通院の経緯
 妻の性格は余り物事にはこだわらずカラッとして、物事の判断もテキパキと物を言い即決型であった。また、親戚の年商1億円程度の中小企業の経理を引き受け、夜には伝票処理と帳簿付けを10年来担当していた。趣味と言えば買い物に出かけること、友達とお茶を飲みながら話をすること、それに本を読むのが好きで友達からも本も借りてきたはよく読んでいた。末娘が嫁いでからは「あなたのいびきがうるさいから」と2階の娘の部屋を寝室とするようになり、食事を済ませ、入浴も済ませると10時頃にはさっさと二階に上がり、本をよく読んでいた。

 一方、私の方も退職後、ある企業が立ち上げた熟年を集めたクラブに参加し、パソコンを中心としたグループ活動を行っていた。また、区報での「パソコンの同好会を作りませんか」の問いかけに参加した。両クラブへの参加で、週2.3日はそれぞれのグループ活動に出かけ、その後には一杯やりながら、談笑して帰るのが、当たり前になっていた。

 この頃は父親の面倒は見ていたが、母親の食事は料理好きだった妻に気楽に頼んでおり、また友人たちとの一寸した旅行には「出かけてくるよ」と出かけることも出来、どちらかと言えば自由奔放な行動がとれていた。

 2000年の1月に愛犬(13歳)”ミッキー”が死に、その翌日父が亡くなった。父の葬儀に関連した事柄ではテキパキと手助けをしてくれ大いに助かった。今から思うとその年の決算処理に例年と異なり相当苦労し、何度も何度も計算をし直していたように思う。そんな処理はパソコンを使えば簡単に出来るのだから、パソコンを教えてあげるから、使ったらどうかと勧めたが、頑なに電卓を叩いていた。そして決算を終えて後、急にもう経理の仕事は止めると言いだし、止めることになった。

 仕事を辞め解放されたためか、夏頃「ダンスを始めよう」と言い出した。社交ダンスは二人の唯一の共通の趣味であったので、早速、二人で近くのダンス教習所で個人レッスンを習い始めた。しかし一方暮れ頃より、よくしゃべるのでうるさかった口数が少し寡黙となり、むしろうるさくなくなり若干清々していた。そして翌年、父の1周忌には、本来なら一番話をし、場を盛り上げていただろう筈の妻が言葉少ない状態であった。その後も口数が少なくなり、子供たちも異常に気づき始め、医者に診てもらった方がいいのではないかと言い始めた。元来医者嫌いの妻に「お前は最近何かおかしいから、医者に行ってみろ」とはなかなか言いづらいものであったが、当時時々腹痛もあったので、医者に診てもらうことを勧めた。

 診断の結果、腹痛は胆石によるもので、かなり大きな石だが、即手術をしなくてもよく、しばらく様子を見ることになった。一方、近くの神経系専門医の紹介を受けMRIによる診断の結果、右前頭葉に影があり、年齢にしては早い気がするが、痴呆のはしりだろうとのことだった。しかし、当時は言葉は少しおかしくなっているが、日常の買い物や食事の支度など従来と変わりなくできており、「痴呆」という言葉には抵抗を感じた。日常生活は出来ており、話し方の矯正をする方法について伺ったところ、大森労災病院に言語障害の訓練をする組織があうことを知り、紹介を受けて訪れた。かなりの問診や形状、筆記などのテストを受けた結果、言語障害訓練と言っても言葉をうまく発生できないような人に対する訓練で、対処外であることが分かった。訓練は出来ないが知能と言語に対するテストは出来るとのことで、お願いした。その結果、知能いわゆる常識的なことは可成り低下していること、一方言語に関しては読むこと書くこともそう問題のないことが分かった。

 言葉数は少なくなってはいるが普段の買い物や食事を作ることなど日常生活は出来ており、従来通りクラブの会合には出かけたり、IT教育の講師を引き受けたり、また旧友たちの集まりに参加するなど比較的自由な行動をとることは出来たていた。

