先生の記

  ―中学校編―

   三瓶美矢子

 突然電話が鳴った。矩燧に足をつっ込んで見るともなく春風馳蕩たる空を、春風馳蕩たる顔で見上げていた私は、ともすれば閉じてしまいそうな瞼をかっきりと見開いた。電話は目の前にある。それでも「よっこらしょ」と声をあげて受話器を取った。何をするにもこれらのかけ声を掛けてしまうくせがある。老化現象の最たるものであろうか。

「はいはい、三瓶です」

「あ、先生、泰子です」

「あ、泰子さん」

[先生、あしたあの村へ行きましょう。車でお迎えに行き ます」

「あの村、泰子さん、あの村って」

「先生が初めて先生になられた村。貴船神社のある村。冬は吾妻嵐で雪女が舞い上がる村」

 彼女は一気にそう言った。

 「ええツ」

 思いがけない電話の内容に私は絶句してしまった。

 「何しに行くの」

 「あの小学校を見に」

 「もうあの小学校はない筈だよ。何しろ五十五・六年前のことだもの。田んぼだって畑だって、もうあの面影はないと思うよ。小学校だってどこへ行っちまったか・・」 突然の話に周章ててしまった私は小学校の校舎を放浪者でもあるかのように口走っていた。純農業指定地区だから、他町村からの移住も認められないのだと、あの村の先輩は前に言っていた。それなのに、村の姿が一変する程大きな工場が建ち、その土地買収にあたっては、村民同士軋蝶を生じる程の騒ぎであったのだと、また、その先輩は話してくれた。その工場の偉容は、まさに福島の川崎市というべきかなどと苦笑を交えながら話し合ったのであったが。だから、小学校は私の知らない土地に建てられたであろう。思い出のある元のポロ校舎ならいざ知らず新しい小学校を探してそこへ行きたいとは私は思わなかった。

 長谷川伸の名作「瞼の母」の番場の忠太郎のように、会わなければ恋しい母の姿が瞼の裏に浮かんだものを、苦労して会ってそれを消してしまった・・という嘆きはしたくない。龍宮でおとなしく乙姫と暮らしていれば懐かしい故郷の海辺を思い浮かべられたのに帰って来たばかりに白髪の老人になってしまった浦島太郎の愚を私はやりたくないなどと気持の上ではごねてはみたが、彼女の次の一言でとたんに私は豹変してしまった。どうやら私は君子の素質があるようである。けだし、簡単な精神構造ではある。

彼女は

 「先生、村井くんが来るのよ」

 と言ったのである。

 「村井君が」

 「はい、わざわざ来るんですよ」

 「何のために」

 「何言ってんですか!あの小学校を見るためにですよ」

 「千葉の浦安からわざわざ?」

 「そうですよ、もう行くひとすっかり揃ってるんですよ」

 これでは豹にでも熊にでも
変ぜざるを得ない。

思わず

 「行くよ、行くよ」

 と言ってしまっていた。

 平成十三年三月上旬、私たち七・八名はそれぞれの車に分乗した。 陽ざしは麗らかな日であったが、行く手は名にし負う吾妻嶺の麓、私はだるまのように着ぶくれて、さて、懐かしのその村へ向ったのである。 昔は一本道であったのに、いろいろな道路ができたせいか、あっちを曲り、こっちを直進し、私には何の覚えもない道を右折左折してやっと村の入口に乗り入れた。

「これからどう行くんですか」

 どう行くんですかと言われても道も家並みも変っていて、どの家が誰くんや、何ちゃんの家か見当がつかない。目印がなくなっているのである。 「とにかく右側にお寺がある筈だから、そこを右に曲って真っ直ぐ行ってみて・・東西に走る道に出るから、そこを左へ行くと右側に小学校があったの」 危しげな道案内である。田んぼをつっ切って小さな川を伴いながら東西に走っていた道はもうなくなっていた。近代的に舗装された幾何学的な道路はその左右に巨大な工場群を擁し、植樹された並木はー本の雑木の存在も許さなかった。私はだんだん浦島太郎子になりそうであった。小学校はどこだ。

 「先生、どこでしょうね。通る人がいないから尋ねようもないですね」

「とにかくもう少し走ってみて・・右側に貴船神社という社があるの。こんもりと小高く木が茂っていて、ほら、学校の防空壕があったとこよ。それを目当てにしましょ」

「ああ、ヨッチが騒いだ所ですね」

「そうよ。渡利の田んぼの爆弾を聞いた所よ」

ヨッチの顔が浮かんできた。六十歳をとっくに越えたヨッチはどこであの金つぼ眼を輝かせているのであろうか。困ったとき抱きつく胸が、その後も彼の人生にあらわれたであろうか。元気でたくましく生きててほしいと私は祈るように思った。誰も彼の消息を知らない。

