Scene−1
「どりゃあ!!」
硬い木と木がぶつかり合う鈍い音とともに、訓練用の模擬剣が弾き飛ばされて宙に舞った。これも訓練用の軽い皮鎧に身を包んだ若い騎士は、思わず膝を突き、しびれた右手首をかかえてうずくまる。鎧の下に着込んだ黒い肌着は汗に濡れそぼち、額から頬にかけても水浴びをしたかのように玉の汗が光り、土ぼこりにまみれてまだら模様を描いている。
「どうした、もう終わりか」
頭上から落ちてきた声にも気付かぬかのように、若者は肩を大きく上下させてぜえぜえとあえぐ。目はかすみ、全身の骨がばらばらになってしまったかのように痛み、今にも気絶してしまいそうだ。だが、騎士としての誇りと、いずれは自分も、たったいま稽古をつけてくれた目の前の相手のような優れた聖騎士になるのだという思いだけが、なんとか意識を保たせている。
「うん、まあ、筋は悪くねえな。だが、まだまだだ。少しは汗をかかせてくれるかと思ったのによ」
その言葉どおり、上から見下ろしながら、木製の模擬剣でとんとんと自分の肩をたたいている聖騎士の額には、汗の一筋も見えない。シグザールの聖騎士のみがまとうことを許される蒼く煌く鎧と同じ色の瞳で、気力と体力を使い切ってしまった後輩を見やる。
「あとは、努力と根性だ。訓練は絶対に裏切らねえからな。・・・おい、聞いてんのかよ」
相手は、もう聞いてはいなかった。身体を丸めるように顔から地面に倒れこみ、慈悲深い暗黒と忘却に身をゆだねている。
「失礼します、分隊長!」
背後から呼びかけられた。振り向くと、正規の聖騎士のいでたちをした部下のひとりが敬礼をしている。
「おう、何だ」
「エンデルク隊長がお呼びです。小会議室へおこしください」
「わかった。ああ、それから――」
簡潔に答え、倒れている若い騎士にあごをしゃくる。
「こいつに水をぶっかけて、しゃきっとさせてやってくれ。頼んだぜ」
「了解しました!」
ぞんざいに手を振って鍛錬場を出て行く上官を目で見送り、聖騎士はあきれたように、消耗しつくして気を失っている若者を覗き込んだ。
「やれやれ、自業自得だな。いくら憧れの存在だからって、ダグラス分隊長に一対一で稽古をつけてもらおうなんて、無茶もいいところだ。あの人は、加減ってものを知らないんだから・・・」
シグザール王室聖騎士隊第一分隊長ダグラス・マクレインは、いったん控え室に戻り、まだ子供のような騎士見習いの従卒に手伝わせて手早く聖騎士の正装に整えると、大またでシグザール城の通廊を進んでいった。
ラフに刈りそろえた濃褐色の髪につり上がった太い眉、時にわんぱく小僧のような輝きを宿す蒼い瞳、すっと通った鼻筋に負けん気の強そうな口元、鍛え抜かれた引き締まった身体――聖騎士になりたての頃はもっぱら城門警備や王室公報の配布といった雑用をさせられていたダグラスだが、今や押しも押されぬ王室聖騎士隊のナンバーツーである。第一分隊長に昇進してからは、かつては問題視されていた協調性や指導力も身についてきたと評価も高い。かのグラムナート遠征隊の指揮官も務め、エンデルクの次の騎士隊長の座はダグラスのものだろうと噂する者も多い。もっとも、エンデルク本人は、当分は引退するつもりはないようだが。
廊下を通りかかった下働きのメイドが立ち止まって頬を染め、颯爽と通り過ぎるダグラスの姿をうっとりと見送る。女性の注目を集めているという点でも、最近のダグラスはエンデルクに次ぐ聖騎士隊のナンバーツーだ。だが、ダグラス自身がそのようなことに気付いていないのは賭けてもいい。
騎士隊の詰所を通り抜け、謁見室の裏に回ると、飾り気のない狭い通廊の先にドアがある。
ノックして名乗ると、すぐに内側から引き開けられた。
