Scene−3
「はああ、空気がおいしいわね。身体の中に染み渡ってくるみたい。来てよかったわ」
木々の間を抜けてくるそよ風に長い髪をなびかせ、クラーラが大きく伸びをする。デザインは地味だが上等な布地で織られた服と、整った上品な顔立ちが、家柄の良さを示している。それもそのはず、クラーラ・バルビアは、ここのところ大きな発展を遂げているカロッテ村の村長の孫娘なのだ。
「クラーラさん、気をつけてください。このあたりまで来ると、強い魔物が出るかもしれません。俺から離れないようにしてくださいよ」
後から追いかけてきた青年が、声をかける。皮製の軽鎧に大きな剣をかついだ冒険者姿だ。それなりに精悍な顔つきをしているのだが、田舎風のいでたちをしているためか、いまひとつ垢抜けない。
「あら、ごめんなさい、バルトロメウスさん。わたしったら、ついはしゃいでしまって・・・」
顔をくもらせるクラーラに、バルトロメウスはあわてて手を振って、
「いえ、クラーラさんが悪いんじゃありません。気にしないでください、ははは」
そして、ぎこちなく寄り添うようにして立つ。
「あ、あの・・・、いい天気ですね」
「ええ、そうね」
「その・・・、疲れてませんか」
「ありがとう、大丈夫よ」
にこやかに自然体で答えるクラーラに比べると、青年バルトロメウスの言葉はいかにもわざとらしく、不自然に聞こえる。力が入りすぎているようで、動作もしゃちほこばっている。何事かを気にするかのようにあたりをうかがい、やがて意を決したように、
「あ、あの、クラーラさん!」
「はい?」
クラーラはバルトロメウスを振り仰ぎ、無垢な瞳を向ける。
深く息を吸い込んだバルトロメウスが、次の言葉を口にしようとしたその時――。
「あ、いたいた。待ってよ〜、お兄ちゃん、クラーラさん!」
厚く茂った下生えをかきわけ、大きなかごを背負った少女が姿を現す。緑色系統でまとめた上着に丈の短いスカート、頭には風変わりな帽子をかぶり、くりくりした大きな目は髪の毛と同じ濃褐色だ。カロッテ村で――いや、カナーラント王国で唯一の錬金術の店ヴィオラーデンの店主で、過疎に悩んでいたカロッテ村を大きく発展させた立役者、錬金術士ヴィオラート・プラターネである。バルトロメウスとは三つ違いの兄妹だ。
「はあはあ、やっと追いついたよ。せっかく極上のヤドクタケと魔法の草の群落を見つけたのに、ふたりとも、どんどん先に行っちゃうんだもん。はぐれちゃったらどうしようか、気が気じゃなかったよ」
それでも、しっかり採取はこなしてきたらしい。つやつやした新鮮な薬草やキノコ類が、背中の採取かごにたっぷりと収まっている。息をはずませて、クラーラとバルトロメウスのところまでたどりついたヴィオラートは、どさりとかごを地面に下ろすと、笑顔を向けた。
「うふふ、お疲れさま、ヴィオ。材料もいっぱい採れたみたいね」
クラーラは楽しそうに、かごの中を覗き込む。家庭的なおっとりした性格で、村からあまり出歩いたことのないクラーラだけに、このような自然の中では見るもの聞くものすべてが珍しいのだろう。一方、バルトロメウスは見るからに不機嫌そうな表情になり、クラーラに聞こえないように妹の耳に口を寄せて、ささやく。
「何だよ、ヴィオ、気が利かねえな。せっかく、いいムードだったのによ。もう少し、向こうの方で採取をしていてくれりゃよかったんだ」
「へ? いいムードって、何が?」