 翌年(2002)夏に1年経ったのでMRIをとることになったが、今回は依頼先を変えて都立荏原病院のN先生をご紹介頂いた。診断の結果「前年度と余り変化はないが、これは脳梗塞の後で、言語障害だ」とのことであった。更に「学会の研究仲間で特に失語症に関する権威で、私も一目置いている昭和大のK先生を紹介してあげる」とのことでご紹介して頂いた。

 K先生を訪ねると診察後、研究室の方に出向き心理テストを研究され、それを治療の一部に応用されておられるM先生のもとで、色々な心理的テスト受けたり、日常の生活態度についての説明や、助言を頂いてきた。現在はK先生は本館に2つの診察室をもたれるようになり、K先生の診察を受けた後、もう1つの診察室でM先生に面談して頂いている。訪問は月1回のペースですので、M先生との面談は本人の直接的リハビリにつながるものでなく、日常生活をどのようにしていけば、現状をいかに維持していくことが出来るかの指導を受けることであることが分かってきた。

 本年はじめMRI検査並びに1年間の経過より病名は”ピック病”であるとのことである。アルツハイマーと共に脳障害の難病の1つである。その発生の原因及びその処置も分かっていないようである。病名に驚いて狼狽えても仕方がなく如何に病気に向かい、如何に現状を維持して行くための環境を作っていくかが今後の課題である。


 

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突然の出来事
捜索願いに利用した写真
'03.6.27撮影

 2003年7月17日の出来事である。当日はクラブの「ホームページを楽しむ会」の会合日であり、午後1時頃、何時ものように蒲田まで買い物に出かける妻と家を出たが、途中、「先に行くから」と別れて出掛けた。会合は4時過ぎに終了し、何時もだとその後一杯呑んで帰るのだが、何となく虫の知らせか、皆と別れて帰途についた。

 5時半頃帰宅すると戸が閉まっており、何時ものようにまた買い物に出掛けたのかと思いながら、家に入ると、何となく雰囲気が違う。当然、昼間買い物に出掛けたのだから、一旦帰宅していれば居間のテーブルに買い物の袋が2,3つ載っかっているのが普通であるが、何もない。昼間出掛けてからどうも帰宅していない様子である。フット気がついたことがある。もしかして電車に乗ったのではないか。
 
 前日午後一緒に蒲田まで買い物に出掛けた際、地下街で買い物をするのが普通であったがエスカレータに乗りコンコースに出てJRの切符売り場に行こうとしたことを思い出した。買い物に出掛ける時、常に持っていた黒のバッグには日本橋高島屋の展示会場の入場券が入っていて、それを見に行こうとしていたのだ。少なくともここ2年間ほど一人で電車に乗ったことはなく、また買い物に出掛けても一人で電車に乗る心配はないと思っていたことが起きたらしい。

 早速交番に行き、110番通報による捜索願いをお願いした。携帯電話を持っておらず、自宅にいないと電話連絡があっても受けることが出来ない。それでも当てはないが、じっとしていられず、8時頃蒲田駅まで行き改札口で何か情報がないか聞いたが、特に事故情報は何も入っていないとのことであった。電車に乗ったことは確かだろうが、探しようがなく帰宅して電話連絡を待つが何も掛かってこない。

 11時過ぎに池上警察署から電話があり、まだ戻っていないかとのことである。もし必要なら捜索願を出すようにとのことだったので、捜索用の写真を持って11時半頃池上警察署に捜索願いを出した。これによって各交番に手配書がファックスで送られるとのことであった。その際担当してくれた婦警さんが「京浜東北線沿線が一番の捜索対象だろうから、その関係筋に連絡を入れておく。」とのことであった。その夜は可成り冷え込みがあり、床に入るが夜をどのように過ごしているだろうか心配で一睡も出来なかった。

