コンコン。
工房のドアに、軽くノックの音が響いた。
しかし、返事をする者はない。
しばらくの沈黙の後、先ほどよりは幾分か強めのノックの音。
それでも、反応はない。
「マリー、いないの?」
ドアがそっと押し開けられ(当然、カギはかかっていない)、栗色の長い髪を三つ編みにし、緑色の瞳をした小柄な少女が、バスケットを片手におそるおそるといった足どりで入って来る。
相変わらず、工房の中は嵐の後のように取り散らかっている。
壁際にはなにやら毒々しい色をした産業廃棄物の山。床はこぼれた薬品の染みや、焼け焦げでまだら模様になった上、うっすらと埃が積もっている。そして、乱雑な字で書き散らされたメモや、参考書の切れっ端が、ドアの隙間から入って来た風に舞い上がる。
栗色の髪の少女は、ふわりとした高級そうなロングスカートの裾が床に触れないように気にしながら、薄暗い工房の中をそろそろと見渡す。
中央奥の作業台に目をとめると、少女の瞳に、あきれたような、そして幾分か安心したような笑みを浮かべた。
「くすっ、マリーったら、相変わらずね・・・」
汚れた試験管やビーカー、そして火薬や爆弾までが無造作に置かれた作業台の上に突っ伏すようにして、この工房の主が穏やかな寝息を立てていた。
青く丸い髪飾りで無造作にまとめられた、豊かな金髪に埋もれるようにして、錬金術師マルローネ・・・愛称マリーは、器用に椅子にかけ、そのままの体勢でいたら筋肉痛を起こしてしまうのではないかというような姿勢で、ぐっすりと眠りこけていた。
「マリー、マリー、そんな格好で寝ていたら、風邪をひくわよ」
訪問者・・・マリーの幼なじみで親友のシアは、そっとマリーの肩を揺する。
しかし、その程度のことで起きるマリーではない。
「むにゃ・・・。だいじょぶ、納期は、バッチリ・・・」
わけのわからない寝言をつぶやいている。
「しかたないなあ・・・」
シアはつぶやくと、バスケットを作業台の上にかろうじて空いているスペースに置き、工房の隅に立てかけてある掃除用のはたきを持ってきた。かなり前に買ったはずなのに、新品同様である。
「こら! 起きろ!」
シアはかわいい声で叫ぶと、はたきの柄でマリーの頭をこつんと殴った。
「痛ッ!!」
さすがに盗賊も怖れるという“王国一のはたき使い”シアの一撃は、ツボをついていたようだ。
マリーはがばっと上体を起こすと、頭を2、3度振り、目をぱちぱちさせた。
「あれ? あたし、何してたんだろう?」
「どう、目が覚めた?」
シアの声に、マリーはのろのろと振り向く。
「あれぇ、シアじゃない。いつからいたの?」
「もう! マリーったら、まだ寝ぼけてるの?」
「へ? 寝てたの、あたし・・・?」
「そうよ、それはもう、ぐっすりとね」
「そっか、徹夜で調合してたから、できあがってほっとして眠っちゃったんだ」
「ほんとに、いつも無理をし過ぎよ。真冬なんだし、いくら丈夫なマリーでも、風邪をこじらせたりしたら、倒れちゃうわよ」
シアが心配そうに言う。
マリーは明るく笑って、
「だいじょぶ、だいじょぶ。風邪ひいたって、『エリキシル剤』があるもんね。ま、お茶でもいれるから、座って待っててよ」
「あ、お茶ならあたしがいれるわ」
あわてたようにシアが言う。胃腸がデリケートなシアは、以前、マリーがいれた怪しげな成分のお茶を飲んで、腹痛を起こしたことがあるのだ。
それを覚えていたマリーは、苦笑しながら従う。
「それで、今日は何の用だったの? 仕事の依頼?」
シアがいれた香り高いハーブティーをすすりながら、マリーが尋ねる。
「違うわよ。今日は、これを分けてあげようと思って来たの。そろそろ季節だし、マリーも必要なんじゃないかと思って」
シアは、言いながらバスケットの中身を出す。清潔そうな白いハンカチにくるまれていたのは、握りこぶしほどの大きさをした、つやつやとしたいくつかの茶色の木の実だった。
「何、これ?」
「あら、知らないの? これは『チョコの木の実』よ。チョコレートの原料になるの。ほら、もうすぐバレンタインのお祭りじゃない」
「バレンタイン・・・って、何だっけ?」
「もう! マリーったら、錬金術は詳しいのに、こういうことには無頓着なんだから。バレンタインのお祭りって言ったら、年に一度、女の子が好きな男の子にチョコレートを贈って、愛を告白できる日じゃないの」
