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〜105000HIT記念リクエスト小説<Juno様へ>〜

若毛の至り Vol.1


Scene−1

静かな屋敷町は、宵闇にとっぷりと沈んでいる。
王都ザールブルグの西部に広がる一帯では、夜毎、必ずどこかの貴族の屋敷で舞踏会やパーティが行われているものだが、今宵はたまたま年に数回しかないパーティなしの晩のようだった。
青白い月光に照らされた舗道や木々の繁る前庭には人影もなく、黒々とした影となってそびえる大邸宅の窓にも、灯りは数えるほどしかともっていない。由緒ある古き血筋を誇る貴族から一代で成り上がった豪商に至るまで、様々に贅を凝らした屋敷に住むザールブルグ社交界の歴々は、明晩以降の華やかな舞踏会や催しごとを夢見て、ひと時の安らぎに浸っている。
だが、このような晩にも眠りに就くことなく、おのれの欲望に忠実に権謀術数を張り巡らす者もまた、確かに存在していた。

他を圧するようにひときわ大きく、また権勢を誇るかのようにけばけばしい装飾を過剰に施した邸宅の二階、その奥まった一室では、ふたりの人物がゆったりとソファに掛け、芳醇なブランデーのグラスを傾けながら対峙している。
壁に掛けられた自らの肖像画を背に、ローネンハイム家当主フリードリッヒは期待と疑念が相半ばするような目つきで、目の前の相手を見やっている。既に初老の段階に入っている当主だが、同年代の他の貴族のようにたるんだ皮膚やたるんだ腹が目立つような姿はしていない。若い頃からいくつもの浮名を流し、プレイボーイの名をほしいままにして、今後もローネンハイム家の男子に代々受け継がれる血筋は、現在の当主にも色濃く顕れている。
もちろん、ローネンハイム家の血筋の特徴は、浮気性で多情な気質だけではない。時に強引で非情な手段もいとわない商才と、常に他人よりも優位に立っていたいという高慢な自尊心だ。その結果、ローネンハイム家はザールブルグ――いや、シグザール王国一の金満家であり、他人が手に入れられないような高価な美術品や珍しい品物の入手には金に糸目をつけない、という評判を生み出している。
それを承知していたからこそ、目立たない服装をしたもう一方の人物もローネンハイム家に接近することにしたのだ。フリードリッヒはそのことに気付いてはいない。
ブランデーグラスから琥珀色の液体を一口すすると、フリードリッヒは尊大な目つきで相手を見つめる。
「いかがかな? この大陸の遙か東の果て、グラムナート地方から取り寄せた極上のブランデーは。シグザール王国広しと言えど、この銘酒はわしの酒蔵にしか収められてはおらぬ。世を騒がせる怪盗デア・ヒメルに狙われるのではないかと、びくびくしておるところじゃ。まあ、盗まれたらまた手に入れるだけのことだがな」
今の言葉の後半は冗談であることを強調するように、鷹揚に笑ってみせる。
相手も当主に倣ってグラスを傾け、うやうやしくうなずく。
「はい・・・。まさに神々が口にするという天上の美酒ネクタルをも彷彿とさせる、かつてない深みのある味わいの美酒でございます。しかし――」
口元に、かすかな笑みを浮かべ、言葉を継ぐ。

Illustration by Juno様

「錬金術を以ってすれば、これを遙かにしのぐ銘酒を創り出すのも、造作なきことでございます」
「うむ」
フリードリッヒはかすかに頬を震わせて、うなずく。
「確かに、錬金術なる技は、近ごろ王室をはじめ、他の貴族や下々の者に至るまで、いたく評判になっておる。あの成り上がりのカスパールめも、錬金術士と取引して貴重な品や珍しい物品を手に入れていると聞く」
「まことに錬金術こそ、その名の通り、金を創造する術。ありとあらゆる事象を操り、不可能を可能にする稀有な技術でございます」
「さても、お主のような錬金術に縁ある人間がわしの下へ遣わされるとは、まさに天の配剤」
「御意。いかなるご注文も、お受けいたします。錬金術に不可能はございません」
軽く頭を下げた相手に、身を乗り出して当主はささやきかける。誰かに盗み聞きでもされるのを恐れるかのようだ。
「では、手初めに、遠く西の大陸に伝わるという『奇跡を起こす杯』なるものを10個ほど所望したい。それから、あらゆる病気を治し長寿をもたらすという薬もな。こちらは12個ほしい」
「『奇跡の杯』と『エリキシル剤』でございますな。承知いたしました。私の錬金術のコネクションを以ってすれば、入手は造作なきこと。何事もなければ、ひと月後には必ずお手元へお届けいたします」
「うむ、任せたぞ」
満足げにうなずく当主に、相手は一枚の書状を差し出した。
「お互いの信頼関係で十分とは存じ上げますが、商いは商いでございます。この約定書にサインを――」
「なるほど、道理だな」
ざっと文面に目を走らせた当主は、テーブルの羽ペンを取って無造作に署名した。そして、ずっしりと銀貨が詰まった布袋をどさりと置く。
「手付金だ。残金は、品物と引き換えに渡す。それで良いな」
「仰せの通りに」
眼鏡のフレームに手をやり、うやうやしい態度で銀貨の袋を手元に引き寄せながら、“自称・錬金術士”のゲマイナーは心の中でにやりと笑みを浮かべた。
(ふん、愚かな貴族め・・・)