 翌朝前日の婦警さんから「関連部署に連絡してあったが、何も情報が得られなかった。」との連絡があった。父の時と同様に太平町のお寺に霊断を見て貰ったところ、「正確な時間は分からないが4時前後にわかる。」と言う結果が出たとの連絡を受けた。一方外出すると電話連絡が取れなくなるので困っていたが、長女が心配して会社を休んで来てくれた。高島屋に向かったことは間違いないが、東京駅で降り損なって乗り越してしまった可能性も大である。しかし、探すと行っても雲を掴むようなものであるが、やはりじっとしてはおられず、高島屋で何か情報が得られないか、しかしただ漠然と訪ねても仕方がない。幸いにして前日の会合のメンバーの中に高島屋OBのF氏がいるので、早速電話でどのようなセクションとコンタクトをとるのがよいか、尋ねたところ「丁度、高島屋の近くまで出掛ける予定がある」とのことで、ご同行を願った。関係部門に何か手がかりとなるような情報があれば連絡を入れて頂くようにお願いしてきた。

 無駄とは知りながら高島屋を出て中央通りを銀座4丁目交差点まで、行き交う人を一人一人眺めながら歩いた。普段は人にぶつからないために眺めているだけで、一人一人の顔や服装を眺めることもなく、ましてやそれぞれの人がどのような行動をとろうとしているのかなど考えたことがない。行き交う人も行き倒れでもしてない限り、他人の行動などに関知してないのは同じだろう。

 銀座4丁目交差点三愛前にある交番にも寄って見た。手配書は各交番にFAXされるとのことであったので、既に届いているだろうと思ったが、そう簡単に配布されるものでないらしい。再び同じ中央道の反対側を、周囲を見回しながら東京駅まで戻った。

 蒲田駅では常に買い物コースとしている地下食品売り場で、昨日見かけなかったかどうか聞いて回ったが情報は得られなかった。その後、最もよく買い物をする東急ストアで同様に聞いたが、昨日は見かけていないとのことである。写真を見て貰ったところ、買い物に来ていることは知っており、見かけるようなことがあったら連絡して貰うことをお願いした。

 3時頃帰宅した。娘に留守番をして貰っていたが何も連絡は入っていなかった。警察に提出した捜索願は第一線には簡単に届くものではなく、日の明るい内には不審に思って問いかけてくれる人もいないだろう。夜になってどこかで事件でも起きないと見付からないだろうと思っていた。

 4時半頃電話が掛かってきたので、受話器を取ると「三田妙子さんのお宅か」と男性の声で尋ねてきた。「そうです」と答えると、「川口」から電話しているとのことであった。最初は当然警察からだと思って話ていたが、よく聞いていると個人からの電話であることが分かった。

 電話はS製作所の社長さんからで、工場の前にズート立ち止まっていたようである。気になって最初社長さんが声をかけてくれたが、何も返事がなかったようである。それでも立ち続けているので、今度は奥さんが声を掛けてくれたようで、そこで名前と電話番号を告げたようである。蒲田まで出てJR京浜東北線で出掛けても、早くて1時間半ほど掛かることを告げると、それまで待たせておいて頂けるとのことであった。早速お寺に「妻が見つかった」ことのお礼の電話を入れた。娘が買い物から5分程で戻ってきたので、「見つかったこと」を告げて、早速迎えに出掛けた。

 川口駅よりタクシーで約2キロ走ったところに聞いていたバス停があり、降りると広い空き地の奥に工場があった。工場に入ると奥さんも家内と一緒に椅子に座って待っていてくれた。私の顔を見るとやっと安堵したのか、顔に笑みを浮かべて近寄ってきて、早速そのまま帰ろうとする。仕方なく挨拶も程々に帰り掛けると、まだ持ち物があるとのことで、戻ってみると4,5個の買い物を入れたビニール袋があった。袋の中身を見ると、やはり普段と同じように蒲田での買い物をしており、また驚いたことに赤羽でも一旦降りたようで、赤羽のスーパーのレシートの入った買い物袋もあった。

