Prologue
“虚無”をおおい隠す精神の霧の中を、騎士は心の眼で手探りするように進んでいった。
このあたりでは、もう魔物の気配は感じられない。ここは、魔界に巣食うさまざまな異形のものたちにとって、禁断の場所となっているのだ。
騎士の魔力がつむぎ出した心の糸は、ゆっくりと“虚無”を探り、ほんのかすかな手がかりのみを頼りに、騎士を目的地に向かって導いていく。
(ここだ・・・)
それまで閉じていた生身の目を、ゆっくりと見開く。
そこには、いつか来た時とまったく同じ光景が広がっていた。
細身だが鍛えられた強靭な身体を簡素な戦鎧に包んだ騎士には、まったく不似合いな情景である。
やや狭いが、居心地の良さそうな部屋。壁に掘りぬかれた暖炉には、あかあかと火が燃え、穏やかな暖気を室内にもたらしている。床一面に敷かれたふかふかの敷物が、騎士をいざなうように広がる。
そして、暖炉の傍らに、上品そうな顔をした初老の女性が腰を下ろしていた。
その表情は、この前に会った時と変わらず、穏やかで暖かみのある微笑を浮かべている。
(あの時から、どのくらいの時間が流れたのだろう・・・?)
ふと心に浮かんだ疑問を、騎士は自嘲するように打ち消した。
(ふ・・・。まだ“あちら”側にいた時と同じように考えているとはな・・・)
老婦人のうながすような視線に応え、騎士はその傍らに腰を下ろした。
腰に差していた銀のレイピアも、ここでは必要ない。騎士は邪魔な剣をはずし、床の敷物の上に置く。しかし、すぐに右手でつかめる位置に置いているのは、やはり戦う者の本能だろう。
「お久しぶりね、キルエリッヒ」
湯気の立つティーカップを差し出しながら、老婦人は口を開いた。魔界のものどもは、彼女のことを“魔女”と呼ぶ。
しかし、“紅薔薇の騎士”ことキルエリッヒ(キリー)・ファグナーにとっては、違っていた。
黙ってカップを取り、儀礼的に一口すする。上等なハーブティーの香りが鼻をくすぐる。
目を上げると、キリーは“魔女”のダークブラウンの瞳をじっと見つめた。
「して、用件は? わたしを呼んだのは、茶飲み話をするためではあるまい」
キリーの冷徹な口調にも、“魔女”はひるんだ様子はない。相変わらずの穏やかな調子で、
「ほほほ。あなたが忙しい身であることは、わかっていますよ。何といっても、あなたは今や、ファーレン城の主、魔界の支配者なのですからね」
「好き好んでなったわけではない。それに、これはあなたが望んでいたことでもあるのではないか、母上」
言い返すキリーの赤紫色の瞳に、諦観とも苦悩ともとれる複雑な表情が浮かぶ。思えば、人間界へ行き、そこで出会った風変わりな錬金術師の少女と行動を共にし、ついに自分の血を分けた父親である魔王ファーレンを倒した時から、それは常にキリーに付きまとってきた思いでもあった。
“魔女”は、ふと視線をそらし、キリーの背後の壁をながめる。その視線は壁に掛けられたタペストリーの複雑な模様をたどっていく。まるで、過去から未来へ延々と続く時の流れを見通すかのように・・・。
「因果律に、歪みが生じているわ」
“魔女”は、キリーに視線を戻し、やや表情を引き締めて、言った。
キリーは無言で、先をうながすように“魔女”を見やる。
「どうやら、あちら側とこちら側を隔てる次元の壁に、ほころびが生じたようなの。そして、ごくわずかだけれど、魔界にとどまっているべき要素が、人間界に流れ出してしまった・・・」
「で、わたしにどうしろと?」
「ほほほ、因果律とは不思議なものでね、歪めば、それを直す方向に、必ず反動が生じるものなのよ。ただ、その反動が大きすぎると、さらに逆方向へ因果律を傾けてしまうことになる・・・。そして、再び逆方向へ、と。それが繰り返されると、最後には修復不可能な歪みが発生することにもなりかねません」