 貴船神社は昔のままにしんと鎮まっていた。そこだけは昔のままであった。私達は車の中で歓声をあげた。昔が一つ甦ったのである。その昔の場所に旧市内のナンバー校にも見られないような超近代的な小学校が建っていた。それは小さいながらも、目の前にある大工場群と対をなすようなたたずまいであった。私は呆然として立ちすくんでしまった。これは私の小学校ではない。私の愛した小学校は古ぼけた木造の建物だった。玄関には用務員が時間毎に打ち鳴らす小さな鐘がぶら下がっており、そして校名を墨書した腿せた木の札が風に音を立てながら下げられてあった。がたぴしと軋む玄関の戸を開ければ、そこは校長室兼職員室兼応接室の小さな部屋であったのだ。

 今、鉄筋コンクリート二階建ての校舎が高だかと建築の粋を誇り、吾妻山への眺望を妨げている。校名を示すプレートはコンクリートの門扉に横長に打ち込まれ「福島市立水保小学校」と読めた。昔のものは何もない。私には縁のない学校になってしまった。まさに私は「浦島太郎子」になってしまっていたのである。

 私が今昔の感に打だれているとき、他校の教え子である

被らは.村井くんを先頭にすたすたと小学校の玄関に入って行こうとした。

 「あなた方は関係のない学校だし、私ももはや五・六十年前にいた学校だから、ただ外から眺めればそれでいいの、もう帰りましよ」

 と言って止めたのだが彼らはきかない。

 「ごめん下さい。校長先生はいらっしゃいますか」

 と言いながら入ってしまった。

 これから年度末の職員会があるという校長先生は瞬時困ったような顔をされたが、それでも校長室へ招じて下さった。すばらしく整備された超近代的な大きな部屋で、昔の兼兼のいっばいつく小さな校長室とは雲泥の差であった。校長先生とかれらとの話し合いの中で、

 [私たちは福島の四中で、この先生にお習いしたのですが、先生はこの水保小で初めて教員になったのだと仰言いましたので、ぜひその小学校を見せて頂きたいと思いましてお伺いいたしました。お忙しいところすみませんでした」

 と彼らが言うと、

「四中?私も四中卒業ですよ」

「えっ校長先生は何年度ですか」

「三十年度です」

「私達、三十一年度です。一年先輩ですね、ではこの先生に見覚えはおありですか」

「さあ・・」

 私ももう定年になられたというこの校長さんの少年時代の顔は思い出せなかった。私が授業に出ていなかった年度でもある。そして私は病気で休んでいた。

 「そう言えば・・」

 校長さんは自信のなさそうな顔で言われた。

 「たいへん威勢のいい女の先生がいましたね」

 「ああ、その先生ですよ、きっと」

 とみんなで笑った。不思議な縁である。

 私達のために職員会が待だされていたのでその職員の方が校長さんを迎えに来られたのを機に私達もお暇を告げた。村井くんは浦安に通子さんは仙台に、長島さんも三品さんも小松さんも家へ帰れば忙しい主婦である。それなのに何故?と貴船神社を眺めながら思った。神社だけが昔のままの姿である。私が断ってもここへ連れてきた彼等の意図がほの見えてきたような気になった。自分達には何の関係もないこの学校に興味を持ったというよりは、この私をここへ連れて来たかったのかもしれない。老いて何もできなくなったかつての教師に、その始発駅である学校を見せてくれようとしたのかも知れないのだ。昔の夢をみせてくれようとしたのではないか。でなければ、浦安や仙台やらからわざわざ来てくれて、馴染みのない村へ来る筈がないではないか・・。と思った。有難くて涙がこぼれそうであった。浦島子だの忠子だのと思ってはいけないのだ。万物は変転する。この村もコンビナートが村の容貌を変えたとはいえ、

吾妻山が風を吹きおろし、村の社が毀たれずに在れば、それはれっきとした水保村なのである。でも、五・六十年の歳月は私からすべての若さを奪ったが、この村は老いたのであろうか、若返ったのであろうか。生々流転、老女独りの感傷など何するものぞ。天も地も、便利になりすぎた道も、新しく建てかえられた家々も、そしてすばらしい小学校のたたずまいも、浅い春の風の中にうそぶくかに見えてきた。