Scene−2

「それでよぉ、俺は言ってやったんだ。そんなバカな話があるもんかってな。そしたら、その客が言うにはよ・・・」
ザールブルグの下町、にぎやかな『職人通り』の片隅にある工房に、威勢のいい男の声が響き渡る。
「もう! うるさいな! 材料の配合を間違えちゃうじゃない! ちょっとあんた、静かにしてよね!」
奥の作業台から振り返って、青いスカートをまとったおかっぱ頭の少女がどなる。まだほんの子供で、このような錬金術の工房で働くには幼すぎるように見える。
「ヘルミーナ! お客さんに失礼でしょ」
叫び返して、工房の主リリーはすまなそうに謝る。
「ごめんなさい、ゲルハルト。ヘルミーナも調合中でちょっと気が立ってるだけで、悪気はないのよ、あはは」
「そうか? なんだか、顔を合わすたびに、あいつにはどなられてるような気がするんだがな。気のせいか?」
同じ『職人通り』で武器屋を営むゲルハルトが、げんなりした様子で言う。武器屋の傍ら冒険者稼業もしているゲルハルトは、街の外へ錬金術の材料を採取に行くリリーの護衛をして一緒に出かけることもある。また、武器の材料になる鋼や青銅といった金属の精錬を依頼してくることもあり、リリーの工房にはよく出入りしている。そのため、リリーの助手を務めるふたりの少女と顔を合わせる機会も多い。
「気にすることないですよ。ヘルミーナは怒りっぽくて礼儀を知らないだけなんですから」
二階から下りて来たもうひとりの少女――ヘルミーナと同じ年恰好で、薄水色の髪をカチューシャでまとめたイングリドがすまして言う。
「なぁんですってぇ!?」
耳ざとく聞きつけたヘルミーナが、調合を放り出してイングリドに詰め寄る。
「あたしのどこが礼儀知らずだって言うのよ!」
「ほら、そうやって、すぐにどなり散らすところとかね」
「何、言ってるのよ。デリケートな調合作業を邪魔されたから、ちょっと注意しただけじゃないの。まあ、大雑把で無神経なあんたには、この気持ちはわからないでしょうけどね」
「言ったわね!」
左右の色が異なるケントニス人特有の瞳でにらみ合うイングリドとヘルミーナに、リリーが割って入る。
「もう! ふたりとも、けんかはやめなさ〜い!」
「やれやれ、こいつらの方がよっぽど騒がしいじゃないか」
ゲルハルトの何気ない言葉に、ふたつの小さな頭が揃ってくるりと振り向く。まるで双子のように息のぴったり合った動きだ。
ふたりの厳しい視線がゲルハルトに突き刺さる。
「何ですって!?」
「今、何て言ったの?」
「あ、いや、何でもねえ。ただのひとりごとだよ、ひとりごと」
いつもけんかばかりしているのに、共通の敵が現れたとたんに、イングリドとヘルミーナは最強のコンビとなる。その怖さを身にしみて知っているゲルハルトは、あわてて首を振り、ごまかした。うなじのところで無造作に束ねた長い黒髪が、首の動きにつれて荒馬の尾のように揺れる。
「ふ〜ん、まあ、いいけど」
イングリドはあっさり引き下がったが、普段からゲルハルトのことを「落ち着きのない無神経なやつ」と酷評してはばからないヘルミーナは、まだ腹の虫が収まらないようだ。両手を腰に当てて、つんとゲルハルトを見上げ、
「何よ、男のくせに髪なんて伸ばしちゃってさ! ほんっと、暑っ苦しいんだから!」