7時半頃帰宅し、警察にも連絡し捜索願を解除して貰いやっと落着いた。

 落ち着いたところで娘が「これで明日沖縄に行けるようになった。」と言い出した。よく話を聞くと、翌日より夫婦で夏休みをとり沖縄にダイビングに出掛ける予定にしていたが、母親が見付からなかった場合には、出掛けるのを中止しようと思っていたようである。そのような予定のあったことは一言も聞いていなかったので、驚いたが、家内もけがなどもすることなく無事戻ることが出来、また娘たちの旅行も予定通り出掛けられてホッとした次第である。

 今回、安全に無事帰宅できたのは、一市民であるS製作所社長ご夫妻に注意深く見守っていただき、声を掛けて頂けたお陰であり、非常に感謝している次第です。言葉に発することは何も出来ませんが、本人も心の中では感謝したことだろう。

症状の変化
言葉数の減少
 2000年の暮れ頃より言葉数が少なくなってきたが、日常会話は一応出来ていたので問題はなかった。電話が鳴ると飛んで出るのは妻であったが、2002年の後半頃から電話でのやり取りが少なくなり、話している内容からすると話の途中で電話を切ってしまっているようである。また私が不在中に掛かってきた電話の取り次ぎ内容が次第におかしくなってきた。そしてその年の終わり頃には自分でも分かってきたのか電話が掛かってきても出なくなってしまった。更に集金や配達などで訪れる人との応対も次第におかしくなり、訪問客が訪れても出なくなった。そして現在では会話は完全に一方通行となってしまっている。
金銭処理の変化
 日常生活では生活費が必要になれば銀行で、1万円か2万円を下ろして買い物に出掛けていたが、2002年の春頃銀行のキャッシュカードが利用できなくなり、再発行をして貰った。一旦落ち着いていたが秋口になり、同銀行より使えなくなったキャッシュカードを使用している旨の連絡を受けた。CDの画面で「引き出しを指定」「カードを投入」「暗証番号を入力」「金額の入力」「確認を押す」操作が間違いなく行われている時は問題ないが、一旦操作ミスか機械上の問題でやり直しのメッセージが出た際にその判断力がなく、元に戻って暗証番号を再入力すべき所で、払い出す金額を入力し続けて、3回の暗証番号の間違いから、使用禁止になったようである。また2ヶ月程して他銀行より「自動支払機の所にキャッシュカードが落ちていた」との知らせの電話があった。早速取りに行くとキャッシュカードは使用不能となっていた。置き忘れてきたのではなく、使用できなくなったので捨ててきたようである。これ以降は毎日財布にお金を補充するようにしたので、結果的にキャッシュカードを使用しなくなった。

 普段のスーパーやコンビニなどでの買い物は入り口でカゴを取り、必要なものをカゴに入れていき、レジでお金を支払う。会話がなくても買い物はできる。話が出来なくなり始めた当初は細かい金額も認識できていたから、レジの金額を見て小銭の支払いも出来ていた。その後、硬化での支払いが難しくなってきたのか、千円札でお釣りを貰うことが多くなったようである。昨年7月17日の事件以降、買い物に同行するようにし始めた。東急ストアではカードであるので、そうもたつくかずにレジを通過できているが、現金で支払いをする店では過不足に対する対応にもたついているようである。買い物をすればお金を払うと言う行為は分かっている。その払った金額の過不足と言う概念が薄れているために、「○○円足りません。」とか「お釣りですよ。」とか言われても、それを理解するまでに時間が掛かって迷惑を掛けていたようである。そこで現在は財布は持たせているが支払い時には同行者が手助けをするようになっている。
身体の動きの鈍化
 数年止めていた社交ダンスを始めたいと妻が言い出したので、2000年の秋頃より個人レッスンに二人で通い始めた。当初はステップも普通に覚えることができ、ワルツ、タンゴ、ルンバ及びチャチャチャの4種類の基本的なステップを覚えて一応踊れるようになった。しかし、2002年の暮れ頃より新しいステップの覚えが悪くなってきた。それでも3倍程時間をかけて一応覚えて行き、ジルバも踊れるようになった。先生にお願いして妻のリハビリを兼ねているので無理を承知で続けさせて貰っていたが、2003年の夏頃より、新しいステップは覚えられなくなり、また今まで覚えていたステップも特定のステップになると立ち止まるようになってきた。そして2004年に入るとどの曲も1曲を踊りきることが出来ないのは勿論、一寸踊り始めると止まってしまうようになってきた。最後には最も楽しく踊っていたチャチャチャも同様に踊り始めると立ち止まってしまうようになってきた。これでは全くレッスンにならず、先生にこれ以上迷惑を掛けることが出来ないので、3月末をもって止めることになった。