「・・・。それで?」
「今、人間界から大きな反動が起きようとしているわ。あなたには、それを適度なところで食い止める緩衝役になってもらいたいの」
「言いたいことは、わかった。だが、わたしは具体的にどうすればいいのだ?」
このような禅問答のような会話は、キリーの好みには合わない。彼女は、内心の苛立ちを抑えるように、再びカップの茶をすすった。
“魔女”は、宙に手をかざす。
すると、今まで何もなかったそこに、ひとつの水晶球が浮かんでいた。
“魔女”はつぶやくように言う。
「歪みを感じ取った時から、わたしはずっとこの水晶球で未来を占っていました。そして、あるものが見えたの。それは・・・」
手を一振りして水晶球を消し去ると、“魔女”はキリーの目を見つめ、
「緑色の瞳・・・。大きな決意を秘めた、緑色の瞳だった・・・」
“魔女”の言葉がとぎれると、キリーは押し黙ったまま思いをめぐらす。
そして、レイピアに手を伸ばすと、立ち上がる。
「わかったよ、母上・・・。わたしの赴くべき場所は、あそこのようだな」
黙って、“魔女”がうなずく。
背を向け、再び“虚無”の中へ足を踏み入れながら、キリーは半分ひとりごとのようにつぶやいた。
「魔界と人間界をつなぐ、唯一の場所・・・。運命は、三たび、あの場所へ行けと、わたしに命じているわけか・・・」
Scene−1
秋の陽は、南の空にかかり、暖かさと光を大地に注いでいた。
さわやかな風が、草原を吹き過ぎ、森の木々を揺らし、気の早い落葉樹はすでに紅葉を始めていた。
風乗り鳥の群れがはるか高空を渡る下、森の中に切り開かれた一本道を軽やかに歩む3人の人影があった。
3人ともまだ若いが、いずれも採取用のかごを背負い、錬金術服に身をかためている。服の襟に付いた記章から、3人ともザールブルグの魔法学院アカデミーの生徒であることがわかる。また、記章は金色をしていることから、アカデミーの中でも成績優秀な生徒しか進学することを許されないマイスターランクに所属しているのだと見て取れる。
一行のひとりだけが男性で、ふたりは女性だった。
先頭に立つのは、オレンジ色の錬金術服に、同じ色の奇妙な形の帽子をかぶった少女だった。そして、彼女からわずかに遅れて、寄り添うように歩を進めている男女は、ひとりは地味なクリーム色の錬金術服に茶色の髪、茶色の瞳をした利発そうな少年、もうひとりは、ピンク色の上等そうな錬金術服をまとい、エメラルド色の大きな瞳が印象的な少女だった。
先を行く少女が、振り返って叫ぶ。
「ねえ、ノルディスもアイゼルも、もう少し早く歩こうよ! そうしないと、明日までにザールブルグへ帰れないじゃない!」
呼びかけられた男女のうち、少女の方が言い返す。
「エリー! あなたこそ、はしゃぎ過ぎよ! ヘウレンの森で、あれだけ採取したんだから、わたしもノルディスも疲れているの! いなか育ちのあなたとは、身体の出来がちがうのよ。少しは気を使ってくれてもいいんじゃなくて?」
言い方はきついが、目は笑っている。
それに対して、エリーは、
「そんなこと言ったって、帰ればもう11月だよ。冬にならないうちに、東の台地に行って来たいんだよ。だから、ね、早く帰ろ」
と、足を緩める気配はない。
「また採取に行くのかい、エリー。しかも、あんな遠くまで。危険じゃないのかい?」
初めて口を開いたノルディスが、心配そうに言う。
エリーはにっこりと微笑み、
「大丈夫だよ、ダグラスとルーウェンさんに、一緒に行ってもらうように頼んであるから。冬にならないうちに、『宝石草のタネ』を採取して来ないとね。たくさん採れたら、ノルディスやアイゼルにも、分けてあげるよ」
と、マントをひるがえして小走りになる。そして、ゆるやかな坂を登った先の丘の頂上でふたりを振り返り、大きく手を振って見せた。