「ほらほら、いいかげんにしなさい」
リリーがたしなめる。
「ヘルミーナ、納期が迫ってるんだから、さっさと調合を済ませちゃいなさい。イングリドも自分の作業があるでしょう?」
「は〜い」
不満げに返事をして作業台に戻るイングリドとヘルミーナを見やり、ため息をついたリリーは、あらためてゲルハルトの髪の毛をしげしげとながめる。
「でも、言われてみれば、ゲルハルトの髪って、長いよね。それに男の人には珍しいくらい、つやつやさらさらして、きれいだし」
「おっ、そうか? リリーにもわかるか」
ゲルハルトはにっこりと笑った。いとおしむように、肩にかかる自分の黒髪をなで、
「いやあ、まあ、ここだけの話、髪の毛にはちょいと自信があるんだ。こう見えても、毎日かかさず髪は洗うし、手入れもしてるんだぜ。髪にいいって聞けば、生卵をすりこんだり、海藻エキスを飲んだりしてよ」
「へえ、すごいなあ。あたしも見習わなきゃ」
リリーも自分の髪をなでる。リリーの栗色の髪は伸ばせば肩まであるが、普段は左右に分けてリボンで束ね、残りは作業の邪魔にならないよう頭巾の中に押し込んである。錬金術に忙しい毎日を過ごしているため、手入れをする暇もなく、最近は枝毛が気になっているところだった。
ゲルハルトは、なおも髪の毛自慢を続ける。
「そういや、以前に武者修行の旅をしていた時に立ち寄った村で、かつら職人の親父に頼まれたこともあったなあ。『あなたの髪は素晴らしい! ぜひ、かつらの材料に分けてほしい!』ってな」
「へええ」
「その親父が言うには、俺の髪は一万人にひとりという逸品で、これを材料に使えば幻の『伝説のカツラ』が作れるんだとよ。――まあ、めんどくせえんで断っちまったがな」
目を丸くして聞き入っているリリーに、ゲルハルトはにやりと笑ってみせた。
「まあ、何にしても、髪の毛は俺が身体の中でいちばん大事にしているところかも知れねえな。それに、髪は長〜い友達って言うじゃねえか。な!」
「ゲルハルト・・・。本当に髪の毛を大切にしてるんだね」
リリーの言葉に、ゲルハルトは大きくうなずく。聞き耳を立てていたイングリドとヘルミーナが作業台のところで目配せを交わし、にんまりと意味ありげな笑みを浮かべたことには、リリーもゲルハルトも気がつかなかった。
フローベル教会の鐘が鳴り、時を告げる。
「おおっと、いけねえ。もうこんな時間か。仕事に戻らなきゃな。それじゃ、あばよ!」
マントをひるがえし、ゲルハルトは張り切って工房を飛び出す。リリーと会って話すだけで、どうしてこんなに身体の底からエネルギーが満ちあふれて来るのか、深く考えたことはない。
「おおっと!」
ドアを出たところで、向こうからやって来た男と正面衝突しそうになり、ゲルハルトはあわててよけた。地味な服装をして眼鏡をかけ、猫背気味のその男は、ゲルハルトに視線を向けることもなくリリーの工房に消えた。
「何だ、今のは・・・。見かけないやつだな」
つぶやき、武器屋へ戻ろうとするゲルハルトの耳に、工房の中からもれる男の声がかすかに届いていた。やや嘲りを含んだような、とげのある、わざとらしい声が・・・。
「どーも、今はお邪魔だったかな。また貴族の皆様から依頼を――」


