蒼茫(あお)の天空
「天界へ帰ろう、ルシファー」
「やだ」
「帰ろう」
「やだ」
未だ暗い空は、少しずつ、朝へと近付いていく。ルシファー達は先刻からこの問答を続けていた。天界への帰還を勧めるミカエルと、それを拒むルシファー。二人の会話は一向に進展しない。
「ルシファー、よく聞くんだ。人間界に居れば、確かにあんな大勢の声に苦しむことはないかもしれない。だがその代わり、君は君にかかわる人間一人一人の哀しみや苦しみを、直接感じることになるんだ。声を聞くだけではなくその苦しむ姿を君は直に見るのだ。そうなれば天界と人間界での苦しみ、どちらが大きいか……」
いとしそうにルシファーを見ながら、優しく諭すようにミカエルは語る。ルシファーを天界につれ戻すことは彼女のため、そしてまたミカエル自身のためでもあるのだ。ミカエルはルシファーをできるだけ近くに置いておきたかった。
そんなミカエルの心を知ってか知らずか、ルシファーは毅然として首を振る。
「ミカエルの言うことは解るよ。でも。地上に居れば、私にも何かができるよ。目の前で苦しんでる人がいれば、その人を助けることができるかもしれない。苦しむだけなんて、いやなの。苦しみながらでもいい、何かしたいの。私がいることで、ほんのわずかでも苦しみが癒せるなら……」
ルシファーはミカエルの悲しそうな瞳をじっと見つめていた。
「ダメだ、君は帰らなければならない……」
ミカエルがそう言いおわらぬ内に、一瞬にしてルシファーの姿が消えていた。何があったのか、すぐにはミカエルは解らなかった。しばらくの間茫然として、ルシファーがいたはずの空間を見つめていた。やがて、
「ル……シファー? ……どこ……ルシファー!? 何処に……一体何処に行ったんだ!?」
完全にパニックを起こしていた。ルシファーは自らの能力で消えたのではないからだ。それならば能力の波動でミカエルには解ったはずだ。だが、彼女の消えた刹那には幽かな気の乱れも感じられなかった。
「ルシファー!!」
ただ絶叫が響くだけであった。
いきなり、ミカエルが消えて人がいっぱいでてきた。ルシファーはそう思った。何故そうなったのかなど考えられず、ただ目の前を通りすぎる人々を眺めていた。
だがやがて、なんとはなしに周囲を見回し、やっと自分の状況の異変に気付いたようだ。彼女の立っている場所自体が、先刻までのビルの屋上とは違うのだ。そこは人通りの多い路上であり、どこか欧州の方らしい。ここが何処の国なのか、何故ここに居るのか、ルシファーは考え込んだが、何故か一瞬彼女の脳裏に一人の美しい姿が浮かび、それが彼女の疑問を瞬時に解いた。
――サタンだ――ルシファーは思った。サタンはルシファーが地上にとどまることを望んでいる。それ故彼女をミカエルから引き離したのだろう。力の脈動を感知させないあの力も、サタンの魔力の強大さゆえということか。
「まあいいけどね……でも……」
ミカエルはどうしただろう。おそらくルシファーを諦め素直に天界に帰るということはあるまい。
「できるだけ永く、この空の下にいたい……」
あの、真白の塔の中からは、決して見ることのできない蒼い空。
ルシファーは、歩き始めた。あてはない。だがそれは彷徨ではない。しっかりした足取りで、彼女にも解らぬ、何かに向かって。
FIN |