反乱を起こした。彼らは神の全能性に不信を抱き、自分達の能力が神を越えられると慢心したのである。それが大天使ルシファーの率いる軍勢であった。
 それに対し、神は大天使長ミカエルに指揮された天使の軍を送りこんだ。ルシファーとミカエル、同等の能力をもつ二人の率いる軍勢は、何時果てるとも知れない激しい戦いを繰り広げていた。
 だが、神はミカエルに一振りの剣を与えた。その剣に宿る神の意志により能力の均衡は破られ、神の軍が勝利を手にした。そしてかつては“明星”と呼ばれていた美しき大天使とその配下の天使達は、闇へと堕ちていったのだった。光あふれる天から闇のなかへと堕ちながら、堕天使達はその姿を醜くまがまましいものに、その名を“悪魔”に変えられた。
 能力の弱い者ほど、その変化は激しかった。元の美しさなど跡形もなく、まるで獣のように――いや、それ以下の姿になった。ある程度能力の強い者も、何らかの変化があった。また、性をもたなかった彼らは、ある者は両性を具有し、ある者は男、または女になり、新たにそれまでは不可能であった繁殖の能力を有するようになった。
 そして、その長、ルシファーは……
 ルシファーの中には、天使としての“善”の心と、神への反逆者たる“悪”の心とがあったが、その二つの心が分離し、天使の心が身体から離れ、女の形を造った。残った悪魔の心は、その身体を男の形に変えた。女は天使のような――いや、悪の心と完全に分離したために、翼はなかったが、天使よりも美しい黄金の髪と瞳とをもっていた。男の方はその姿を醜く変えられ、白く輝いていた翼は蝙蝠のようになり、髪や瞳とともに暗黒の色となった。その頭上で輝いていた光の輪は二つに割れ、二本のねじれた角となった。そして、彼はその名を魔王サタン――“敵対する者”と変えられた。
 やがて……女は天界に封印され、男は魔界の王となった。

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 そこは、闇であった。まるで月光の下の夜のように、全てが淡い闇に包まれていた。
 荒涼とした大地に、花は咲いていた。だがそれはまがまがしい色の、毒花であった。木々も怪しい果実をつける妖木であった。その枝が、まるで鋭い鍵づめのようで、それがならび立つ様はあたかも無数の亡者が天へと救いを求めているかのようであった。その木々を取り巻く背景には、いくつもの岩山があった。悪魔たちの棲み家となっている岩山には植物はなく、荒れた岩はだが剥き出しになっている。その火口から噴煙を吐く山もある。寒々しい闇。それが魔界であった。
 その魔界の、もっとも大きな岩山に、魔王サタンの魔殿があった。
「封印が解けたようだな」
 しばしその身体に激しい痛みを感じた後、魔王サタンはそうつぶやいた。己れの身体の変化に気付いた彼は、鏡の前に立ってみる。彼の全身を映す鏡の中には、美しき魔王がいた。
 黒い髪と瞳と翼、二本の角は変わらないが、彼のその姿は、天界の天使であった頃よりも美しかった。波打つやわらかな黒髪は肌の白さを引き立たせ、闇の色の瞳は冷たい光を放つ。彼は男性であったが、その容貌は冷酷な美女とも思えるような、中性的な、妖しい美しさをもっていた。まさに、妖花の顔容。
 敗軍の将として醜く変えられた筈のサタンであったが、女のルシファーが天界の封印から逃れたことで変化を生じたのだ。今はその姿だけだが、やがてサタンがルシファーを手に入れればその魔力は増大し、天の崩壊を招くことになるだろう。それが天使達がルシファーを封印し、逃亡を恐れた理由である。
 サタンは鏡に映る己れの姿を見つめた。天使よりも美しい魔王の姿を。
「だが……」
 誰に言うともなく、つぶやく。
「あの娘はもっと美しかった……」
 地に堕ちる間際に見た、己の分身は……
 サタンは、軽く笑った。朱の唇が、弓張り月の形にゆがむ。そして、ばっと黒の衣を翻し、鏡に背を向けた。
「誰ぞおるか」
 サタンの声に、一匹の奇怪な生物が姿を現した。それは、一人という言葉を使うことをはばかられるほど、人間とかけ離れた奇怪な生きものであった。
「お側にございます、サタン様」
 その醜悪な悪魔が答える。
「皆に伝えるがよい。地上に降りた私の半身を捕らえろと、な。おそらく天界の者どもも追っているはず。奴らより先に捕らえろ!」