Scene−3

その宵は、マクスハイム家で盛大な舞踏会が開催されていた。マクスハイム家は、財力でこそローネンハイム家に一歩譲るものの、その歴史はシグザール建国の時点まで遡れる由緒ある血筋の名家である。
ローネンハイム家、エンバッハ家といったザールブルグの上流階級はもとより、王室関係者、騎士隊の幹部、豪商、各種ギルドの長、外国の大使といった面々が一堂に会している。きらびやかに着飾った婦人たちは笑いさざめきながらもゴシップの種を探し、紳士連はカクテルグラスを片手に談笑しながら互いの腹を探り合う。
つい先日、怪盗デア・ヒメルが押し入って高価な美術品を盗まれたという事実を打ち消すかのように、今宵のマクスハイム家のパーティは贅の限りを尽くし、しかもローネンハイム家のように悪趣味に流れることもなく、高雅な雰囲気のうちに進んで行く。
「ふう・・・。エリザベートはどこへ行ってしまったのかしら?」
マクスハイム家の四女であるヘートヴィッヒは、たおやかに広間をそぞろ歩きながら、末の妹を探していた。パーティのホスト役は、両親や年長の姉たちが務めているので、ヘートヴィッヒはいつものように気楽な立場でパーティを楽しんでいた。ただ、年の近い妹のエリザベートが、ここのところパーティにも姿を見せないのが気にかかっていた。今日もパーティ開始の時点では見かけたような気がするが、それ以降は姿を見ていない。何と言っても屋敷は広く、普通に暮らしていてさえ何週間も顔を合わせることがなかったりするのが貴族の生活なのだ。
一階の広間をぐるりと一周したヘートヴィッヒは、妹を探して二階のテラスへ出た。
ダンスに疲れた参加者の面々が、グラスを手にそこここに人の輪を作り、静かに語り合っている。
顔を向ける人々ににこやかに目礼しながら、ヘートヴィッヒは奥へ進んだ。
窓辺にたたずんでいる父親――マクスハイム家当主の姿が見えた。
「お父様・・・」
父なら、エリザベートの居場所を知っているかも知れない。近づこうとしたヘートヴィッヒの耳に、耳障りな言葉の断片が飛び込んできた。
「・・・ったく、錬金術士というやつは、とんだ食わせ者ですな」
はっとして柱の陰に身を寄せ、声の聞こえて来た方角をそっと見やる。ローネンハイム家の当主が、酔った勢いもあるのか身振り手振りを交えながら、不機嫌そうな顔で言いつのっているところだった。
(錬金術が・・・。いったい、なぜ・・・?)
ヘートヴィッヒは耳をそばだてた。彼女が錬金術という言葉に敏感に反応したのにはわけがあった。
実はヘートヴィッヒは1年ほど前から錬金術士と直接に取引している。リリーという若い女性錬金術士は、珍しいアクセサリーや香水、楽器などを持ち込み、退屈な日常を紛らせてくれていた。それだけではなく、貴族の自分には知ることができない庶民の生活や流行の事物についてもいろいろと教えてくれるし、ヘートヴィッヒにとって貴重な話し相手になっていたのだ。これまでのところ、錬金術士リリーと知り合ったことで迷惑をこうむったり嫌な思いをしたことはない。
ローネンハイム家の当主は、憤懣やるかたないという表情でわめくように続ける。
「注文を受ける時は『絶対に間違いありません、お任せください』などと請け合ったくせに、いざ納品の日になると『依頼には失敗しました』といけしゃあしゃあとほざきよる。おまけに『錬金術の力など、所詮はこんなものです』と、臆面もなく開き直りよった!」
その声の高さに、周囲の人々の注目が集まり、ひそひそとささやき交わす声が広がっていく。血走った目で人々を見回すと、フリードリッヒ・ローネンハイムはさらに声を張り上げた。
「よいですか、皆さん。錬金術などという怪しげな術を信用してはいかん。錬金術士を名乗る不届きなやからに騙されてはなりませんぞ!」