「もしもし、泰子です」

 電話が来た。またまた泰子さんからである,今度は何をタクランでいるのかなと私はにやにやしながら「はいはい」と返事をした。

 「ずい分暖かくなりましたね。明日あたり又車で出かけませんか」

「また何か仕掛けがあるんでしょ」

「先生の会いたいひとに会わせます」

「まさか・・」

「え?・・」

「昔々の私の、幻の恋人じゃないでしょうね」

「それがそうなの。先生、マー君に会いたくないですか」

「マー君?本当にマー君?」

「はい、明日の昼休みに一緒に食事しようって。先生、会いたいでしよ」

 「会いたいよ、泰子さん、とても会いたい」

 「でしょ。じゃオーケーね。十一時半頃お迎えにいきます」

 マー君に会えるという喜びが体を染め上げていた。彼女らが何を企んでいようとも、マー君に会えるのだ。またまた釣られて行こうか。私は狂言の「釣狐」や「釣女」のようにすぐ目の前に垂れた餌に喰いつく。

「マー君に会わせる」が彼女らの垂れた糸であっても、私は喜んでこれに喰いついた。「釣狐」は猟師が罠をかけて動物を捕えることを止めさせようと、年を経た狐が猟師の叔父(白蔵主)に化けて懇々とその非を諭し、納得させて帰る。ところが猟師はこれを狐と見破り、途中に狐の好物の餌をしかけておく。帰途これを見た狐はそれが罠だと知っているのだが、自制心は欲望に負け、ついに捕まってしまう。 「釣女」は大名と太郎冠者が釣に行き、大名は美女を釣上げ、太郎冠者は醜女を釣上げてしまう。忌気揚々と引きあげる大名の後からトホホホと嘆きながらついて行く太郎冠者のべそをかいた様子がおかしい。さて、私はどちらの釣に当るのであろうか。昔の生徒達が(釣る猟師)であるならば、私は喜んで(釣られ狐)になろうではないか・・と思った。また私が(釣られ女)であるならば、いったいどちらの男に釣られただろうか。私は美女ではないから大名は釣るまい。自分で醜女とは思いたくないが釣ってくれるのは太郎冠者しかいない。しかし実際の私の人生においては太郎冠者さえ現われなかったのである,私はむなしく又水の中にもぐる・・という図式ができあがる。

 マー君に会わせるという泰子さんの声に、(釣られ狐)の血が騒ぐ。昔の生徒に会うということは、老いた私の唯一の楽しみなのである。

「貴女は男生徒を変態性にし、女生徒を蕩す」

「貴女の生徒への愛情は、お祖母さんが孫を可愛がるような盲目的なもので、理性的ではない。それでは教育者としての資質はない」と初めて先生になっだ小学校の校長に言われたっけが、変態性にもならず、蕩けもせず立派に成長してくれた教え子達に対して、私はメロメロと蕩ける。会えるとなれば餌が無くともいそいそと釣られにいく。

 翌日、泰子さんと長島さんが迎えに来てくれた。無口で沈着冷静な長島さんは静かに笑みながら、行動力がずばねけていて人に親切な泰子さんは頬を赤く染めながら車のドアを開けてくれる。車は又もや駅を越して西に向う。昼休みの時間を利用して会いに来てくれるというマー君はそのレストランの入り口で待っていてくれた。

「マー君」

 と叫んだきり私は絶句した。瞼が危しくなってきた。彼は中学一年に私のクラスに入ってきたときと全く同じ顔をして笑っていた。胸いっばいに思いをたぎらせながら、悪い足をよたよたと引きずり歩く私の手を取るようにして、店の中の席を自分の向い側に取ってくれた。さて腰をおろして彼の顔をつくづく見ると彼はふふふというようにてれて笑った。

「体を悪くしたんだってね。体育の万能選手だったのに」 と私は言った。白鉢巻短パンツの彼の勇姿が浮かんでくる。

「猛烈社員過ぎたのですよ。で、すっかり体を壊しちゃって」

 高校を卒業するなり、請われて「東芝」に入社したのは知っていた。たいへん「東芝」から気に入られて、是非ということで入社したのだという。人柄に惚れ込まれたということであった。順風満帆の人生だと教師達も同学年の生徒も思っていた。だから彼が体を壊して退職したと聞いたときはみな吃驚し、早い快癒を祈ってもいた。彼は中学二年になるとき、組替えがあって私のクラスではなくなった。でも中一から中三までの教科担任であるから、どの生徒もみな可愛いい私の子供である。初め順風は吹いたのだが・・満帆とはいかなかった。帆は綻びたのである。理由はどうあれ、若い男が一生を賭けた仕事をなげうたなければならないというごとは彼にとって不幸なことであった。あの爽やかな、男の見本みたいな子がと思うと可哀想でならなかった。でも今、目の前にいる彼は若いときと全く同じような爽やかな熟年になっていた。

