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〜10万HIT(リク権争奪企画)記念リクエスト小説<理珈さまへ>〜

ゲルハルトとクルス Vol.1


※おことわり
本作品には、ゲーム『ヘルミーナとクルス』の根幹に関わるネタバレが含まれています。
未プレイの方にとっては、ゲームの興をそぐことにもなるかも知れません。
あらかじめご了承の上、お読みください。


その街には、のどかで平穏な雰囲気と、活気あふれる市民の営みとが同居していた。
かつての国土拡張主義から内政重視路線に切り替えた第8代国王ヴィントの治世の下、シグザール王国の王都ザールブルグは文化と産業の中心地として発展を続けている。
その要因のひとつは、なじみのない異文化でもさほどの抵抗もなく受け入れ、自らの成長の糧としてしまう包容力のある住民や国家としてのあり方だと言える。たとえ、最初は得体の知れぬものであっても、それが害をなすものではなく、生活の役に立ち日々の暮らしに潤いを与えるものであれば、ザールブルグの市民たちは喜んでその恩恵にあずかるのだった。
はるか西方からもたらされた錬金術もまた、“得体の知れない術”から“生活に役立つ技術”へと評価が変わろうとしていた。
遠く西の海を渡って別の大陸からやって来た4人の男女が、ザールブルグの下町『職人通り』に工房を開いてから、既に数年が経過している。寡黙な中年の男性錬金術士と、工房の主である十代後半の活発な少女、そして10歳そこそこの天才少女ふたり。かれらは、このザールブルグの地に錬金術を根付かせようと、錬金術学校であるアカデミーの建設を目標に地道な努力を続けていた。
その間にも季節は巡り、人々の生の営みは間断なく続いて行く。
人はめぐり会い、別れ、新たな生命が宿り、そして天に召される。
ここ、『職人通り』の片隅の工房の一室でも、新たな命が芽吹こうとしていた。
だがそれは、自然の営みがもたらしたものではなく、錬金術という技術によって生み出された生命だった。
古の錬金術書には、こう記されている――人工生命体“ホムンクルス”と。
ささやかなその命が、かげろうのようにはかなく、ほんのかりそめのものに過ぎないことを、幼い創造主はまだ知らない。


―1日目―

「ちょっと、ヘルミーナ! あんた、鍵なんか掛けて、何やってるのよ!」
外からドアを叩く音と、イングリドのきんきん声が耳に突き刺さるように響く。
「もう、うるさいな!」
ヘルミーナはため息をついてドアににじり寄ると、イングリドに負けない声でドア越しに怒鳴り返す。 錬金術の技術では大人顔負けの“神童”でも、ふたりともまだ思春期にも満たない子供である。遠慮というものを知らない。
「ガタガタうるさいのよ! 今、大事な実験中なんだから! それに、あたしは夕方まで自由時間なんだし、この作業場を使う許可もドルニエ先生からもらっているんですからね。あんたに邪魔される筋合いはないわ!」
「あたしは、そこに置き忘れた参考書を取りたいだけよ!」
「だったら、最初からそう言えばいいじゃない!」
「そのつもりだったわよ。でも、鍵を掛けて閉じこもってるなんて、あんた、怪し過ぎるわ。危ない実験はしちゃダメだって、リリー先生からも言われてるでしょ!」
「危ない実験なんて、してないわよ。あたしはプライバシーを大切にしたいだけ。がさつで無神経なあんたとは違うのよ」
大声で言いながらも、ヘルミーナは作業台の下からイングリドが置き忘れたという書物を見つけ、拾い上げた。
「ほら、あったわよ」
かんぬきを抜き、ほんのわずかに空いたドアの隙間から本を放り出すと、イングリドが覗き込もうとする余裕を与えず、ぴしゃりと閉めて再びかんぬきを下ろした。
「何よ、本を投げるなんて、最低ね! リリー先生に言いつけてやるから!」
「どうぞご勝手に」
ヘルミーナは閉まったドアに向かって舌を突き出す。
ぶつぶつ言いながらも、イングリドは階下へ下りていったようだ。
「ごめんね、うるさくしちゃって」
振り返ったヘルミーナは微笑んで、静かに椅子に掛けている人形を見つめた。
工房を手伝ってくれたり行商をしている妖精に似ている。水色の服と帽子は妖精用のものだし、背格好もそっくりだ。工房の主のリリーが以前に作った『妖精さん人形』のようにも見える。
妖精と違っているのは、髪の毛がやや緑がかっており、瞳が緋色をしているという部分だろうか。
だが、ただの人形とは大きな違いがあった。
その人形は、ヘルミーナの言葉に目をくるりと回し、小首をかしげてみせたのだ。
「やった! 言葉がわかるのね!」
ヘルミーナが歓声を上げる。
「あたしはヘルミーナよ。あたしが錬金術であなたを創ったの」
作業台の上には、古ぼけた分厚い錬金術書が広げて置いてある。師のドルニエの書斎から、黙って持ち出して来たものだ。「高度な内容だし、倫理上も問題があるので、まだ読むには早すぎる」と、リリーでさえ目を通すことを許されていない書物だ。だが、錬金術を極め、ライバルのイングリドに徹底的に差をつけたいというヘルミーナの熱意は、何物にも押しとどめることができなかったのだ。
「ヘルミーナ・・・?」
妖精の姿かたちをした相手は口に出して答えた。
「そうよ、あなたはホムンクルス。錬金術によって創られた人工生命体ってことね」
「・・・?」
「あ、こんな難しいことを言っても、まだわからないか。それより――」
ヘルミーナは上目遣いに考え込む。
「あなたに名前を付けてあげなくちゃね。う〜ん・・・ホムンクルスだから、クルスでいいか」
「クルス」
クルスはにっこりと笑った。
「あなたはこれから、あたしと一緒にいろいろなことを覚えていくのよ。街へ出て、たくさんの物を見て、いろんな人と話をして・・・。そうやって言葉を覚えて、どんどん賢くなっていけば、あたしの優秀な助手になれるわね。わかった、クルス?」
「うん」
「とりあえず、新しく来た見習い妖精さんってことにすれば、みんなはごまかせるわね。よし、それじゃ手始めに、近所へお出かけしようか。行こう、クルス」
「クルス、おでかけ。ヘルミーナ、おでかけ」

