黄金の堕天使
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鮮血(あか)の聖戦

「はなせーっ! ウリエルのばかーっ! いじわるーっ!」
「だーっ! 騒ぐな! みっともない!」
「お、お二人とも落ち着いてください!」
 時は真夜中。眠ることを知らぬ香港の摩天楼では、宇宙の星々よりも眩しいネオンが、夜の闇にさらなる影を創っている。この灯のもと、人間たちは至る所でそれぞれの人生を生きているのだが、さすがにバビロンの塔の如き高層ビルの上となれば、その姿はまったくない。代わりにそのビルの屋上では、天使が四人と堕天使が一人、大騒ぎしながら暴れていた。
 ウリエルとスークはここ香港に派遣されていた天使たちのルシファー発見の報により、ただちにアメリカから翔け付けたのだった。そして四人でルシファーを追いかけ回した挙げ句、ここでやっと捕まえたのだ。それでもルシファーはなんとか逃げ出そうと暴れだし、ウリエルはそれを取り押さえようとし、この状態になったのだった。
 だが、やがてはルシファーも疲れ諦めたのか、抵抗をやめ、大人しくなった。
「まったく、てこずらせて……でも天界から逃げ出したときは手当たり次第に見張りを気絶させてったよな」
 逃げられないように、天使四人でルシファーを取り囲みながら、ウリエルが溜息混じりにつぶやいた。するとルシファーは憮然としながら、ぼそっと言った。
「あの時は落ち着いてたもん」
「え?」
「落ち着いてるときは能力(ちから)の調節できるから思念波ぶつけて気絶させるくらいできるけど、さっきみたいに慌ててるときは調節できないから……たぶん……殺しちゃう……」
 ルシファーが最後の一言を吐き出した途端、天使達は目に見えて青ざめた。ウリエルはともかく、スークたち三人の下級天使達は彼女がサタンの片割れであることを思い出したのだ。だが、彼女には一切の邪気はない。にもかかわらず、天界の者達は彼女を恐れ、さけた。彼女は封印の中にたった独りで、しかも見張りの者とすら一切の言葉をかわす事無く、孤独のままに過ごしてきたのである。
「ま……まあ、なんにしても、ろくに能力を隠そうとしないからすぐ見つかるんだ。私達天使は能力の波動が各々によって少しずつ違うから、近くに居ればそいつで誰だか認識できるんだぞ。捕まりたくなかったら能力の波動は隠すんだ。それくらいできるだろ」
「ウリエル……捕まりたくなければ……って?」
「魔界の奴らから逃げきれる自信があるか? もしあるのなら……おまえの好きにするといい」
 天使達は驚いて、一斉にウリエルの方を見た。天使のみならず、ルシファー本人もよほど驚いているらしく、茫然としてウリエルを見つめていた。
「な……何を仰るのですウリエル様! ルシファー様を捕らえよというミカエル様のお言葉に逆らうおつもりですか!?」
「それに、大天使長ミカエル様のお言葉は神のお言葉も同然。これは神への反逆も同じことではありませんか」
 二人の天使が勢い込んで言った。が、スークにとってはウリエルの言葉は確かに驚きはしたものの、さして以外ではなかった。アメリカでウリエルからあの話を聞いたときからウリエルがそう考えていることは感じていたし、自分自身ルシファーを封印したくないと思いはじめていたからである。おそらくウリエルは初めからそのつもりで、他の大天使の降臨を防ぐためにも自ら下界行きをかってでたのだろう。
「神への反逆なんて大それたことは考えちゃいないよ。ただこいつが哀れなだけ……ただそれだけだ」
 優しくルシファーの頭に手を置いて、ウリエルは言った。ルシファーは頭上のその手を自分の両手で握り締めながら、心配そうな目をウリエルに向けた。
「本当に……いいの? そんなことしたらウリエルが……」
「大丈夫だよ。心配すんな」
 天使達はまだ何か言いたげであったが、結局この場は大天使であるウリエルの言葉に従うことが妥当であると考えた。
「ウリエル……ありがと……」