そこから先は森が開け、ザールブルグまで続く平原の道が連なる。
「もう! エリーったら。仕方ないわ、わたしたちも、早く行きましょ」
アイゼルがノルディスを振り返って言う。
ノルディスも、
「うん、そうだね」
と一歩踏み出したが、
「あ、痛っ!」
と小さな叫びをあげた。
「どうしたの?」
アイゼルが心配そうに尋ねる。
「あ、いや、ちょっと虫かなにかに刺されたみたいだ」
ノルディスは答えて、そっと自分のうなじに手を当てた。
「ちょっと見せて」
アイゼルが背伸びするようにして、ノルディスの手の当たっていたあたりを見やる。
黒い肌着と茶色の髪の間のうなじの皮膚に、ほんのわずかに赤くなっている部分があった。
アイゼルは、腰の小物入れから『アルテナの傷薬』の小壜を取り出すと、薬を指先に取り、ノルディスの患部に塗り付ける。
「さ、これでいいと思うわ」
「あ、ありがとう。でも、ちょっともったいなかったんじゃないかな。たかが虫刺されで・・・」
「あら、用心するに越したことはないわ」
(特に、あなたはね・・・)
と、アイゼルは心の中で付け加えた。
「こらあっ! いつまでいちゃついているのよ!? 早く来ないと、おいてくよ!」
エリーの声に、アイゼルは叫び返す。
「はいはい、今行くわよ! さ、行きましょ、ノルディス」
そして、3人は、つるべ落しの秋の陽に向かって、帰途を急ぐのだった。
かれらの背後、うっそうとした森の中から天空につかみかかるようにそびえる黒い影・・・。魔物がひそむというエアフォルクの塔が、その不吉な姿を西日にさらしていることには、3人の誰も気をとめなかった。
Scene−2
「おはよう、ノルディス!」
図書館に入って来たノルディスを目ざとく見つけたアイゼルが、小さく手を振る。
アイゼルとしては、いつも朝一番から図書室に来ているはずのノルディスが姿を見せないので、目の前に広げた参考書よりも入口の方にばかり気をとられていたところだった。
「アイゼル、おはよう」
小声でつぶやくように言ったノルディスが、抱えていた参考書とノートを机に置き、アイゼルの隣の席に腰を下ろす。
「さっき、エリーが寄っていったわ。これからすぐに東の台地に向かうんですって。あの娘ったら、昨日の今日だというのに、張り切っちゃって・・・。それにしても、一緒について行ったのがダグラスとルーウェンさんだなんて、見物よね。エリーったら、にぶいから、何も気付いてないんですもの・・・」
「ああ、そうだね・・・」
弱々しいノルディスの返事に、アイゼルが驚いたように振り向く。
あらためてノルディスの顔を見ると、青白く、表情がさえない。もともと色白で、男性としては華奢な体格のノルディスだが、今日はいつになく弱々しげに見える。
「どうしたの、ノルディス。顔色がさえなくってよ」
「いや・・・。何でもないよ。きっと、少し疲れたんだとおも・・・」
言葉は途中でとぎれた。
そのまま、ノルディスの身体は椅子の上でぐらりと傾いた。なにかをつかもうとするかのように伸ばした右手が、机の上をなぎ払い、参考書とノートが音を立てて床に散らばる。そして、ノルディス自身もその後を追うように図書室の床に倒れた。
「ノルディス!」
ノルディスが倒れる音とアイゼルの叫び声に、図書室にいた生徒たちが一斉に立ち上がる。
騒ぎが外にまで聞こえたのだろう。入口から司書兼ショップ店員のルイーゼが、金髪の頭をのぞかせる。
「あら、なにかあったのかしら・・・?」
そののんびりした声をかき消すように、アイゼルの悲鳴に近い声が、図書室に響き渡った。
「ノルディス、ねえ、どうしちゃったの!? ねえ、目をあけてよ、ノルディス!!!」
Scene−3