Scene−4

「これはいったい、どうしたことなのだろう・・・」
リリーの師である錬金術士ドルニエは、難しい顔で弟子たちを見やった。
いつもにぎやかな工房も、今は重く静まり返っている。
リリーも沈痛な顔で目を伏せ、イングリドとヘルミーナも不安げに顔を見合わせている。
ドルニエ、リリー、イングリド、ヘルミーナの4人が、はるか西の大陸エル・バドールからザールブルグへやって来たのは数年前のことだ。学術都市ケントニスのアカデミー元老院の命を受け、錬金術をシグザール王国に広めるために、海原と大地を越え、希望に燃えて新天地へ降り立ったのだ。
ドルニエはシグザール王室や貴族階級に錬金術への理解と援助を求め、リリーは『職人通り』に工房を開いて街の人々の依頼に錬金術で応えることにより、この新たな技術をザールブルグに根付かせようとしていた。
リリーやドルニエ、そして幼いながらも“神童”と呼ばれるイングリドとヘルミーナの努力のおかげで、王室主催の展覧会でも錬金術は好評を博し、ザールブルグ市民の間にも浸透していった。錬金術の教育と啓蒙のためのアカデミー建設計画も順調に進み、資金も集まり始めていた。
「それなのに、どうして・・・」
今にも泣き出しそうな声で、ヘルミーナが切れ切れにつぶやいた。
「うむ、困った・・・」
顔をしかめ、ドルニエはあらためて口を開く。
「今日、王城でヴィント国王から厳しく叱責されてしまったよ。貴族の間で、錬金術の評判がひどく落ちている――と。いや、あしざまにののしられているといった方が正しいようだ。何人もの貴族が、錬金術士に依頼をしたあげく、すべてをキャンセルされ、前渡し金も返却されていないということらしい」
「ドルニエ先生・・・」
「このままでは、王室からの援助も打ち切られかねない」
「あたしも、言われました」
うつむいたヘルミーナが、涙をぬぐいながら言葉を絞り出す。
フローベル教会を訪ねたヘルミーナは、ひそかに憧れていたクルト神父から、厳しい言葉を浴びせられたのだ。
(・・・ここしばらく、私は錬金術は怪しい術などではなく、人の役に立つ技術だと思うようになっていました。しかし、最近の噂を聞いて、自分の最初の考えが正しかったとわかりました。『錬金術士は嘘つきだ』『錬金術は信用できない』――信頼できる筋から、このような声が数多く、私の元に寄せられています。やはり、錬金術は、アルテナ様の教えに反する得体の知れない魔術だったのですね。今からでも遅くはありません、すべてを懺悔して心を入れ替えるのです。アルテナ様の慈悲におすがりなさい)
その時のことを思い出したのか、ヘルミーナは鼻をすすり、しゃくりあげる。
「あたしだって・・・」
イングリドが口を開く。勝気なイングリドは必死に涙をこらえているようだ。
「外を歩いていたり、雑貨屋さんで買い物をしたりしていると、おばさんたちのささやき声が聞こえてくるんです」
(ごらんなさいな、あの子)
(ああ、例の錬金術工房の住人のひとりね)
(評判、悪いわよねえ。貴族をだましては大金を巻き上げているらしいじゃないの)
(まあ、それじゃあまるで、詐欺じゃないの)
(厚かましいわねえ。よく平気な顔で表を歩けるものだわ)
(いやだいやだ、もうあのお店の前は通らないことにしようかしら)
(いい子たちだと思ってたんだけどねえ。人は見かけによらないわねえ)
(まあ、最初っから、怪しいお店だってことはわかっていたけどね)
(王室騎士隊は何をしているのかしら。さっさと取り締まって、街から追い出してくれればいいのに)
(きゃっ、こっちを見たわ)
(目を合わせちゃだめよ。何をされるかわかったもんじゃないわ)
(さ、行きましょ)
もちろん、街の人々が正面切って抗議してきたり、工房が焼き討ちに遭うようなことは起きていない。だが、貴族の間に流れている噂が市民にも広がり、錬金術士が白い目で見られ、後ろ指をさされているのは確かのようだった。
「いったい、どうしてこんなことに・・・」
ドルニエが繰り返す。思いもかけない事態にすっかり度を失い、途方にくれているようだ。
「あいつが悪いんです・・・。みんな、あいつのせいなんです――! あの、ゲマイナーという男の・・・」
怒りと悲しみに震える声で、リリーが言い捨てた。