「第一分隊長ダグラス・マクレイン、まいりました!」
部屋に足を踏み入れたダグラスの顔が引き締まる。室内にはエンデルクのほか、シグザールの内政と外交の重鎮である騎士隊特別顧問ウルリッヒ・モルゲン卿の姿もあったのだ。これは普通の呼び出しではないな、と直感する。
「うむ、ご苦労。さっそくだが、これを見てくれ」
エンデルクは座るよう促すと、一通の封書を差し出した。既に封は切られており、表面に書かれた宛名は「シグザール国王ブレドルフ・シグザール陛下」となっている。ひっくり返して裏面の差出人に目をやったダグラスは、目を見張った。口笛を吹きそうになったが、場所柄をわきまえて自重する。
「それは、カナーラント国王からブレドルフ陛下に宛てられた親書だ」
ウルリッヒが口を開く。
ダグラスは中の手紙を取り出して読もうとした。だが、ひとつの文章が長い上、何やら難解な言葉やもってまわった言い回しばかりが並んでいて、目を白黒させる。
「無理をするな、ダグラス」
笑みを浮かべてウルリッヒが言う。
「余計な外交辞令や難しい政治用語を省いて言えば、つまりはこういうことだ。――カナーラント王国竜騎士隊ドラグーンが、このほど大々的な軍事演習を実施することになった。ついては、視察と情報交換を兼ねてシグザール聖騎士隊からしかるべき人物を派遣してほしい。騎士隊同士の交流は、両国にとってはかりしれない利益となるだろう――その手紙には、そう書かれているのだよ」
ダグラスは、ごくりとつばを飲み込んだ。
カナーラント王国は、グラムナート地方南部に位置する国だ。シグザール王国やドムハイト王国、ダグラスの故郷であるカリエル王国は、広大なストウ大陸の西側に位置しているが、グラムナート地方は同じ大陸の東の端にある。距離も遠く離れており、船や馬車を乗り継いでも行き着くまでに半年や一年はかかってしまうほどだ。これまではほとんど交流がなかったシグザール王国とグラムナート諸国だが、数年前に発生した大事件によって、はからずも双方の絆が深まることになった。魔界からの侵攻により動乱の危機を迎えたグラムナートが錬金術士に救いを求め、たまたまカナーラントに滞在していた錬金術士アイゼルからの連絡でシグザール王室とザールブルグ・アカデミーが行動を開始した。そして、ダグラスが指揮を取った遠征隊と錬金術士たち、現地の冒険者らが力を合わせて魔界からの敵を打ち破り、なんとか事態の収拾をはかることができたのだった。
だが、あの時ダグラスは、争乱の根源となったフィンデン王国に派遣され、そこにとどまったため、隣国のカナーラントには足を踏み入れていない。勇猛なるカナーラント竜騎士隊の噂を耳にはしたが、実物を目にする機会はなかった。
「それじゃ――」
ダグラスは期待をこめてエンデルクとウルリッヒを見つめる。今度こそ、シグザール王室聖騎士が最強であることを、竜騎士隊ドラグーンを相手に証明できるのではないか。そして、その役割を務められるのは自分をおいていないだろう。だからこそ、上官ふたりは自分を呼び出したに違いない。
エンデルクは口元にかすかな笑みを浮かべ、ウルリッヒは真面目な表情で言葉を継ぐ。
「うむ、わが国としては、カナーラントをはじめグラムナート諸国との友好を深めることは大いに意義があると判断している。また、これは他国の軍事力の実態を見極め、その実力を確認する絶好の機会でもある。いかに可能性が低かろうと、有事に備えて情報収集しておくに越したことはないからな。従って、われわれとしても、この要請に応じるにやぶさかではない。それにあたっては、冷静な判断力と分析力を持ち、しかもドラグーンの竜騎士に伍して演習に参加できるだけの実力ある人材を派遣せねばならぬ。カナーラント騎士の実力を知るとともに、わがシグザール聖騎士隊の力を示す必要もあるのだ」
