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夜明けのアイゼル Vol.1


第1章 手紙

エルフィールへ

昨夜は、遅い時間に急に押しかけて、あんなことを言ってしまって、悪かったと思っているわ。
でも、言わずにはいられなかったの。どうしてそんな気持になったのか、わたしにもわからないけれど。

わからないと言えば、あなたは、わたしにとって、わからないことだらけの人だったわ。
入学したばかりの頃は、順位も最低だし、取るに足らない存在だと思っていたのに、いつの間にかわたしは追い抜かれてしまっていた。遠くまで冒険に出かけたり、酒場に出入りしたり、そんなに一生懸命勉強しているようにも見えなかったのに、なぜなのかしら?
ノルディスだって、あなたに付き合わされて、随分と研究の邪魔をされていたはずよ。

逆に、そんなあなただったから、ノルディスはあなたに惹かれたのかしら。
ノルディスは、誰にでも親切だし、優しいわ。なにか聞けば、すぐに教えてくれるし、わたしにも、よく話し掛けてくれた。でも、エルフィール、あなたのことを話す時のノルディスが、いちばん楽しそうだったわ。
よく、図書室で3人で勉強している時も、ノルディスはあなたの方ばかりを見ていた。鈍感なあなたのことだから、気付いていたかどうかはわからないけれど。

前に話したことがあったかも知れないけれど、わたしは、ノルディスが好き。ノルディスと一緒に、錬金術を究めていきたいと思っていた。でも、それははかない夢だと思い知らされたわ。

今日は卒業式。みんなの進路が決まる日ね。ノルディスは、マイスターランクへ進むと言っていたわ。あなたもきっと、一緒にマイスターランクへ行くのでしょう。
わたしは・・・アカデミーを出ることにしたわ。今のままでは、いつまで経っても、あなたにはかなわないでしょうから。しばらく、外の世界を見て来ようと思うの。決して、逃げ出すのではなくってよ。

わたしは、この手紙を書き終えたら、すぐに旅立つつもり。決心が、鈍るといけないから。
心配してくれなくてもいいわ。決して、錬金術をあきらめたわけではないから。

ひとつだけ、お願いがあるの。ノルディスには、この手紙の内容は、絶対に伝えないでちょうだい。
いくらあなたでも、そのくらいの約束は守ってくださるわよね?
ただ、ノルディスには一言だけ、伝えてほしいの。

「心から、あなたの成功を祈っている」って。

それじゃ、お願いしたわよ。

アイゼル・ワイマール


最後の1行を書き終え、羽ペンで署名すると、アイゼルは、その手紙を読み返すこともなく折りたたみ、ロウで封をした。
ランプの火を吹き消し、作業台から離れると、窓際へ行き大きく伸びをする。
もう夜明けが近いらしく、空は白みはじめ、早起き鳥のさえずりがかすかに聞こえてくる。昨夜は一睡もしていないのだが、少しも眠くはない。

今日は8月30日。ザールブルグ・アカデミーの卒業式の日だ。
だが、アイゼルは卒業式に出ることなく、旅立つつもりだった。つらくて、くやしくて、エリーやノルディスとは顔を合わせられそうにない。

したためたばかりのエリー宛ての手紙をホムンクルスに渡し、エリーの工房へ届けるように指示する。もう2通、両親に宛てた手紙と師であるヘルミーナに宛てた手紙は、そのまま机の上に残す。
身の回りの品と、簡単な調合道具を詰めたバッグを手に取ると、アイゼルはそっと部屋を出た。

寮棟の廊下からホールを抜け、正面玄関の大扉をそっと開ける。扉のきしみが驚くほど大きく響いたが、聞きとがめて起きてくる者はいないようだ。
正門に向かって歩きはじめた時、門の脇に誰かが立っているのに気付いた。
黒いマントに身を包んだ、背の高い女性の姿。一瞬、アイゼルの足が止った。だが、すぐに決然と顔を上げ、歩を進める。

「どこへ行くのかしら、アイゼル?」
通り過ぎようとした時、ヘルミーナの落ち着いた低い声が、アイゼルの足を止めさせた。アイゼルは顔を正面に向けたまま、
「止めてもむだです、ヘルミーナ先生」
抑えようとしても、声が震え、かすれるのは隠せない。