 ルシファーは握ったウリエルの手を頬に寄せた。瞳から溢れた涙が彼女の頬を伝わり、ウリエルの手をぬらす。ウリエルはいとおしそうにもう一方の手で彼女の頭を撫でながら言った。
「感謝するのは後にしなよ……奴らを倒した後に、ね」
 言い終えると同時にウリエルの表情が変わった。優しさはかき消され、射るような視線を後方の物陰へと向け、叫んだ。
「そこに居ることは解ってるんだ! さっさと出てくるがいい!!」
 地上の喧騒から遠く離れた夜の静けさのなかにウリエルの声が響いた。そして一瞬の静寂の後、新たな三つの影が姿を現した。闇のなかに浮かび上がる一体の美影と二つの異形の姿。天使達は小さな悲鳴をあげ、怯えたように身を寄せあった。
「さすがは大天使ウリエル殿。完璧に気配を消していたつもりだったのですがね」
 美しい悪魔の声は冷静であった。否、この状況を楽しんでいるかのようにさえ感じられる。
「安心しろ。貴様の気配は私にも感じられなかった。貴様は気配を隠せもしないその二匹とは格が違うだろう……アスタロト」
「ご無沙汰しております、ウリエル殿。あの大戦以来ですな」
 そして、美しき大侯爵は微笑む。
 天使達の喉から、再び悲鳴が発せられた。先刻の悲鳴は悪魔の出現による驚きのためであったが、今度のそれは明らかに恐怖であった。三人とも真っ青になり、がたがたと震えだした。ルシファーはウリエルの背に駈けより、身を隠すようにしがみついた。
 大侯爵アスタロト――その名は天界でも知らぬ者はいない。
「まさか貴様ほどの者が出てくるとはな」
 ルシファー達を守るように毅然として対峙するウリエルでさえ、その表情は強ばっている。
「天界から大天使が降臨なさっている以上、魔界もそれなりの者を、ということです。が、どうぞご安心を。ルシファー様を大人しく渡してくだされば、とりあえずあなた方は見逃してさしあげましょう」
「なにぃ!?」
 勇んで進み出ようとするウリエルを、細く小さな腕が止めた。そして代わりに自らがアスタロトと対峙し、静かな声でルシファーは言う。
「アスタロト……私は、ルシファーよ」
 アスタロトの笑みが、初めて凍った。
 その言葉が、全てを表していた。この少女はルシファー。かつては天界一の美しさを誇った明けの明星、その大いなる能力(ちから)で以て数多くの天使を魅了した反乱の将、天を追われたその後も魔界の奥深くで王として君臨するサタンの半身……それが、この小さな少女なのだ。だが、
「あなたはルシファー様ではない」
 とアスタロトは言う。
「あなたは私がお仕えしたあのルシファー様ではない。あの方は気高く、誇り高く、何人に対しても屈することをしないお方。決して囚われの身などという屈辱に甘んじたまま遥かな時を過ごすようなお方ではありません」
「でも、それでも私はルシファーだわ。サタンの半身。私が本気をだせば、あなたでもかなわないってことは解ってるでしょう?」
「本気をだせば、ね。ですが、今のあなたにその能力が使いこなせますか?」
 ルシファーは言葉に詰まった。事実その通りであったからだ。逃亡の際に使ったような軽い能力ならなんとかなる。だがアスタロトほどの悪魔と戦うのなら、そんなものは通用しない。だからといって対等に戦えるほどの能力を使おうとしても制御ができずに、もてる全ての能力を出してしまうだろう。そうなれば悪魔だけではなく天使達にまで、あるいは人間界にまで被害を及ぼすかもしれない。いや、何よりもルシファーは他人を傷つけられない。たとえ悪魔にでさえ、その優しさを向けてしまうのだ。
「ルシファー、おまえが出る必要はない。私だって大天使なんだ。おまえを守るくらいはできる」
 ウリエルはこう言って、さらに精神で話かけてきた。
 ――私とあの三人で奴らを押さえてるから、その隙に逃げるんだ。さっきも言ったように逃げきれると思うのならこのまま人間界にいていい。それができないなら天界へ急げ――
「ウリエル! ダメ、アスタロトは」
「大丈夫だ! おまえたち、行くぞ!!」
 ――アスタロトは昔のままじゃない――そんなルシファーの叫びも聞かず、ウリエルは悪魔へと向かっていき、スークたちもそれに続いた。