アカデミーの寮棟の片隅にあるノルディスの部屋は、さながら病室に変貌したかのようだった。
もともと、本と調合道具の他には何もない質素な部屋だった。作業台の上のガラス器具や乳鉢、アイテムの在庫は隅に片づけられ、飲み薬の壜や、濡れタオルを浸した洗面器、薬草を中心とした流動食の載ったトレーなどが置かれている。
ベッドの傍らの固い木の椅子に掛け、アイゼルはひたすらに看病を続けていた。
図書室で倒れた直後、ノルディスは高熱を発し、そのまま床についていた。1日のほとんどをうつらうつらと眠って過ごし、時おり襲ってくる悪寒とふるえに、身を曲げるようにして耐えていた。
高熱は、朝も夕も下がることなく、額にのせた濡れタオルは、しばらくすると乾ききってしまう。
その度に、アイゼルは手を切るように冷たい氷水にタオルを浸し、ノルディスの汗をぬぐい、今度こそ熱が下がるのではないかという期待を抱いては、額に優しく押し当てるのだった。
そっとドアがノックされ、白い修道服に身を包んだ少女が足音を殺して入って来る。
「アイゼルさん・・・。交替しに来ました。少し休まれてはいかがですか?」
フローベル教会のシスター、ミルカッセだ。
アイゼルは、そっと顔を上げると、あいまいにうなずいてみせた。
「ありがとう、ミルカッセ・・・。でも、まだいいわ・・・」
「だめですよ。昨夜もずっと寝ずにつきっきりだったのでしょう? なにか召し上がって、お休みにならないと、アイゼルさんも倒れてしまいますよ」
ミルカッセの口調が、いくぶんきつくなる。アイゼルは、疲れ切っている身体に鞭打つような気分で立ち上がると、ミルカッセに椅子を譲った。
「どんな具合ですか、ノルディスさんは・・・?」
尋ねるミルカッセに、首を振って、
「相変わらずよ。良くもなっていないけれど、悪くなってもいないみたい。とにかく、熱は高いままだわ」
「それじゃ、ヘルミーナ先生の『エリキシル剤』も・・・?」
「そうね、今のところ、効果が現われている様子はないわ」
「そうですか・・・。でも、イングリド先生も、アカデミーの他の皆さんも、必死になって治療法を探してくださっていますわ。わたしには、アルテナ様に祈ることの他には、何のお手伝いもできませんけれど・・・」
「そんなことないわ」
アイゼルは、無理に微笑んでみせた。
「こうやって、わたしが休んでいる間、しっかり看病してくれているじゃない」
ミルカッセは、アイゼルの緑色の瞳がうるんでいるのに気付いた。そして、心の中でつぶやく。
(アイゼルさんは、身も心も限界に近付いているのですね・・・。こんな時なのに、一番の親友のエルフィールさんが遠出していて連絡が取れないなんて・・・。ああ、アルテナ様、ご加護をお与えください・・・)
アイゼルは、ふとんの中に右手を入れ、ノルディスの手を軽く握る。しかし、気付かないのか、握り返す力がないのか、何の反応も得られなかった。
(しばらくミルカッセと交替するわ。でも、すぐに戻ってくるから・・・。ああ、早く良くなって、ノルディス・・・)
そして、ミルカッセに目礼し、アイゼルはふらつく足で廊下に出た。
ポケットから取り出した自作の『栄養剤』をぐっと飲み下す。これで、しばらくはもつだろう。
自室の扉の前を通り過ぎ、寮棟を出ると、渡り廊下を通って研究棟へ向かう。
2階へ上がると、廊下の中ほどに、錬金術服に身を固めた女性の姿が見えた。
薄水色の髪を無造作に束ね、分厚い参考書を抱えている。整った知的な顔立ちと、左右の目の色が違っていることが印象的だ。
「イングリド先生・・・!」
アイゼルが声をかけると、イングリドの表情が一瞬くもった。
「アイゼル・・・。ノルディスに、なにかあったのですか?」
「いえ、違います。ノルディスには、変わりはありません。今は、ミルカッセが見てくれています。・・・それよりイングリド先生、なにか新しいことはわかりましたか?」
