Scene−1
鐘楼から、その日の授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いている。
錬金術を教える魔法学院ザールブルグ・アカデミーのロビーは、生徒たちでにぎわっていた。
色とりどりの錬金術服とローブに身を包んだ10代後半の生徒たちは、その日の勉強の疲れを見せることもない。中庭へ出て大きく伸びをする者、実験の続きをしに研究室へ向かう者、分厚い参考書を抱えて図書室へ閉じこもる者、調合の材料をショップで物色する者。笑いあい、さんざめく声が、高い天井に響いて潮騒のように聞こえる。
生徒たちがいつになく元気な様子を見せているのも、理由のないことではない。
明日は、休日なのだ。
不意に、入り口近くの人波がどよめき、ぶっきらぼうな声が響く。
「おら、どけよ、仕事の邪魔だぜ」
何事かささやきあいながら左右に分かれる生徒たちの向こうから、アカデミーには場違いないでたちをした大きな人影が姿を現す。深みのある蒼色につやつやと磨き上げられた聖騎士の鎧を身に着け、筒状に丸めた大きな紙の束をかかえている。
鎧よりも濃い蒼色の瞳でロビーをじろりと見渡すと、周囲の好奇の視線を無視して、ずかずかとショップのカウンターへ歩み寄る。カウンターの向こうでは、ショップ店員のルイーゼがきょとんとして見ていたが、やがてにっこりとうなずく。
「あ、ダグラスさん。ご苦労様です」
「ほらよ、今月の王室広報だ。しっかり掲示しといてくれよ。ったく、アカデミーはだだっ広いもんだから、枚数もばかにならねえや」
紙の束をカウンターにどさりと置くと、聖騎士ダグラス・マクレインは大げさに肩を上下に揺すって見せた。
「はああ、やっと今日の仕事も終わったぜ」
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「あ、ダグラスじゃない。どうしたの、こんなところで」
「おう、エリーか」
振り返ったダグラスの目に、オレンジ色の錬金術服を着た小柄な姿が映る。栗色の瞳を輝かせ、右手を小さく挙げて手を振っている。
「俺は、王室広報を届けに来たのさ。お前こそ、アカデミーにいるなんて珍しいじゃねえか」
エルフィール・トラウム(愛称エリー)はアカデミーの生徒ではあるが、補欠合格だったためにアカデミーの寮に入れず、ザールブルグの下町にあたる『職人通り』の工房で自活している。そのため、一般のアカデミー生徒と違い、街の外に材料採取に行ったり工房で調合をしていることがほとんどだ。それを知った上でのダグラスのセリフだった。
「ひどいなあ。あたしだって、アカデミーに来ることくらいあるよ。今日は、図書室でアイゼルと勉強してたんだよ」
見れば、エリーの後ろには、高級そうなピンクの錬金術服に身を包んだ少女がいる。エリーの同期生で、貴族出身のアイゼル・ワイマールだ。
「そうか。しかし、お前ら、本当に仲がいいな」
ダグラスの言葉に、アイゼルが目をつり上げる。
「何を言ってるのよ。エリーがどうしてもって言うから、仕方なく付き合ってあげているだけよ。変なことは言わないでちょうだい」
つんとあごを上げ、アイゼルは目をそらした。だが、それが素直に本心を表せないアイゼルのポーズに過ぎないことは、わかっている。
ダグラスは苦笑したが、ふと思い当たって、エリーに尋ねる。
「そういえば、お前らも明日は休みなんだろ?」
「うん、そうだよ」
「その・・・、俺も明日は非番だからよ。もしどこかへ採取に出かけるんなら、護衛してやってもいいぜ」
「あら、ダグラスはエリーには親切ね。聖騎士さんが市民をえこひいきしてはいけないんじゃなくって?」
アイゼルが言う。言葉はきついが、緑色の目はいたずらっぽく笑っている。
「ば、ばかやろう! そんなんじゃねえよ!」
言い返すダグラスに、エリーがすまなそうに言う。
「ごめん、ダグラス。明日は、女性だけでピクニックへ行く約束をしているの。ちょうど今、カスターニェからユーリカが来ているから、釣りを教わろうと思って」
「そうそう、釣った魚をその場でバーベキューにして、野外パーティよ。楽しみだわ」
アイゼルが言い添える。
ダグラスは目をむいた。
「おいおい、女だけで外に出かけるなんて、あぶねえじゃねえかよ! 街の外に一歩出れば、魔物がうろうろしているんだ。騎士隊として、そんな真似を許すわけにはいかねえぞ」
