野島防波堤今昔

野島防波堤海津クラブ会長
東京湾黒鯛研究会会長
田中正司氏

南北に深く長く延びた東京湾は、首都を防衛するために湾口近く多くの要塞が築かれた。第一、第二、第三と続く海堡はその名残りである。そんな東京湾の西側、軍港・横須賀の守護神として造成されたのが野島堤防である。この堤防は、変化に富んだ海底と複雑な潮流が数多くの魚を育み、短竿のへち釣りという独特の釣法を完成させた。そして、いま現在も東京や横浜の黒鯛狂を魅了して止まない堤防である。

 東京湾。それは、神奈川県、東京都、千葉県と関東3都県に囲まれ、関東平野の中にまで深く入り込んだ内海である。
流入している主要河川は、鶴見川、多摩川、隅田川、荒川、江戸川、養老川、小糸川など数多く汽水に支配された湾だといえる。流出する真水と流入する海水が混じって複雑な水交換と潮流が起きるため、外洋系の魚と汽水域の魚が数多く混生している。こんな環境の中で野島防波堤(以下野島堤と略)は、神奈川県横須賀市の横須賀軍港を守る堤防となって、静かに横たわっている。
その生い立ちをたどると、古く江戸末期までさかのぼらなければならない。首都、江戸の防衛のため、東京湾口の横須賀に製鉄所と造船所が築かれたことに始まり、明治時代にはさらに一層の強化がなされた。それは、湾口である千葉県富津から三浦半島一帯の要塞化であった。千葉県側から第一海堡(埋め立て)、第二海堡(埋め立て)、第三海堡(埋め立て海没)、猿島の各要塞を築き、そのすぐ内側に要塞地帯の中心をなす横須賀軍港が築かれたことに端を発している。当時の要塞地帯は機密のベールに包まれており、地元の漁師でさえ堤防から20間(約36m)以内には近付けなかったと言われている。もちろん釣などできる状況ではなかった
そのような理由で、野島堤の築堤時期はハッキリとしないが、
・大正12年の関東大震災で沈下海没した部分が現在もそのまま残っていること
・明治37年の日露戦争の頃には、湾口の第一海堡が完成していた
以上のことから推察して、野島堤が明治末期から大正初期にかけて築かれた可能性がおおきい。

終戦の年から地元漁師に頼んで闇の渡船が始まる 
野島堤は谷あり瀬ありの東京湾特有の海底地形を利用し、水深9m前後の瀬の部分に大量の捨て石を投入、その上にコンクリート製のケーソンを積み上げて築堤した古いタイプの堤防だ。岩礁でできた瀬が無数にあり、谷の部分は水深20m近くまで落ち込む急斜面の駈け上がりがある。また、潮流が速い。したがって、魚が住むには絶好の条件を備えている。
クロダイをはじめ、アイナメ、カサゴ、メバル、シロギス、カレイなど四季を通して釣魚が豊富だ。
さて、この横須賀にある堤防がなぜ野島防波堤と呼ばれるようになったのか、すこし解説しておきたい。本当は、軍港防波堤か横須賀防波堤が正式な呼び名なのだが、渡船が出るのが隣接市の横浜市金沢八景である。この呼び名は近江八景にちなんで付けられたもので、かつては、野島、夏島、猿島などが点在する横浜の景勝地であった。その後、軍港化により野島夏島は埋め立てられ、両島間は海軍航空隊の飛行場となる。渡船の発着場がその野島の根元にあったため、いつの頃からか野島堤防と呼ばれるようになった。
この野島で釣が始まったのは、昭和20年の第二次世界大戦後で、横須賀軍港や軍事施設が米軍に接収された頃からである。釣そのものの歴史は、湾奥の商港である横浜堤防の方が古い。最初は、地元の漁師が燃料不足の船を操りながら、防波堤内で漁を始めた。それまで立ち入ることがかなわぬ聖域であったため、魚が多く大量の連続で評判が広まったと言われており、今でも土地の漁師の間では、赤城のブイ(航空母艦「赤城」専用の係船ブイで、ブイを築くために底が岩礁になっている)などの呼び名が残っている。釣人が野島堤に渡りだしたのもこの頃からだ。土地の漁師に頼んで、趣味と食糧難を満足させるため、闇で渡堤しクロダイを大量に釣って帰るようになった。当時は、2間半の竹の延べ竿に太さ5厘(現在の5号)の人造テグス。もちろんリールなどなく、今から考えるとずいぶん貧弱な道具でクロダイを狙っていた。そして、米軍監視の目を盗んでの夜釣り専門であった。