「勘違いしないで。わたしは、あなたを止める気はないわ。ただ、どこへ行こうとしているのか、知りたかっただけ」
意外な言葉に、思わずアイゼルはヘルミーナを振り向く。叱責され、寮に戻るよう命令されるものとばかり思っていたのだ。
アイゼルの師は、口許に意味ありげな微笑を浮かべ、じっと見詰めている。
「わ、わたしは・・・」
アイゼルは口ごもる。とにかくザールブルグを出よう、と決めただけで、具体的な目的地があったわけではないのだ。

「エル・バドールへ行きなさい」
ヘルミーナは静かに言った。
「先生・・・」
「あの娘・・・あなたのライバルのエルフィールも、エル・バドールへ行って帰って来たわ。彼女に勝ちたいのなら、敵を知ることから始めること。いいわね」
アイゼルは、呆然としながらも、黙ってうなずいた。先生は、すべてお見通しだ・・・。

なぜか、涙がこみ上げてくる。それを隠そうと、アイゼルは一礼すると、師に背を向けて歩きはじめた。
(ちゃんと、お礼を言わなければいけないのに・・・。でも、口を開いたら、泣き出してしまいそう・・・ごめんなさい、先生。それから、ありがとう・・・)
涙を隠すために顔を上げ、胸を張って去っていく教え子を、腕組みをして見送りながら、ヘルミーナは独り言を言うでもなく、語り掛けるようにつぶやいていた。
「ふふふふ。本当に、あなたはわたしの若い頃にそっくり。一回り大きくなって、戻っていらっしゃい。そう、昔のわたしのように・・・。ふふふふ・・・ふふふふふ」


第2章 カスターニェ街道にて

アイゼルは、中央通りを真っ直ぐに進み、ザールブルグの外門に向かった。
職人通りへ通じる路地の向こう側に、エリーの工房の赤いとんがり屋根が見え隠れする。アイゼルはそちらを見ないようにしながら、石畳の道を踏みしめて歩いた。
心の中では、まだヘルミーナの言葉がこだましている。
(エル・バドールへ行きなさい・・・)

そこは、ヘルミーナや、エリーとノルディスの師であるイングリドの生まれ故郷だと聞いたことがある。また、そこは錬金術の発祥の地でもあるのだ。ザールブルグのはるか西、大洋を越えた先に、その大陸はあるという。
そして、たしかにエリーは今年の春、そこへ行っていた。卒業までわずか半年という大事な時期に、3ヶ月もアカデミーを留守にするとは、なんてばかなことをするのだろう、と当時は思ったものだった。それに、その間はノルディスを独占できるのだから、エリーの不在は大歓迎だったのだ。
しかし、エリーがその3ヶ月で何をし、何を見たのか、これまで考えてみたことはなかった。
(確かめてみよう・・・。何があったって、どうせ、もう失うものはないんだし・・・)
いささか自嘲気味に、アイゼルは心の中でつぶやいた。

エル・バドールへ行くには、まず西の港町、カスターニェへ行く必要がある。そこから、船で渡るのだ。
カスターニェへは、ザールブルグから馬車が出ている。歩いても行けないことはないが、時間がかかるし、途中の道筋には山賊や魔物が出没するので、とても危険だ。
外門を出たところに、乗り合い馬車の停車場がある。折よく、早出の馬車が出発しようとしているところだった。

「待って、乗せてちょうだい!」
アイゼルは駆け寄り、ステップに足を掛けると、転がり込むように乗り込む。
次の瞬間、御者の鞭が入り、馬車はのろのろと動き出した。
片隅に隙間を見つけて腰を下ろすと、ほっと一息ついて、アイゼルは薄暗い車内を見回す。

朝早いせいか、馬車の中はさほど混み合ってはいない。
荷物の山に埋もれるようにもたれかかっている旅の商人や、楽器を大切そうに抱えて居眠りしている旅芸人。剣を支えにし、マントを体に巻きつけるようにしてうずくまっているのは、さすらいの冒険者か。
幼い頃から、自家用の豪華な仕立て馬車にばかり乗ってきたアイゼルには、物珍しい光景だった。
しかし、それも束の間。前夜からの緊張が解け、馬車のリズミカルな揺れに体を任せているうちに、アイゼルは眠りの世界へ落ちていった。

・・・ノルディスが微笑んでいる。ノルディスはアイゼルの手を握りしめた。
期待に胸をときめかすアイゼル。だが、ノルディスは手を放すと、別れを告げるように右手を振った。そして、ゆっくりと背を向け、歩み去る。
その先には、オレンジ色の錬金術服をまとった小さな姿。ノルディスはエリーに歩み寄ると、そっとその体に腕を回し、そして二人は・・・。
「いや! やめてぇ・・・!」

