Scene−1
重々しい音をたてて、厚い樫の扉が開かれると、外の廊下から入ってくるランプの明りが殺風景な室内を照らし出した。
豪壮な邸宅の地下にある狭い部屋には、やや湿っぽい空気がよどんでいる。
ランプを持ち、先頭に立って部屋へ入ったのは、腰の曲がった老人だった。真っ白な髪はきれいに整えられ、地味ではあるが高級なお仕着せで一部の隙もなく身をかためている。この屋敷の執事頭である。
老執事は、左右の壁に取り付けられた燭台にろうそくを立て、次々にランプの灯を移していく。
香料を混ぜ込んだろうそくが、かぐわしい香りの煙を立ち昇らせる中、揺れる炎で室内の光景が浮かび上がる。
石造りの床は平坦で、同じく石の壁もつややかに磨き上げられているが、特に装飾らしきものはない。
立ち昇った煙は、天井近くの壁のそこここに空けられた通風孔から外へ流れ出ていく。
壁際には、人間の頭ほどもある大きさの丸石がごろごろと置かれ、その脇には、握りこぶしほどの小さな石も山になっている。
だが、もっと目を引くものが部屋の中央に鎮座していた。
それは、巨大な天秤だった。
錬金術士の工房やアカデミーの実験室などではおなじみの道具だが、それの数十倍も大きい。床に立てられた円柱は天井に達するほどにそびえ、その頂点でアーチ型の金属棒を支えている。左右に均等に伸びた金属棒の先端からは、鋼鉄製の鎖が三方に分かれて下がり、これも鋼鉄製の大きな皿の縁の三ヶ所に繋がっている。もちろん鎖と皿は左と右の双方がつり合うようになっており、どちらの皿もろうそくの炎をきらきらと反射させながら、床から50センチほど離れた中空に浮かぶように吊り下げられている。
老執事はていねいに手で触れ、天秤に異状がないことを確かめると、深々と頭を下げ、入口のところに立っていた小柄な少女に、入るよううながした。
長い金髪を三つ編みにまとめ、デザインは簡素だが高級シルクの部屋着に身を包んだ少女は、緑色の大きな目を不安そうに見開き、両手を祈るように組み合わせて、ややおずおずと歩を進める。
少女の背後に影のように控えていた若者が、目立たぬように壁際を回りこんで、積み重なった丸石のそばに無表情で立つ。こちらは大柄でたくましい身体をしており、お仕着せの上からでも盛り上がった筋肉が見てとれる。
老執事が少女の手を取り、右側の皿の方へ導く。
つやつやと輝く金属皿に近づいた少女は、一瞬、嫌そうに目をそむける。だが、執事の無言の圧力に押されたのか、室内履きを脱いで裸足になると、長いスカートの裾をからまないように両手で持ち上げ、皿に片足をかけた。
かすかなきしみをたてて、天秤が傾き、少女の側の皿が床に着く。少女はすべてをあきらめたかのように目を伏せ、それ以上は抵抗するそぶりを見せずに、おとなしく皿の中央にぺたんと座り込んだ。
執事はしばらく少女の様子を観察した後、満足げにうなずき、背後を振り向く。
壁際に控えていたたくましい若者は、老執事の合図を受けると、腕まくりをして丸石の山に手をかけた。
片手でも軽々と持ち上げられるのだろうが、万に一つも落としてはならないというかのように、若者は大きな両手で包み込むように丸石をつかみ上げると、ゆっくりと歩いて左側の天秤皿にていねいに載せる。
だが、高く持ち上がっている左側の皿は、微動だにしない。
続けるようにという老執事の仕草を確認し、若者は数回にわたって丸石を部屋の隅から天秤に運ぶ。
何個目かの石を置いた時に、ぎしっという音と共に左側の皿が下がり、少女が座っている方がゆらりと浮き上がった。少女が小さな叫びをあげ、バランスを取るように身じろぎした。
執事の無言の指示を受け、若者は今度は小さな方の丸石をつかむと、先ほどと同じようにていねいに、一個ずつ皿に積んでいく。そのたびに、天秤は少しずつ動き、左右の皿は次第に水平に近づいていく。
そして、ついに天秤が平衡を取り戻す時が来た。
目盛りのついた棒を手にした老執事が左右の皿と床との間隔を測り、満足げにうなずくと、若者は再びていねいに丸石をひとつひとつ皿から取りのける。だが、壁際の元の場所には戻さずに、天秤のすぐ脇に置いていった。