それは、アイゼルがここ数日、何度となく繰り返した問いだった。
しかし、イングリドの反応は、今回も同じだった。
ノルディスの師でもあるイングリドは、ゆっくりと首を左右に振る。
「いいえ、残念ですが、役に立つような情報は得られていません。ノルディスの病気の原因が、なんらかの感染か毒によるものだとは推測できますが、その正体は明らかになっていません。おそらく、あなたが言う通り、ヘウレンの森からの帰り道に、虫に刺されたことと関係があるのでしょう。でも、どんな虫かもわからないのではね・・・。とにかく、ノルディスのような症状の病気は、これまでに知られていないのです」
「それじゃ・・・、それじゃノルディスは、どうなってしまうんですか!?」
「わかりません・・・。でも、希望だけは捨ててはいけないわ。今も、ヘルミーナと手分けして、古い記録や年代記を調べようとしているところなの。さ、アイゼル、あなたは疲れ過ぎているわ。部屋に戻って、少しお休みなさい」
この優しい言葉を聞いて、ついにアイゼルの中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
アイゼルの目から、大粒の涙があふれる。
イングリドの手から参考書が落ち、大きな音を立てたが、気にする者はいない。
アイゼルは、イングリドの胸にすがり、声をあげて泣いていた。
イングリドの腕が、母親のようにアイゼルの両肩を抱く。
しばらくの間、同じ思いを胸に抱いたふたりは、実の親子のように抱き合い、微動だにしなかった。アイゼルのしゃくりあげる声だけが、がらんとした研究棟の廊下に響く。
泣きたいだけ泣いて、ようやくアイゼルは落ち着きを取り戻した。
イングリドの胸から離れ、きまり悪そうにうつむく。
「す・・・すみませんでした、イングリド先生」
「いいえ、いいのよ。さ、落ち着いたら、洗面所へ行って顔を洗っていらっしゃい。きれいな顔がだいなしよ」
アイゼルは、恥かしそうにこくんとうなずくと、小走りに洗面所へ消えた。
イングリドは床に落ちた書物を拾い上げ、埃を払った。
その時・・・。
高い靴音と共に、イングリドと同じ年格好の女性が歩いてきた。薄紫色の髪をイングリドと同じように束ね、黒い錬金術服を着ている。左右の瞳の色が違うところもイングリドと同じだ。
「ヘルミーナ!」
イングリドが小さく叫ぶ。
古ぼけ、表紙がぼろぼろになった書物を小脇に抱えたヘルミーナは、イングリドの目の前で足を止めた。急いで歩いて来たのだろう、大きく肩で息をしている。
アイゼルの師であるヘルミーナの目には、奇妙な興奮の光があった。
イングリドが、目ざとくそれに気付く。
「ヘルミーナ! なにかわかったのね!」
ヘルミーナは息を整えると、低い声でゆっくりと言った。
「いい知らせと、悪い知らせがあるわ。どちらから聞きたい?」
「もったいぶっている場合ではないのよ。あら・・・あなた、その、手に持っている本は・・・!」
イングリドが驚きの叫びをあげる。ヘルミーナは口元に意味ありげな微笑を浮かべ、
「ふふふふ、さすがはイングリド。この本が何か、ひと目でわかるとはね」
「ヘルミーナ! それは、この世に存在してはならない書物なのよ! アカデミー当局の手で、すべて焼き捨てられたはずなのに・・・」
「そう・・・。おそらく、これがこの世に存在する最後の1冊でしょうね」
ヘルミーナは、虫食いだらけの黒い表紙を見せる。そこには、何やら心を騒がせるような、おどろおどろしい抽象模様が描かれている。
「『禁断の書』! それは、魔界や黒魔術について恐るべきことが記されている・・・人間が踏み込んではならない領域の知識に満たされている書物よ。なんて、恐ろしいことを・・・」