Scene−5

「よう、姉さん・・・。なんだか、大変なことになってるみたいだな」
酒場『金の麦亭』の店主ハインツは、磨いていたグラスから顔を上げ、入って来たリリーにいたわるように声をかけた。
「ハインツさん・・・」
リリーの表情はさえず、声にもいつもの明るさが感じられない。
「うちの依頼人の中にも、錬金術士に仕事を請け負わせるなら、もううちには依頼しないと言ってる相手がいる。まあ、厳しい話だが、信用ってものは築き上げるには長い時間がかかるが、失うのはあっという間だな」
奥のテーブルからリリーを見てひそひそささやき交わしている冒険者を、ぎろりとにらみつけて黙らせる。そして、優しい口調で、
「だがな、わしは姉さんを信じとる。これまで、姉さんが常に誠意と責任感を持って仕事をこなしてくれたことは、わしがいちばん良く知っている。世間で錬金術士の悪い噂が流れているからといって、わしはそんなものに流されることはない。自分の目で見たものを信じるからな」
「あ・・・ありがとうございます!」
リリーの声に、元気が戻って来た。
「それにしても、わしの心配が的中してしまうとはな・・・」
最初にハインツが懸念を口にしたのは、数ヶ月前のことだ。
(なあ、姉さん、そんなに仕事を請け負って、大丈夫なのか・・・?)
いつものように依頼の仕事を探して『金の麦亭』を訪れたリリーに、ハインツは、ザールブルグの上流階級に流れている噂を告げ、ただしたのだった。貴族たちに取り入り、美術品や薬品など大量の注文を次々に請け負っている錬金術士がいるというのだ。自分たちではないと否定したリリーに、ハインツは、ひょっとすると厄介なことになるかも知れないと忠告した。
そして、その厄介ごとは現実のものとなった。
「まあ、今は耐えるしかないだろうな。嵐が吹き荒れている時は、身を低くして、収まるのを待つしかないかも知れん。それと、決して投げやりになってはいかんぞ。これまで通りのいい仕事を続けることだ。見る人はきっと見ていてくれるし、いつかは誤解も解ける。ザールブルグの市民だって、いつまでもだまされてはいないさ。――まあ、しばらくの間は、回せる仕事は減ってしまうかも知れんがな」
「はい」
ハインツの言葉に、リリーはくちびるをかみながらも強くうなずいた。
「ええと、今日は、姉さんに頼めそうな仕事は・・・」
リストを取り出そうとするハインツに、リリーは首を振る。
「いえ、今日は仕事のことじゃないんです。自警団のことで」
「ああ、そうか。『夜鷹の自警団』の張り込みは今夜だったな」
ハインツがはたと手を打った。
今年に入ってから、ザールブルグの夜を姿なき怪盗が跳梁している。
マクスハイム家から銀貨8万枚相当の美術品が盗まれたのを皮切りに、貴族の屋敷から銀貨や宝飾品などが狙われる盗難事件が続発していた。決して証拠を残さない鮮やかな手口から、歴史に名を残す伝説の怪盗デア・ヒメルの再来などと噂されている。
今のところ、被害を受けているのは貴族や豪商の屋敷だけだが、いつ怪盗の毒牙が一般市民に向けられるかもわからない。王室騎士隊だけに警戒を任せておくわけにもいかず、冒険者を中心に有志を募って自警団が結成されたのだった。『夜鷹の自警団』と名付けられ、『職人通り』を中心に見回りをしたり防犯を呼びかけたり、精力的に活動している。ハインツは幹事のひとりだった。
リリーも、冒険者仲間のテオになかば押し切られる形で、自警団のメンバーに名を連ねている。
自警団は、デア・ヒメルに狙われそうな場所を選び出し、定期的に徹夜の張り込みを行っている。いまだに怪盗を捕えることはできていないが、少なくとも被害を未然に防いでいるという意味では効果が上がっていると言えた。
「だが、姉さん、いろいろあって疲れているんじゃないか? 誰か別の者に交代させてもいいんだぞ。こんな時に張り込みなどせんでも――」
ハインツの言葉をリリーがさえぎる。
「いえ、こんな時だからこそ、普段通りにしなければいけないんです。あたしたちが、街の人たちの幸せのために努力しているんだって、わかってもらわなければ・・・」
「あ、ああ、そうだな」
(姉さん、あんたには、頭が下がるよ)
心の中でささやきかけ、ハインツは自警団のルーティン表を手に取り、目を走らせる。
「姉さんの受け持ちは――ゲルハルトの武器屋だ」