自分の声に、アイゼルは目覚めた。
一瞬、自分がどこにいるかわからず、周りをきょろきょろと見回す。とがめるようににらんでいる中年の商人と目が合い、思わず目を伏せる。
と、横から、
「いったあ〜い。ひどいじゃない!」
と、女性の声。振り向くと、浅黒い肌に銀色の髪をした若い女性が右の頬を押えている。
いでたちを見ると、すりきれたマントに長剣という、冒険者姿だ。
アイゼルの、無意識に振り回したらしい左手に、何かがぶつかった感触が残っている。

「あ・・・。ご、ごめんなさい」
素直に頭を下げたが、心の中は不安が渦巻いていた。相手がたちの悪い冒険者で、因縁でもつけられたらどうしよう・・・。
だが、相手は白い歯を見せてにっと笑い、のんびりした明るい口調で答えた。
「いいよ。わざとじゃなかったみたいだし・・・。あれえ? あなた、確か、アカデミーの・・・」
「はあ?」
「確か、エリーの友達だよね? 名前は思い出せないけど。あははは」

アイゼルはあっけにとられた。こんなところでエリーの名前が出るなんて・・・。いや、それより、この人、誰・・・?
「あ、あの、失礼ですけど」
「あははは、ごめんね〜。あたしはミュー。エリーとは、時々一緒に冒険してたんだ。でも最近、ザールブルグにも飽きたんで、カスターニェへでも行ってみようかと思ってさ。ところで、あなた、錬金術師でしょ? なんでこんなところにいるのさ」

「よ、余計なお世話よ。ほっといてちょうだい」
「あれえ、ご機嫌斜めなんだ。でも、カスターニェ街道を一人旅ってのは、危ないよ。特に、山越えにかかると、山賊や狼が集団で襲ってくるからね。いざ戦闘になったら、みんな自分の面倒をみるのに精一杯になっちゃうんだから。よかったら、あたしを護衛に雇わない? 安くしとくからさ〜」
ミューは、アイゼルの気分におかまいなしに、べらべらとしゃべり続ける。

(ま・・・。なんて図々しいのかしら)
そう思ったアイゼルだったが、自分の力では、魔物に襲われた時に頼りにならないことは、過去の経験からよくわかっている。
ノルディスやエリーと採取に出かけた日々を思い出すと、先ほどの夢の記憶がよみがえり、アイゼルは思わずくちびるを噛んだ。
「いいわ。雇ってあげる。感謝してよね」
「やっほ〜、よろしくね〜。・・・あれ? あなた、名前、何だっけ?」

あきれていやみも言えないアイゼルだった。


単調な馬車の旅も、5日目が暮れようとしていた。
ザールブルグの城壁はとうの昔に地平線の彼方に消え、馬車は峠につながるゆるやかな上り坂にかかっている。

平地に比べると、揺れが激しくなり、アイゼルはひっくり返りそうになる自分の胃をなだめながら、馬車の壁にもたれかかっていた。思わず不平が出る。
「もう・・・なんて揺れなのよ。こんなの、人間が乗る乗り物じゃないわね。なんとかならないのかしら」
「そう? こんなの、揺れるうちに入らないよ。本当の揺れが始まるのは、山道にかかってからだからね」
「あなたって、本当に無神経な人ね。ひとがこんなに苦しい思いをしてるっていうのに・・・」

「あ、そうなの? ごめんごめん、あたしって、そういうとこ気が付かなくてさ〜」
あまりにもあっけらかんと言われてしまい、アイゼルは文句を言う気も失せてしまった。自分で調合した酔い止め薬をのみ、目を閉じる。
(この人には、悩みなんて、ないんだろうな・・・。ほんとに、おめでたい人・・・)
それでも、ミューがひっきりなしに話す、あたりの風景への感想や過去の冒険談のおかげで、アイゼルの気が紛れているのは確かだった。
話し相手もないひとりだけの旅だったら、アイゼルは過去の苦々しい思い出と自己憐憫のために、押しつぶされてしまっていただろう。

がたん、とひと揺れして、馬車が止る。
「よ〜し、今日はここでキャンプだ。明日からは山道に入るからな」
と、御者の声。
アイゼルは、ふらふらと馬車を降りる。今の気分では、すぐには食事もとれそうにない。気分が治るまで、しばらくあたりを散歩してくるつもりだった。
「待ちなよ〜、どこ行くのさ。ひとりじゃ危ないよ〜」
ミューが追いかけてくる。アイゼルは構わず、草原をずんずんと進み、小高い丘の上へ出た。