ヴィオラートがきょとんとする。わかっていてとぼけているのか、それとも本当に鈍いのか、バルトロメウスには区別がつかない。ふたりの両親が遠い町へ引っ越そうと言い出したときに、バルトロメウスはヴィオラートと共に引越しに反対してカロッテ村に居残った。その理由は、表向きは妹のヴィオラートをひとり残してはおけないということだったが、実は村長の孫娘クラーラと離れたくなかったからだ。そのことは、本人の意に反して、幼馴染のロードフリード・サンタールをはじめ村中の誰もが知っている。おそらく、気付いていないのはクラーラ本人だけだろう。
今回も、カロッテ村の西に広がる『帰らずの森』の奥地へ材料採取に出かけるというヴィオラートに護衛を頼まれたバルトロメウスは、「たまにはクラーラさんにも気分転換をさせてあげよう」と提案し、首尾よく3人で採取の旅に出ることができた。そして、自分の格好のいいところをアピールし、あわよくばクラーラの心をつかもうともくろんでいたのだ。これまでのところ、うまくいっているとはいいがたいが。
「それにしても、ずいぶん奥まで来たのね。あの森が、こんなに遠くまで広がっているなんて知らなかったわ」
うっそうと重なり合った木々を見回して、クラーラが言う。大気は緑のにおいにむせかえるほどだ。
「そうですね、普通の人は迷ってしまって、こんなに奥まで来られないから」
何度も来たことがあるヴィオラートは、あっさりと答える。実は、この周辺の森には旅人を惑わす魔法がかけられており、ある特別なアイテムを持っていないと、森の中をぐるぐるさまよったあげく、入口近くに戻ってきてしまうのだ。それを心得たヴィオラートの荷物の中では、その魔法アイテム『妖精の腕輪』が鈍い輝きを放っている。
「今日はこの奥でキャンプをしましょう。そうすれば、明日は妖精の森に着きますよ。かわいい妖精さんに、いっぱい会えますよ」
「まあ、楽しみだわ」
かわいいものが大好きな(とはいえ、そのセンスには若干の疑問符がつくが)クラーラは、目を輝かせた。
「――ったく、どこまでひとを引きずり回せば気が済むんだよ」
バルトロメウスの機嫌は、まだ直っていない。ついつい憎まれ口が出る。ヴィオラートは兄を振り返り、
「だって、これからドラグーンの大演習が始まったら、竜騎士さんがたくさん村に来るんだよ。お店もきっと忙しくなるだろうし、お菓子や料理や薬がたくさん売れると思うよ。そうなったら、材料を採りに行く時間なんて、なくなっちゃうじゃない。だから、今のうちに新鮮なシャリオミルクや食材をたっぷりと仕入れておかなくちゃいけないんだよ」
たしかに、人里離れた妖精の森で飼われているシャリオ牛から搾ったミルクは、コクといい香りといい最高品質のもので、ケーキや料理の材料には最適だ。
「ヴィオったら、張り切ってるのね」
クラーラがくすくす笑う。
「それはそうですよ、カロッテ村の近くで竜騎士隊の大演習なんて、ヴィオラーデン開店以来の稼ぎ時だもん。お兄ちゃんも、しっかり手伝ってよね」
ヴィオラートはすまして言う。
「やれやれ、手伝ってほしかったら、ちゃんと払うものを払ってほしいよな。タダ働きさせられたんじゃ、たまらねえよ」
バルトロメウスがぼやく。ヴィオラートは兄をにらんで、
「そんなこと言うなら、お店番をしながら居眠りしたり、サボってどこかへ雲隠れしたりするのはやめてよね」
「うるせえな、俺がいつそんなことをしたっていうんだよ」
クラーラの手前、バルトロメウスは声を荒げて否定する。身に覚えはいくらでもあったのだが。
「何よ、真面目にやるなんて言っても、お兄ちゃんはいつも口だけなんだから」
「何だとぉ!」
兄妹はにらみ合う。目と目で火花を散らし、傍から見ていると、今にもつかみ合いになりそうな勢いだ。しかし、ふたりのことをよく知っているクラーラはくすくす笑って、