Scene−6

日が落ちてからかなりの時間が経ち、『職人通り』を歩く人影もまばらになっている。
朝から夕方まで買い物客でにぎわっていた商店や工房も、次々と今日の商いを終えて店じまいし、あかあかと灯りがともっているのは酒場だけだ。
「さあて、うちもそろそろ店じまいするとするか。今日もくたびれたな」
ゲルハルトはあくびをしながらひとりごちた。ろくすっぽ客も来なかったため、退屈しのぎに店内で売り物の長槍を振り回して体力を使っただけなのだが、本人は労働にいそしんだと満足している。
ブラインドを下ろし、戸口に鍵をかけようとした時、舗道を歩いて来る見慣れた姿が目に入った。
「こんばんは、ゲルハルト」
リリーは挨拶して、そのまま店内に足を踏み入れる。
「おう、リリーじゃねえか。こんな時間にどうした? まさか、俺のところに夜這いに来たのか?」
「ば、ばか、違うわよっ!」
赤面したリリーがあわてた声を出す。
「怪盗デア・ヒメルが来るかもしれないから、自警団の張り込みに来たのよ」
「なんだ、そうか。そういえば、ハインツのおっさんから、自警団がどうのって連絡が来てたな。まさか、お前がその自警団員なのか?」
「そうよ。朝まできっちり徹夜で見張るんだからね。あたしが見張ってるから、ゲルハルトは安心して寝てていいわよ」
「おっと、そうはいくかい! 女に見張ってもらって自分だけ寝ちまうなんて、男のすることじゃないからな。俺もしっかり、付き合わせてもらうぜ」
ゲルハルトは張り切って叫んだ。そのさわやかな声を聞いて、沈みがちだったリリーの気分も明るくなる。
「それじゃ、どこか隠れられるところを教えてくれない?」
「おう、それじゃ、ここはどうだ。ここなら外からは見えないし、いざとなれば武器もすぐそばにある。隠れ場所にゃ最適だぜ」
ゲルハルトはカウンターの陰にリリーを連れて行った。
「それじゃ、灯りを消すからな。なんつっても、こうこうと灯りがついてたんじゃ、いくら泥棒でも入っちゃ来ないだろうからな」
ゲルハルトがランプを吹き消すと、武器屋の店内に闇のとばりが下りる。ブラインドの隙間から差し込む月光で、互いの輪郭がかすかに見えるだけだ。
板張りのカウンターの裏側に背中をもたせかけ、ふたりはうずくまるように腰を下ろす。
「ま、気長にやろうぜ。待ち伏せの基本は、一に根気、二に根気だ」
「うん、そうね」
それ以降、ふたりは黙りこくって待ち続ける。
沈黙のうちに、リリーは街に流れている錬金術に関する悪い噂に思いをはせていた。ハインツの前では強気を装ってみたものの、ゲマイナーの所業を考えると、もはや怒りを通り越して、ザールブルグでの錬金術の未来に対して暗澹たる思いを禁じえない。いつしか、リリーはうつむき、深い憂いに沈んでいた。
一方、ゲルハルトはぼんやりととりとめのない思いをめぐらせていた。今度はどんな武器を仕入れようかとか、明日はどの武器をぴかぴかに磨き上げてやろうかとか、『金の麦亭』のサービスメニューにアップルパイが載るのはいつなのだろうかとか、楽天家のゲルハルトには後ろ向きの思考はない。そのうち、ゲルハルトの想像は将来のことに及び、武器屋のカウンターで夫婦揃って客あしらいをしている姿などを思い浮かべてしまう。武器屋のおかみは、なぜかリリーである。
「はあ・・・」
その時、ゲルハルトは深いため息を耳にして、はっと物思いから覚めた。
傍らのリリーを見やる。闇に目が慣れたせいか、リリーの白い顔が先程よりもはっきりと見えた。
リリーの横顔を見て、ゲルハルトは心臓がどきりとするのを感じた。今のリリーははかなく、頼りなげで、たとえようもなく寂しそうに見える。いつもリリーの明るい笑顔しか目にしていなかったゲルハルトは、リリーがこんな表情をすることなど想像することもできなかった。
言葉も出ずに見守っていると、うつむいたリリーの頬に、光るものがひと筋、伝った。
「お、おい、リリー!」
思わずゲルハルトは口を開いた。もちろん、張り込みしていることを考慮して、声は押し殺している。
「え・・・?」
リリーは我に返ったように振り向いた。初めてゲルハルトがそこにいるのに気付いたように、笑みを浮かべる。だが、ゲルハルトの目にはその微笑が痛々しく映った。
「え?――じゃねえ! お前、今、泣いてただろう?」
「ゲルハルト・・・」
リリーはそっと自分の頬を指でぬぐった。暗がりに、濡れた指先が光る。