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「ウリエル様、お聞きしたいことがあるのですが」
 下級天使の一人、スークがウリエルにいった。
 ここはアメリカのワシントン。今ここにいる天使はウリエルとスークの二人だけで、他の天使たちは二人一組で世界各地に散らばっている。ウリエルたちはもちろんのこと、地上に降りた天使達は全て人間に姿を変えていた。純白の羽と輝くリングを隠し、衣服も人間のものを着ている。
「なぜルシファー様は逃亡なさったのでしょうか」
 淡い青のシャツにジーンズ姿の、少年のようなスークの問いに、ウリエルは足を止め振りむいた。鮮やかな赤のブラウスに、同じ色のタイトのミニスカート。大天使らしからぬ姿ではあるが、ウリエルの激しい気性をよく表しているという点では似合っているといえよう。
「……あんなとこに封印されててうれしい奴がいるのか?」
 そんなこともわからんのか、とでも言いたげに、ウリエルはブゼンとしている。スークはあわてて弁解するようにいった。
「ですが、地上に降りることの危険性は、ルシファー様御自身よくわかっていらっしゃるはず……もし、悪魔に捕らえられるようなことがあれば……」
 そこまで言って、ウリエルの自分を見つめる視線に気付いたスークは足を止めた。先程までのものとは違う、真摯な瞳。
 不意に、ウリエルが今までとは方向を変えて歩きだした。いったい何があったのかわからなかったが、スークはあわててその後を追った。
「あ、すいません」
 数人の通行人とぶつかりそうになり、スークは、ここが歩道であることを思い出した。天界ではきくことのない、車の騒音、人間の靴音などが人々のざわめきとともに聞こえる。
 ウリエルはスークを連れ、一軒のカフェへと入っていった。隅の方のテーブルを選んで腰を落ち着けると、ウリエルはいった。
「路上じゃ落ち着いて話もできやしない」
 そして、スークの知らない話を語りはじめた……

「ミカエル、ミカエルー」
 ウリエルの声に、池の傍で天使たちに指示を与えていたミカエルが振り向いた。
「どうしたのだね、ウリエル。君は確か塔の様子を見にいったのでは?」
「行ったよ」
 ウリエルの落ち着いた声で、大したことではないとミカエルは判断し、再び天使たちにむかった。
「それで? 何かあったのかね?」
「ルシファーの様子が変だ」
「なに!?」
 途端にミカエルの表情が変わり、真剣になった。自分の傍に控えている天使たちのことなどまるっきり忘れてしまったかのように。その変貌があまりに極端なので、ウリエルは思わず吹き出してしまった。
「ウリエル!何がおかしいんだ! 一体ルシファーに何があったというんだ!!」
 本気で怒りだしそうなミカエルの気配に、ウリエルはあわててそれをなだめる様に言った。
「ああ、すまない。でも、私もよくわからんのだ。ともかく君、行ってみて……」
 ウリエルが言いおわるのを待たず、ミカエルは走りだしていた。やがて、飛んだほうが速いことに気付き、翼を広げ、純白の羽をまき散らしながら地を蹴った。ミカエルの頭には、すでにルシファーのこと以外存在していないだろう。そんなミカエルの――全ての天使の長たる大天使長の姿を、ウリエルと下級天使たちは呆然と見送っていた。
「まったく……ルシファーのこととなると、いつもこーだ……」
 軽いため息をつき、ウリエルも塔に――ルシファーのいる、封印の塔にむかった。
 神への反乱以来、ルシファーは――女となった堕天使は、塔のなかに封印されていた。白い石造りの、白のみの空間。が、それは総てを受け入れ、総てに染まる生の白ではない。総てを拒み、不浄なることを赦さない、目を射るような無垢なる白。その責め立てるような白の空間のなか、ただ一人在らねばならない少女――ルシファーは、部屋の外で叫ぶミカエルの声も聞こえぬかのようにうずくまっていた。
「ルシファー! どうしたのだ!? 苦しいのか!? 何があったんだ!?」
 格子のはまった窓からミカエルが叫ぶ。周りで心配そうにたたずむ見張りの天使達のことも忘れ、格子の隙間から必死に手を差し伸べながら。
 追いついたウリエルがみかねたように言った。
「中に入って様子をみたらどうだ? 君は……君だけはそれを許されているんだ」
 その言葉に、一瞬ミカエルは躊躇した。実際に彼女を傍にして、大天使の長――ひいては神の代理としての立場を保っていられる自信がなかったのだ。だが――次の瞬間にはその塔の部屋の唯一の扉に向かう大天使長の姿があった。結局、総てはかの美しき堕天使のために。