「あ・・・そうだっけ? 全然忘れてたよ。でも、あたしには関係ないなあ」
「マリー・・・。好きな人、いないの?」
「好きな人? う〜ん・・・」
シアの素朴な質問に、マリーは頭をかかえて考え込んでしまった。
そんなマリーを見て、シアはくすっと笑い、言い添えた。
「そんなに考え込まなくていいわよ。でも、日ごろからマリーがお世話になってる人とか、たくさんいるでしょ? そういう人たちに、感謝の気持ちをこめてチョコを贈ったらどうかしら」
「うん、それもそうだね。でも、あたし、チョコレートの作り方なんか、知らないよ。それに、お祭りまであと1週間しかないじゃない」
「それも大丈夫。レシピをちゃんと書いて、付けておいたから」
「よおし! じゃあ、たくさん作って、みんなにあげよっと。ええと、ルーウェンでしょ、シュワルベでしょ、ハレッシュさんでしょ、クーゲルさんでしょ、ディオさんに、武器屋のおじさん、それから、エンデルク様に、王子様にもあげなきゃ・・・あ、校長先生にも必要かなあ?」
指折り数えるマリーを見ながら、シアはゆっくりとティーカップのお茶を飲み干す。
「それじゃ、マリー、がんばってね」
工房を出るシアは、そっと心の中でつぶやいた。
(マリー、大事な人を忘れてるんじゃない?)
数日後・・・。
マリーの工房は、相変わらず取っ散らかっていた。
そんな中で、作業台に向かい、マリーはチョコレート作りに取り組んでいた。
あいにくと、お手伝いの妖精さんは、全員、アイテム採取で出払ってしまっている。シアのレシピは懇切丁寧に書かれていたから、マリーはそれに従って、一から作業を始めていた。
「ええと、まずは『チョコの木の実』を砕いて粉にするのね・・・」
マリーは、数日前に『研磨剤』を作ったばかりの乳鉢に、シアからもらった茶色い実を入れ、力をこめてすりつぶしていく。
そして、こげ茶色の粉になると、それを片手鍋に無造作に投げ込む。片手鍋も、先日『怪しいキノコ汁』を作った時のまま、洗っていない。
チョコの実をすべて砕いてしまうと、マリーは再びシアのレシピに目を走らせる。
「なるほど、『乳糖』と『シャリオミルク』を加えるのね。1カップって、どのくらいの量なんだろう? ・・・ま、いいか」
目分量で、『乳糖』を鍋に投げ込み、大壜から『シャリオミルク』をどぼどぼと流し込む。鍋からあふれそうになって、あわてて止めた。
「それから・・・。あれ、どこまでやったんだっけ? ああ、ここまでね。次は、かき混ぜながら火にかけて煮詰めるのね・・・」
ランプの上の三脚に、茶色と白のまだら模様の液体がなみなみとたたえられた片手鍋を置く。
そして、ランプの火を強くすると、手近に転がっていたガラス棒で、鍋の中身をかき混ぜ始めた。
やがて、鍋の中身はぶくぶくと泡立ち、香ばしいチョコレートの匂いが立ち昇ってくる。色も、多少薄いが、おなじみのチョコレート色になってきた。
「さて、できた・・・と。あとは、型に入れて固めればいいんだっけ?」
またレシピに目をやる。
「え? 香料を適度に加えると風味が増す・・・か。香料って、なにかあったかなあ?」
ランプの火を細くすると、マリーは棚に歩み寄り、乱雑に並べられたガラス壜をガチャガチャとかき分ける。
「あれ? これ、何だっけ?」
棚の奥の方から取り出したのは、薄いピンク色の粉が半分ほど入ったガラス壜だった。ラベルには、なにか書かれているようだが、汚れていて判読できない。
マリーは、そっとふたを外す。とたんに、なんとも言えない甘い香りが漂ってきた。
「うん、これなら使えそうね」
ガラス壜を手に、作業台に戻ったマリーは、再びレシピをながめ、眉をひそめた。
「“適度に加える”って、どのくらいの量なんだろう?」
右手に持った壜を、そっと傾ける。ところが、ピンク色の粉はわずかにこぼれ出るだけで、残りは湿気で固まっているのか、壜の中にとどまったままだ。
「もう! しょうがないなあ」
マリーは壜を左手に持ちかえると逆さにし、右手の平で壜の底を叩いた。
「あ!」
3回目に叩いた時、壜の中身が崩れ、ピンク色の大きな固まりとなって、鍋の中に落ち込んだ。粘り気の出て来たチョコレートの中に、ずぶずぶと沈んでいく。
「あ〜あ、どうしよう。でも、とにかくかき混ぜちゃおう!」