「ふふふふ、知識は、それを扱う者の手によって、毒にも薬にもなるものなのよ。それを知らないとは言わせないわ。そして、私はそれを毒として使うほど愚かではない・・・。この書物を手許に残しておいたおかげで、謎が解けたのですもの。ふふふ」
「何ですって!? それでは・・・」
「そう・・・。あの坊やの病状に合致する記述があったわ。ここよ・・・」
ヘルミーナが書物を開く。一瞬、かび臭い空気が立ち昇り、イングリドは顔をそむけた。しかし、好奇心が打ち勝ち、イングリドは禁断の書物のページに目を落とす。
「魔界の・・・昆虫の・・・毒・・・?」
「そう・・・。魔界に住むごく普通の昆虫、私たちの世界で言えば蚊や蜂ね・・・それが持っている毒は、人間界の生物に致命的な熱病をもたらす・・・。どうやら、あの坊やは、運悪く、魔界からさまよい出て来た“あちら”側の虫に刺されてしまったのではないかしら」
「そうだったの・・・。あなたのことだから、まず間違いはないわね。原因がわかれば、解毒剤も調合できるでしょう・・・」
すぐにも研究室へ向かおうとするイングリドを、ヘルミーナが押しとどめる。
「待ちなさい。ここまでが、いい知らせよ。まだ、悪い知らせの方を話していないわ」
「悪い・・・知らせ・・・?」
「病気の原因はわかったし、解毒剤が存在することや、その作り方も、この『禁断の書』には記されている・・・。でも、いいこと、解毒剤の材料は、こちら側の世界にはないの。それを手に入れるには、魔界へ行くしかないのよ」
「そんな・・・!?」
「魔界へ行くなんて、命を捨てに行くようなものだわ。魔界への入口として知られている場所は、存在するけれど・・・」
ヘルミーナは、肩をすくめ、首を左右に振った。
「エアフォルクの塔・・・ですね」
突然、背後から聞こえた声に、ヘルミーナもイングリドも振り向く。
「アイゼル! 聞いていたのね!?」
アイゼルの口元はきりりと引き結ばれ、エメラルド色の瞳は炎のように燃えていた。
「エアフォルクの塔から、魔界へ行けるんですね」
アイゼルの声は不自然なほど落ち着き払っている。
「アイゼル! そんなことを許すわけにはいきません。騎士隊員を派遣するように手配するから、お待ちなさい」
イングリドが強い口調で言う。アイゼルは激しく首を横に振った。
「待っていられません。それに、エンデルク隊長は公務出張中だというし、ダグラスもいないわ。騎士隊は頼りになりません。わたしが行きます!」
「アイゼル・・・」
イングリドは、言うべき言葉を探した。しかし、どんな言葉をもってしても、アイゼルを止められないことはわかっていた。
その時、ヘルミーナが動いた。
ポケットから取り出したハンカチをアイゼルの口と鼻に押し当てる。
アイゼルの身体から力が抜け、ヘルミーナに倒れかかる。
「ヘルミーナ! あなた、何をしたの!?」
アイゼルの身体を支えたヘルミーナが、落ち着き払って言う。
「『ズフタフ槍の水』を使っただけよ。アイゼルは私の教え子ですもの、魔界へ行くなら、よく眠って体調を調えてから行ってもらわないとね。ふふふふ」
「ヘルミーナ・・・」
「この娘を止めることはできない・・・。あなたにも、それはわかるでしょう、イングリド?」
ヘルミーナに見つめられ、イングリドは小さくため息をつく。
「仕方ないわね。師匠のあなたがそう言うのなら、私には止めることはできないわ」
と、イングリドは踵を返す。
「イングリド、どこへ行くというの?」
問うヘルミーナを振り返り、イングリドは落ち着いた口調で答える。
「『飛翔亭』よ。アイゼルのことは、頼んだわよ。ちゃんと寝かせてあげてちょうだい」
「わかったわ、ふふふふ」
すべてを了解したかのように、ヘルミーナは微笑を返した。