「うふふ、ふたりとも、本当に仲がいいのね。昔から全然変わらないわ」
バルトロメウスは照れたように、
「冗談じゃありませんよ、クラーラさん。俺たちのどこが仲がいいっていうんですか」
「そうだね、お兄ちゃんが仲良くしたい人は、他にいるもんね」
「な――!? ヴィオ、おまえ、何いってんだよ!」
ヴィオラートの爆弾発言に、バルトロメウスはあわてて大声を出す。
「まあ、そうなの?」
クラーラの質問に、他意はない。
「クラーラさん、こいつの言うことを真に受けないでください! そんな人、いません!――あ、じゃあなくて、ええと、その・・・」
赤くなり口ごもるバルトロメウスに、ヴィオラートは含み笑いをもらし、クラーラは無邪気に笑う。
「うふふ、変なバルトロメウスさん」
「そ――それよりもだな、おい、ヴィオ」
話題を変えようと、バルトロメウスが尋ねる。
「竜騎士隊の大演習って、いったいどこでどんなふうに行われるんだ? ロードフリードに訊こうと思ってたんだが、あいつも忙しいらしくて、なかなかつかまらなくてよ」
カロッテ村出身で、かつて竜騎士隊の幹部候補生だったロードフリードは、今回の演習にあたって村とドラグーンとの連絡役を務めている。
「ええと、あたしも細かいことまでは知らないんだけど・・・」
ヴィオラートは真顔になる。
「ハーフェンを守る留守番の部隊を除いて、ドラグーンのほとんど全員が参加するらしいよ。大人数だからカロッテ村では宿舎が足りなくて、村の南の草原にキャンプを張って滞在するみたい。演習は南部平原から一角島までを広く使って、実際の戦いに近い形で訓練をするらしいね」
「ふうん、おまえ、詳しいな」
「うん、この前、お店にローラントさんが来て、教えてくれたんだよ」
「げ、演習には、あのおっさんも来るのか」
バルトロメウスがげんなりした声で言う。カナーラント竜騎士隊ドラグーンに所属するローラント・オーフェンは、ロードフリードの騎士精錬所時代の先輩でもあり、はじめて首都ハーフェンを訪れたヴィオラートを爆弾魔と間違えて誤認逮捕しかけたのが縁で、何度も採取の旅の護衛を務めてくれた。ヴィオラーデンにも顧客として訪れ、たまたま居合わせたバルトロメウスを騎士隊にスカウトしようとしたこともある。マイペースで他人にあれこれ指図されるのを嫌うバルトロメウスは誘いを断ったが、それ以来、騎士隊とローラントにはいい印象を持っていない。
「そりゃそうだよ。ローラントさんは演習を計画して指揮を執る幹部のひとりだもん」
ローラントは、ヴィオラートとの旅の途中でカナーラント各地にひそむ魔物を退治した功績を認められて、今や中隊長に昇格している。バルトロメウスはおっさん呼ばわりしているが、まだ30代前半である。
「それに、演習には、錬金術で協力してほしいとも頼まれているしね」
「なに? そんなの聞いてねえぞ」
「お兄ちゃんには関係ないでしょ」
「何だとぉ!?」
「でも、何はともあれ、そんなに大勢の人が来てくれれば、村もにぎやかになるし、お金を使ってくれるから財政的にも潤うわね。いいことだわ」
再び口論になりそうなふたりをさえぎって、クラーラは村長の孫娘らしい発言をする。そして、ふと思い出したように、
「錬金術といえば、ヴィオ、近々、錬金術士もカロッテ村に来るって言ってなかったかしら?」
「はい、そうなんです!」
ヴィオラートは嬉しそうに答える。