・・・クルスは「ヘルミーナ」「クルス」「おでかけ」を覚えた。

こうして、ヘルミーナとクルスが共に過ごす日々が始まった。


―2日目―

「ふあああ〜っ、退屈だな」
武器屋のカウンターにもたれて、ゲルハルトは大あくびをした。
さして広くない店内には、今日も朝からずっと、客の姿はない。
それでも別にかまいはしない。儲けようと思って武器屋の主人を引き受けたわけではないのだ。
壁に掛けられた大剣の装飾模様や、異国の貴族が使っていたという盾に刻まれた幻獣を模した文様をうっとりと眺める。カウンターの下に置いた斧の刃をなでて冷たさを味わい、お気に入りの槍の柄を握ってバランスの取れた重さを堪能する。
「ああ・・・、やっぱり、いいよな・・・」
引き締めれば端正な顔つきをしているゲルハルトだが、今はまるで、恋人と一緒に甘い時を過ごしているような、とろんとした陶酔の表情が浮かんでいる。
やむを得ぬ事情で冒険者になる道を選んだゲルハルトだが、生きていくために様々な武器を使っているうちに、いつの間にか武器自体の魅力に取り付かれてしまった。知らない町を訪れる度に武器屋に入りびたり、時には店を手伝うこともあった。彼の夢は、いつしか武器屋の主人になって、武器に囲まれて暮らすことになっていた。
そして、このザールブルグでたまたま先代の武器屋の主人レオが引退するので後継者を探しているという話を聞き、渡りに船とばかりに飛びついたのだった。根無し草の生活を続け、それが性に合っていたゲルハルトだから、一箇所に腰を落ち着けることには抵抗もあったが、やはり自分の武器の店を持てるという誘惑には勝てなかった。
(それに、この街にはあいつもいるしな・・・)
それが、2年ほど前のことだった。
平和なザールブルグにあって、武器屋という商売はさほど繁盛するものではない。とはいえ、街を一歩出れば魔物がうろついているから、旅人は自衛するか護衛を雇わなければならないので、それなりに武器は売れる。だが、戦争が繰り返されていた数十年前と比べれば、武器の需要は落ち込んでいた。時おり、王室騎士隊から大量発注があったりするが、それはあくまで例外だ。
今日も、ゲルハルトの店には閑古鳥が鳴いている。
『職人通り』で軒を並べるファブリック製鉄工房が、鍋や釜や包丁など、日用品の鋳造や修理を依頼する客でいつもにぎわっているのとは対照的だった。
でも、それでいいとゲルハルトは思っている。
店の武具が誰かに買われて行くと、まるで自分の子供を売り飛ばしてしまったような寂しさと罪の意識を覚えるのだ。だから、武器は売れない方がいい。お金に困ったら、一時的に店を閉めて冒険者に戻り、護衛をやって稼げばいいのだ。
「さて、今日もお前たちを磨いてやるぞ」
壁に掛かった剣や槍に、家族に呼びかけるかのように声をかける。つやつやした自慢の長い黒髪を無造作に束ねて縛り、ゲルハルトはたくましい筋肉質の腕を伸ばした。
客がいない時、店内の武具を布で丁寧に磨き、ぴかぴかにするのが彼の日課である。
その時、開けっ放しの扉から、小さな人影が入って来た。
「いらっしゃい。・・・何だぁ?」
遠慮するようにおずおずと足を踏み入れた小さな姿は、やがてよちよちと壁際に並んだ槍や剣に歩み寄る。水色の帽子と服を着込んだ小さな男の子のような人影は、目を丸くして自分の身長の数倍はあろうかという長剣を見上げている。
