しん、と静まり返った控え室で石造りのベンチに腰をおろし、聖騎士ダグラスは目を閉じていた。
つい半日ほど前には、腕自慢の騎士や冒険者たちでごったがえしていた控え室だが、今は熱気も失せ、ぴんと張り詰めたような冷たい空気が漂っている。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
手甲に覆われた両手は、膝の上に置かれているが、小刻みに震えている。
怖いのか・・・?
いや、武者震いだ、とダグラスは自分に言い聞かせる。
準決勝でハレッシュの強烈な突きをくらった左肩は、肩当てを着けていたにもかかわらず、赤く腫れ、ずきずきと痛んでいる。骨折はしていないにしろ、骨にひびが入っているかもしれない。
だが、その程度の傷が何だというのだ。
ついに、俺はここまで上りつめた。残るは、あと1試合。
決勝まで、まだしばらくの時間がある。
ダグラスは、はやる心を必死に落ち着けようとした。
顔を上げ、目を開く。
だだっ広く、薄暗い石造りの広間が、壁のあちこちに掛けられた松明の炎に照らし出されている。揺らめく炎が、ダグラスの青い瞳に映り、彼自身の目が燃えているかのように見える。
深呼吸すると、ダグラスは確かめるように剣の柄を握り、再び目を閉じた。
彼の心は時をさかのぼり、はるか北の王国へと帰っていく・・・。
Episode−1
「行くぞ! ついて来い、シュベート!!」
蒼天を指すように真っ直ぐに伸びたカリエル杉の林の中に、かん高いボーイソプラノが響く。
風のように丸太小屋を飛び出してきた声の主は、小さな矢筒を背負い、薄茶色のチュニックに半ズボン姿。なめした皮の薄底靴が土をけり、子鹿のように木の間を縫って走っていく。
「あんまり遠くへ行くでねえぞ! オオカミに気を付けっだぞ!」
小屋の窓から母親の声が後を追うが、駆け出していく少年の耳に届いたのかどうか。
少年の名はダグラス・マクレイン、年は10歳である。
そのダグラスの後を追って、裏庭から疾駆してくる真っ白な犬。
“剣”という意味を持つシュベートという名前の通り、耳をぴんと立て、細身の身体が流れるように地を駆ける。
シュベートは、生まれた時からダグラスと一緒に育ってきた。ダグラスにとっても、シュベートは最初の遊び友達であり、近所の子供たちよりも、もっとも近しい遊び仲間であった。
シュベートは、猟犬としても村一番の優れた犬だった。ダグラスも、時おり、父親の狩りに連れて行ってもらうことがあるが、そういう時のシュベートの動きは、まさに芸術品だった。
耳を立て、鼻をひくつかせて、獲物が発するかすかな音と臭いを感じとる姿。獲物を発見すると、低い姿勢で風下からそろそろと近付いて行く。そして、最後の瞬間、矢のように飛び出して、獲物の急所をつく。あるいは、主人であるダグラスの父の指示通りに、弓矢の的にするのに格好な、開けた場所へ追い出すのだ。
ダグラスの家で、いつも新鮮なウサギや子鹿のシチューが食べられるのも、また、なめした毛皮を売ったお金でなに不自由ない生活が遅れるのも、シュベートがいるおかげだと言ってよかった。
今日、ダグラスの父親は、王都カリエルまで毛皮を売りに行っている。この村からカリエルへ行って帰ってくるには、朝早く出ても、夕方までかかる。
だから、今日はまる1日、シュベートと遊べるのだ。
林のそこここには、ふきだまりとなった雪が溶け残っているが、日の光は暖かい。そろそろ、森の動物たちが活動を始める季節だった。
ダグラスは、冬の間に見つけておいたユキウサギの巣へ行ってみるつもりだった。運が良ければ、夕食においしいウサギ肉のシチューが食べられるだろう。
ツタをくぐり、倒木を飛び越え、少年と犬は、後になり先になり、林の奥へと入り込んでいった。
「しっ、伏せ!」
こんもりと盛り上がった小さな土の丘の手前で、ダグラスは足を止め、姿勢を低くした。隣では、シュベートが同じように背を低くし、くんくんとあたりの臭いをかぐ。
この丘を越えた向こうに、樹齢何百年というカリエル杉の古木がある。その根本に、ユキウサギの群れが住む大きな巣穴があるのだ。
ダグラスは、背中の矢筒から、そっと手製の弓と矢を取り出す。矢は、真っ直ぐな枝を削って作ったもので、先端は鋭くとがらせてある。まだ小さいからと言われ、鉄製の矢尻のついた本物の矢は持たせてもらえないのだ。
右の人差し指をなめ、頭上にかざす。風の方向を調べているのだ。
どうやら、風は向かって右から左へ、ゆるやかに吹いているようだ。
これならば、こちらの臭いが気付かれる心配はない。とにかく、臆病で用心深いユキウサギたちは、ほんのわずかでも怪しい気配を感じたら、巣穴の奥深くまで逃げ込んでしまう。そうなったら最後、その日の狩りはあきらめなければならない。
「よし、行け!」
ダグラスがシュベートの背中を叩く。
シュベートは無駄のない動きで身をひるがえし、低い姿勢のまま左側の林へ大きく回りこんで行く。風下の位置を保ちながら、巣穴の裏側へ向かっているのだ。
ダグラスは、そろりそろりと丘を上り、頂上のわずか手前に身を伏せた。左手で弓を構え、いつでも矢をつがえられるようにしている。
太陽は、かなりの高さまで昇っている。そろそろ、ウサギたちが餌を食べたりひなたぼっこをしに外に現われる時間だ。