石が取り去られると共に、うつむいて目を閉じたままの少女が乗った皿は、ゆっくりと床に近づき、やがて金属音をたてて石の床とぶつかった。
老執事が差し伸べた手につかまって、少女が床に下り立つ。裸足が冷たい石の床に触れ、身を震わせたが、すぐに執事が差し出した室内履きを着け、ほっと息をついた。
その間に、たくましい若者は丸石を大小含めてすべて床に下ろし終えていた。
少女をそのまま待たせ、執事は床に整然と並べられた丸石の数を数えていく。若者は、再び奥の壁際に引っ込んでひっそりと控えている。
2回、確かめるように丸石を数えなおした執事は、顔をあげてゆっくりと少女のところに戻る。
少女は胸のところで手を組み、祈るようにうつむいていたが、不安げに執事の方を見やる。
「け・・・、結果は?」
老執事は一礼して、少女の耳元に口を寄せ、ふたことみことささやきかけた。
少女の緑色の瞳が大きく見開かれ、口から絞り出すような悲鳴がもれる。
「そ、そんなに――!? ひいいいぃ!」
少女はくずおれ、がっくりと膝をついた。
執事に抱き起こされ、慰めるように肩を抱かれて、少女はすすり泣きながら部屋を出て行く。
閉まった扉の背後では、無表情な若者が黙々と丸石を元の場所にきちんと置き直していた。
Scene−2
「はあ・・・。相変わらず、足の踏み場もないですね、この工房は」
赤いとんがり帽子の屋根の錬金術工房に足を踏み入れたクライス・キュールは、銀縁眼鏡の奥から鋭い視線を室内に投げる。
正面の作業台には試験管、ビーカー、ランプに天秤といった調合用具が雑然と置かれ、薄汚れたビーカーの底にはなにやらねっとりとした液体が悪臭を放っている。壁際にある調合用の大釜も、普段は怪しげな中身がぐつぐつと泡を立てて煮立っているのだが、今はかまどに火の気はなく、大きなしゃもじが寂しく釜から突き出ている。部屋の隅に放り出されたアイテム袋は、ここ何週間も手をつけられたことがないかのようにうっすらと埃をかぶっている。
「マルローネさん! いらっしゃらないのですか? マルローネさん!」
クライスは声を張り上げた。しかし、男性としてはややかん高い彼の声は、室内にうつろにこだまするだけだった。
「マルローネさん!!」
業を煮やしたクライスは、手に持っていた杖で天井を強く突いた。2階には寝室がある。
ドン!という音と共に、埃が舞い落ちてくる。クライスは顔をしかめ、髪やローブに付着した埃を嫌味なほどていねいに拭い取った。
「マルローネさん!」
さらに数回、天井を突く。
やがて、頭上で寝室のドアが開く気配がして、気だるげな声が降って来た。
「何よ〜? こんな朝っぱらから、うるさいわね〜」
「もうお昼を過ぎていますよ。いいかげんに起きて来られてはいかがですか」
クライスは冷ややかに言った。
「もう! わかったわよ〜。着替えるから、ちょっと待ってなさいよね! ・・・あ」
一呼吸おいて、
「覗いたら、承知しないからね!」
「だ、誰がそんなことをしますか!」
「どうだか」
この工房の主、ザールブルグ・アカデミーの落ちこぼれ錬金術士のマルローネが寝室で身支度をしている間、クライスは工房を歩き回り、作業台に積もった埃を指でぬぐってしげしげとながめたり、雑然と積み上げられた参考書を取り上げてぱらぱらとめくったりしていた。
「まったく、何の用なのよ。せっかく人がいい気持ちで寝てたっていうのに」
大あくびをしながら、この工房の主マルローネがのろのろと階段を下りてくる。丸い髪飾りでとめてはいるものの、豊かな金髪は寝癖がついてくしゃくしゃだ。
「寝過ぎです」
クライスは鋭く言うと、眼鏡のフレームに右手を当て、マルローネに目を向けた。
「最近、あなたはどうなさってしまったのです? アカデミーに姿を見せないのは、あなたのことですから仕方がないにしても、酒場に仕事を探しに来るでもなし、外へ材料を採取に出かけるでもなし。毎日工房にこもってのらくらしているという噂を聞いて、まさかと思って来てみたのですが・・・」
「へえ、あんた、よっぽど暇なのね。・・・ふあああ」
マルローネは眠そうに目をこすり、再びあくびをする。