山から吹き降ろす涼風を受け、深呼吸すると、ようやく胸のむかつきが治まってきた。遠く、東の地平線を見渡す。その向こうには、ザールブルグがあるのだ。アカデミーの卒業式は、とうに終わっているはずだ。今ごろ、ノルディスは何をしているのだろう。
風景が、ゆがんで見える。思わず、涙がこみ上げてきたのだ。

「あんまり遠くへ行っちゃだめだよぉ。この辺は、もう狼の行動範囲に入ってるんだからさ〜」
ようやく追いついてきたミューが、並んで立つ。アイゼルの涙に気付き、
「どうしたの? おなかでも痛いの?」
「な、何言ってるのよ。夕日がまぶしくて、目にしみただけよ」
「そう・・・ならいいけど。さ、戻ろうよ。あたし、もうおなかぺこぺこで・・・あ! あれは!」

ミューが、不意に小さな叫びをあげて丘を駆け下りる。
「な、何よ、いきなり。どうしたって言うの?」
アイゼルも、わけがわからないまま後を追う。ミューは、丘の中腹にできた窪地にぺたんと座り込んで、なにかを一心不乱に見つめている。

近寄って見ると、そこには子供の手のひらほどの大きさの白い花が、地面にへばりつくようにして群落を作っていた。ミューがつぶやく。
「ホッフェンの花だ・・・。こんなところに、咲いてるなんて・・・」
たしかに、アイゼルにも記憶がある。実物を見たことはなかったが、インテリアの意匠などに時折使われている、南国原産の花だ。
だが、ミューの声の調子が、普段と全然ちがう。
ふと顔を上げると、ミューの目に大粒の涙がたまっているのに気付いた。
意外なものを見て、アイゼルは目を疑う。

ミューは、ホッフェンの白い花をいとおしむように両手でなでながら、問わず語りに、
「この花はね・・・、あたしの思い出の花なんだ。あたしと、あいつとの・・・」
「あいつ・・・って?」
「あたしと同じ冒険者でね。お互い、冒険から帰って来ると、ホッフェンが咲き乱れてる丘の上で、自慢話をし合った・・・。もう、昔の話だけど・・・」

(そう。きっと、失恋したのね・・・。今のわたしと同じじゃない。それにしても、いつも能天気なこの人にも、そんな過去があったのね・・・)
アイゼルは、少し好奇心をそそられた。何気ないふりをして、尋ねる。
「それで、その人は、今どうしてるの?」

ミューが、感情を交えない声で、ぽつりと答える。
「死んじゃった」
「え・・・?」
「冒険の途中でね。魔物に襲われて、あいつとあたし、背中合わせで戦ってた。そこも、ホッフェンの花がたくさん咲いてたっけ。で、やっとのことで魔物を倒して気が付いたら、あいつが倒れてた。ホッフェンの白い花が、真っ赤だったよ。あっけないよね・・・」

アイゼルは言うべき言葉を失い、その場に立ち尽くした。
自分の愛する人が死んでしまうなんて・・・。しかも、自分の目の前で。もし、ノルディスが死んでしまうようなことがあったら、自分は生きていけないだろう。
アイゼルは、初めて思い至った。ミューの、あのあっけらかんとした明るさは、生まれつきのものではなく、心の深いところにある傷を覆い隠すために身に付けたものなのではないか、と。

そして、自分が恥ずかしくなった。自分のつらさ、苦しさなど、その時にミューが味わったものに比べれば、何のこともない。
ノルディスは、ちゃんと生きて、ザールブルグで暮らしている。思わず、ノルディスの笑顔が脳裏に浮かんだ。しかし、ここ数日に味わったような苦い思いは、浮かんでこなかった。

気付くと、ミューが起き上がって、照れくさそうに笑顔を見せている。
「ごめんね〜、辛気臭い話をしちゃってさ。さあ、日が暮れてきたよ。早く戻らないと、夕ごはん抜きになっちゃうよ」
「そ、そうね。戻りましょうか」
その場を立ち去る前に、アイゼルは振り返り、微風に揺れるホッフェンの純白の花を記憶に焼き付けた。

(つらいのは、自分だけじゃない・・・)
ホッフェンの花は、彼女にそう告げているかのようだった。

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