 まず、ウリエルが両手を組み、高く掲げた。するとその組み合わさった手を中心に、何かが集まってきた。目には見えない。だが、その場に居る者達はみな、その気配を感じていた。それは、光だ。目に見えないほどの細かな光の粒がウリエルの手に集まる。徐々に大きくなっていく光。だが、それが突如小さな球になった。他の三人の天使達の“気”が光を圧縮し、包み込んだのだ。やがて、光は両の手のひらで覆うくらいの球となった。
 光の球は夜の闇の中で眩しく輝いていた。明るいだけではない。そのもつ熱は数万度。今は“気”で包み込んでいるが、ウリエルの意に従い悪魔だけに放つことなど簡単であった。そうなれば二匹の使い魔はもちろんのこと、いくらアスタロトといえどただではすむまい。
 だが……
 アスタロトは微笑んでいた。はったりや苦し紛れのそれではなく、静かな、落ち着いた笑みであった。
 ――諦めでもない……余裕、か?――
 悪魔の笑みの解釈に一瞬戸惑ったウリエルではあったが、余計な念を振り払い、ルシファーへと声をかけた。
「何をぼやぼやしている! さっさと行けってば!」
「そうはいきません。せっかく見付けておきながら逃げられたとあっては、サタン様に申し訳ありませんからね」
 そう言ってアスタロトはルシファーに近付こうとした。
「どうあっても引かぬ気か。ならば……」
 ウリエルの言葉にもアスタロトは動じない。ただ美しい笑みを浮かべ、ルシファーを奪うべく近付くだけであった。
「ならば……殺す、とでも? できますかな、あなたに」
「!!」
 怒りに任せ、ウリエルは光の球を放った。球はまばゆく輝きながら、悪魔へと向かって飛んだ。そして一瞬、この世の全てをかき消すかの如く強く眩しい光を放ち、悪魔を滅したかに見えた。だが……
 闇は再びその中に美しい影と二つの異形の影を浮かび上がらせた。その真白の肌に一点の焼け跡もなく、相変わらずの笑みをたたえ、アスタロトは立っていた。そして、その手の中には……
「ば、ばかな……」
 ウリエルは焦りと驚愕、そして恐怖を隠そうともせず、アスタロトの手の中のものを見つめて呟いていた。その掌中にあるものは、たった今ウリエルがアスタロトへと放った光。灼熱の光球は彼の手のなかでまばゆく輝いていた。
「私でさえ“気”で包まねば触れられぬ程の熱を持つ光を……」
「私を甘く見られては困りますね」
 そう言って彼はルシファーを見つめた。
 サタンの内より生まれ出でた、美しい少女。サタンの髪と瞳を黄金に染め上げ、その姿を幼くすればこの娘になるというのだろうか。だが、冷たく鋭いサタンに比べ、この娘はあまりに暖かく、優しい。
「さあ、こちらへおいでください、ルシファー様。さもなくばその天使達が……」
 アスタロトはそう言って光を乗せた手を静かに握った。光はその手に抵抗する事無く、再び細かな欠片となって指の隙間より散っていった。
「この光のように砕け散ることになりますよ」
 憎みたい、とルシファーは思った。アスタロトを心の底から憎むことができれば、今すぐ彼を倒し、天使達を救える。だが、彼女は他人を憎めない。あまりに清い彼女の心には、そんな感情は存在しないのだ。唯一、自分に――ルシファーとその分身であるサタンに対し手を除いては。
「どうしました? ルシファー様」
 アスタロトの言葉にルシファーは自分でも知らぬうちに前へと進んでいた。
「ルシファー様!」
「行ってはいけません!」
「大丈夫です! あなたは後に隠れていてください!」
 天使達は慌ててルシファーを止めた。
「困った方達だ、ルシファー様の邪魔をするとは。しかたがありませんね……」
 そう言って、アスタロトは懐から水晶の玉を取り出した。
「やめて、アスタロト!私行くから!」
「馬鹿を言うな! 行くんじゃない!」
「どうあっても邪魔をする気らしいですね」
 アスタロトは水晶を空中に放った。と同時にそれは虚空で静止し、次の瞬間には粉々に砕け散っていた。が、破片もそのまま地に落ちることはなく、空に浮いたままであった。もちろん水晶はウリエルが割ったのではない。アスタロトがその魔力により割ったのだ。