 妻は歩くことには比較的慣れており、健全な頃から一緒に散歩に出掛けた。自宅から1.5K程歩くと多摩川大橋の下手の六郷土手に出る。土手に沿って500M程下り、そこから蒲田方向に向いJR蒲田車庫の横を通って来ると約6K程のコースとなり1時間半ほど掛けて歩いていた。冬場の寒い時期には土手の手前で曲がると4K強の40〜50分コースとなる。2003年夏頃までは6Kコースは少なくなったが、4kコースを標準的に歩いていた。しかし秋頃より歩いている途中で立ち止まり出してきた。立ち止まるとしばらくはテコでも動かない状態になる。それでも最初の頃は頻度が少なかったので、そう問題はなかったが、今年の夏の初めより立ち止まる頻度が多くなり、そのために散歩の輪も次第に小さくなり2K程度に縮まった。特に日中の買い物で蒲田まで出掛けると、正常な時には往復1時間程度であったが、2時間から2時間半ほど掛かるようになってきた。

 散歩と言えば家を出て西方向に進み多摩川線の矢口渡駅を越えて多摩川方面に向かうのが当たり前のコースであったが、ある日突然家を出て北の方向に向かって歩き始めた。路地を抜け池上方向に向かい池上線の線路を渡り商店街を通り抜け池上駅を廻って来る2K弱のコースが出来た。夕食後の散歩なので、昼間よりは歩くが止まっては歩き止まっては歩きなので、僅か2K程度の道のりを1時間弱掛けて歩くこととなった。


 ダンスにしろ散歩などの歩行にしろ動作が止まってしまうのはなぜか。体力が衰えて来たとは考えられないので、運動機能が低下したのか、または動作に対する思考機能が低下したのか理解に苦しむところとなった。またこの状態から回復出来るのかどうか心配された。しかし、猛暑が去り、10月に入った頃から、散歩の際の立ち止まる間隔が少しずつ長くなってきた。そして現在では昼間の買い物に出掛ける時も、従来の状態に戻ってきたので一安心している。今夏の猛暑のために体温コントロールが出来なかったためであったのだろうか。
現在の状態
 総合的にみると、目から入ってくる情報に対する処理は衰えてなく、人の顔の判別や物の判別、また自宅を中心とした約2K四方の買い物や散歩などで歩いてきた道は路地裏でも十分記憶に留めており、同じ目的地に行くにしても、自分から時々違ったルートを選んで歩く場合もある。時々車で出掛けるが、走ったことのある道は大体分かっているようである。また時々看板などを読んでいるように文字も読むことは出来ている。

 一方、知識や経験的に得ていた常識といった面では1ヶ月程度の単位で見ると、そう顕著な変化は見られないが、半年、1年の単位で見ると可成り変化してきている。先ず、責任感というものは完全に亡くなっている。また、我々は常識として「誰が」「何時」「何処で」「何を」「どうしたか」、所謂『4W1H』で物事を考えるが、このような物事を考えるための経験的な常識が亡くなっている。また問いかけに対する答えは肯定であり、否定がない。問いかけに対してうなずいたので、安心していると実際は逆の場合もある。自分の思っていることを一言でも良いから、言葉で表現して貰うと有り難いのだが無理なようである。
介護保険の利用
 通院を初めた翌年(2002)に妻は65歳を迎えた。医師の薦めで介護保険の申請を一応した。この段階では言葉の不自由はあったが、まだ普段の生活は出来ていたので、審査の結果「支援」の資格を得た。「デーサービスに通わせてはどうか」との勧めもあったが、本人が馴染めるかどうかも疑問があったので、利用することはなかった。