ダグラスは、息を殺して待つ。
今ごろは、シュベートも同じように、気配を消して行動開始の時を待っているだろう。
その時。
杉の老木の下で、なにかが動いた。
そろそろと、薄い褐色の毛皮をした小動物が、ひなたに姿を現す。
ユキウサギの雄だ。冬の真っ白な毛から、春の毛に生え変わっている途中なのだろう、背中から尻にかけて、白と褐色のまだら模様になっている。
そのウサギは、ぴょんと飛んで草原に出ると、前足を上げて伸び上がるような姿勢をとり、耳を立てて鼻をひくつかせている。周囲に危険がないか、気配をうかがっているのだ。
ダグラスは、自分は石だ、と念じた。ここで気付かれたら、すべてがおじゃんになる。
ダグラスの祈りは通じた。
雄ウサギは、姿勢を元に戻すと、素早く後足で地面を2回たたいた。
それを合図にしたように、巣穴からウサギたちが次々と飛び出してくる。
大小合わせて10匹くらいだろうか。ウサギたちはあちこちに散らばり、草を食べたり、毛づくろいをしたり、ふざけてじゃれあったりしている。
のどかで、平和な風景だ。
だが、かれらは狙われている。
ダグラスは伏せた姿勢のまま、左手を伸ばし、右手で矢をつがえた。
彼が狙いをつけたのは、自分にもっとも近いところで草を食べている、若いウサギだ。うずくまるような姿勢で、耳を寝かせ、もぐもぐと口を動かしている。
ほんの一瞬、ダグラスの心に、かわいそうだという気持ちがよぎった。
だが、父親の言葉を思い出して、その気持ちを押し殺す。
(・・・いいか、ダグラス。人間ってものは、生きていくためには多かれ少なかれ、他の生き物を殺さにゃいかんのだ。ただな、これだけは覚えとけ、殺した命は、無駄にしちゃあいけねえ。毛皮も肉も、しっかりと使いきってやるだぞ・・・)
ダグラスは、矢を放った。
風を計算に入れ、少し右側を狙う。
矢は、わずかに放物線を描いて、獲物に向かった。
風を切る音に、ウサギはぴくりと動いた。反応は早い。力強い後足が、土をける。
だが、それでも一瞬、遅かった。
ダグラスの放った矢は、ウサギの後足の付け根に突き刺さった。
他のウサギは、異変に気付き、まさに脱兎のごとく巣穴に向かって駆け戻る。
そこへ、シュベートが飛び出してきた。
逃げ遅れたウサギの1匹が、前足の一撃をくらって吹っ飛ぶ。
そして、林の方へ逃げるもう1匹を追って、シュベートは右側の林へ消えた。
あっという間の出来事だった。
もう、見える範囲には、シュベートが倒したのとダグラスの矢をくらったのと、2匹のウサギしか残っていない。
「ひゃっほうっ!」
ダグラスは歓声をあげ、丘を越えて駆け下りる。
矢を受けたウサギは、まだもがいて逃げようとしていた。ダグラスは、そのウサギを捕まえると、父親がいつもやっているように、その首をひねり、楽にしてやった。
そして、巣穴の近くに倒れているもう1匹のウサギに近付く。
その時、ダグラスは、異様な気配を感じた。
ふと、目を上げたダグラスは、凍り付いたように動けなくなった。
足がすくみ、がたがたと震える。
カリエル杉の古木の陰から、おそろしく大きな獣の鼻面が、こちらをのぞいていたのだ。
このような場所で生活しているのだから、ダグラスもオオカミの話は聞いているし、猟師がしとめたその死体や毛皮も見たことがある。
しかし、彼が今、目の前にしているような巨大なオオカミは、見たことも聞いたこともなかった。
黄色い目は無表情にダグラスを見すえ、のどの奥から血も凍るような低いうなり声が響いてくる。
(・・・春先のオオカミは、いちばん怖えだぞ。なんせ、冬の間は獲物が少ねえから、やつらも腹すかしてるからなあ・・・)
村の猟師が話していた言葉が、ダグラスの脳裏によみがえる。
ダグラスは、魅入られたようにオオカミの目を見つめたまま、一歩下がった。
本当は、身をひるがえして一目散に逃げ出したい。
でも、彼の足では、3歩も逃げないうちに追いつかれてしまうだろう。そして、ウサギと同じように・・・。
それ以上は、想像したくなかった。
ダグラスの動きに合わせるかのように、その巨大な獣も、うっそりと前に進む。
木の陰に隠れていた全身が、あらわになった。
その巨大さの他にも、普通のオオカミと違っている点があった。毛皮の色である。今まで見たことがあるオオカミの毛は黒や灰色だったが、このオオカミは赤茶色の毛で全身をおおわれていた。
はるか西のヴィラント山のふもとに生息する、狂暴きわまりない大型種のオオカミ、ヤクトウォルフに特有の色なのだが、ダグラスにはわかるはずもない。
また、なぜ1頭だけこんな場所にいるのかということも。
ダグラスは、震える足で、もう1歩下がった。
その時、かかとが石ころを踏み、バランスを崩してしまった。
ダグラスが、仰向けに倒れる。
それを合図にしたかのように、オオカミは一声吠えると、口をあけ、鋭い牙をむき出しにしてダグラスに襲いかかった。
無意識のうちに、ダグラスは両手を上げて、攻撃を防ごうとした。だが、まだ10歳の少年に、攻撃を受け止める力があるはずもない。彼の命は、風前の灯火だった。
しかし、次の瞬間。
白い矢が宙を飛び、オオカミの横っ面にぶち当たった。
グワッ!!
