介護に至るまでの経緯
 父は100才を迎えてもなお元気で殆ど毎日東京界隈までバスと電車を乗り継いで一人で出掛けるのが日課であった。一方母は10年程前に子宮がんの手術をし、一時可成り落ち込んでいたが、早期発見のため転移することもなく、その後快復し、自分たちの食事も作っており、また時々二人で食事に出掛けるなど、有難いことに介護とは縁遠いものであった。しかし、父はある日突然の事件から「味覚障害」となり、食事が摂れなくなり入退院を2年間程繰り返すこととなった。また一方、母は父の事件ショックでそれ以来自分の食事が作れなくなり、妻の協力の下に食事の世話をすることとなった。
突然の出来事
 平成8年(1998)年4月1日は朝からしとしとと雨が降り、コートを必要とする様な肌寒い日であった。父はいつものように江東区太平町にあるお寺(父はこの寺の総代をしていた)にお詣りに出掛けた。夕方5時頃になっても「まだ返ってこない。」と母が不安げに言い始めた。お寺に訪ねたところいつものように3時頃帰途に着いたとのことである。しかし7時になっても帰宅せず、警察に行き、『110番』通報に届けをし、通報をして貰った。再びお寺に連絡したところ霊断の結果「身体には問題を生じてはいない。11時頃帰宅するだろう。」とのことであった。しかし、無駄とは思いながら、8時頃JRの蒲田駅まで行き「京浜東北線沿線で老人の事故などなかったか」訪ねてみたが、何もそのような情報はないとのことであった。

 11時近くになり母親宅を覗くがまだ帰っていない。11時に先の寺の住職より「まだ帰宅していませんか」との心配の電話があり、状況を説明し始めた所、「ガラガラ」と玄関の戸が開く音がしたので、電話を待って貰いながら玄関に出てみると父がタクシーで帰ってきた。
タクシー運転手の説明によると「霞ヶ関から乗ったとのことであった。また、父の話す言葉がハッキリ聞き取れないので、やっとたどり着いた。」とのことであった。
父は多くを語らないため、「お寺を3時頃出て何処をどのように彷徨っていたのかは分からない。」が、母にポツポツと語った所から想像すると「普段、昼間行きつけている大手町にある農協ビルの(夜で人影のない)階段を上り下りしていたらしい。その後、ビルの外に出てうずくまっていたところを、通りかかった人が親切にタクシーを止めて乗せてくれたようである。お礼の言いようもないのですが、声を掛けて頂いた方に感謝する次第です。
長期介護の始まり
 無事帰宅し、一安心したが、翌日両親宅を覗くと何時もように写経をしている様子もなく居間で横になっていた。疲れが出て横になっているが、食事などは普段通り摂れているのだろうと思っていた。
 1週間ほどすると母が「食事を全然食べないのだ」と言いだした。早速、掛かり付けの病院に行き、入院して点滴を受けることになった。頭部のCTを含めて、諸機能の検査をして貰ったが、特に異常はなく1週間か10日程で退院出来るだろうとのことであった。点滴と併用して食事が少し食べたり、食べなかったりで変動したが、10日程で退院の日の昼食は全部食べることができこれで一安心と退院した。
 しかし、退院後も食事時には食べさせに行くが、なかなか食が伸びず、1週間程してこのままではどうしようもないので、病院と相談し、再入院させて貰った。

何を介護したか
 現在の病院は原則として完全介護となっている。しかし、現実には患者一人一人の病状に併せたきめ細かい介護からはほど遠い。食事は出ても食べない食事を食べさせることは何もやってくれない。幸い病院は自宅より数分の所なので、朝食までは付き合えなかったが、昼食と夕食時には出向き、一口でも多く食べさせるべく、食べ物を口へ運び食べさせるのが日課となった。「今日はご飯も、おかずも半分ほど食べた。」とか「今日は4分の1しか食べなかった」など一喜一憂したものである。

 本人は「あれを食べたい。これも食べたい。」というので、それらを持っていくと「これは不味い。」と言って食べない。医師の診断では味覚障害を起こしているとのことである。結局、栄養源は点滴となり食事は少しでも食が進めばと言うことで、毎食運ばれてくるが、非常に波があり食事を主体に考えることは非常に困難であった。高齢でもあり点滴のスピードは非常にゆっくりで、必要カロリーを摂るためには24時間点滴となった。点滴のお陰で必要なカロリーが摂れるようになり、32キロ敷しかなかった体重も8月10日の誕生日を迎える頃には35キロ程度にまで快復していた。百歳を越える患者は当院では初めてであり、看護婦さん達にも大事にされ、101歳の誕生日には看護婦さん達から花束を貰い祝って貰った。

 足腰はしっかりしており、自由に歩けるが、常に点滴が付いているために院内の散歩は看護婦に付き添われて歩いていたようであるが、ある時夜中に一人で点滴を引きずってエレベータに乗って上階の看護室までひょこひょこ出掛けて看護婦を驚かさせたこともあったようである。

 食事では全く必要なカロリーを摂ることができず、24時間点滴に頼っている状態では退院は無理で、長期入院となった。食事を摂ることができないだけで、その他の内臓器官は異常がないために元気は取り戻し父は「何時退院できるのか」と言い続けていた。年の瀬を迎え病院で越年することになるかと思っていたが、院長より「体力的には快復しており点滴の取り替えは素人でも可能であり、正月は自宅で迎えたらどうか」との相談を受けた。