ダグラスは真剣な表情でうなずく。心の中で、余計な能書きはいいから早く命令を下してくれとはやりながら。カナーラントへ派遣されれば、また騎士としてひとまわり成長することができるだろう。それは、少年の頃からの目標である“ザールブルグの剣聖”エンデルクを越えるステップを、また一歩のぼることにほかならない。
焦らすかのようにひと呼吸おき、ウルリッヒは重々しく言った。
「よって、シグザール王室は騎士隊長エンデルク・ヤードをカナーラントへ派遣する。エンデルク不在の間、第一分隊長ダグラス・マクレインには隊長代行を命ずる」
「へ?」
ダグラスはあんぐりと口を開け、間の抜けた声をもらした。がくりと肩が下がる。当て外れもいいところだ。
がっかりしたダグラスの表情を見て、エンデルクの口元の笑みが、さらに大きくなった。ウルリッヒの顔がほころぶ。
「――と言ったら、どうする?」
「はあ?」
ダグラスは、さらに間が抜けた声で返事をした。エンデルクは面白がるようにダグラスに流し目をくれ、
「今のは冗談だ」
と、ぽつりと言った。
ウルリッヒも笑いをかみ殺しながら、
「いや、すまなかった、ダグラス。おまえをからかうつもりはなかったのだが、ゲマイナー卿にそそのかされてな」
あっけにとられていたダグラスだが、やがて事情が飲みこめると、顔に血が昇ってくる。こぶしでテーブルを叩き、つい普段の口調に戻って怒鳴る。
「ふざけないでください! ――何を考えてるんだよ、まったく!」
「フッ、この反応も、ゲマイナー卿の予想通りだな」
エンデルクの言葉に、ダグラスも毒気を抜かれたように黙り込む。年長者にからかわれた子供のようなふくれ面をしたままだ。
真顔に戻って、ウルリッヒが王の印璽が押された命令書を差し出す。
「以下が正規の命令だ。シグザール王室騎士隊第一分隊長ダグラス・マクレイン――貴公に、シグザール王国代表としてカナーラント王国の視察ならびに竜騎士隊ドラグーン総合演習への参加を命ずる。ドラグーンの演習は2ヵ月後だ。事前の打合せや準備もあるので、少なくとも演習の2週間前にはカナーラントの王都ハーフェンへ到着するように」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ダグラスがさえぎった。シグザールの王都ザールブルグからカナーラントまで、通常の交通手段では最短でも半年以上かかる。今から出発したのでは、とても演習の期日には間に合わない。
「まさか、またあのルートを使うんですか?」
グラムナート動乱の際、遠征隊を素早く送り込むために、ある奇想天外なルートが使われた。ダグラスもそこを通り抜けたひとりだが、決して何度も経験したいというものではない。
「いや、あの方法は、あくまで非常手段だ。めったなことでは使わぬと、彼女とも盟約を交わしているからな」
エンデルクが言い、ウルリッヒを見やる。ウルリッヒはうなずくと、
「交通手段については、ザールブルグ・アカデミーに一任してある」
「はい? どういうことですか?」
いぶかしげなダグラスに、ウルリッヒは説明する。
「アカデミーも、グラムナートには並々ならぬ関心を寄せており、実地研究の機会を逃したくないそうなのだよ。もちろん、かれらの関心はわれわれのような政治的・軍事的なものではなく、学術的なものだということだが」
そして、意味ありげに視線を向けて、
「今回の派遣に錬金術士がひとり同行することになっても、貴公は気にしないだろうな?」
Scene−2
「ただいま〜」
錬金術士エルフィール・トラウム(愛称エリー)は、意気揚々と工房へ戻って来た。
