父の想い出
【晩年の父:写経】
 父は明治30年(1898)生まれで、平成12年1月18日に満102歳で他界しました。晩年は長生きすることが生き甲斐で、先ず100歳を目標とし、それをクリアすると、次なる目標は3世紀を生きることでした。100歳を迎えた時には元気そのもので、殆ど毎日バスと電車を乗り継いで、都心まで出掛けてくるのが、日課となっていました。
専修大学学友会で100歳の表彰を受ける


 平成9年9月15日の老人の日には内閣総理大臣橋本龍太郎及び東京都知事青島幸夫より「百歳の長寿を祝って」賞状及び記念品を頂戴しました。また同年秋に出身校である専修大学の校友会に招かれ「大学で100歳を迎えた最初の人」と言うことで、お祝いの表彰をして頂き、夫婦で出席しています。 

 戦時中、母と我々子供は両親の故郷和歌山に疎開しており、父は終戦当時損害保険会社の名古屋支店長をして単身赴任していましたが、昭和25年東京に戻ることになり、我々家族も疎開先から東京に戻ることになりました。

 その後、父は嘱託として江東支部長を務めていましたが、担当地域内にある善行院(日蓮宗:父の実家の宗派と同じ)住職高佐日煌聖人と知り合い、その教えに感銘し、また同聖人の創始した九識霊断法を学びました。晩年には同院の総代となり毎月行われる1日及び15日の法要には平成10年4月1日まで体調が悪くない限り通っていました。
100歳の大臣表彰(賞状と銀杯)
100歳の都知事表彰 誕生寺からの「特別大本願人」推挙状
 写経は「妙法蓮華経如来寿量品第十六」で、その字数は510文字あり、一枚書き上げるには可成りの忍耐力を必要としますが、大体一枚を2時間程度で書き上げていたようです。さすがに晩年は一度に1枚を書き上げることは難しく、疲れると横になって休み、しばらくするとまた起きあがって書くと言う方法を採っていました。 般若心経よりも可成り字数も多く、写経のための半紙は特殊なサイズで誕生寺指定のものがあり、30枚程たまると納経をしていたようです。

 大量の納経から誕生寺より平成10年に『特別大本願人』の称号を授与されました。葬儀の際、わざわざ誕生寺より代表者が来られ、弔辞を賜りました。その際、分かったことですが、納経した総数が1850枚であったことが分かりました。写経の書き始めの頃は誕生寺への納経と同時に親戚や知人に送っていましたが、晩年には長寿にあやかろうと依頼されることも多くなったようです。他人に差し上げた数も可成り多く、10年間程の間、ほぼ1日1枚の割合で書いていたようです。

 満100歳誕生日の写経は若干墨の濃さの濃淡が見受けられますが、字としてはまだしっかりと書かれています。父は平成10年4月1日に1日の法要に善行院へ出掛けた帰途、都心を俳諧することとなり、病に伏すこととなりました。写経は前日の3月31日まで書き続けていましたが、後に写経を整理してみますと、2月頃より連続した日付けの写経があり、最後の日付が4月10日とカレンダーより10日ほど先行した日付となっていました。しかし、可成り墨の濃淡が激しく字体も弱々しくなっていました。

 突然の事故以降、闘病生活に入り再び筆を手にすることはできませんでした。そして20世紀最後の2000年(平成12年)を迎えた1月18日に天命を全ういたしました。あと1年長らえて、念願の3世紀を生き抜いて貰らえなかったのが、心残りです。

 父は晩年になってから写経を継続して誕生寺に納経してきたことから、名誉ある「特別大本願人」の称号を授かり、毎年命日には法要を誕生寺にて営んで頂いており、また永久に法要を営んで頂けることになっています。また、納めた写経もマイクロフイルム化されて永久保存されます。

 父の死後、写経に関して、いつかは整理しようと思いつつ、中々手が着かずにきましたが、やっと7年を経過して整理をすることができ、一安心した次第です。    (平成19年5月20日)
初期の写経(平成2年7月8日)
満百歳誕生日の写経(平成8年8月10日)