「お前・・・リリーのところの妖精か?」
カウンターから進み出たゲルハルトは、覗き込むようにして声をかけた。リリーの錬金術工房には足しげく通っているので、そこで働く妖精は何人も見たことがある。
その妖精は、自分と比べれば雲つくような大男のゲルハルトを見上げ、困ったように小首をかしげた。 ゲルハルトはすぐにしゃがみこみ、視線を同じ高さにする。子供をおびえさせないためにはこうするのがいいのだ――と、フローベル教会のシスターから聞いたことがある。
「俺は、ゲルハルトだ」
「ゲルハルト」
妖精はおうむ返しに答える。緋色の瞳を大きく見開いて、しげしげとゲルハルトを見つめている。好奇心に満ちあふれているようだ。
「お前は、何ていう名前なんだ?」
「クルス」
ゲルハルトの問いに、妖精はにっこり笑って答えた。
「クルス、おでかけ。ひとり、おでかけ」
「そうか、ひとりで散歩中か。それにしても、お前、普通の妖精とは、ちょっと違うな」
ゲルハルトが知っている妖精は、「ベイベ」を連発するテンションの高い黒服だったり、妙に理屈っぽかったり気障だったり気弱だったりと、いろいろだ。だが、共通しているのは、踊ったりけたたましくしゃべったり、いつも楽しそうにはしゃぎ回っている連中というイメージだった。
それに対して、クルスは控えめでおとなしく、言ってみれば生まれたばかりの赤ん坊のような無垢な感じがする。もっとも、リリーが言うには、子供みたいな外見をしているが、妖精は人間よりも何百年も長く生きているそうなのだが。
クルスは、きょろきょろと店内を見回し、よちよちと歩き回っては珍しそうに盾に触ったり槍の柄を両手で抱え込んだりしている。
ゲルハルトは邪魔をしないように、暖かな目でそれをながめていた。
ひとわたり、店内を探検し終わると、クルスはゲルハルトに近づき、物問いたげな目で見上げた。
「何だ、お前、武器に興味があるのか?」
「ぶき?」
「ああ、気に入ったんなら、いつでも見に来ていいぜ。武器が好きなやつは大歓迎だ」

・・・クルスは「ぶき」を覚えた。

その晩、ヘルミーナとクルスは工房2階の部屋で向かい合っていた。
「今日はごめんね、クルス。一緒にお出かけしてあげたかったんだけど、ドルニエ先生から用事を言いつけられちゃって。でも、ひとりでお出かけしても、ちゃんと無事に戻って来たんだ。偉いね、クルス」
「うん。クルス、ひとり、おでかけ」
「それじゃ、クルス、お勉強を始めようか。今日はどんな言葉を覚えて来たの?」
「ぶき」
「へ?」
ヘルミーナはきょとんとしたが、すぐに顔をしかめる。
「もう! どこでそんな言葉を覚えて来たのよ!?」
「ゲルハルト」
「ああ、聞かなくてもわかるわ。あの無神経で、落ち着きのない武器屋ね。ほんとに、どうしてリリー先生はあんなやつと仲良くできるのかしら。神経を疑っちゃうわ」
「・・・?」
クルスは無言で、困ったようにヘルミーナを見つめる。
「あ、ごめんごめん、あなたを怒ったわけじゃないのよ」
「うん」
「でもね、『武器』なんて言葉、あなたは覚えなくていいのよ。武器ってものは、人を傷つけたり、へたをしたら殺してしまうことだってあるんだから」
「ぶき、いけない?」
「そうよ。だから、あなたもあんまり武器屋に出入りしちゃダメよ。いいわね、クルス」
「・・・」