 何をする気なのか、と天使達が見守るなか、一瞬にしてその水晶の破片は消えた。そして次の瞬間には……
「うわああああああぁっっ!!」
 天に四人の天使の悲鳴が響いた。
 ルシファーには何が起きたのか解らなかった。一瞬目の前に紅い布が舞ったのかと思った。天使達の身体から噴き出す血がそう見せたのだ。その鮮血は高く吹き上がり、ルシファーにかかった。金の髪と白い肌に紅い斑点ができ、ゆっくりと流れ落ちていった。
 頬を伝わる生温かい感触。彼女は己れの手を見た。血塗れた手が恐怖と全身を切り刻むかのような激痛を呼び起こす。その瞬間、四つの紅い人型が、ばたっと音をたてて倒れた。ルシファーは膝をつき、座り込んでいた。
「あ……あ……」
 叫びたかった。大声で叫び、この感情を消し去りたかった。全身を覆う激痛以上に彼女を支配する憎悪。自分のせいでウリエルたちが傷ついたという己れに対する憎悪が、気を狂わせんばかりに彼女を責めた。だが、この感情を顕にすれば劇場は他の者にも危害を加えるかもしれない。彼女にできるのは涙を流すことぐらいであった。
 顔を覆った手に涙が落ちる。涙が、手を濡らす血を洗い流していった。
「さあ、もうお顔をあげて、涙をお拭きください」
 美しい肥えにルシファーが顔をあげると、そこにはいつのまにか近付いていたアスタロトの美しい姿があった。彼は水晶の玉を持っていた。先刻砕け散り、消えたはずの水晶玉。これがウリエルたちを傷つけたのだ。
 水晶の欠片は空中から消えた次の瞬間、天使達の体内へと瞬間移動していたのだった。体内に突如現れた鋭い異物は、天使達の肉を、血管を切り裂き、皮膚を突き破り、血を吹きださせながら、体外へと飛び出したのだ。全身を貫く激しい痛みとあまりに瞬時に多く後を失ったため、天使達は気を失い、水晶は元の球へと戻り、アスタロトの手のなかへと納まったのだ。
「おや、涙で頬の血が流れてしまいましたね。残念です。血に塗れたあなたはとても美しかったのに……」
 そう言ってアスタロトはルシファーの頬に手を延ばした。
「そいつに……触れるな……」
「ウリエルッ!」
「ほう……まだそんな元気がおありですか」
 全身を己れの血で赤く染め、踞りながらも、必死に声をふりしぼる大天使がそこにいた。
 ――逃げろ……私が悪魔を引き付けているうちに……早く……――
「ウ……リエル……」
「さすがは大天使ウリエル殿。やはりあなたは私のこの手で止めをささねばならないようですな。……そっちの三人はおまえ達にくれてやろう」
 アスタロトの言葉に、二人の悪魔は天使達の方へとにじり寄った。その醜き使い魔の美しき主人はルシファーから離れ、血塗れになりながらもよろよろと立ち上がろうとするウリエルと対峙した。そしてゆっくりと、ウリエルに近寄っていく。だが、もはやウリエルにそれを避けることなどできるはずもない。アスタロトもそれを確信していた。その白面に浮かぶのは、大天使をなぶり殺しにできる歓喜の笑みだ。
 アスタロトの左手が、ウリエルの細首をしめあげる。抗う術のないウリエルは、もはや悲鳴をあげることもできず、苦痛に顔を歪ませている。開かれた口から漏れるのは擦れた、声にならない叫びだけ。のけぞる身体を支えることもできずに地に倒れたが、悪魔の左手は弛むことなくそのままじわじわと強さを増してくる。そしてさらに、悪魔の右手があがった。
「腹を割いて、臓物を掴み出してさしあげましょうか」
 楽しげに、あまりにも楽しげに、悪魔は笑う。美しい笑み、されどその瞳は冷たく冴々と瀕死の大天使を見つめ、蛭のように濡れ光る唇は嘲るような歪みをつくる。
「だ……め……やめて……」
 座り込み、呟くように懇願するルシファー。アスタロトはそれを自分へのものととった。
「ルシファー様のお言葉なれど、聞けませぬな」
 ルシファーはまだ懇願の言葉をつぶやきながら、自分自身を抱きしめていた。まるで、自分のなかの何かを押さえ付けているかのように……
「だめ……」
「さようなら、ウリエル殿」
 アスタロトの右手が舞った。