と、ガラス棒を手にした時、ドアにノックの音がした。
「は〜い、どなた?」
「おや、珍しいですね。火薬の匂いではなく、食べ物の匂いがしているとは」
皮肉っぽい言葉とともに入って来たのは、銀髪に銀縁眼鏡、錬金術服に身をかため、分厚い参考書を小脇に抱えた人物だった。魔術学院ザールブルグ・アカデミーの主席、クライスである。
「なんだ、クライスか。なにか用?」
「仕事の依頼人に対して、ずいぶんと冷たいですね。そんな態度では、お客も来なくなってしまいますよ」
「悪かったわね。今、忙しいんだから、用事があるならさっさと済ませてよ」
「そうですか。実験材料として、『燃える砂』と『中和剤(赤)』が必要なのです。分けていただけますか」
「う〜ん、それならたしか、在庫があったよ。ちょっと待って」
マリーは、作業台の下やら、アイテム棚の中やらをかき回して、注文の品を探し当てていく。クライスは、銀縁眼鏡の奥の青い瞳で、あきれたようにそれを見ている。
「さ、揃った。これでいいでしょ」
マリーは、赤い液体の入ったガラス壜と、砂袋をいくつか、袋に詰めこんで、クライスに渡す。
クライスは代金を支払いながら、少し意外そうな口調で言う。
「それにしても驚きましたね。あなたにチョコレートを作る趣味があったとは。バレンタインのお祭りで、誰かにあげるつもりなのですか?」
「えへへ、別に、誰にって決めてるわけじゃないんだよ。ただ、シアにも言われたし、普段お世話になってる街の人たちに感謝をこめて・・・ってところね」
クライスは目を閉じ、しばらく考え込んでいたが、やがて目を開くと、真剣な表情でマリーを見詰めて、言った。
「マルローネさん・・・。悪いことは言いません、おやめなさい」
「へ? どうして?」
マリーが口をぽかんと開ける。
クライスは相変わらず、真剣な目で、
「あなたは、街の男の人たちを、全員、食中毒にするつもりですか?」
クライスの言葉の意味をマリーが理解するまでに、数秒かかった。
やがて、マリーが怒気を含んだ声で叫ぶ。
「クライス! 言っていいことと悪いことがあるわよ! あたしのチョコレートのどこが、毒だって言うのよ!」
クライスは冷静な態度を崩さず、右手で眼鏡を整えると、
「いえ、私は可能性について言っただけです。まあ、私には関係のないことですが。あなたからチョコレートなどもらっても、ありがた迷惑ですしね」
「あ、ありがた迷惑ですって!」
「ほら、早くランプの火を消さないと、せっかくのチョコレートがこげてしまいますよ。これ以上、作業のお邪魔をしてしまってはいけませんから、退散することにしましょう。では失礼」
マントを翻すと、工房を出て行くクライス。マリーはその後ろ姿に向かって、盛大にあかんべえをして見せた。
そして、あわてて作業台に戻る。
クライスの言う通り、片手鍋の中身はこげ始める寸前だった。
マリーは、作業台の上のがらくたを隅に押しやり、金属製のトレイを置いた。
そこに、シアが置いていったチョコの金型を置き、片手鍋の中身を順番に流し込んでいく。星型、ハート型、木の葉型など、様々な形の金型は、次々にチョコレート色のどろどろした液体で満たされていく。
一段落して、マリーは金型の数を数え始めた。
「ひい、ふう、みい・・・。これで、人数分かなあ・・・?」
チョコを贈りたい相手、ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、確認していく。
「よおし、これで全員分!」
しかし、まだ片手鍋の中には、4分の1ほどのチョコレートが残っている。
「あははは、やっぱり、あたしってば、分量を間違えてたんだ」
マリーはひとりで笑ったが、ふと真顔に戻る。
「そうか、あいつのこと、忘れてたよ・・・」
先ほどのクライスの言葉が、心によみがえってくる。
(あなたからチョコレートなどもらっても、ありがた迷惑ですしね・・・)
「よおっし、思いっきりありがた迷惑にしてやろうじゃないの!」
マリーは、トレイの上の空いているスペースに、残った鍋の中身をどろどろとあけた。粘り気を含んだチョコレートは、パンケーキほどの大きさに広がる。
他の金型に比べると、3〜4倍の大きさだ。
「みてらっしゃい、絶対に食べさせてやるんだから・・・」