・・・クルスは「きずつける」「ころす」を覚えた。


―5日目―

今日も相変わらず、武器屋はがらんとしていた。
その中で、なにかが鋭く空気を切り裂く音と、規則正しい息遣いが壁にこだましている。
カウンターの中で、暇をもてあましたゲルハルトがお気に入りの長槍を振り回しているのだ。
はたから見れば、壁や天井、カウンターの上の備品などに穂先がぶつかるのではないかとはらはらするだろうが、そこは槍の達人ゲルハルト、しくじったことはない――と、本人は主張している。
「さあて・・・と。今日もいい汗かいたな。一服したら、また磨いてやらないとな」
汗をぬぐいながらひとりごちて、慈愛に満ちた目で武具をながめやる。
そこへ、小さな影が入って来た。
「おう、クルスじゃないか。また来たのか」
よちよちとカウンターに歩み寄ったクルスは、真剣な目つきでゲルハルトを見上げた。
「どうしたんだ? おっかない顔してよ」
「ぶき、いけない」
「な、何だよ」
緋色の大きな瞳で真っ向から見すえられ、思わずゲルハルトはたじろいだ。
「ぶき、ダメ。きずつける、ころす」
声音は優しいが、きっぱりした口調だ。
(ははん、そういうことか。誰かに吹き込まれたな)
ゲルハルトは思ったが、すぐには口に出さず、クルスを抱え上げ、カウンターに座らせると、自分も椅子にかけた。こうすれば目の高さは同じになる。
クルスは今も口を引き結んでゲルハルトをにらみつけている。
「よし、クルス、お前の意見はわかったよ――まあ、他の誰かの意見かも知れないがな」
ゲルハルトは、穏やかな口調で話しかけた。
「今度は俺の意見も聞いてくれ。いいな」
クルスは黙ってうなずいた。
「確かに、武器は人にけがをさせるし、死なせてしまうことだってある。だけどな、それは武器が悪いんじゃない。武器を使う人間が悪いんだ」
「にんげん、わるい?」
「すべての人間が悪いわけじゃないさ。悪い人間は、ほんの一握りだ。そいつらが――」
ゲルハルトはくちびるをかみ、黙り込んだ。記憶がよみがえり、嵐に巻き込まれたように心が揺れる。目を閉じ、必死に抑えつける。
「ゲルハルト?」
気がつくと、クルスが心配そうに見つめている。
「あ、いや、何でもないんだ」
安心させるように笑みを浮かべ、ゲルハルトは話に戻る。
「それに、この世界は決して安全じゃない。ザールブルグから一歩外に出れば、魔物がうようよいるんだ。そいつらから身を守るには、武器はなくてはならないものなんだぜ」
「まもの、わるい?」
「まあ、大抵はな。武器は人を死なせるためにあるんじゃない、人の命を助けるためにあるんだ。俺はそう信じてる。こいつらだって――」
壁際に並んだ武器や防具を指し示す。
「誰かを守りたい、人の役に立ちたいって、思ってるはずさ」
「ぶき」
クルスはぽつりと言うと、ゲルハルトの視線を追うように剣や斧、槍や鎧を見回した。そして、にっこりと笑い、ゲルハルトを見つめる。
「そうか、わかってくれたか」
「うん」
「それにしても、武器が悪いなんて一方的なこと、誰が言ったんだ?」
「ヘルミーナ」
「やっぱり、あいつか」
頭をかき、ゲルハルトは苦笑した。
「あのませガキときたら、やたらと俺のことを眼の仇にしてるみたいでよ。俺がちょっとリリーとおしゃべりしてるだけで、目を三角にして怒りやがる」
「ませガキ?」
きょとんとしてクルスが繰り返した。ゲルハルトはあわてて、
「お、おい、そんなこと、ヘルミーナに言うんじゃねえぞ。――あ、いや、ませガキってのはな、ほめ言葉なんだよ。実際の年齢よりも大人っていう意味でな、あはは。それより、もっと近くで武器を見せてやるよ」
手ごろな剣や手甲などをカウンターに並べてやると、クルスは興味深そうに覗き込んだ。
危険な話題から注意がそれたので、ゲルハルトはほっとひと息をつく。
クルスは、自分の背丈ほどもある広刃の剣の鞘を苦労して抜くと、ぴかぴかに磨き上げられた刀身に映る自分の顔を、目を丸くして見つめている。
「どうだ、武器って、きれいなもんだろう?」
「ぶき、きれい」
「そうだろ? きれいなものは、お前も好きだよな」
「クルス、きれい、すき」
「こいつらは、毎日、俺が磨いてやっているんだぜ。ちょっとでもなまけると、すぐに曇っちまうからな」
「みがく?」
「こうするんだ」
ゲルハルトは、布を取り出すと、慣れた手つきで剣を磨き始めた。興味深そうにクルスが見ている。
しばらく磨いた後、ゲルハルトは尋ねた。
「どうだ、クルスもちょっとやってみるか?」
「うん!」
大喜びで、クルスは差し出された布を受け取ると、見よう見まねで刀身を磨き始める。
口を引き結び、真剣な表情で、全身の力をこめて布をすべらす。
時おり、顔を上げて不安そうにゲルハルトを見やり、力強くうなずいてやると、安心した様子で再び作業に戻っていく。
「うん、お前、なかなか筋がいいぜ。初めてにしちゃ上出来だ」
放っておけばいつまででも武器磨きを続けそうだったので、ゲルハルトはやめさせた。妖精は指示を変えない限り、同じことをいくらでもやり続けるものだと、リリーから聞いたことがある。
息をはずませたクルスは、満足げにゲルハルトの顔を見た。
「よくやってくれたな。ありがとよ」
「ゲルハルト、うれしい?」
「おう、もちろんだ!」
「クルス、すき。ぶき、みがく、すき」
「そうか、気に入ってくれて嬉しいぜ。お前さえよければ、いつでも磨きに来てくれてかまわないからな」
「うん!」
「クルス! こんなところにいたのね!」
背後から、少女のきんきん声が響いた。
「ヘルミーナ」
クルスが罪のない口調で呼びかける。
ヘルミーナはつかつかとカウンターに歩み寄ると、かみつくようにゲルハルトをにらんだ。
「ちょっと! うちのクルスに、変なこと教えてないでしょうね!?」
「あ、ああ」
すさまじい剣幕に、言い返す言葉も浮かばず、ゲルハルトはうなずく。
「さあ、クルス、帰るのよ! こんなところにいても、いいことなんかないんだからね!」
これ以上はこの場にいるのも汚らわしいという態度で、ヘルミーナはくるりと背を向け、クルスを引きずるようにして出て行った。
激しい音を立ててドアが閉まった時、ゲルハルトはクルスに“変なこと”を教えてしまっていたことに気付いた。
「ま、いいか。気にするこっちゃないな」
生来、楽天的なゲルハルトは、ひとつ大きなあくびをすると、退屈な店番に戻った。