渡船代150円、正式な渡船許可は昭和34年から 昭和34年頃の野島堤防イラスト
当時の野島堤は、陸上の夏島から東に延びる赤灯堤と、島堤で東西に延びる青灯、白灯堤があり、その赤灯堤の中央に魚雷発射試験場の建物があった。この試験場の跡地でクロダイが良く釣れ、土地の老釣り師達は『発射場』の愛称で呼んでいた。しかし、あまり陸に近付いたために米軍のMPにピストルで撃たれたと言う話も残っている。そういう時代がしばらく続いたが、やがて米軍の接収も解除され、ようやく野島堤は海上保安庁の管轄になった。
昭和34年、今も渡船を営む村本海事が野島堤および第二海堡への渡船を海上保安庁に申請し許可が降りた。ここで初めて野島堤の釣が正式に日の目を見たのである。当時の船は27人乗り、渡船料金は150円、堤防までの所要時間は15分であった。このように渡船が始まると、関東各地から釣り人が集まるようになる。すでに横浜で使われはじめていた防波堤用の短竿が野島堤でも登場し、本格的なクロダイの昼釣りが始まった。
ここで、野島堤をはじめ関東各地の堤防で、なぜあのような短竿が使われはじめたのか、そのルーツを少し紹介しておきたい。短くて先調子の特殊なクロダイ竿が、いつ頃登場したのか定かではないが、第二次世界大戦後、横浜堤あたりが発祥の地だといわれている。船釣り用の手バネ竿や江戸前の海津竿を、繊細なクロダイ釣に向くように改良を加え完成していったものと聞いている。この防波堤用短竿は長さが1,4〜2,7mと非常に短く、よほどの大型が掛からない限りほとんど曲がらない硬い胴を持つ。その一方で穂先は糸のように細い極端な超先調子の竿だ。穂先の調子は関東各地の堤防の立地条件などに合わせて、8:2調子の横浜竿、9:1調子の野島竿などが生まれた。しかし、現在はメーカー品が数多く出回るようになったのと、釣り人の好みが多様化してきたため厳密に区別される事もなくなってきている。

東京湾の開発が進みドック堤の完成から第二期黄金化時代へ 昭和45年頃の野島堤防イラスト
なぜ関東の堤防では、短竿が主流になったのだろうか?その答えを考えてみると、最初に堤防と海面までの高さの問題がある。横浜堤にしろ野島堤にしろ、防波堤から海面まではわずか0〜2m位しかない。こういう低い堤防でクロダイの有望なポイントであるヘチ(壁面)を狙うには、長竿ではかえって不便だった。しかも足場が良かったから、糸のバカをうんと出せば(飛ばし釣り)、長竿以上に沖目を探ることができるという利点もある。短竿だから鋭敏な穂先がすぐ目の前にあるので、道糸に出る変化もつかみやすい。また、硬い胴とあいまって瞬間的に合わせが効くこと、携帯に便利で軽いこと、片手で操作できるため魚をあしらいやすく、一日釣っていても疲れにくい等・・・いろいろな利点がある。その後、高い防波堤に合わせて釣技が開発され、堤防の万能竿として今日に至っている。
さて、昭和34年の正式な渡船の始まりと短竿での釣が幕を開けた頃が、野島堤の第一期黄金時代といえる。当時はまだ短竿だけでなく、両手に長短2本の竿を持ち、短い方で関西のコスリ釣りのようなスタイルで壁面を探り、長い方の竿で沖目を探るという両刀遣いが結構いた。それで、そこそこの釣果も上がっていた。しかしその後、東京湾の開発が盛んになり、埋め立て事業が各地で始まった。この影響で、野島堤もその姿を変えることになる。
夏島から延びていた赤灯堤を一端とする埋め立て工事が進み、埋め立て地には住友ドックが誕生した。ドックの出現によって、進水後の新船を守るため新たにドック堤が築かれた。ドック堤が完成すると、赤灯堤の代わりに新築のドック堤への渡船が昭和45年に始まった。そしてこの頃が、野島堤の第二期黄金期だったといえる。昭和46年、築後2年目のドック堤に黒貝(イガイ)の稚貝が付きだした頃、連日クロダイの釣果にわいた。渡船宿で記憶しているところによると、1〜2kgの大型クロダイばかりを28枚というのが最高記録だったという。また、名人と呼ばれる釣り師が輩出したのもこの頃である。また、時を同じくして、デュポン社から黄色の蛍光ラインが発売された。それまでは、道糸に蛍光塗料を塗ってフカセ釣をしていたが、この蛍光ラインの出現によって、微妙なアタリが取れるようになり、クロダイのフカセ釣り釣方も完成の域に達したのである。