オオカミが、苦悶と怒りの咆哮をあげる。
身をひねり、起き上がりかけたダグラスの目に、自分の身体の4倍もの巨体の敵に立ち向かう猟犬の姿が映った。
「シュベート!!」
ダグラスが悲鳴に近い声で叫ぶ。
ダグラスだけを狙っていたオオカミにとって、シュベートの一撃は完全な不意打ちだったようだ。
オオカミは、顔の右側をシュベートの爪で切り裂かれており、赤い血が鼻面をしたたる。
シュベートは、素早い動きでオオカミの注意を引き、ダグラスから引き離そうとしているようだ。
その間に、ダグラスはようやく立ち上がる。
武器になるものはないかと考えたが、弓は丘の上に放り捨ててしまっており、ポケットにあるのは木を削るための小型のナイフだけだ。これでは何の役にも立たない。
シュベートは、身の軽さを生かして、攻撃しては引くことを繰り返しているが、最初の一撃の他は、深手を与えることができないでいる。
もとより、いかに優秀な猟犬であろうと、これだけの体格の差があっては、正面きっての戦いでは勝てるはずもない。
「シュベート、がんばれ!!」
ダグラスは、自分が逃げることも忘れ、2頭の戦いを見守るしかなかった。
シュベートも、次第に疲れてきたのか、やや動きが鈍くなっている。
ガウッ!!
ついに、オオカミの前足の一撃が、シュベートをとらえた。
飛びすさろうとするところを、後ろからやられたのだ。
オオカミの鋭い爪が、シュベートの左の後足を大きく切り裂いていた。
シュベートは悲鳴をあげ、くずおれる。
とどめを刺そうと、オオカミは大きな口を開けて襲いかかる。
「シュベート!」
ダグラスが、身の危険も忘れて駆け寄ろうとしたその時・・・。
右足1本でジャンプしたシュベートが、迫ってきたオオカミの鼻面に牙を立てた。同時に、前足がオオカミの左目をえぐる。
ギャオーッ!!
ふたたび、オオカミが苦悶の声をあげる。首を振り、シュベートを振り落とす。
地面に叩き付けられたシュベートは、もう動けない。
しかし、オオカミの方もしたたかにやられていた。左目をつぶされ、鮮血が地面にしたたる。
突然、オオカミは身をひるがえすと、林の中へ消えていった。
ダグラスは、信じられない思いでその後ろ姿を見送る。
だが、次の瞬間、地面に倒れて動かないシュベートに気付く。
「シュベート!!」
駆け寄り、自分を救ってくれた愛犬を抱き起こす。
シュベートは、苦しげな声をあげながらも、ダグラスの頬に鼻面をこすりつけ、くんくんと鳴いた。切り裂かれた足から流れる血が、ダグラスのズボンを赤く染める。
「シュベート・・・。ごめんよ、ごめんよ」
ダグラスは、大粒の涙を流しながら、いつまでもシュベートを抱きしめていた。
その日以降、シュベートは猟犬としての役割を果たせなくなった。
左足の傷は深く、命はとりとめたものの、一生、3本足で歩かなければならなかったのだ。
しかし、シュベートは、マクレイン家の誇りであり、恩人でもあった。なにしろ、身を捨てて、跡継ぎであるダグラスの命を救ってくれたのだから。
ダグラスは、毎日、シュベートと散歩に出かけた。
あの日以来、ヤクトウォルフが出たという話は聞かない。おそらく、痛い目にあったので、故郷のヴィラント山の方へ帰って行ったのだろうというのが、猟師たちの意見だった。
ダグラスは思う。
あの時の自分の、なんと弱かったことか。
強くなりたい・・・。誰よりも強く。そして、シュベートと同じように、誰かを守ってやることができるような人間になりたい・・・。
後足を引きずりながら、ゆっくりと歩くシュベートを見る度に、ダグラスは決意を新たにするのだった。