「だめえっ!!」
 ルシファーの声とともに、巨大な何かが自分たちに向かってくるのをアスタロトは見た。彼はとっさに障壁を造り、その何かの到来に備えた。だが……
「!?」
 声を上げる間もなかった。アスタロトは今までにない衝撃をその身体に受け、後の壁へと飛ばされていた。壁に背を打ち付け、さらに前からは巨大な圧力を受け、その身を潰されんばかりであった。が、彼は己れの造り出した障壁があっただけまだましであった。同じく衝撃を受けた二匹の悪魔は、襲いかかる力に抗う術もなく、無惨なまでに押し潰されていた。口からは濃緑色の液体を吐き、身体のあちこちから骨らしき乳色のものが突き出している。腹は裂け、体液とともにはみ出た内臓がずり落ちていく。
 ――一体、何が……――アスタロトは無惨な部下であった肉塊から、ルシファーの方へと視界を移した。そして彼女の様子をみて、この惨状の原因を知った。
 ルシファーは身を震わせながら座り込み、その細い腕でその身を抱いている。涙を流してはいなかった。だが、自らの身体に爪を立て、その身を傷つけていた。血を流すほどに。きつく結んだ口元からも、鮮血が一筋落ちていく。彼女は心で泣いているのだ。
 悪魔たちをおそった衝撃は彼女が発したものだった。天使達を助けたいという彼女の想い、彼女自身にさえ御しきれぬその想いが、目に見えぬ力となって外に飛びだした。その力は天使の命を救い、その代償にアスタロトを傷つけ二匹の悪魔の命を奪ったのである。悪魔達の恐怖と苦しみ、一瞬のことでしかなかったがあまりにも大きなそれは、そのまま彼女へと伝わったのであった。
 だが、ルシファーにとって恐怖や痛みなど問題ではなかった。何よりも自分が他の者を傷付け死に至らしめたことが、彼女を責め苛んだ。今、彼女は自分自身を憎んでいた。心の底からその全てを滅してしまいたいと思っていた。しかし、彼女が死ねばサタンの魔力が増大してしまう。死ねぬ身の辛さに、自分の血を流すルシファーであった。
「恐ろしいお方だ……」
 ふらつきながらもなんとか立ち上がったアスタロトが呟いた。普通の傷なら魔力ですぐ治せるが、これはあまりに大きすぎた。弱まった魔力で少しずつ回復していくので、だいぶ時間がかかるだろう。が、ウリエルはさすがに今度は完全に失神し、ルシファー自身も抵抗できる状態ではない今、ことは簡単であった。いくら傷付いたとはいえ、彼女をつれて魔界へ帰ることぐらいはできるだろう。
「部下二匹を失いはしたが、所詮は使い魔。サタン様の命を果たしたうえ、大天使ウリエルを倒した代償にしては安いものだ」
 そう呟いてアスタロトはルシファーに近付こうとした。だが……
「よるな!」
 暗い夜の空から声が響き、闇が幽かに白くなった。光が、いや、光のように輝く天使が舞いおりてきたのだった。
「ミカエル……どうしてここに……」
「ミカエル!? 大天使長ミカエルか!」
 天使の降臨に気付き発したルシファーの言葉にアスタロトは驚愕した。大天使ぐらいならともかく、かつての戦いでサタン(当時はルシファー)と対等の能力を表した大天使長ミカエルが相手では、勝ち目はない。ましてや今の彼は傷付き魔力も弱まっている。
「まずいところにいらっしゃったものだ……」
 屋上に舞い降りルシファーに駈けよるミカエルをみながら、アスタロトは呟いた。その表情も口調も冷静そのものであるが、ルシファーにより瀕死の重傷を負っていることに変わりはない。
「ルシファー、怪我はないか?」
 ミカエルは相変わらず優しく語り、ルシファーの涙を拭ってやった。
「私なんかどうでもいい……ウリエルたちが……」
 ミカエルは軽く首肯き、横たわる天使たちに手をかざした。途端四人の姿は一瞬にして消え去っていた。
「ウリエル達は天界に送ったよ。向こうに着けば手当をしてもらえるだろう」
 その言葉にルシファーもやっと笑顔を見せた。あまりにも弱々しく悲しい笑顔であったが。
「ルシファー、帰ろう、天界へ」
「ミカエル……私は……」
「そうはいきませんよ」