「アイゼルさんから手紙が来たんです。グラムナートの錬金術を研究するために錬金術士を派遣するから、協力してほしいって。それで、ザールブルグから来る錬金術士と、ヴィオラーデンで一緒に研究させてもらうことになったんです」
先日、はるかシグザールから『風の便り鳥』で届けられたアイゼルからの手紙を、ヴィオラートは出してみせた。
「それは楽しみね。どんな人が来るのかしら」
「何だと? そんな話、聞いてねえぞ」
バルトロメウスが口をはさむ。ヴィオラートはあきれたように、
「もう、お兄ちゃんはそれしか言えないの? この前、あたしが相談したとき『ああ、いいんじゃねえか』って、寝ぼけながら返事をしたじゃない」
「だから、ひとが寝てるときに、そんな大事な話をするなよな」
「話をしたのは夕方、お兄ちゃんがお店のカウンターにいる時だったよ。とにかく、その人はあたしと一緒に2階で寝泊りするから、お兄ちゃんは1階で寝てよね」
「勝手に決めるな!」
大声を出したバルトロメウスだが、ふと真顔になり、
「まさか、そいつは男じゃねえだろうな」
兄の真剣な表情に、ヴィオラートの顔がほころぶ。
「大丈夫だよ、来るのは女の人。アイゼルさんの親友なんだって。なんか、あたしに似てるって、手紙に書いてあったなあ。チーズケーキが大好物だっていうから、用意しておかないと」
そのためにも、妖精の森で手に入るシャリオミルクは不可欠なのだった。
「おい、そろそろキャンプの場所を決めないと、日が暮れちまうぜ」
バルトロメウスの言葉に、3人は腰を上げ、森の奥へと向かった。
「それじゃ、あたしは水を汲んでくるから、お兄ちゃんは焚き木を拾ってきてね。クラーラさんは、夕食の下ごしらえをお願いします」
森の中の広場にキャンプを張る場所を決めると、野宿に慣れているヴィオラートは、年上のふたりにてきぱきと指示を与える。
「あ、俺はクラーラさんの手伝いを――」
と言いかけるバルトロメウスをあきれたように見て、ヴィオラートは言う。
「お兄ちゃん! こういう場所ではみんなで手分けして、効率的に仕事をしないといけないんだよ。サボろうとしたってダメなんだからね」
「何だとぉ!? 俺はクラーラさんに無理をさせちゃいけないと思ってだな――」
「バルトロメウスさん、お気遣いは嬉しいけれど、ヴィオの言うとおりだと思います。みんなで協力し合うのが大切だと思いますわ。焚き木を拾ってくださっている間に、おいしい夕食の準備をしておきますから」
「はい、わかりました! よく燃える枯れ枝をたっぷりと拾ってきます!」
クラーラのひとことに、バルトロメウスは張り切って森の奥へ飛び込んでいく。見送ったヴィオラートは、クラーラと顔を見合わせてくすくす笑った。
「あたしも、あっちの泉で水を汲んできますね。すぐ戻りますから」
「わかったわ。わたしはにんじんを刻んでおくから」
ヴィオラートの採取かごには、食糧として持参したカロッテ村名産のにんじんがたっぷりと収まっている。味が濃く、ビタミン豊富な大地の恵みを取り出すと、クラーラは平たい石の上に置いたまな板で、刻み始めた。にんじんサラダににんじんスープ、にんじんと干し肉の炒め物が今夜の献立だ。デザートにはカロッテケーキもある。
「ふう・・・」
西日に照らされ、忙しく包丁を動かしているうちに、クラーラは汗ばんできた。包丁を置き、ハンカチを取り出して額の汗をぬぐう。その時、気まぐれな風が木々をざわめかせて吹き付けてきた。
「あら」
ハンカチが手から離れ、風に乗ってひらひらと飛んでいく。
「あらあらあら」
クラーラはあわてて後を追った。幼い頃から、ものを大事にするようしつけられている。どこに危険が待ち受けているかもわからない森の中だということは、クラーラの念頭から消え去っていた。