 退院帰宅するためには「点滴の操作」即ち点滴の取り替え方法と点滴のスピードのコントロールの方法を学び4,5日間病院での点滴の取り替え作業の特訓を受けた。点滴の量が多すぎて24時間前に切れても困るし、また逆に量が少なすぎて点滴を大量に余らしても問題である。さすがに最初の数日間は緊張した。

 特に退院した週末、夜9時頃点滴の様子を見に行くと点滴が止まって全然落ちていない。点滴の袋を叩いてみたり、スピード調整スイッチを色々操作してみたが、全然点滴が落ち始める気配がない。病院に連絡したところ「止めたままで、翌朝までそのままにしておくことは良くない。病院まで連れてくるように」とのことであった。慌てて点滴を付けたまま車に乗せ、点滴を心臓より高い位置を保つために車の天上に近い位置に取り付けて出掛けた。苦労して病院の裏口から入り、エレベータに乗って看護室までやっとたどり着き、ひょっと点滴を見ると「ポタポタ」と正常に落ちていた。止まった原因は何処にあったのかハッキリしないが、いずれにしても移動中の振動でつまりが取れて元に戻ったようである。この事件は介護の思い出の一つである。

 その後、点滴の自動設定機を借り受け、点滴量の調整の操作は楽になったが、2日に1度定時に、調合された点滴(栄養剤に各種薬を調合したもの)を病院に取りに行き、毎日朝8時に点滴の取り替える作業が4月上旬に再度入院するまで約5ヶ月間続いた。

正しく起死回生
 退院後は病院との連携のもとに、派遣介護を週一度受け、体調のチェックを受けると共に、点滴の管(点滴と人体間の管)の交換並びに入浴のサービスを受けていた。4月に入って体調が芳しくなくなり、病院に連れて行った所、肺に水が溜まっていると言うことで、即入院し腹水を抜いて貰ったが、完全に抜ききれず、腹部に一部残った状態であるが、監察しながら行くことになり、三度目の入院となった。

 1898年生まれの父は生きると言うことに貪欲で、90歳後半より『百歳迄生きるのだ』と言っていた。百歳を迎えた後は後3年生きれば3世紀を生きることになるので、「3世紀にわたって生きる」ことを第二の目標としていた。入院後は医師や看護婦を捕まえては『125歳まで生きて、世界一長寿になるのだ。』と言い続けていたようである。

 体調は芳しくなかったが、7月下旬の夜中に電話が鳴り、受話器をとると、「父危篤」の知らせであった。早速病院に駆けつけと集中医療室で酸素マスクをつけ、可成り苦しい息使いであった。その後、院長と面談したところ、「このままでは時間の問題である。人工呼吸器を付けるかどうか」の相談を受けた。

 結論として「101歳と高齢でもあり、無理をして苦しみながら人工呼吸器まで付けて、延命を図るよりも自然の成り行きまかせる。」ことにした。面談終了後、集中医療室へ行くと様子が変って、血圧も上がり、酸素の吸入状態も改善され、この状態が続けば人工呼吸器を取り付けなくてもよい状態に戻ったとのことであった。それでも昏睡状態で酸素マスクをつけ、息苦しい呼吸をしている状態を見ると、8月10日に102歳の誕生日を迎えられるのだから、あと半月ほど頑張って欲しいと願ったものである。

 その後、危篤状態は脱したものも集中管理室に入ったままであったが、日を追って酸素吸入器の酸素量は徐々に減っていった。そして誕生日には一般病室に戻ることができ、また間もなくして酸素マスクも完全に必要がなくなった。正しく起死回生で、父の生命力の強さには驚いた次第である。

20世紀を生き抜く
 九死に一生を得た父の生命力に驚かされたが、病室に戻って可成り快復したものの、従来のようにベットから一人で起きあがり、病室内を歩くようなことはできなくなり、殆どベットに寝ている状態となった。既に口から食事を摂ることは完全にできなくなっており、必要なエネルギーは全て点滴のみとなっていたが、意識もハッキリしており日課となっていた昼と夕方の訪問をすると何時も喜んでいた。その後、特に悪化することもなく、秋から師走を迎え体調から考えて、父の年賀状も作り新年の挨拶状も出した。

 2000年1月17日神戸大震災5周年の朝、数日前より殆ど寝たきりになっていた愛犬(13歳)が息を引き取った。何となく虫の知らせか、早く処置をした方がよく感じ、保健所に処置を依頼した。当日いつものように夕方も父を見舞いに訪ねたが、普段と変わりがない様子であった。

 その夜、眠りについて間もなく12時半頃、電話が鳴り、電話口に出ると病院より父危篤との電話であった。急遽、病院に駆けつけたが、奇跡は二度は起きず、1時間後に息を引き取った。

 父は晩年”生きる”と言うことに貪欲であった。第2の目標である”三世紀を生きる”のだと言う目標には1年足りなかったが、20世紀最後の年、2000年を迎えることができた。少なくとも20世紀の100年間を生き抜くことができたことで、本人も満足していることと思う。

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