新田神社は新田義興公を祀る府社で、本門寺の南西約1.5km隔て、東急多摩川線武蔵新田駅より約2分の所に位置します。昭和20年4月に戦災で全焼しましたが、昭和35年に復元されたものです。
新田神社
義興公は新田義貞公の第二子(幼名徳寿丸)で、元服の折り後醍醐天皇より「義貞の家を興すべき人なり」として『義興』という名を賜り、「従五位左兵衛佐(さひょうえのすけ)」に任ぜられました。

ところが、足利尊氏の謀叛に対し、父義貞公亡き後、義興公はよくその意志を継いで新田一族を率いて吉野朝(南朝)の回復に尽力。武蔵野合戦などを始め各地で奮戦、終始一貫その忠義を尽くされましたが、正平13年(1358年) 10月10日、足利基氏の執事である畠山国清、江戸遠江守らの卑怯なる謀略により、多摩川の『矢口の渡し』で舟を沈められ壮烈なる最後を遂げました。


その後、義興公の怨霊が現れ、悪計加担の者どもに祟りを及ぼしたり、夜々「光り物(火の玉)」が矢口付近に現われて往来の人々も悩ますようになりました。そこで、義興公の御霊を鎮めるために、義興公の墳墓の前に社殿が建てられ、「新田大明神」として広く崇め奉られました。これが新田神社の起こりです。


江戸時代に入ると、将軍徳川家の祖先がこの新田家であることより、松平家から「縁起絵巻物」や「石碑」の奉納などもあり、「武家信仰の神社」として栄えました。また蘭学者である平賀源内が新田神社に参拝して、この縁起を浄瑠璃・歌舞伎「神霊矢口の渡し」として脚色し、現在でも一部分が歌舞伎座など各地演芸場でしばしば上演されています。
新田神社の七不思議
義興公の『怨霊』
新田義興公の自刃後七日七晩、雷が鳴り続き、謀略によって手柄をたてた大江戸遠江守(とうみのかみ)が矢口の渡に再びさしかかった時、一天にわかにかき曇り雷火が轟き、黒雲の中より義興公の『怨霊』が現れ、それに驚いた大江戸遠江守は落馬し狂い死にしたと言われています。
また義興公の怨念は『光物(火の玉)』となって、矢口付近に夜な夜な現れ、往来の人を悩ましたとも言われています。
御塚御塚
神社後方の御塚は義興公のご遺体を埋葬した所で、直径15mの円墳です。この中に入ると必ず祟りがあると言うことから「荒山」「迷い塚」などとも呼ばれています。

昔盗賊がこの御塚内に逃げ込んで隠れようとしたが、意識不明となり、村人たちに捕まったことが数回あると, 江戸時代の古文書などに記されています。
船杉
御塚の中にある『舟杉』は義興公の乗られた船と鎧を埋めた物が杉になったと言われています。(雷にて消失)
篠竹篠竹(旗竹)
篠竹は御塚後部に生えていますが、この竹は源氏の白旗を立てた物が根付いた物で『旗竹』魔除け『矢守』と言い、雷が鳴るとピチピチと割れたと言われています。またこの『旗竹』はよく繁茂叢生したが、昔から決して神域には生えてこない不思議な竹とされています。
江戸時代に平賀源内がこの篠竹で魔除けとして「矢守」を作り、新田義興公の御神徳を仰がしめることを勧めました。
爾来、新田神社独自の破魔矢として正月初詣の参拝者の人々に社殿内で授与するようになりました。
うなる狛犬うなる狛犬
謀略を企てた足利基氏家臣の畠山一族の者、またその血縁者・末裔が新田神社付近に来ると決まって雨が降り、「狛犬」がうなると言われています。

当時の狛犬は戦災で一体が壊れてしまったため、残りの一体は境内「臥龍梅」の根元に奉齊されています。
御神木(欅)御神木(欅:けやき)
樹齢約700年の『御神木(欅)』には過去に雷が落ちたり、戦災の被害にあって真二つに割れていますが、新緑の季節になると青々と葉を付け、参拝者に一時の安らぎを与えています。
また、古木上部には珍しい「宿り木」が寄生しています。
頓兵衛地蔵頓兵衛地蔵
悪計に加担した矢口の渡しの船頭が後に前非を悔い『地蔵(頓兵衛地蔵)』を建立し、新田義興公の冥福を祈ったが、その地蔵の石体が崩れて溶けているのは、義興公の祟りによるものと言われています。

この地蔵は多摩川線を挟んで反対側、武蔵新田駅と下丸子駅のほぼ中間に位置します。(当時の多摩川土手に当たる場所)

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