介護の始まり
 父の健全な時代は週に1,2回家政婦に出向いてもらっていたが、食事など身の回りはできていたので、一応二人の生活には殆ど手が掛からなかった。しかし、父の突然の出来事にショックを受け、入院することになって以来、母は何事も手に付かなくなり、食事を作ることもできなくなった。このため父の面倒と朝晩の両親の住まいの見回り及びゴミの処理は自分が見るが、母の食事に関しては妻に依頼することとなり、妻も当然のように対応してくれていた。

 1998年4月に父が入院して以来、このような状態が2002年春頃まで続いていたが、妻の脳障害が徐々に進行し、正常に炊事ができなくなり始め、やむなく2人の介護人を抱えた主婦業の始まりとなった。

ヘルパーとの”いざこざ”
 年を取ると大なり小なりボケが出てくる。気丈な母もご多分に漏れず、少々ボケが出ている。先ず、若い頃のことは良く覚えていて何遍でも繰り返して話をする。反対に今話したことや、したことを直ぐ忘れてしまう。また日常生活の身の回り品や食べ物が本人にとって宝物で有るらしい。ヘルパーとのいざこざ(母親の一方的な思い過ごしであるが)の原因は「物がなくなった。」に始まり、全て「ヘルパーが盗んでいった。」につながり、「あのヘルパーは盗み癖があるので、注意していないと駄目だ。」となる。非常に些細なこと、例えば、「櫛がなくなった。」「ヘアブラシがなくなった。」とか「ハサミがなくなった。」など何回起きただろうか。基本的生活パターンは、これらの身の回り品を入れたバッグを提げて、寝室と居間との間を行ったり来たりしている。そして目の前に目的の物が見つからないと全て、盗まれたとなる。

 例えば居間にいて「ヘアブラシがなくなった。」と電話を掛けてくる。そして行ってみると「昨日ここで使ったヘアブラシがない。」と言い、「昨日来たヘルパーが持っていった。」と主張する。「ヘルパーはそんな物を持っていかないよ。」といくら言っても「一寸トイレに行っている間に、変な行動をしていた。」となる。大体置きそうな場所が分かっているので、寝室に行って探すと大抵物は出てくる。「寝室にあったよ。」と持って行くと、物が出てきて安心すると同時に、今まで散々言っていたことは全て忘れ、涼しい顔をしている。

 物の場合は探せば出てくるので、始末が良いのだが、食べ物や消耗品は始末が悪い。「梅干しがなくなった。」とか「ほうれん草を茹でて置いてあったのがなくなった。」となると困ったものである。特に少し高価な化粧クリームを使用しているが、「化粧クリームがごっそり、えぐり取って持って行かれた。こんなに指跡が残っている。」と言い出すと始末に負えない。食べ物の場合は、「梅干しやほうれん草など持っていかないよ。と言っても、昨日まで有ったのだと主張する。どうもふっと食べたいと思い立った時に沢山あった時のことを思い浮かべるらしい。そしてその状態が昨日の出来事であったように思い込んでしまうようである。

 クリームの場合は同様な思いこみと、購入時に2,3個買って物を全部渡していた所、使いかけを置き忘れ、新しいのを使用し始めたが、たまたま使いかけの古い方を取り出して、なくなったと騒いでいることが分かってきた。そこで、最近は容器の裏に日付を入れて1個づつ渡すようにしている。

母は電話での応対を聞いていると非常にしっかりしているように見えるらしい。また、比較的電話はよく利用している。そして、親戚などに上記のような物のなくなった事件を電話して話す。最近ではやっと母がボケておかしなことを言っていることを理解して貰えるようになったが、2,3年前までは本当に被害にあっていると信じていて困ったこともあった。

骨折入院
昨年(2003)9月9日の出来事である。当日は介護保健の申請月で、午後2時に区より審査官が来る予定になっていた。また勤めていた会社の社友会で夕方より出掛ける予定にしていた。

 朝8時頃雨戸を開けがてら、様子を伺いに行くとベットにもたれて座り込んでいた。トイレから戻る時、少しふらついて倒れこんだとのことであった。少々心配になり10時頃覗きに行くともう大丈夫だとのことであった。当日はヘルパーが来ない日であるので、12時過ぎに昼食を持って行き、ドアを明けると何とも言えない甲高い、異常な呻き声がするので飛んでいくと、寝室を出た前の廊下で壁側に倒れ込んで「痛い、痛い」とわめいていた。先ず倒れた体勢を直すために抱きかかえておこそうとするが、「痛い痛い」の連発であった。体勢を整えてから、先ず救急車を呼び、掛かり付けの病院に連絡をした。後で連絡をし忘れては困ると思い、ヘルパー派遣会社に翌日のヘルパー派遣を断るため、「多分入院になるだろうから、明日の派遣を中止して貰う」旨電話をした。

 救急車が到着、病院で早速診察を受けると左腕上腕部の骨折と判明、若ければ手術だが高齢のためテーピングの処置を受け、入院することが決定した。病室に入ったところで、2時に介護保健申請に対する審査の人が来る旨を告げ、1時50分頃一旦帰宅し審査の人の来るのを待った。しかし、2時半を過ぎても来ないので、区役所に連絡してみると、ヘルパー派遣会社より「事故で病院に出掛けたので、訪問を中止するようにとの連絡が有った。」とのことである。少しでも済ませるものは済ませておきたいと思って急いで帰ってきたのに「よけいなことをしてくれたものだ」と腹立たしくなったものである。社友会にも出席出来なくなったので会社に連絡を入れ、入院に必要な身の回り品を持って再び病院にでかけた。

 父の時と同様見回りに病院へ日参することとなるが、2,3日すると病院の食事は「毎日同じようなもので食べられない。」となる。また自宅では毎日食べていた卵が食べたいと言いだし。それ以来毎朝炒り卵を作って持っていくことになったが、おいしいと食べていた。

 入院後40日程でテーピングがとれたが上腕は全く動かず、二の腕を上げると指先がやっと下顎に届く状態であった。丁度、訪れた時、主治医が回診にきてリハビリの運動方法を教えてくれた。体を前傾にして腕を垂らし、前後に10回、左右に10回腕を振る。次ぎに腕を右回り10回、左回り10回廻す。これを2回繰り返す。夕方見回りに出かけた際、このリハビリ運動をすることが日課となった。
 
 骨折部分も安定し、一応問題がなくなったので10月30日に退院した。退院後は毎日夜分の戸締まりのため見回りにいった際、リハビリ運動(腕の前後及び左右への振り子運動、腕の右回転及び左回転の4種類を各25回更に」腕を持ち上げながら伸ばす運動を20回)をすることが日課となった。リハビリをやっていると当然のことながら、少しずつ腕の動きがよくなり、最初は指先が顎に届くのがやっとであったが、指先の届く位置が口、鼻、眼へとあがるようになり正月には頭まで届くようになった。春先には頭の上まで届くようになり、リハビリ運動を続けると段々良くなってなっていくことが分かりだし、就寝前にリハビリ運動をする事を楽しみにするようになった。6月中旬頃まで約8ヶ月間ほとんど毎日続けたことで、左右同レベルまで手を上げることができるようになり、また後ろ手に組むとほとんど背中中央で組めるまでになった。最近では骨折をしたことなど忘れてしまっているようである。

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