 食事をしながら彼はふと言った。

 「俺、中学のとき、みんなに先生のピー子だって言われていたんだよな」

 マー君は遠い所を見る眼差しになっていた。淡い哀愁を含んだ優しいその眼の中に白い雲が浮いていた。

 「おやおや、そんなこと言われてたの。そうかなあ。私は生徒全部がピー子だったんだけどな」

 と私は言った。

 「そうですよ先生、マー君は先生のピー子だとみんな思ってましたよ」

 と泰子さんは笑った。長島さんもひっそりと笑っていた。

 「先生に可愛がられるのをピー子と言うなら、私は小学校のときは先生のブー子だったのよ。私が生意気だったんだろね。私はその女先生が好きだったんだけど……。意地悪されて泣くようなら向うも手をゆるめたんだろうけど、私は負けなかった。真正面からぶつかってしまった。そのまま張り合って卒業したんだけど、さすがに卒業近くになって先生は私に詫びられた。勝ったとは思わなかったね。ただ淋しかった。愛されなかったことよりも、詫びられたことが淋しかった。生徒達はみんな先生に愛されたいのだよね(私も愛してほしい)と私は焼けつくように思っていたっけ。私はその悲しみを知っていたから教職に就くとき、決して依恬聶屑だけはすまいと思ったの。それが私の教育信条だったんだけどなあ。やっぱり(忍ぶれど色に出にけり)だったかなあ」

 私は語っていながらその女教師の顔を思い出していた。愛してはくれなかったが、信じてはいてくれた。教え子と子のつく者を愛せなかった苦しさが先生にあったとしたら、辛い毎日であったかなと思った。

 マー君は明るい顔で笑い、明るい声で話した。中学生のときのように。挫折は語らなかった。しかし未来も語らなかった。そこにマー君の男の美学があった。

 マー君が三人の食事代を払ってくれて、別れの時間が来た。彼は職場へ戻るのである。私達は九月の同級会を期してそれぞれの車に乗った。動き出した私達にマー君はいつまでも手を振って見送ってくれた。

 「さて、先生」

 泰子さんが言った。それきた・・と私は思った。

 「西へ行きます」

 [西へ何しに」

 「中学校を見に行くんです」

 「どこの」

 「福島市立吾妻中学校」

 「何しに」

 「四分の一が水保中学校です」

 「またかい。どうしてそう興味を持つの」

 [先生の中学教師としての第一歩の所です]

 「じゃあ『校長先生いらっしゃいますか』なんてやらないでよ」

(はい)とは言わなかった。やる気だなと思ったが、私はそれ以上何も言わなかった。マー君と会った深い感動が心を占めていたからかもしれない。

 「俺、先生のピー子だって言われてたんだ」

 私は車の中でまだその言葉に掴まれていた。あの深い眼の色と、その眼の底に浮かんでいた白い雲を思い出していた。ピー子か・・それならピー子よ。貴君はおそらく、貴君を取りまくひとがとすべてのピー子だったと思うよ。だから、東芝も貴君を一眼見て貴君を欲しくなった。ピー子にしたんだと思うよ。元気を出してね、わがピー子よ。あらゆるひとに愛されるということは希有なことなのですよ。

 車が止った。吾妻中学校前である。ここら辺はまだまだ農村の面影を残し、吾妻山はさえぎるものもなく聳えていた。 車から降りた泰子さんは止める間もなく、つかつかと玄関の戸を開けた。

 「ごめん下さい。校長先生はいらっしゃいますか」

 と言っていた。

 「今日は校長先生がいらっしゃいませんので私が代りまして」

 教頭さんらしい優しく親切そうな方が、私達を招じ上げて下さった。

「これが水保中の卒業生台帳ですよ」

 こちらがお願いする前に、その先生は名簿を持ってきて下さった。思わず手に取って何気なく開いた頁は、なんとあの生徒達の名前の所であった。顕三の名前の上に赤丸がついていた。総代の印であろうか。続いて金コ(阿部金一)と真面目な字で書かれていれば、金コもマジメにならざるを得まい。不思議なことに顕三は前の欄に(後藤俊夫)次の欄に(阿部金一)と早やはやと故人になってしまった二人にはさまれていた。

 私が青年になった金コと会っだのは、俊夫の父の経営する山の温泉宿であった。電気の通っていない部屋はランプの明りがおぼろで私達はお膳を並べて共に食事をした。俊夫くんのお父さんはその宿の主でありながら、自分のお膳も運んできて仲間に加わり、料理を運んできた奥さんに睨まれていた。みんなで水保のこと息子のことを語りたかっだのかもしれない。俊夫くんも病いでなくなったという。大柄で色白のおっとりと穏やかな少年時代の顔が目に浮かぶ。

 この生徒達の名前を見ると、私は別れて五十年を越す彼らの顔がみえてくる。 金コ、チヤーニー、イワオ、セイジ、ヨツチ、etc・・これらの生徒達の名前をみ、その顔を思い出せば、名前と顔が揃ったからには、これはあの中学校でなければならないのだ。あの中学校、そうだ、あの中学校。

 福島県信夫郡水保村立水保中学校・・。                続く

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