・・・クルスは「ませガキ」「みがく」を覚えた。

その夜、ヘルミーナとクルスはいつものように向かい合っていた。
「さあ、今日も勉強を始めよう」
ヘルミーナは言ったが、しきりに目をぱちぱちさせている。
「ヘルミーナ?」
クルスが心配そうに尋ねる。左右の色が異なるヘルミーナの瞳は、わずかに充血し、はれているように見える。
「ああ、大丈夫よ。ちょっと調合をしていてね。材料が材料だから、目にしみて、痛くなっちゃったの」
「ちょうごう?」
「そう、錬金術の調合よ。ちょっと危ない調合だから、クルスに手伝ってもらうわけにはいかないけどね」
ヘルミーナはにんまりと笑みを浮かべた。そして、秘密を告げるようにささやく。
「あたしが考案した新型爆弾の材料を作っているのよ。これが完成したら、イングリドなんか目じゃないわ。絶対に、イングリドをぎゃふんと言わせてやるんだから!」
「ぎゃふん?」
「あ、そんな言葉、覚えなくていいのよ」
あわててヘルミーナは手を振ったが、再び思いをめぐらせ、ほくそえむ。
「新型爆弾にホムンクルス・・・。あたしにこんな高度な調合ができるなんて、ドルニエ先生だって思っていないはずだわ。あたしは錬金術士として、この歳でも一人前だってことを証明してやるのよ、ふふふ」
「ませガキ」
クルスはにこにこして言った。
「へ?」
ヘルミーナが目を丸くする。クルスは嬉しそうに繰り返す。
「ませガキ。ヘルミーナ、ませガキ」
もちろんクルスはゲルハルトに説明された通り、ほめ言葉のつもりで使っている。
「なぁんですってぇ!?」
ヘルミーナの表情が、それまでの笑顔から鬼女に豹変した。クルスが怯えて身を硬くする。
「ク〜ル〜ス〜、そんなこと、誰に教わったの〜!?」
迫り来るヘルミーナの剣幕に、ついにクルスは白目をむき、失神してしまった。