Illustration by Juno様

「心配してくれて、ありがとう。でも、何でもないよ」
「いいや、そうは思えねえ。さっきのお前の顔、ただごとじゃなかったぞ。いったいどうした? 何があったんだ!?」
リリーは目をそらし、つぶやくように言う。
「ゲルハルトも、聞いてるでしょ。街の噂・・・」
「へ?」
ゲルハルトはきょとんとする。
「いや、俺は何も・・・。だいたい、おばちゃんたちの井戸端会議にゃ興味がないもんでよ」
確かに、最近のゲルハルトは酒場にも出入りしていないし(飲み比べでこてんぱんに負かされた、女剣士シスカと顔を合わせたくないからだ)、わが道を行くタイプなので他人の噂にも頓着しない。街に流れる錬金術の悪い噂を耳にしていなかったとしても、それほどおかしいことではない。
「いったい、どんな噂が流れているってんだ? それが、お前とどういう関係があるんだよ?」
「ゲルハルト・・・。聞いてくれる?」
そして、リリーは堰を切ったように話し出した。
錬金術士を名乗るゲマイナーという男が貴族たちに取り入り、信用を得て次々に高額の依頼を請け負ったこと。
もちろんゲマイナーは錬金術の技術も持ってはおらず、あろうことか、貴族から請け負った依頼をそのままリリーの工房に雀の涙ほどの報酬で丸投げしてきたこと。
それらの依頼はリリーやイングリド、ヘルミーナの技量を以ってしても納期内に仕上げるのは不可能な、高度で貴重なアイテムばかりであり、材料費を考えても大幅な赤字になるのが明らかなため、すべてを断り続けてきたこと。
ゲマイナーはあっさりと貴族にキャンセルを伝え、そのせいで貴族の間に錬金術は信用できないという悪評が広がり、リリー自身も、取引のあるマクスハイム家の令嬢ヘートヴィッヒに厳しく叱責されたこと。
しかも、ゲマイナーは手付金として受け取った高額な前金を返却することもせず、自分のふところに収めてしまっていること。
貴族の間の悪評は庶民の間にも広がり、イングリドやヘルミーナも街の人たちに白い目で見られて、ひどく傷ついていること。
「あたしたちは、みんなが幸せになればいいと思って・・・。ただそれだけを願って、錬金術を広めようと努力してきたのに・・・」
リリーの声は涙混じりに、切れ切れとなる。
「リリー・・・」
「イングリドもヘルミーナも、気にしてないように明るく振舞っているけれど・・・。あたし、知ってるのよ。ふたりとも、夜中にベッドで声を殺して泣いてるの。ドルニエ先生も考え込んでいるばかりだし・・・。もう、どうしたらいいのか・・・」
「リリー、もういい」
ゲルハルトはさえぎった。これ以上、リリーのつらい声を聞くのは耐えられない。
そっと手を伸ばし、たくましい腕でリリーの肩を抱く。一瞬、リリーは息をのみ、身を固くしたが、ことんとゲルハルトの胸に頭をもたせかける。
ゲルハルトはさとすように言い聞かせる。
「リリー、今はもう、何も言うな。何も考えるな」
「ゲルハルト・・・」
「デア・ヒメルのことなんか、どうだっていい。とにかく、今は何もかも忘れて、休め。お前だって、イングリドやヘルミーナと一緒で、ろくに寝てないんだろう?」
「・・・・・・」
「守ってやる・・・。お前のことは、俺が必ず守ってやる。だから、安心して、眠れ」
「うん・・・。ありがとう、ゲルハルト・・・」
そのまま、リリーは目を閉じ、ゲルハルトに体重を預けたまま、静かになった。
しばらくすると、規則正しい寝息をたて始める。
だが、ゲルハルトは眠るどころではなかった。
とにかく、リリーの眠りをさまたげないよう、かちんこちんになって身じろぎもできずにいる。
腕の筋肉が凝り、痛み始めても、ほぐすために動くこともできない。じっと目を見開いたまま、武器が掛けられている壁を見上げているばかりだ。
リリーのぬくもりと、かすかな吐息を胸に感じる。
(リリー・・・。必ず守ってやるからな・・・)
何度も心の中で言い聞かせるうち、いつしかゲルハルトも睡魔に襲われ、眠りに落ちていった。

はっとゲルハルトは目を覚ました。
腕の中には相変わらずリリーがいて、ゲルハルトの胸板に頭をもたせかけている。
「う・・・んんん・・・」
リリーのくちびるがかすかに動き、声がもれる。
「リリー?」
ゲルハルトがささやきかけると、リリーは応えるようにつぶやく。
「ゲルハルト・・・。あぁ・・・」
「リリー?」
「・・・そこは、ダメぇ」
「えっ?」
ゲルハルトはあわてて、自分の両手の位置を確かめる。もしかして、無意識のうちにリリーの身体に良からぬまねをしてしまったのではないか――?
大丈夫だ。両手はだらりと下がっている。リリーに対して不埒なまねはしていない。
だとしたら、今のリリーの言葉は――?
「おい、リリー」
そっと肩を揺すると、リリーはうっすらと目を開けた。
「あ、ゲルハルトだぁ・・・」
寝ぼけ声で、リリーがつぶやく。
「リリー、今、なんか言っただろう?」
「ああ・・・、うん・・・。夢、見てたの」
「夢・・・?」
「ゲルハルトと一緒に、冒険してたんだけど・・・。どんどん、強い怪物がいる危ない方へ行こうとするから、『ゲルハルト、そこはダメ!』って・・・」
「なんだ、そういうことかよ」
ゲルハルトは息をつき、肩の力を抜いた。
「もう、朝・・・?」
「いや、まだ夜明けまでは時間があるみたいだ。起こしちまって悪かったな。もう一度、寝ろよ」
「うん・・・」
半分寝ぼけたままだったリリーは、そのまま再び眠りに落ちていった。
その寝顔を見やり、ゲルハルトはこぶしを握りしめ、決意を固めていた。闇を見つめるその瞳に、剣呑な光が宿る。絞り出すように、ゲルハルトはつぶやいた。
「ゲマイナー・・・。勘弁ならねえ・・・」


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