 ミカエルが相対したドアには、その一面を覆うような巨大な十字架が架けられていた。これこそが何人たりとも破ることはできぬ、堕天使の封印。だがその戒めも、ミカエルがその中心にそのしなやかな手を触れたとたん、幻であったかのように一瞬にして消え去っていた。
 バン、と大きな音をたててドアを開けると、ミカエルは一目散に小さく頽れるルシファーのもとへと駆け寄った。彼女は両手で耳を塞ぎ、声をださずに泣いていた。小さな肩が弱々しい小鳥のように震えていた。
「ルシファー……一体どうしたのだ……?」
 ミカエルが優しく、心配そうに囁きながら抱き起こすと、ルシファーはその胸にしがみつくようにしてなきながら言った。
「助けて……ミカエル……お願い」
 久方ぶりに聞くその声に、ミカエルは一瞬涙を流すかと思うほどの感動を覚えた。喘ぐように懇願するその声は、まごうことなきかの大天使のもの。以前の姿より幼くなっているためその声も子供のものであるが、鈴の音のような透明で美しい響きをしている。大天使よりも美しい黄金の髪は、彼女がその悲しみに震えるたびに光の波のように揺れ、黄金の瞳は涙すらも金色にみせるほどに輝いている。人間でいえば十四、五歳の少女のようなその身体は、白を通り越し透明かと思われるような、一点の汚れすらない肌をもっていた。
 なつかしき、明星の名をもつ美しき天使……
「大丈夫だよ、ルシファー。私が何でもしてあげるから」
 ルシファーの小さな肩を抱き締め、優しくその頭を撫でてやりながらミカエルは言った。彼女は子供のように泣きじゃくり、震えていた。恐怖ではなく、悲しみのために。
 やがて、先刻の美しい声が、再び喘ぐ。
「人間……を……助けて……」
「人……間?」
 それまでミカエルの胸に顔を埋めていたルシファーが突然顔をあげ、叫ぶように言った。
「声が聞こえるの! 助けを求めて泣いている声が! 苦しんで、悲しんで……みんな泣いている! 助けて……お願い……」
 そこまで言うと、ルシファーは再びミカエルに寄り掛かり、消え入りそうな声で囁いた。
「人間が苦しいと、私も苦しい……人間が悲しいと、私も……お願い……人間を助けて……お願い……」
「一体……どうしたんだ……」
「下界じゃ今、大きな戦争をしているそうだ」
 部屋に入りながらウリエルが言った。
「下界へ行った天使達に聞いた話だけどね。そのせいじゃないのか?」
「それは知っている、だが、私達にはそんな声は……そうか!」
 ミカエルは涙をためて自分を見上げるルシファーに、優しく哀れみを含んだ視線を向け、彼女をそっと抱きしめながら、言葉を続けた。
「この娘はあまりに無垢すぎる……優しすぎるのか!」
「人間の想いは救いを求めて天界に届くが、それが聞こえるのはこいつだけ。しかも……」
 そしてウリエルはルシファーの頭にそっと手を乗せた。
「他人の苦しみを自分の苦しみのように感じてしまう」
「ミカエル……お願い……」
 すがるような瞳でミカエルを見上げながら、ルシファーは言った。
「そーは言っても……なあ、ミカエル」
「うむ、一人二人ならともかく、あまりに大人数では……」
「なんで!? なんでだめなのっ!?」
 それまで大人しく泣いていたルシファーであったが、突如、大声をだした。
「あ、あまり大きな能力(ちから)を人間に見せるのはよくないのだよ」
 なだめるように周章てて言ったミカエルであったが、ルシファーはおさまらない。怒ったようにミカエルを睨みながら、その胸にしがみついてきた。それに加え、
「だいたい、どうしろってんだ? 身体の傷は消せるが、心の傷は治せない。死人を生き返らせろってのか? それともその記憶を消すのか? そのほうが人間にとってはずっと残酷だぞ!」
 とのウリエルの言葉に、ルシファーはとうとう子供のように騒ぎだした。
「ウリエルの意地悪! ばかあ!」
 彼女を怒らせた張本人の大天使は、もう手の付けようがない、とさっさと見切りをつけ、あとはミカエルに任せたとばかりにルシファーに背を向けた。総てを押しつけられた大天使長には火が付いたように泣きだしたルシファーをなだめる術もなく、ただおろおろと彼女を抱えていた。
「せめて君を地上に封印できればいいのだが……」
 ミカエルが苦し紛れに発した言葉であったが、それを聞いたとたん、ルシファーは泣きやんだ。そしておずおずと顔をあげ、少ししゃくり上げながら言った。