依頼されていたアイテムを酒場へ届けたところ、出来の良さを喜ばれ、報酬の銀貨を大幅に増額してくれたのだ。銀貨の多寡ではなく、自分の仕事を高く評価されたことが、純粋に嬉しかった。このシグザールの王都ザールブルグにはじめて錬金術を根付かせた伝説の女性リリーと同じように、人々の幸せな顔を見るために、エリーは錬金術を生業にしているのだから。それこそが、アカデミーで専門的で高度な研究を究められる実力があるにもかかわらず、彼女がこのような下町で庶民向けの工房を開いている理由でもあった。
「あ、おかえりなさい・・・。ぐすん」
留守番をしていた、お手伝い妖精のピコが作業台の下から出てくる。妖精としては最高ランクといえる虹妖精のピコだが、生まれついての弱気な性格は治らず、今もなぜか涙ぐんでいるようだ。
「どうしたの? 留守中、なにかあったの?」
「はい・・・。またアカデミーの怖いおばさんが来て、お姉さんにすぐ来るようにって言ってました。・・・ううう、怖かったよぉ」
これもめぐり合わせというものだろうか、アカデミーの筆頭講師でエリーの師匠でもあるイングリドが工房を訪れる時、決まってエリーは外出しており、ピコが応対する羽目になる。工房を開いた頃から、何度も繰り返されてきたことだ。ピコの運が悪いのか、エリーの運がいいのか、どちらかであろう。
ともかく、エリーはすぐに、母校のザールブルグ・アカデミーへ向かった。
アカデミーに着いてイングリドの研究室を訪ねると、居合わせた生徒がイングリドは校長室だと教えてくれた。
「エルフィールさんをお待ちでした」
薄茶色の髪をポニーテールにまとめ、青い錬金術服をまとった女子生徒は、緑色の瞳に崇拝するかのような表情を浮かべて、まぶしそうにエリーを見つめた。かのマルローネと同じく――意味合いは微妙に違うが――、エリーもザールブルグ・アカデミーの伝説の卒業生として、錬金術士を目指す生徒たちの憧れの的となっているのだ。だが、当のエリーにはそんな自覚はない。
いつものオレンジ色の錬金術服とクリーム色のローブ、トレードマークとなっている輪っかの帽子といういでたちで、エリーは研究棟から事務棟へ移動し、階段をのぼって、アカデミー校長ドルニエの部屋の前に立った。
足音が聞こえていたのだろうか、ノックする前にドアが引き開けられた。意外な顔が現れたので、エリーは驚く。
「アイゼル・・・」
「遅かったじゃないの。待ちくたびれたわよ」
口調は相変わらずきついが、エメラルド色の目は怒ってはいない。エリーの同期生アイゼル・ワイマールは、学生時代から変わらないピンクを基調の錬金術服をまとった身体をずらして、エリーを招きいれる。
「すみません、遅くなりました」
エリーはぴょこんと頭を下げ、あらためて室内を見渡す。部屋の中央に置かれた楕円形のテーブルを挟んで、真正面には校長のドルニエが座り、左右に“アカデミーの竜虎”と称されるイングリドとヘルミーナがかけている。手前側には椅子が二脚、空いている。一方にはアイゼルが座っていたのだろう。
「来たわね、エルフィール。おかけなさい」
イングリドの言葉に、エリーは師の真向かいに腰をおろした。アイゼルが、ポットからハーブティを注いでくれる。
「あなたを呼んだのは、ほかでもありません」
イングリドは言うと、ヘルミーナの方をもの問いたげに見やる。ヘルミーナが軽くうなずくと、そのままイングリドは続けた。
「単刀直入に言うわ。エルフィール、あなた、グラムナートへ行ってみたくはない?」
「へ?」
エリーはぽかんと口を開けた。イングリドに「わたくしの結婚式に出席してちょうだい」と言われたとしても、これほどまでには驚かなかったかもしれない。