・・・クルスは「きょうふ」を覚えた。


―10日目―

その日も、クルスは朝から武器屋に現れて、楽しそうに武器を磨いていた。
床に置かれた大剣の周囲をよちよちと歩き回りながら、丁寧に布を滑らせていく。
「へえ、かわいいもんだね」
カウンターにもたれて、その様子をながめている作業着姿の若い女性が言った。軒を並べるファブリック工房の後とり娘、カリンである。茶色の髪を少年のように短く刈り揃えているため、一目見ただけでは男性と見間違えてしまうかもしれない。
「ああ、確かにかわいいけどよ」
ゲルハルトは恨めしそうにクルスを見やった。
「こいつのせいで、ひどい目に遭ったんだぜ」
数日前、リリーの工房を訪ねた時のことだ。
工房に足を踏み入れたとたん、目をつり上げたヘルミーナに、桶いっぱいの産業廃棄物を浴びせられたのだ。
「あんたがあたしの悪口を言ってるのは、わかってるんですからね!」
頭からゴミにまみれ、目を白黒させているゲルハルトに、憎々しげにヘルミーナは言い放った。
「あははは、聞いたよ。でも、それはあなたが悪いんじゃないの。ヘルミーナちゃんのことを“ませガキ”なんて言うからよ」
「そりゃあ、そうだけどよ・・・」
ゲルハルトは釈然としない様子で頭をかく。
「こいつは、ばか正直って言うか、聞いたことを何でもしゃべっちまうみたいなんだ」
「それだけ純粋ってことじゃないの」
カリンは微笑んで、かいがいしく動き回っているクルスを見つめる。
「こうやって妖精さんが働くのを見てると、心が和むね。あたしもひとり雇ってみようかな」
「ああ、それもいいんじゃねえのか」
ゲルハルトもクルスの動きを追う。
「見ててわかるか? こいつ、手つきがすごいんだ」
「え? どういうこと?」
「何て言ったらいいのかな。うまく表現できねえけど、こう、武器を磨く時の扱い方が、デリケートで細やかで――」
「ふうん、そうなんだ。やっぱり、人間と違って、手先が器用だからなのかな」
「いや、それだけじゃねえと思う。武器を磨くのが好きでしかたがない、それと、万が一にもこいつらを傷つけちゃいけない――っていう気持ちが感じられるんだ、こいつの手つきには」
「あらら。――ってことは、クルス君もすっかりあなたに感化されちゃったわけね」
「ははは、そうかもな」
「それじゃ、あたしは仕事に戻るから。じゃあね」
カリンが出て行くのとほとんど入れ替わるようにして、新たな女性が姿を現す。
「こんにちは、ゲルハルト」
「おう、リリーか」
カリンが来ていた時よりもゲルハルトの声が弾んでいるのは、気のせいだろうか。
青と白を基調にした錬金術服に身を包み、黒褐色の髪をふたつに分けて飾り気のないリボンで束ねている。錬金術士のリリーは、工房の主として町の人々の依頼に錬金術で応え、一方では材料採取に交易にと、シグザール王国全土に足を運んでいる。ゲルハルトも護衛として何度も冒険の旅に同行してきた。
リリーは片手にバスケットを下げ、もじもじしながらカウンターに近づく。
「どうしたんだよ、リリー」
ゲルハルトの声に、リリーはかすかに頬を染め、バスケットを差し出す。
「あのね・・・。実は、アップルパイ、作ってみたんだけど」
「なにぃ!?」
「ゲルハルトが以前、アップルパイが好きだって言っていたのを思い出して・・・。初めて作ったので、美味しいかどうかわからないんだけど」
「いやあ、嬉しいねえ! 感激だぜ、リリー」
ゲルハルトは本当に嬉しそうに笑顔を見せると、バスケットのふたを取る。
つやつやした黄金色に焼けたパイ皮の香ばしさと、リンゴの甘い香りが立ち昇った。
「本に載っていたレシピにちょっと手を加えて、工夫してみたの。パイ皮の中に厚切りのリンゴとランドージャムを入れて――。いろいろ試してるうちに、徹夜しちゃったけど。えへへ」
「そこまでして、俺のために! くううっ、もったいなくて食えねえぜ!」
「そんなこと言わないで、食べて」
「ああ、もちろんだ! ――でも、ほんとに美味そうだな」
「ゲルハルト」
小さな声が下から聞こえた。