「暇なわけではありません。私だって、アカデミー首席として高度で重要な錬金術の研究に日夜取り組んでいるのですよ。そんな私の目から見れば――」
クライスは言葉を切り、マルローネの空色の目を真っ向からにらむ。
「今のあなたの姿は、堕落以外の何物でもありません。これが同じ錬金術士かと思うと、恥ずかしくていたたまれない気分です」
「だってえ・・・」
だらしなく作業台にもたれかかるマルローネに目を向けたまま、クライスは肩をすくめ、小さくため息をつく。
「せっかく、先日のシアさんの件では、あなたを多少なりとも見直したというのに」
「ああ、あのことね」
マルローネは気がなさそうにうなずく。
マルローネの幼馴染で親友のシア・ドナースタークは、小さい頃から病弱だった。そして、シアが持病を悪化させて床に就いたのは昨年のことだ。ザールブルグ指折りの医師たちもさじを投げるほど重症で、誰もが希望を捨てざるを得ない状況にまで陥った。
しかし、『エリキシル剤』ならばシアの病を治せるかも知れないと聞いて、マルローネは親友のために立ち上がった。アカデミーの図書室に日参しては、苦手だった高度な錬金術書をひもとき、危険な地域へ出かけては入手困難な材料を集めた。そして、何度も失敗を繰り返し、苦労に苦労を重ねた末、錬金術で最高度に調合が難しいといわれる究極の薬『エリキシル剤』を作り出すのに成功した。
もちろん、クライスや町の冒険者たちの協力と応援があったことは言うまでもない。
マルローネの『エリキシル剤』のおかげで、シアの病気は奇跡的に快癒した。
『エリキシル剤』のレシピは、彼女の研究成果を記録する『アイテム図鑑』の最新ページに誇らしげに記載されている。
それから2ヶ月――。
「なんかさ〜、気が抜けちゃったっていうのかな。ふ・・・ああああ〜」
厳しい顔で腕組みをしたクライスを前に、またも大あくびをしたマルローネは問わず語りに口を開いた。
「『エリキシル剤』を作って満足しちゃったってわけじゃないのよ。でも、あれ以来、なんかやる気が起きないっていうか、採取とか調合とかをしようっていう気にならないのよね」
「まあ、確かに大仕事をやり遂げたのですから、しばらくのんびりと休むのはいいとしましょう。ですが、2ヶ月というのはいくらなんでも長過ぎです。確かに、『職人通り』の人々からは、騒ぎが起きなくなったと歓迎されているのかも知れませんけれどもね。だいたい、酒場の仕事を請け負わないでいたのでは、その日暮らしのあなたのことです、お金にも困るのではありませんか」
「あ、その点はだいじょぶだよ」
「なるほど。それではやはり、大切なひとり娘の命を救ってもらったことで、ドナースターク家があなたに高額の謝礼金を支払ったという噂は本当だったのですね」
「げ・・・。どうして知ってるのよ!」
クライスはすまして答える。
「ふ、ちょっとかまをかけてみただけです。誰もそんな噂はしていませんよ、ご安心ください。それに、いかに凄腕の盗賊でも、まさかこんなとっちらかった貧乏くさい工房に銀貨が貯えられているとは夢にも思わないでしょう」
「むっか〜っ! よ、余計なお世話よ! あんたには分けてあげないからね!」
目をつり上げてにらみつけるマルローネに、クライスは口元に小さな笑いを浮かべた。
「ふむ、だいたいの事情は理解できました。あなたのモチベーションが低下した理由もね。まあ、私の想像通りでしたが」
「何よ、そのモッタイネーデショっていうのは?」
「モチベーションです。平たく言えば、動機付けということですね。あなたにもわかるように、もっと簡単に言えば、やる気を出すための源のことです」
「ふうん」
クライスは、もったいぶって続ける。
「マルローネさん、あなたは過去数ヶ月間、シアさんの病気を治し、命を救うという非常に高い目的意識を持って、『エリキシル剤』の調合に取り組んできたはずです。その目的を達成してしまった今、その反動であなたがすぐにやる気が出ないのも当然のことなのかも知れません」
マルローネは目を丸くして、聞き入っている。クライスは面白そうに言葉を継いだ。
「――特に、あなたのように単純な人はね」