「グラムナートっていうと、ひょっとして、あの・・・」
「もう、どんくさいわね、それ以外にどんなグラムナートがあるって言うのよ」
アイゼルの舌鋒は鋭い。ヘルミーナも楽しんでいるような、人によっては獲物をいたぶるヘビのようだと評される笑みを浮かべて、言う。
「そう、あたしやアイゼルが武者修行をしていた、あのグラムナートのことよ、ふふふ」
アイゼルの師匠で、かつてザールブルグにアカデミーを建設した立役者のひとりでもあるヘルミーナは、アカデミー建設後にひとり旅に出た。そして、ストウ大陸東端のフィンデン王国で錬金術の修行を積んだという。またアイゼルも、アカデミーのマイスターランクを卒業後、師にならってグラムナートへひとり旅立ち、旅の途中、カナーラント王国の辺境カロッテ村でひとりの少女に錬金術の手ほどきをした。その後、グラムナート動乱の報せをザールブルグにもたらし、両地域が交流を深めるきっかけをつくったことは、エリーも知っている。
戻って来たアイゼルや、アイゼルについてきた幽霊少女パメラから、グラムナートでの出来事を聞くたびに、はるかな異郷の風物に思いを馳せたものだった。そのグラムナートへ、行けるというのだろうか。
「でも、どうしてですか?」
「ふふふふ、もちろん、遊びに行かせるわけじゃないよ。アカデミーも、無駄なお金を使えるわけではないからね」
ヘルミーナが言う。イングリドが引き取って、
「ヘルミーナやアイゼルが研究してきたように、グラムナートにも錬金術はあります。これは知っているわね」
「あ、はい、アイゼルのレポートを読みましたから」
「ですが、グラムナートの錬金術には、わたくしたちが知っている錬金術とは異なる要素が介在しているようなのです。しかも、非常に重要な要素だと思われます。わたくしは、自分の目で見ていないので、確証はないのですが――」
イングリドは左右の色が異なる瞳で、ヘルミーナをちらりと見る。ヘルミーナは冷ややかに見返して、
「イングリドが何と思おうとかまわないけれどね、あたしはさんざんフィンデン王国で体験したのさ。ちょっと長く研究室を空けて戻ってくると、溜め込んでおいたアイテムがことごとく腐ってゴミになってしまっているのをね」
当時のことを思い出したのか、ヘルミーナの声に忌々しげな響きがまじる。アイゼルも引き取って言う。
「わたしも、カナーラントで体験しました。フィンデン王国でヘルミーナ先生が経験されたほどひどくはありませんが、カロッテ村でもアイテムが腐敗してゴミになる速度は、ザールブルグの数倍だったと記憶しています。もちろん金属や宝石のように、腐りにくいものもありましたが、生ものや薬草を保管するためには、氷室は必需品でした」
「うん、そうだったね。フィンデン王国のアルテノルトには、でかい天然の氷室があった。どうやらあそこには、時間に関係した魔法がかかっているようだったけれどね」
「そういうわけで、グラムナートのアイテムは、ザールブルグに比べて属性に左右される要素が強いことがうかがえます」
イングリドはエリーを見つめた。
「それが、土地のせいなのか気候のせいなのか、あるいは物質の組成そのものに根本的に異質な点があるのかはわかりません。ヘルミーナもアイゼルも、その点については突き止めることができませんでした」
「ふん、悪かったね」
「別に責めているわけではないわ。ふたりとも、予備知識もなかったし、ほかにしなければならないことがたくさんあったわけですから」
「同情はいらないよ、ふふふ」
「アカデミーとしても、これらの差異に着目して研究を深めれば、錬金術に新たな展開をもたらすことにつながるのではないかと考えています。ケントニス伝統の錬金術とグラムナート古来の錬金術、そして南の国で発展しつつある新たなバリエーション・・・こういった様々な錬金術を総合的に研究することで、錬金術を新たな高みに引き上げることもできるでしょう。――そうですね、ドルニエ先生」