 アスタロトが二人の会話を断ち切った。傷はまだ回復していないはずなのに、そんな様子は微塵もない。相変わらず静かな笑みをたたえて、美しい姿で彼は立っていた。
「ルシファー様の行くべき処は魔界……サタン様の御元です」
 ミカエルはルシファーをかばうように進み出て、アスタロトをにらんだ。ルシファーもミカエルの背にしがみつき、悲しい目でアスタロトを見ていた。
「まだいたか……よほど死にたいらしいな」
 勇むミカエルをルシファーは必死に止めようとする。これ以上自分の前で誰にも傷付いてほしくないのだ。が、当のアスタロトは二人のそんな様子に冷ややかな目を向ける。
「せっかく助かった命……死にたいとは思いませんね。しかし、ミカエル殿、よくここがお分かりになりましたな」
「あれほど大きな能力のぶつかり合いをこの私が感知できぬとでも思ったのか? ウリエル達にしては大きすぎる力の発動に、もしやと思って来てみれば……」
 ミカエルはアスタロトに憎悪剥出しの目をくれる。が、彼は少しも動じずに、それを真正面から受けとめている。ルシファーはミカエルの背後からアスタロトを見つめ、その瞳のなかに彼の想いらしきものを見た。
 アスタロトは何かを舞っている。ミカエルを前にし、彼が望みをかけ得るもの、それは……
「アスタロト……あなたまさか……」
 ルシファーは血の気を失い、アスタロトは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「サタンを喚んだの!?」
「その通り! しかもたった今おいでになりましたよ!!」
 アスタロトの声とともに、ルシファー達の目の前にサタンが現れた。夜の闇にこれほど相応しい美はあるまい。漆黒の髪は闇に同化し、夜の時を支配する闇そのものが彼であるかのように感じられる。そして、その中に一際白く、一際美しく存在する彼の顔容。それはまさに闇黒の空にたった一つ輝く明星のようでもある。
「久しぶりだな、ミカエル。そして……ルシファー」
 天使であった頃と変わらぬ美しきその姿に、しばし茫然としていたミカエルはやはり昔と変わらぬ美しい声によって我に帰った。
 ――これが悪魔なのか!? 天使であった頃のように、いや、それ以上に美しいこの者が悪魔の長なのか!?――
 そんなミカエルの動揺を余所に、ルシファーは先刻までの弱々しさを微塵も見せぬ様子でサタンと対峙していた。憎しみが今までの哀しみを忘れさせていた。それほど彼女のサタンへの憎しみは強いのだ。
「サタン……逢いたかった……」
 憎しみをこめてルシファーが呟く。
「私もだよ……ずっとずっと……逢いたかった」
 愛おしそうにサタンが呟く。
「殺すために」
 二人が同時に呟く。
「ずっとずっと……永い間おまえを憎み続けてきた」
 また、二人同時に呟く。根底に流れる感情はまったく同じもの――憎悪であるはずなのに、二人の様子はずいぶん違う。ルシファーはその感情を顕にしているが、サタンはまるでまったく別の感情をもっているかのようだ。
「おまえを殺せば私は全てが自由になる……死ぬことすらも」
 ルシファーのつぶやきに、サタンは微笑んだ。
「死ぬために殺す、か……初めて意見が別れたな……私は生きて全ての長になるためにおまえを殺す」
「今すぐに殺したい」
「すぐには殺さない。苦しみぬくように、ゆっくりと時間をかけて殺す。他の者の手には渡さない。私のこの手でおまえの身体を切り刻む。何人の手も触れられぬ程に」
 このお方だ、とアスタロトは思った。私が従うべきお方は、このお方だ。元は一人の大天使とはいえ、あの少女は私が信じたルシファー様ではない、と。
 突如、サタンはルシファーとミカエルに背を向け、アスタロトを手招いた。
「サ……サタン! 何のマネ!?」
 ルシファーの問いにサタンは振り向き、言った。
「言ったはずだ、今すぐには殺さぬ、と。どうせおまえも天界に帰る気はあるまい。いつでも下せる状態にあるなら、楽しみはとっておいたほうがよいからな」
 そしてサタンとアスタロトの姿は消えた。ルシファーとミカエルが止める間もなかった。
 そして、夜は更ける……