「な、何ですってえ!? せっかく感心して聞いてたっていうのに! あんたはいつも、ひとこと多いのよ!」
「性分ですので」
すまして答えるクライスを、マルローネはにらみつけていたが、やがてふっと力を抜いた。
「それで、どうしたら、前みたいにやる気が出るのかしら」
「シアさんの病気と同じくらい切実な出来事でもあればいいのですが、そういうことはそう何度もあるものではありませんしね」
「う〜ん」
マルローネは腕組みをして考え込む。
「まさかシアさんにもう一度、病気になってもらうわけにもいきませんし」
「ちょっとクライス! めったなこと言わないでよ!」
「・・・すみません、失言でした」
「う〜ん、病気か・・・。そうだ!」
「なにか思いついたのですか」
「クライス、あんた、不治の病にならない?」
「はあ?」
「あ、でもだめか。あんたじゃ、どうしても助けようって気にならないもんね」
「大きなお世話です」
「う〜ん・・・。なんか、やる気の出るおまじないとか、ないかなあ」
「そんなものはありません」
「そっか。あ〜。また身体がだるくなってきた」
「まったく・・・。こんなよどんだ空気の工房に閉じこもっているから、気分も晴れないんですよ」
窓際に歩み寄ったクライスは、窓を大きく開けた。涼しい風が吹き入ってくる。
外に目を向けたまま、クライスはぽつりと言う。
「どうですか、気分転換に街の外へ出かけてみては」
「え・・・。でも、材料採取もあんまりやる気が起きないし」
「誰が採取に行くと言いました?」
クライスは、意味ありげな笑みを浮かべる。
「思い切り爆弾を爆発させるというのは、気晴らしにはなりませんか?」
「へ?」
マルローネはきょとんとしたが、やがて目が輝き、にんまりと笑みが浮かぶ。
「そうね、それならスカッとするかも。『北の荒地』あたりなら、誰にも迷惑はかからないし」
「あなたがやり過ぎないように、私も付き合わせていただきますよ。いくら何でも、広い土地を死の大地に変えてしまってはまずいですからね」
「でも、あんた、さっき、研究が忙しくてそれどころじゃないって言ってなかったっけ」
「そ、そんなことはありません」
クライスは眼鏡の位置を整えて、
「首席ともなれば、研究スケジュールの調整など、たやすいことです」
「まあいいか。どうせあんたには、賃金を払う必要ないもんね」
「もとより、私には金銭的な動機などありませんよ」
「よぉし、それじゃ、さっそく爆弾を準備して――。フォートフラムでしょ、あと、メガフラムも持って行かなきゃ」
マルローネは張り切って、アイテム倉庫をごそごそやり、取り出した爆弾をかごに入れ始める。
その時、工房のドアが軽くノックされた。
「は〜い、どなた? ――ちょっとクライス、出なさいよ」
「相変わらず、人使いが荒いですね」
ぶつくさ言いながらも、クライスはドアを開ける。
「おや、シアさん・・・」
「え、シア?」
クライスの声に、マルローネもすっ飛んでくる。
「こんにちは、マリー・・・。クライスさんも、こんにちは」
フリルの付いたかわいらしいドレスに身をつつみ、金髪を三つ編みにまとめたシア・ドナースタークは微笑みを浮かべたが、その笑みがどこか弱々しいのをクライスは見逃さなかった。
「どうかなさいましたか、シアさん。顔色がすぐれないようですが」
「ええっ!? まさか――シア、病気がぶりかえしたの!?」
マルローネがすっとんきょうな声をあげる。
「マルローネさん! めったなことを言うものではありません」
「あんたもさっき言ったじゃないの」
「ううん、違うわよ、マリー」
シアは小さな声で言った。
「でも、ちょっとマリーに相談に乗ってもらいたいことがあって」
「そうなんだ。でも、あたしたち、これから『北の荒地』を焼き払いにいくところで――」
「マルローネさん! 誤解を招く表現はやめてください」
クライスの注意は無視して、マルローネはシアに言う。
「そうだ! シアも一緒に行こうよ! 相談があるなら、行く途中で聞く時間はたっぷりあるし。ね、そうしよう? シアも病気が治ってから、ずっとお屋敷で静養していたんでしょ。元気になったんだから、そろそろ、あっちこっち出歩いた方がいいよ。ね」
