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秀吉から竜馬へ (平成15年2月10日)
豊国神社豊国神社〜八坂の塔
いつもの如くチャリンコ漕いで出かけます。しかも今日はデジカメと一眼レフの二刀流、鬼に金棒(?)です。
川端正面を東に折れて庶民的な商店街を抜けると道が急に広くなります。その突き当たりに秀吉を祀る豊国(ほうこく)神社があります。写真の唐門は京都にある三つの有名な唐門の一つ(他は西本願寺と大徳寺にある)です。入らなかったのですが宝物館には秀吉の歯などあるそうです。
豊国神社の北隣に大きな梵鐘がある方広寺があります。秀吉はここに奈良の大仏殿より大きい高さ50メートルの大仏殿を建て(1588年〜1595年)19メートルの高さの大仏を造り納めました。しかし翌年地震で大仏殿は倒壊します。その後も不運は続き何度か火災や地震に見舞われますが秀吉の遺志を次いで秀頼と淀君親子はその度に再建させて豊臣家の威信を守り通しました。そして大きな梵鐘を完成(1614年)させますが梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に家康は激怒します。「国家安康」の文字は「家康」を切り離す陰謀だと解したのです。家康はその後大阪城を攻め(いわゆる「冬の陣」「夏の陣」)豊臣家を滅亡に追いやりますが事の発端がこの梵鐘の文字だった訳です。疑問に思うのは今もこの文字は残っている(この写真にもかろうじて写っています、さてどこでしょう?)のですが何故家康は消すように命じなかったのかです。それとも消された後に誰かが刻んだのでしょうか?
大和大路を北へ行きしばらくして右側に折れると目立つように赤レンガの建物が見えます。関西テーラーという会社ですが建物は使用されていない(倉庫?)ように見えました。親父が昔ここで背広を誂えてもらっていたので今もここのハンガーが家にあります。
馬町に出て東山通(東大路)を左に折れ五条坂、清水道(ここから西は松原通で六道珍皇寺は近い)を過ぎ右側を注意しているとどこか写真で見た風景に出くわします。風情のある石畳の坂道の向こうに東山を背景にした八坂の五重塔が見えます。石畳の坂道をチャリンコ押しながら塔の前を通り過ぎると甘党の「文の助茶屋」があります。以前は高台寺近くにあったのがここへ引越したそうです。
西テーラー(旧村井兄弟商社たばこ工場)
日本のたばこ製造工場発祥の地
方広寺の梵鐘(上)
豊国神社(左上)地図リンク
関西テーラー(左下)地図リンク
八坂の塔 地図リンク
文の助茶屋と八坂の塔
霊山護国神社山腹からの眺め 看板の説明文(やや読みづらい) |
竜馬と中岡慎太郎の墓 地図リンク |
三年坂〜坂本竜馬の墓〜正法寺 二年坂を下りきった所の石鳥居をくぐり抜けだらだら坂(維新の道)を上ります。曲がり角の右には霊山歴史館がありますがあいにく休館日。左側の霊山護国神社内に竜馬の墓への入り口があって自動入場機(?)にお金を入れて入ります。山の斜面のつづら折れの石段を登ること数分で見晴らしのいい場所に出ます。無人の休憩所があってベンチや自販機が置いてありここからは八坂の塔を始め京都市街が一望できます。 ここからすぐ上に目的の竜馬ら幕末の志士が眠る墓があります。ここからも市街が見晴らせます。石鳥居の正面のこじんまりとしたふたつの石碑のうち左のほうには坂本竜馬、右のほうには中岡慎太郎の名が刻まれています。 鳥居の両側には両名のファンであろう参拝者の思いを書いた多数の石板が立てかけてあり読んでいると結構面白いものがあります。ちなみに石板は下の神社で売っているそうです。 参拝者や石板を見て実に多くの若いファンが竜馬を尊敬し憧れている事に気付かされます。もし竜馬が暗殺されずにいたら今の日本もう少しましな国になっていたでしょう。きっと竜馬も今の日本を憂いながらここから見守っているのかもしれません。 下へ下りてから霊山歴史館の前を通りすぎ登りつめると左手に長い石段が見えます。正法寺というお寺です。一見寂れた感じの普通のお寺ですが立て札の説明文から由緒があり栄えた時期もあったようです。 石段を降りて下り坂を歩いていくと住宅やマンションが見えてきます。坂の曲がり角には推理作家西村京太郎と故山村美沙の邸宅が並んでいます。その先を行くと三年坂に戻ります。 |
正法寺 地図リンク |
正法寺の立て札 |
結局八坂の塔に戻ってきました。日暮れを待って情景を表現できる写真を狙うのもいいのですが次の機会にします。
左2枚はデジカメ、右の1枚は一眼レフで撮っています。こうして比較すると画質はともかく一眼レフのレンズは色合いが自然で雰囲気が出ているように思うのですがいかがでしょう。ところで舞妓姿のお二人さんは観光客です。近くに観光客が舞妓に変身できる店があります。本物の舞妓さんは普通この辺を歩きません。