ふたりの会話を聞きつけたのか、クルスがこちらに寄って来たのだ。
「あら、クルス、あなたもいたの?」
リリーが微笑む。
「ああ、毎日のように武器を磨きに来てくれるんだ」
パイを一切れ取り上げたゲルハルトが、ふとパイとクルスを見比べる。
「クルス、お前も食うか?」
「うん」
にっこり笑うクルスに、ゲルハルトはパイをちぎると、リンゴとジャムがたっぷり入った部分を手渡した。
両手で抱えるようにしたクルスは、大きく口をあけて、ぱくりとほおばる。
「どう、美味しい?」
期待をこめた目で、リリーが見つめる。
とたんに、クルスの顔が真っ赤になった。
「わ!」
ひとこと叫ぶと、クルスは両手を振り回して店内を駆け回る。
「ちょっと、クルス、どうしたの?」
リリーの声にも応えず、壁からカウンターへ、そして再び壁へ。ぐるぐると駆けずり回った後、不意にドアから飛び出して行ってしまった。
「何だ、ありゃ」
ゲルハルトはクルスよりも、目の前のアップルパイに気を取られていた。クルスに負けない大口を開けて、あんぐりと大ぶりのパイを口に詰め込む。
そして、2、3度もぐもぐとかんだ。
「う・・・!?」
ゲルハルトは大きく目を見張った。瞬きした目から、涙があふれ出す。
のどぼとけを大きく上下させ、目を白黒させて口の中のパイを呑み下すと、大きく息をついた。
クルスと同じように、顔が真っ赤に染まっている。
「どうしたの?」
いぶかしげにリリーが尋ねる。不安そうな声音だ。
「もしかして、不味かった?」
「い、いや、そんなことねえよ」
のどから絞り出すような切れ切れの声で、ゲルハルトが言う。
「なんていうか、その・・・。これまでに食べたことのない鮮烈な味というか、全身に熱気がみなぎってくるというか・・・」
「変なの。あたしも食べてみよう」
リリーが手を伸ばす。
「だ、だめだ!」
ゲルハルトはバスケットごと奪い取った。
「何するのよ」
「いや、違うんだ、リリー。お前に食わせるわけにはいかねえ。他の誰にもだ。お――俺が全部、食ってやる!」
「本当? 嬉しい!」
ゲルハルトの言葉をどのように理解したのか、リリーがほんのりと頬を染める。
ゲルハルトはバスケットを持ったまま、厨房の方へ行こうとしている。
「俺、ちょっと水を・・・」
「あ、待って」
リリーが止める。
「水なんかより、せっかくだから、お茶をいれるわ。パイにも合うと思うし」
「う・・・くくく」
ゲルハルトの目から、再び涙がこぼれる。
その時、ものすごい剣幕のヘルミーナが怒鳴り込んできた。
「ちょっと! どういうつもりなのよ!」
ぐったりとしたクルスを抱きかかえるようにしている。
「ヘルミーナ?」
リリーには見向きもせず、怒りに燃えた瞳でゲルハルトをにらむ。
「また、あんたね! クルスに何を食べさせたの!?」
「ちょっと、ヘルミーナ、何があったの?」
おろおろとふたりを見やりながら、リリーが尋ねる。
「も、もうだめだ!」
ゲルハルトはバスケットを放り出すと、厨房へ駆け込み、汲みおきの井戸水の桶に顔を突っ込むようにして、むさぼるように水を飲み始める。
「いったい、何がどうなってるの?」
リリーはますます混乱している。
「聞いてくださいよ、リリー先生」
腕組みをして胸をそらしたヘルミーナは、腹に据えかねるといった様子で口を開いた。
「あたしが工房で探し物をしていたら、クルスがすごい勢いで駆け込んで来たんです。もうそれはひどい様子で、目は真っ赤で涙がぽろぽろ出ているし、口の中は腫れ上がっているし――。きっと、ひどい毒薬が入ったものを食べさせられたに違いありません」
「え? でも、クルスが食べたのは、あたしが作ったアップルパイで・・・」
「リリー先生が?」
リリーはゲルハルトが放り出したバスケットを拾い上げると、おそるおそるパイを少しかじった。
上目遣いに、注意深く味わうようにかんでいたリリーの顔が赤く染まる。
「何これ!? すっごく辛い!」
思わず口を押さえ、カウンターの奥へ駆け込むと、ゲルハルトと並ぶようにして水をがぶがぶと飲み始めた。