昭和52年に再び転機。航路拡張のために防波堤を大改造 昭和52年頃から現在の野島堤防イラスト
昭和52年、再び野島堤に転機が訪れる。すでに完成していた住友ドックの航路拡張のために、従来島堤であった青灯台(旧赤灯堤防が埋め立てで消失したため、島堤側を青灯台と白灯台に改めたもの)の陸地寄りの100m程を削り、代わりに関東大震災で水没していた部分を新たに接続した。この工事でようやく現在の野島堤が出来上がった。
現在の野島堤が完成してから、従来のフカセ釣りに代わって登場してきたのが落し込み釣だ。フカセ釣はできるだけ軽いオモリを使い、エサをフワフワと漂わせながら自然な沈み方で流す。そして、たるませた糸フケでアタリを取る。これと対照的なのが落し込み釣りだ。オモリを重くして、海面に対して道糸を垂直に入れ、ポイント、ポイントを探り歩いていく、落ちて来るエサに興味を示すクロダイの習性をうまく利用した釣法。この原理は仕掛けこそ違うが、大阪や名古屋の落し込み釣と同じものだ。潮に乗せて沖目から壁面まで、自然にエサを流していくフカセ釣が線の釣なら、ポイント、ポイントを攻めていく落し込み釣は点の釣だといえるだろう。
このような変遷を経て現在の野島堤があるわけだが、その間にも数々のエピソードがあった。その中でも思い出に残るのは、昭和54年、東京湾にサバガニと呼ばれる遊泳性の小型ガニが大発生した時だ。甲長1〜1,5cmの小型のカニが海面を茶色く染める程大発生し、東京湾を泳ぎ回った。そして、このカニをエサに湾内各地の防波堤でクロダイの大釣りが続いた。このカニは正式にはオヨギピンノ(ピンノ=カニの事)といい、普段は砂泥中に生息するチンチロフサゴカイの巣の中で、一匹ずつが共生しているが、何かの変化で時々大発生する。このカニが発生すると、魚は他のエサには見向きもしなくなる。だから、クロダイからシマダイ、スズキ、かサゴ、ボラ等、みなこのエサで釣れた忘れられない思い出がある。
さて、筆の走るままに野島堤の事を書き綴ったが、私もすでに20年近くも通い続け、これからも通うであろう野島堤の魅力とはいったいなんであろうか?その魅力といえるものをいくつか上げてみると、釣れるクロダイが1kg以上の大型が多く、関東でチンチンと呼ばれる20cm以下の小型がほとんどいないこと。防波堤の形状と潮流が複雑で、クロダイが壁面から沖合いまで幅広く生息しており、変化に富んだ釣が楽しめること。また、水深が浅く、掛けた魚は沖合いへ疾走し釣味のいいことなどが上げられる。

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