「だいじょぶだよ。行き先は、日帰りで行けるベルグラド平原の泉だし、ミューさんやロマージュさんも一緒に行くから、護衛としてはばっちりだよ」
エリーはにっこり笑う。
「だから・・・、ごめんね、ダグラス。また今度、護衛をお願いするから」
「けっ、わかったよ。そうかい、それじゃ明日は俺ものんびりできるってわけだ。ザールブルグで騒ぎを起こしそうなやつは、みんな外に出かけちまうわけだしな」
「もう! ダグラスったら。そんな憎まれ口きいてると、魚を釣ってきても分けてあげないよ」
「あら、エリーに釣られるような鈍くさい魚なんて、いるのかしら」
「ぶー」
アイゼルの言葉に、エリーはふくれて見せる。
「まあ、期待しないで待ってるぜ。じゃあな」
そう言うと、ダグラスはくるりと背を向けた。
「あ、ダグラス」
エリーが声をかける。
「何だよ」
「ダグラスは、明日の休みはどうするの?」
「剣の練習でもするさ。次の武闘大会では、絶対に隊長を破って優勝してやる」
「武闘大会・・・って、まだ半年以上先じゃなくって?」
あきれたようにアイゼルが言う。
振り向いたダグラスは、にやりと笑った。
「日々の努力が大切なのは、錬金術も同じだろ?」
Scene−2
翌日の早朝。
春から初夏に向かうこの時期、穏やかで過ごしやすい気候が続いている。
今日も、空は晴れ渡っており、紅に染まる東の地平線近くにいく筋かの細い雲がたなびいているばかりだ。
ザールブルグの周囲にめぐらされた石造りの城壁に立ち、王室騎士隊長エンデルク・ヤードは夜明けの霞にけむるベルグラド平原を見渡していた。
起伏の少ない大地は緑なす草におおわれ、そこここにピンクや黄色の花の群落がアクセントを添えている。行く筋かの街道がくねりながら平原に延び、はるか東の台地へと消えている。南には、ゆるやかに流れるストルデル川が豊かな水をたたえ、太古から続く大地の営みを育んでいる。
やや北に目を移すと、緑の平原にぽっかりと穴が開いたように、ヘーベル湖の穏やかな湖面が飛び込んでくる。今の時間帯は、まだ日が当たらないので青黒く見えるが、日が昇れば、周囲の草原に映える鮮やかな青に変わるはずだ。その向こうにかすかに見える、黒々としたエアフォルクの塔に視線を移し、エンデルクはふと眉をひそめた。
あの塔にだけは、常に気を配っておかねばならない。だが、幸いなことに、ここ数年、あの塔に不穏な動きはない。魔界に戻った彼女が、うまくやってくれているのだろう。
マントをひるがえし、エンデルクは今度は城壁の内側、ザールブルグの街並みを見下ろす。
街の大部分はまだ眠っている。しかし、朝が早い『職人通り』のいくつかの家からは、ブラインドを引き上げる音が聞こえ、共同井戸で水を汲もうとする人や、火をおこして朝食の仕度をするおかみさんたちの姿が見える。あと1、2刻もすれば、街は動き出し、仕事に向かう人々や遊びまわる子供たちが、通りや広場にあふれるだろう。
いつも変わらぬ、ザールブルグの1日が始まろうとしている。
この平和を、一時たりとも途切れさせてはならぬ。
吹きすぎる風に乱れた長い黒髪を直そうともせず、エンデルクは立ち尽くしていた。
コツ、コツと別の足音が城壁にこだまし、エンデルクに近づいてくる。
「早いな、エンデルク」
「ウルリッヒ殿・・・」
エンデルクは敬礼した。
かつての王室騎士隊副隊長、現在は騎士隊特別顧問を務めるウルリッヒ・モルゲン卿は、軽く答礼すると、エンデルクの視線を追ってザールブルグの街をながめた。
「こんな時間から、見張りか? 今日は貴公は非番のはずだろう」
穏やかな目に笑みを浮かべ、ウルリッヒが尋ねる。
「ウルリッヒ殿こそ」
表情を変えることなくエンデルクが言い返す。
「フフフ、年寄りは朝が早くていかん」
いまだに若々しさを失わない金髪をかき上げ、ウルリッヒは微笑んだ。
「それより、どうだ、久しぶりに、ひと勝負というのは?」
エンデルクの鋭い目に、かすかに笑みが浮かぶ。
「よろしい、受けて立ちましょう」
「結構。では、朝食後、私の部屋でな」
ウルリッヒはきびすを返すと、城内へ戻っていった。
Scene−3
「ふ、ああああ〜、よく寝たぜ」
ベッドで半身を起こすと、ダグラスは大きく伸びをした。
開け放された窓から、シグザール城の中庭が見える。朝の日に照らされた緑の芝生の上で、王室付きのメイドたちがお茶を飲みながら、おしゃべりに花を咲かせている。
(そうか、俺も今日は休みなんだな)
ダグラスは、あらためて室内を見回した。