「あ、ああ、その通りだ」
ドルニエは短く答えたが、どこか不満げだった。自分が言いたかった結論を先にイングリドに言われてしまったからだろう。
「そこで、ケントニス元老院は、優秀な錬金術士をあらためてグラムナートへ派遣し、アイテム属性の差異――特に『腐りやすい』という属性について調査研究するよう求めてきました」
「本来なら、グラムナートをよく知っているあたしかアイゼルが行くべきなのだけれどね」
ヘルミーナが腕組みをして言う。
「でもね、今あたしがここを離れたら、アカデミーはイングリドの思うがままにされてしまうかもしれないからね。そんなリスクを冒すわけにはいかないのさ、ふふふ」
「何がリスクよ。被害妄想なだけじゃないの」
「何ですって? あなたが次期校長の座を狙っているのはお見通しなんですからね、ふふふ」
「あ〜ら、それは自分のことじゃないのかしら、ヘルミーナ?」
「やれやれ、また始まっちゃったわね」
言い合いを始めた師匠たちにあきれたような目を向け、アイゼルが振り向く。
「それに、あたしもエルの世話をしなければならないしね。グラムナート錬金術の研究を深めたいのはやまやまだけれど、ここはエルフィール、あなたに譲ってあげることにしたわ」
「うん、わかったよ、アイゼル」
エリーはアイゼルの瞳を見つめて、大きくうなずいた。エルというのは、アイゼルと夫であるノルディスの間に生まれたひとり娘エルローネのことだ。世話がかかる盛りの幼い娘を置いて、はるかグラムナートまで行けるはずがない。
「それではエルフィール、承知してくれるわね」
ヘルミーナとの毒舌合戦に一段落をつけた(もちろんいつものように引き分けだ)イングリドが、エリーを振り向いて尋ねる。
「はい、ぜひ行かせてください!」
身体が引き締まる思いで、エリーはきっぱりと答えた。緊張と共に、まだ見ぬ国への憧れもわき起こってくる。あのグラムナート動乱の際、真っ先にアイゼルを手伝いに現地へ行きたかったエリーだが、やむを得ざる事情のためにイングリドともどもザールブルグに残らざるを得なかったのだ。
「では、必要な資料はヘルミーナとアイゼルから受け取ってちょうだい。研究拠点は、カナーラント王国のカロッテ村に置いてもらいますが、その点については、カロッテ村をよく知っているアイゼルに手配を任せます。それから、旅程を短縮するために、アカデミー所有の『空飛ぶじゅうたん』の使用を許可します。制御方法でわからないところは、アイゼルに教わるように」
「はい、わかりました」
かつて錬金術士リリーがはじめて調合に成功し、ずっとアカデミーに伝えられてきた高速移動アイテムが『空飛ぶじゅうたん』だ。アイゼルから助けを求められたヘルミーナがグラムナートへ向かい、アイゼルが戻って来る際に使ったのも、その『空飛ぶじゅうたん』だった。
「あ、それから――」
一礼して部屋を出ようとするエリーに、イングリドが呼びかけた。
「はい、何でしょう?」
「言い忘れていたわ。今回の派遣にあたって、シグザール王室から協力要請を受けているの。カナーラント国王からブレドルフ陛下宛に、現地の騎士隊の演習に聖騎士を招待したいという親書が届いたそうで、王室も受諾したらしいのよ。どうやら、政治的な思惑がからんでいるようね。わたくしたちの研究目的に、直接には関係ないことなのですけれど」
そして、いぶかしげなエリーに意味ありげな視線を向け、
「今回の旅に聖騎士がひとり同行することになっても、あなたは気にしないわよね?」