大きな白い蝶のように舞いながら、ハンカチは意思を持っているかのように木の間を抜けて、クラーラをキャンプから遠ざけていく。クラーラはスカートのすそを両手で押さえながら、不思議の国に迷い込んだおとぎ話の少女のように、息をはずませて走っていく。
ようやく、ハンカチは繁みに引っかかって止まった。
「はあ、はあ・・・。ああ、よかった」
ほっとして、クラーラは香水がほのかに香るハンカチを手に取った。キャンプに戻ろうと、来た方を振り返る。だが、どこを見回しても、森の景色は同じように見える。方向感覚は完全に失われていた。
「まあ、どうしましょう・・・」
クラーラは顔をくもらせた。しかし、クラーラは森で迷う本当の怖さを知らない。自分のことよりも、下ごしらえの途中のにんじんが乾いてぱさぱさになってしまうのを心配している。
その時、すぐ近くの繁みが、がさりと動いた。はっとして――というよりはほっとして、クラーラが振り向く。
「ヴィオ? バルトロメウスさん?」
仲間が探しに来てくれたのだと思ったのだが、繁みをかきわけて現れたのは、茶褐色の毛皮をした大きなクマだった。
クラーラは知らなかったが、このあたりの森に生息している野生のクーゲルベアだ。しかも、クーゲルベアの特徴として、毛皮の色が濃いほど力が強く、性格も凶暴なのだ。悪いことに、目の前にいるクマの毛皮は濃褐色をしていた。
「ヴィオ・・・。バルトロメウスさん・・・」
クラーラは足がすくんだ。クマの身体は大きく、立ち上がればバルトロメウスをもしのぐだろう。ぬいぐるみなら、この大きさでもかわいらしいと思うかもしれないが、相手は目をらんらんと輝かせ、威嚇するような唸り声を上げている。クマとクラーラの間は数歩の距離でしかない。
こんな時、どうすればいいのだろう。護身用のはたきも今は持っていないし、持っていたとしても、カロッテ村の近くに出る弱いぷにぷに以外、魔物と戦った経験がほとんどないクラーラには、太刀打ちできるはずがない。
死んだふりでもすれば、見逃してくれるだろうか。とてもそうは思えない。
クーゲルベアは大きく伸び上がり、口を開けた。真っ赤な口から大きく鋭い牙がのぞく。
もう限界だった。
「ヴィオ! バルトロメウスさん!」
出せる限りの大声で叫ぶと、クラーラはくたりと膝から崩れ落ち、気を失って地面に横たわった。
その悲鳴に刺激されたのか、クーゲルベアは飛び上がるようにして、鋭い鉤爪の前足を振り上げる。大木すらなぎ倒す強力な前足が振り下ろされたら、ひとたまりもない。
その刹那――。
クマの背後の繁みが音をたててざわめき、青い閃光が走る。
「シュベートストライク!!」
裂帛の気合が響き渡った直後、クーゲルベアの巨体が大地を揺るがして倒れた。
「あれ? クラーラさん、どこに行ったんだろう?」
皮袋に水を汲んで戻って来たヴィオラートは、キャンプが空っぽになっているのに気付いて、首をかしげた。刻みかけのにんじんと包丁が、まな板の上に無造作に置いてある。下ごしらえを途中で放り出していくなんて、クラーラらしくない。
「まさか、お兄ちゃんが――?」
眉をひそめる。ヴィオラートが何を想像したのかはわからないが、背後から兄ののんびりした声が聞こえたので、その想像もしぼんで消えた。
「おい、ヴィオ、何ぼさっと突っ立ってるんだよ?」
振り向くと、両手いっぱいに山のように枯れ枝をかかえたバルトロメウスが森から出てきたところだった。
「お兄ちゃん、クラーラさんがいないの」