 しかし、2003年の初めより食事の支度が出来なくなり始め、介護申請の結果は「介護1」となった。区の関係者と相談し、ケアマネージャーを置いて貰い、相談の結果、人との接触面を増やす目的で、週2回デーサービスの介護センターに通うこととなった。当初馴染めるかどうか一寸心配であったが、いやがることもなく通えるようになった。ただ、話すことが出来ないために、他の通所者との間のコミュニケーションはないようである。また一つの期待として挨拶ぐらい出来るようになってほしいと思ったが、難しそうである。

 ケアマネージャーより「ホームヘルパーの利用を考えたらどうか」との話があった。しかし、母親の受けているヘルパー派遣を見ていると時間内に掃除、買い物、食事を作ると言う作業はこなして貰っているが、余り心の触れ合いがみられないことから一寸躊躇した。しかし、「話の出来ないことから孤独になっていること。また家の中で何もすることがなくなっていること。」これらを少しでも解消するために「一緒に友達の感覚で買い物に出掛けてもらい、食事の支度を一緒になって作ってもらったり、一緒に歌などを歌ってもらえる」ようなヘルパーの派遣が可能かどうか相談をした。ケアマネージャーの答えは「可能」とのことで、条件にあったヘルパー派遣会社探しを依頼し、8月より週1回派遣して貰うこととなった。その結果、最初の1社目は適任者を捜しつつ、2ヶ月程交代で対応してくれていたが、適任者が見付からず辞退してきた。2社目のY社からは要望を満足するベテランのヘルパーを派遣して貰い、現在に至っており有り難く思っている。

 ヘルパー派遣は当初週1回(金曜日)であったが、要望をほぼ満足でき、本人にとっても良い刺激になってることが分かってきたので、本年初めより火曜日を追加して週2日のヘルパー派遣を受けている。

 昨年の「突然の出来事」以来、一人での留守番は勿論、買い物に出すことが出来なくなった。また一緒に買い物に出掛けるようになって分かったことであるが、買い物カゴをもって品物を入れていく。東急ストアではカードで支払いをしているので比較的問題はないが、その他の店舗では現金支払いのために、レジで可成りもたついて迷惑を掛けていることが分かってきた。

 派遣時間は基本的に4時間(1時〜5時)で、約2時間ほど掛けて蒲田まで1.5K程の道のりを散歩がてら歩いて貰い、商店街や駅ビルの商店街を散策して、夕食の材料を含めて食品類の買い物をしてくる。帰宅後、お茶を一緒に飲んでもらい(ヘルパーは飲食を共にする事は禁止されているそうだが、お願いして),一服後夕食の支度を一緒にして貰っている。一緒に作ると言っても手順を追って一品作ると言うことは出来ないので、基本的には野菜の皮を剥いたり、切ったりする作業であるが、手先は昔の感覚を忘れておらず、丁寧に切ったり剥くようでヘルパーも見習いたいぐらいだと言っている。たまには別の料理を作るために切って貰っていたものを、切り終わるとみそ汁の具だと決め込みみそ汁の中に入れてしまう失敗もあるようである。
 
 また時間を見計らって一緒に童謡を歌って貰っている。これはある時、テレビを見ていた際に、流れてきた童謡『この道』を口ずさみ出したのが切っ掛けで、童謡集より歌えそうななじみのある20曲程度の歌詞をプリントしたものを利用している。日によってばらつきがあるが、2,3曲の時もあったり、調子の良いときには10曲近くまで歌う時もあるようである。

 現在基本的に妻一人おいて外出する事ができませんので、週2日のデーサービスと月10日のヘルパー派遣時間のみが自分のフリーになる時間である。この時間の中で必要最小限の2つのクラブ活動と不定期に発生する用事を処理しているのが現状である。決して多くはないが最低限必要なフリーの時間が得られているのは介護保険制度のお陰であり感謝しています。