そして、チョコレートが固まるのを待ちながら、マリーは作戦を練り始めた。
2月14日。バレンタインの祭りの当日、マリーはザールブルグ中を駆け回った。
チョコレートは、前夜、全員の分をそれぞれ箱に入れ、ラッピングをしてリボンまでかけた。箱が歪んでいたり、包み紙がしわくちゃになっていたり、リボンが固結びになっているものもあったが、それはまあ、ご愛敬だろう。
マリーは、『飛翔亭』を手始めに、武器屋をはじめ職人通りを回り、シグザール城にも足を伸ばした。
そして、最後はアカデミー。クライス宛てのチョコレートは、直接本人には渡さず、クライスの姉であるショップ店員アウラにことづけた。アウラからならば、クライスも受け取らざるを得ないだろうという、マリーの作戦だった。
「うふふ、みんな、おいしいって言ってくれるかな」
と、マリーは大満足して家路についたのだった。
そして、一夜が明けた。
翌日、マリーは午前中から『飛翔亭』に出かけた。なにか新しい仕事の依頼があるかと思ったのだ。
「よう、マリー! こっちに来ないか?」
最初に声をかけたのは、冒険者のルーウェンだった。
ルーウェンは、マリーの手を引っ張るようにして同じテーブルにつかせると、店主のディオに手を振った。
「マスター、同じやつをマリーにも! 俺につけといてくれ!」
エールのジョッキが運ばれてくると、ルーウェンは、エールの泡越しに、マリーをじっと見つめた。
その真剣な眼差しに、マリーはちょっとどぎまぎする。
「ど、どうしたの、ルーウェン・・・。なんか、変だよ」
ルーウェンは表情を変えずに、熱意のこもった口調で言う。
「マリー・・・。今度、冒険に行く時は、ぜひ俺を連れていってくれないか。金なんか、要らない。あんたを守ってやりたいんだ」
「ル、ルーウェン・・・」
マリーは口ごもった。
その時、大柄な男がマリーの隣にどっかと腰を下ろした。こちらも冒険者の格好をしている。同じく『飛翔亭』の常連、ハレッシュだ。
「おい、ルーウェン、いいかげんにしろ。マリーが困ってるじゃないか」
ハレッシュの言葉に、ルーウェンはジョッキのエールを飲み干すと、席を立った。ハレッシュをにらみつけ、次いでマリーを優しい目で見やる。
「マリー、俺、本気だからな!」
言い捨てると、頬を赤く染めたルーウェンは、大またに『飛翔亭』を出て行った。
「いったい、どうしちゃったんだろう、ルーウェン・・・」
マリーには、わけがわからない。
「ハレッシュさん、ルーウェンに何が・・・」
言いかけたマリーは、ハレッシュを見て凍り付いた。
ハレッシュの瞳に、ルーウェンと同じものを感じたのだ。
しかし、ハレッシュが『飛翔亭』の看板娘、フレアを目当てに毎日通って来ていることは、周知の事実である。それなのに・・・。
ハレッシュは、マリーの瞳をのぞきこむようにして、言う。
「俺、今まで、なにか大切なものを見失ってたような気がする・・・。なあ、マリー、あんたの役に立ちたいんだ」
「ちょ、ちょっと、ハレッシュさんまで・・・! ほら、フレアさんが見てるじゃない!」
マリーはあわてて立ち上がると、助けを求めるようにカウンターで言葉を交わしているクーゲルとディオの方へ行った。
「マスター、なにかあったの? 今日はみんな、変だよ」
しかし、次の瞬間、マリーはたじたじとあとずさった。
ディオもクーゲルも、普段とちがう表情をしている。
ディオは言う。
「マリー・・・。今まで、安い料金で仕事をさせて、済まなかったな。これからは、料金を倍にさせてもらうよ。あんたは、俺の娘みたいなもんだからな・・・」
クーゲルも、ワイングラスをカウンターに置くと、思いつめたような表情で、口を開く。
「マリー、あんたは、年上の男は嫌いか・・・?」
「さ、さよならっ!!」
耐え切れず、マリーは『飛翔亭』を逃げ出した。
職人通りを全力で駆け抜け、工房に戻る。
街の男たちは、どうしてしまったのだろう。わけがわからない。
だが、工房に戻ったマリーは、中を見て立ちすくんだ。
工房の壁という壁、床という床が、赤や白のバラの花束で埋め尽くされていたのだ。そして、その真ん中にたたずんでいたのは、聖騎士の鎧に身を固めた、王室騎士隊長エンデルクだった。
「エ、エンデルク様・・・?」
(まさか、エンデルク様も?)