「ふう・・・。死ぬかと思ったぜ」
「ご、ごめんなさい、ゲルハルト」
しばらく経って、ようやく人心地ついたゲルハルトとリリーは、顔を見合わせた。
「もう! リリー先生ったら!」
あきれたようにヘルミーナが言う。
真相は、こうだ。
徹夜作業でぼうっとしていたリリーは、真っ赤なランドージャムの詰まったびんを取ったつもりで、ヘルミーナが新型爆弾の材料として抽出しておいた赤唐辛子の濃縮ペーストを、たっぷりとアップルパイに練り込んでいたのだった。
「あたしがせっかく苦労して抽出した唐辛子ペーストを使っちゃうなんて・・・。あ〜あ、これでまた、新型爆弾の完成が遅れちゃうわ」
「あ、でも、ヘルミーナ。あんまり危ない実験は――」
「リリー先生のアップルパイの方が、よっぽど危ないです!」
「・・・・・・」
ぐうの音も出ないリリーだった。
「でも、ゲルハルト・・・。そうならそうと、ちゃんと最初に言ってくれれば良かったのに」
言うだけのことを言ったヘルミーナが、ドルニエに頼まれた作業をこなしに工房へ戻って行った後、リリーは神妙な顔でゲルハルトに言った。
「い、いや、まあな・・・」
ゲルハルトも頭をかき、照れくさそうに言う。
「せっかく、リリーが徹夜までして作ってくれたパイを、まずいなんてことは口が裂けても言えないと思っただけなんだが・・・」
「でも、そんなやせがまんしなくても・・・。身体をこわしたらどうするのよ」
「はは、俺の身体はあの程度のことじゃ、びくともしないぜ、根性だよ、根性。――あ、だけどよ」
「なに?」
「今度は、ちゃんとした美味いアップルパイを作ってくれよな」
「え・・・?」
リリーの頬がほんのりと染まる。
「ゲルハルト・・・」
「リリー・・・」
「こんじょう?」
下の方から聞こえた声に、ふたりはぱっと飛び離れた。
「きゃっ」
「わ、クルス、いたのか」
さっき激辛アップルパイを食べた時と同じくらい真っ赤になったふたりを、クルスはきょとんとして見上げていた。

・・・クルスは「こんじょう」を覚えた。

その夜、クルスとヘルミーナの会話は、あまりはずまなかった。
「いい? あんなひどい目に遭ったんだから、もう武器屋へ行っちゃだめよ」
たしなめるヘルミーナの声にも、あまり元気がない。
「ヘルミーナ?」
心配そうな緋色の瞳に見つめられて、ヘルミーナは無理に笑顔を作って見せた。
「あ、ごめんね、クルス。ドルニエ先生に頼まれた調合作業がなかなか終わらないのよ。納期が迫っているらしくって、この後も明日の下準備をしなくちゃいけないし」
「ヘルミーナ、しんぱい」
「大丈夫よ、クルス。これまでも、もっと忙しい時期はあったけど、乗り越えて来たんだもの。アカデミー建設のためには今が正念場だって、リリー先生もドルニエ先生も言ってるしね。それに、休んだり仕事が遅れたりしたら、イングリドのやつに何を言われるかわかったもんじゃないわ」
「こんじょう」
「へ?」
ヘルミーナは目を丸くした。クルスは小さな両手を握り締め、ヘルミーナを見つめる。
「ヘルミーナ、こんじょう」
「また、あの武器屋ね。もう、変な言葉ばっかり覚えて来るんだから」
あきれたようにヘルミーナはため息をつく。
しかし、真剣なクルスの表情を見ているうちに、優しい笑みが浮かんだ。
「そうよね、根性よね。がんばらなくっちゃ。ありがとう、クルス、応援してくれて」
ヘルミーナはクルスの柔らかな身体を抱きしめた。


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