「何だって!?」
その時、木々の向こうから、女性のかんだかい悲鳴が聞こえてきた。どうやらふたりの名を呼んでいる。
「クラーラさん!」
ヴィオラートは水袋を放り出し、バルトロメウスは焚き木をあたりにぶちまける。ふたりはあわてて武器を取ると、大急ぎで森へ――クラーラの悲鳴が聞こえた方へ駆け込んでいった。
「クラーラさん!」
やぶを飛び越え、低く突き出た枝に打たれながら、兄妹は先を争ってクラーラの許へ向かう。左手で杖を握りしめたヴィオラートは右手でポケットの爆弾をまさぐり、バルトロメウスは抜き身の剣で行く手をさえぎる枝を打ち払う。
やがて、木々の間から、地面に横たわる白い姿がちらちらと見えてきた。迫る夕闇のためはっきりとはわからないが、黒い影がのしかかるようにクラーラを覗き込んでいるようだ。
「クラーラさん!」
悲鳴に近い叫びをあげて、わずかに開けた空き地にヴィオラートが飛び込む。だが、思いもかけなかった人影を目にして、ヴィオラートは目を丸くした。
気を失っているらしいクラーラにかがみこみ、介抱しようとしているのは、オレンジ色の奇妙な服装をした小柄な女性と、たくましい身体の青年だった。すぐそばの地面には、身軽になるために青年が脱ぎ捨てたのだろう、青く輝く重鎧が置かれ、さらに傍らにはクーゲルベアの巨体がぴくりとも動かず、小山のように横たわっている。そして、虹色に光る服を着た男の子のような姿が、周囲をあたふたと駆けずり回っている。
蒼い鎧には、見覚えがある。あのフィンデン王国動乱の際に救援にかけつけてくれたシグザール聖騎士隊が、そろって身につけていた。そして、女性が身を包んでいるオレンジ色の服と白いローブは、間違いなく錬金術士のしるしだ。
輪っかの形をした帽子をかぶった錬金術士が、駆けつけてきたふたりに気付いて顔を向ける。
「ああ、よかった、やっと人に会えたよ。わたしたち、ハーフェンからカロッテ村に行こうとしてたんですけど、道に迷っちゃって・・・えへへ」
聖騎士も顔を上げた。つりあがった太い眉をひそめて、ヴィオラートをじっと見つめたが、やがてなにかを思い出したようにはっとして、口を開く。
「おう、あんた、確か・・・ヴィオラートだったよな。あのとき、一緒に戦った――」
「ダグラスさん――!」
ヴィオラートの声にも驚きが混じる。グラムナートを救うために、肩を並べて魔界の騎士と戦ったパートナーを、忘れるわけがない。
バルトロメウスだけが、かやの外に置かれたように憮然とした表情をしている。すぐにでもクラーラに駆け寄りたいのだが、ダグラスの身体が邪魔をしている。
「クラーラさんは――。大丈夫なんですか?」
「ああ、けがはしてねえよ。悲鳴を聞いて、すぐに駆けつけたんだが、間に合ってよかったぜ。おい、あんた――」
心配そうなヴィオラートの声にダグラスは答えて、厳しい目でバルトロメウスをにらむ。
「あんたも護衛なら、こんなか弱い女性を森の中でひとりにさせたらだめじゃねえか」
「何だと!」
バルトロメウスは気色ばむ。
だが、そのときクラーラがかすかにうめき声をもらして、うっすらと目を開いた。
「クラーラさん! 気がつきましたか!」
バルトロメウスが駆け寄ろうとする。
クラーラには、確かにバルトロメウスの声が聞こえていた。
(あ・・・わたし、助かったのね)
ほっとすると共に、凶暴なクマと間近で顔を突き合わせたときの恐怖がよみがえってくる。
「怖かった・・・」
そして、半身を起こしたクラーラは、いちばん近くにいたダグラスに夢中でぎゅっとしがみつき、すすり泣きを始めたのである。