と思ったマリーは、視線を合わせないようにしながら、そっとエンデルクの目を見やる。
エンデルクの目は、いつものように、無表情で涼しげだった。
おもむろに、エンデルクが口を開く。
「ブレドルフ王子から、ことづかってきた・・・。これらの花は、王子からマリーへのプレゼントだそうだ・・・」
「へ?」
「王子からのメッセージを伝える・・・。“この花は、ぼくの気持ちのほんのひとかけらでしかない。言葉では伝えられない想いを、花に託す”・・・以上だ」
(どうしよう、王子様までおかしくなってるよ)
マリーは、すがるような目をエンデルクに向けた。
「エンデルク様、街のみんなが、どうかしちゃったみたいなんです。助けてください」
「マリー・・・」
エンデルクが、一歩近寄る。マリーは、いやな予感を感じた。
そして、予感は現実のものとなる。
エンデルクは、低い、落ち着いた口調で言った。
「マリー、今度行われる、城の舞踏会で、私のパートナーになってはくれないだろうか・・・」
「いやあっ!!」
マリーは悲鳴をあげ、耳をふさいだ。
「考えておいてくれたまえ。待っているよ・・・」
エンデルクは立ち去った。
「ひっく・・・。ふぇぇん・・・」
マリーは泣きながら、工房の中をうろうろと歩き回った。
「みんな・・・みんな、どうしちゃったって言うのよぉ!!」
「ほーんと、どうしちゃったんだろね〜?」
若い女の声が、工房に響く。マリーは、はっと顔を上げた。
2階へ続く階段の踊り場につっ立っていたのは、小柄な冒険者姿の女性だった。赤紫色の髪を1本の三つ編みにし、後ろに長くたらしている。
「ナタリエ!」
「よっ」
掛け声とともに、もと怪盗デア・ヒメル、現在は冒険者稼業をしているナタリエが、身軽に工房の床に降り立つ。
「さっき、武器屋を覗いたら、あの親父、“マリーに捧げるセレナーデ”とかいう歌を大声で歌ってたよ。あんたの言う通り、町中の男たちが、どうにかなっちゃったみたいだね」
「ひっく・・・。ナタリエ、あなたは平気なの?」
「ぜーんぜん。何ともないよ」
ほっと安心したマリーは、力が抜けたようになり、小柄なナタリエの胸に顔をうずめて泣きじゃくった。
「ほらほら、泣いてる場合じゃないよ」
ナタリエは優しくマリーを椅子に座らせ、自分も向かい合わせに椅子にかける。
「だって、だって・・・。今日はじめて、まともな人に会ったんだもん・・・。ひっく」
マリーはまだ泣き声だ。だが、次のナタリエの言葉で、マリーは驚いて泣きやむことになる。
「そりゃそうだよ。だって、あたしはマリーのチョコレートを食べてないもの」
「何ですって!?」
ナタリエは、頭をかきながら言う。
「別に、証拠はないけどさ。でも、バレンタインのお祭りが終わって、一夜明けたら町中の男たちが、あんたに異常に好意を持ってる・・・。これは、どう考えても、あんたが配ったチョコレートに原因があるとしか思えないじゃない」
「そんな・・・!? あたしは、シアがくれたレシピ通りに作っただけよ」
「あたしも、あんたが意図してそういうことをしたとは思わない。でも、なにかのまちがいで、たとえば『惚れ薬』を混ぜてしまった、とかいうことはない?」
「まさか・・・。だって、材料は『チョコの木の実』でしょ、『乳糖』でしょ、『シャリオミルク』でしょ、それから・・・・・・あっ!!」
マリーはあわてて、作業台の上や下を探った。エンデルクが持ってきたバラの花が、無残に飛び散る。
「あった! これだ!」
マリーは、空になったガラス壜を拾い上げた。底の方に、わずかにピンク色の粉が付着している。
ラベルに付いた汚れを一生懸命にぬぐい、そこに書かれた文字を読み取ろうとする。ナタリエも、横から覗きこむ。
「これ、最初の文字、“魅”じゃない?」