「え、ええ・・・。そうね」
勢いに押されるように、シアはうなずき、緑色の目を伏せた。
「でも、シアが一緒だったら『北の荒地』じゃなくて、『メディアの森』あたりまで足を伸ばしてもいいかもね。うん、その方が身体にいいよ、絶対」
「ええ」
まくしたてるマルローネをちらりと見やって、シアは悲しげな笑みを浮かべる。
そんなシアを、クライスは複雑な表情で見つめていた。
Scene−3
シグザール王国の王都、城塞都市ザールブルグの北方には、木々や草もまばらで殺風景な荒野が広がっている。大昔に巨大な流れ星が落ちたという伝説があり、付近では珍しい『星のかけら』が採取されるが、岩だらけの土地には農作物も育たないため、訪れる人は少ない。
『北の荒地』と呼ばれるこの不毛の土地を歩いて数日進むと、あたりの様子はがらりと変わって、様々な種類の木々がうっそうと繁る深い緑の森が広がる。シグザール建国の当時、周辺を支配していた大いなる力を持った魔女の名前にちなんで『メディアの森』と呼ばれる肥沃な森林地帯だ。錬金術の材料になる植物や木の実が豊富で、王室騎士隊の魔物討伐の直後などは、薬草医やアカデミーの生徒も材料採取に訪れている。しかし、身を守る術を持たない人々にとっては、通常この森は、油断のならない危険地帯なのだ。
『メディアの森』は、凶暴な魔物が徘徊する魔の山ヴィラントの麓に広がっている。そのため、森の奥へ入ると、エルフやヘビ女といった悪賢くて手強い魔物が頻繁に出没する。薬草を採りに奥地へ入ったまま、戻って来なかった人々も多いという。
なので、魔物討伐の時期を除く1年間のほとんどは、森は入り込む人もなく静かで、生息する生き物たちも平穏な日々を過ごしている。
しかし、今日は違った。
「いっけえええぇ〜!!」
気合のこもった叫びと共に宙を飛んだ赤黒い爆弾が、大音響をたてて破裂し、盛大な火柱が昇る。爆弾の標的になったエルフの群れは、弓矢を捨てて逃げまどう。腰のベルトやローブの裾に仕込んだ爆弾を魔法のように取り出して、マルローネは2発目、3発目を投げ込んでいく。その背後では、クライスがあきれたようにながめながらも、思いもよらない方角からの攻撃を受けないよう周辺をうかがっている。
一方、藪を割って現れたヘビ女には、はたきをかざしたシアが立ち向かっていた。
「いいかげんにして〜!!」
目にも止まらぬ動きでシアがはたきを振り回すたびに、鱗を切り裂かれたヘビ女の悲鳴が森にこだまする。
シアが手にした“高級はたき”を、ただの掃除用具と侮るなかれ。彼女のはたきは特注品なのだ。
マルローネの過激なアイディアに武器屋の親父が悪乗りし、ドナースターク家の財力を惜しみなくつぎ込んで実現させたこのはたき、いくつにも分かれた房の1枚1枚には鋭利な刃が無数に埋め込まれ、刃のひとつひとつにはマルローネ工房謹製の毒薬やしびれ薬、眠り薬などが塗られている。さらに先端部は鋭く研ぎ澄まされ、まっすぐに突けばアポステルの鱗でさえ簡単に貫いてしまう。
病気になる以前にも、シアはマルローネになかば強引に冒険に連れ出されることが多く、クライスもそれに付き合わされることがしばしばだった。それにはマルローネ側のやむを得ざる事情――工房を開いた当初は慢性の金欠病で、まともな冒険者を雇う余裕がなかった――もあったわけだが。
当時のシアは、体力も自信もなく、戦いとなっても大した戦力にはならなかった。その点はクライスも大同小異だったが。
しかし、冒険を重ねるうちに、シアもそれなりに経験を積んで、ある程度の魔物なら独力でも相手にできるようになっていった。それでも生来の気の優しさが影響してか、“爆弾娘”の異名をとるマルローネとは違って、できれば戦いは避けたがったものだ。
ところが、今回のシアは違う。
魔物を見つけるや、マルローネの合図も待たずに飛び出し、愛用のはたきを駆使して次々に追い散らしていく。危険だとクライスが止める間もない。
「いいかげんにして〜!!」
今も、シアは緑色の大きな目を見開き、口をきっと結んで魔物と渡り合っている。
まるで、なにか物の怪にでも取り憑かれたかのように。
あるいは、なにかを忘れ去りたいかのように。