「地上なら……どうなの……?」
 とりあえずルシファーが泣き止みほっとしたミカエルは、優しく彼女の涙を拭ってやりながら言った。
「人間は天に向かって助けを求める。だから地上ならその声も届かぬと思うのだが……」
 だが地上には危険が多すぎる。悪魔たちの手に掛かる可能性が大きいのだから。そのことは彼女自身十分にわかっているはずであったが、ミカエルはいまひとつ不安であった。が、彼女はミカエルが心配したような行動はとらなかった。地上に封印してくれと騒いだりはせず、なにか考え深げに黙り込んでいるのだった。

「それがしばらく前のことだ。おそらくそんときから色々と考えてたんだろうな」
 話し終えたウリエルは、とうに運ばれてきていた紅茶のカップに手を触れた。既に温かみはなくなっている。それを口元へ運ぶウリエルを見つめながら、スークは深い深い溜息をつき言った。
「それほどまでに……危険を犯して逃げなければならないほどに、人間の助けを求める声を聞くことは辛いことなのですか」
「ただ聞こえてくるだけならさほどでもないだろうさ。だが、あいつはその苦しみに共感する。つまり、人間の苦しみってやつが、辛いのさ」
「私は、天界に居るときは、そんな声など聞こえませんでした。地上にきてみて、確かに人間の苦しむ姿をみたことがあります。でも、その苦しみを私のものとして感じることはできませんでした。私は……私は今まで、ルシファー様を恐ろしい方だとばかり思っていました。だからなんとしてでも封印しなければ、と。でも……」
「たいていの天使は、反逆者としてのルシファーしか知らないから。ま、無理もないだろ。確かにあいつは封印されなければならない存在だしな。だが、私は……あいつが逃げきれればいいと思っている」
 スークは何も言わなかった。だが、かすかに、その頭が縦に揺れるのを、ウリエルはみたような気がした。

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「御呼びでございましょうか、サタン様」
 サタンの前にすっと影が進みでた。その美影の、鮮やかな髪は黒。彫像のような、あまりにも整った白面に、闇の瞳と血の赤の唇。その酷薄そうな薄い唇が動くたび、凛とした声が響く。影は肩にかかる黒絹をふわと浮かせ、魔王の前に跪いた。美影の名はアスタロト。はるかなる聖戦の頃よりサタンの傍に寄り添い、サタンに準ずる美しさと冷酷さを見せてきた悪魔であり、それ故に魔界における広大な領地と大侯爵の位を賜っている。
 だが、その美しき大侯爵でさえ、封印の解けた魔王の冷酷さ、美しさには遠く及ばない。サタンはあまりにも、あまりにも美しかった。
「アスタロトよ……あの娘のために大天使までもが降臨しているそうだ」
美しき魔王が、跪く大侯爵に声をかけた。
「大天使、ですか。それでは使い魔如きでは相手になりませんな」
 大天使、との言葉に恐れもなく、アスタロトは応えた。それを聞き、サタンは軽く笑う。紅く濡れ光る唇が、弓張り月の状を造る。
「察しのいいおまえのこと、これ以上言う必要はあるまい。だが……殺してはならぬ」
 ここでアスタロトは初めて顔をあげ、怪訝そうにその形の良い眉を寄せた。
「ころすな……とは、ルシファー様のことでございますな? しかし何故……あの方がなくなればその能力(ちから)はサタン様のもとに戻るはずでは……」
「その通りだ。だが……」
 サタンはにっこりと笑った。美しい、あまりに美しい笑顔であったが、それ以上に冷酷な笑みであった。そのあまりの美しさ、冷たさはアスタロトさえも恐怖させた。
「あの娘は私が殺す。他の者が手に掛けることは許さぬ。何人たりともな。あの娘は……」
 そして、サタンは再び笑った。
「もうよい、行け、アスタロト」
「はっ」
 声とともにアスタロトの姿は消えた。微塵の空気の震えもおこさず、まるではじめからそこにいなかったかのように。
 サタンはルシファーを憎んでいた。はるかな昔のあの日、彼が唯一の敗北を喫したあの日から。サタンは己が身体から生まれ出でた黄金の少女を見た瞬間、激しい憎悪を感じた。彼女の全て、その存在すらを嫌い憎んだ。その理由は彼にも解らなかったが、ともかく彼はその瞬間から、ルシファーを自分の手で殺すことを決めた。
「長い間……本当に永い間この日を待っていたのだ……すぐに殺しはしない……」