「そうかなあ・・・。でも、これ、あたしの字じゃないから、読みにくいなあ・・・」
そして、数分かかって、ようやくすべての文字が判読できた。
その瞬間、マリーはへなへなと床にへたりこんでしまった。
ラベルには、こう書いてあったのだ。
『魅了の粉〜取扱注意〜』
「そうか、やっぱりこれが原因だったんだね」
大きくうなずくナタリエ。
「ああん、ただ香りがいいから使っただけなのに〜」
ぺたりと床に座りこんだまま、悲鳴に近い声をあげるマリー。
「ま、仕方ないね、あんたの不注意が原因なんだから。いつものことじゃない」
「なんで、そんなに冷たいことを言うのよ! ああん、どうしよう」
「そうだね、惚れ薬だって、効き目が永久に続くわけじゃないだろうから、しばらくの間、町を離れたらどうかな・・・。あたしでよければ、付き合うよ。規定通りの料金でね」
「あ、ありがとう、ナタリエ」
その時だ。
工房のドアが、無造作に、大きく押し開けられた。
はっと顔を上げる、マリーとナタリエ。
「マルローネさん・・・」
すたすたと、臆するところなく入って来たのは、クライスだった。
銀縁眼鏡の奥の青い瞳に、これまで見たことのない表情が宿っている。それは、炎にも似ていた。
立ちすくんだまま、マリーは思い出していた。クライスには、他の人よりも数倍大きなチョコレートを贈ったことを。そして、クライス用として使った鍋の底の材料には、より多くの『魅了の粉』がよどんでいたであろうことも・・・。
クライスは、ナタリエを無視するようにつかつかとマリーに歩み寄る。無意識にあとずさりしたマリーは、作業台に邪魔されて、それ以上後ろへ下がれなくなった。
クライスは、熱意のこもった口調で言う。目がすわっている。
「マルローネさん・・・。私は今まで、自分の気持ちに嘘をついてきました。しかし、それは愚かなことだったと、気付いたのです」
クライスは、マリーの両肩に手を置いた。身をよじるマリー。
「ナタリエ、助けてぇ・・・」
だが、ナタリエは面白そうに傍観している。
クライスは、左手をマリーの肩に回し、右手をマリーの頬に添えて、上を向かせた。マリーの目が、大きく見開かれる。
「マルローネさん、私の気持ちを受け取ってください・・・」
「いやっ、クライス、やめて・・・」
ひ弱そうに見えても、やはりクライスは男である。マリーは、抵抗しようとしたが、その腕からは逃れられない。
クライスのくちびるが、ゆっくりとマリーのそれへ下りてくる。
ふっ・・・と、マリーの身体から力が抜けた。
空色の瞳が、そっと閉じる。
そして・・・・・・。
次の瞬間。
ガツン!と鈍い音がして、不意にマリーは自分の身体が自由になったのを感じた。
「ふえ・・・?」
真っ赤に頬を染めたマリーが、ぼんやりと目を開く。
クライスは、床を埋めたバラの花に埋もれるようにして、気を失っていた。
最後の瞬間、あわやという時に、ナタリエがクライスのこめかみに肘打ちをくらわせたのだ。
「これ以上は、シャレにならないからね」
両手をパンパンとはたき、ナタリエが言う。
(続きは、お互いが正気の時にしなよ・・・)
そう心の中で付け加え、ナタリエはにっこりと笑ってみせた。
Fin
<○にのあとがき>
“スルメ”ネタに続く、Hazardシリーズ(シリーズなのか?)第2弾です。
とにかく、ネタを思い付いてから、この“あとがき”を書くまで、24時間かかっていません。旬のネタなので、なんとか当日に間に合わせようと(^^;
ん〜、なんというか、お約束通りのストレートギャグですね。ひねりも何にもありゃしない・・・。
しかし、クライス・・・。あれだけ強く効果が出てるってことは、やっぱり全部食べたんでしょうね・・・(^^;