ここはシグザール城の北西に当たっており、独身の騎士隊員が部屋を与えられている。聖騎士は個室だが、平の隊員や見習いのうちは、二人部屋か四人部屋だ。聖騎士のダグラスは、もちろん個室だ。
個室とは言っても、部屋は狭い。ベッドの上から手を伸ばせば、部屋のどこにでも手が届いてしまう。隊員たちがひそかに“独房”と呼んでいるのも無理からぬことだ。
だが、ダグラスはまったく気にしていない。雨にぬれずにすむ寝場所さえあれば十分だと思っている。
着替えようとして、ダグラスはふと手を止めた。
「う〜ん、どうするか・・・。今日はかなりあったかくなりそうだしな」
住む場所と同じく、着るものにも頓着しないダグラスは、あまりたくさんの衣類は持っていない。故郷のカリエルにある実家からは、定期的に衣類を送ってきてくれるが、カリエルは気候の寒い北の国だ。冬場には重宝するが、初夏に向かうこれからの季節には、カリエルの服は暑くて着られない。
いったん着ようとして取り上げたシャツを、ダグラスはベッドに放り投げた。
「まあ、いいか。薄着でも死ぬわけじゃないしな」
結局、いつもの黒い肌着1枚で通すことに決めた。
「さあて・・・と。飯を食ったら、剣の練習でもするか」
そこへ、ドアをノックして同僚の騎士隊員が顔を出す。
「おう、ダグラス、起きてたか」
「なんだ、ナイトハルトか。どうした?」
「お前も今日は非番なんだろ。どうだ、娯楽室で“人生すごろく”をやらないか? メンバーが足りなくて、困ってるんだ」
ダグラスはやる気なさそうに言い返す。
「けっ、何かと思えば・・・。“人生すごろく”なんて、ガキの遊びじゃねえか。そんなものに付き合っちゃいられねえよ。剣の鍛錬でもしてた方がましだぜ」
「まあ、そう言うなよ。エルンストもフリッツもアウグストも待ってるんだ。それとも、何か・・・?」
ナイトハルトはダグラスを覗き込むようにして、言った。
「このまま戻って、あいつらに『ダグラスは挑戦を受けずに、敵前逃亡したぞ』と言ってほしいのか?」
これは効いた。ダグラスは両のこぶしを握りしめ、顔を真っ赤にして言い放った。
「おう、上等じゃねえか! 俺は何があっても逃げたりしねえぞ! やったろうじゃねえか!」
「それじゃ、待ってるぞ」
心の中でにやりと笑い、ナイトハルトは背を向けた。だが、振り返って、付け加える。
「言い忘れていたが、今日の勝負は罰ゲーム付きだからな」
「知ったことか! 要するに、勝ちゃあいいんだろうが!」
Scene−4
「ちっくしょう! なんで、こんなことになるんだよ!」
石の壁に、ダグラスの叫び声が響く。
独身騎士たちの部屋に隣接した、共用の娯楽室では、丸テーブルを囲んで5人の若者が“人生すごろく”に熱中していた。
このゲームは、近年になって南のドムハイト王国から伝わってきた遊びで、今やザールブルグ中で流行している。『職人通り』の子供たちから、上流貴族に至るまで、やらない者はないという程だった。
ルールは簡単で、ゲーム盤上に各自の駒を置き、ルーレットを回して出た数字に合わせて駒を動かしていく。止まった場所に書かれた指示に従って、手持ちの金が増えたり減ったりする。そして、ゴールした時点で最も金持ちだった者が勝利者ということになる。
ルーレットを回し、駒を動かすたびに、若い騎士たちの一喜一憂する声が、壁にこだましていた。
「よぉし! 竜退治に成功! 銀貨1万枚の報酬だ」
「やるな、アウグスト。だが負けないぞ・・・そら、こっちは盗賊退治で銀貨8千枚だぜ」
「ふ、みんな、青いねえ。地道にキャラバンの護衛をやって定期収入を得るのが、勝利への早道さ」
「そういえば、エルンスト、お前は一言もしゃべらないな。そんな黙りこくってて、面白いのかよ」
「・・・・・・」
「おう、今度は俺の番だな、行くぞ、今度こそ!」
ひときわ大きいのが、ダグラスの声だ。通常、ゲームが有利に進んでいる時には、こういう声は出ないものである。
「なんだとぉ! なんで俺がまがいもんの剣をつかまされて銀貨5千枚も払わなきゃならないんだよ!?」
「まあまあ、そう熱くなるなよ、ダグラス。そのうちいいこともあるさ」
「うるせぇ! 他人事だと思って、好き勝手言いやがって! 絶対に逆転してやるからな!」
しかし、ダグラスは損をし続け、最下位のまま、ゲームは終盤へ突入していた。
そして、ゴール直前。ダグラスが叫ぶ。
「よぉし! 一発逆転だ、全財産を賭けるぜ!」
「いいのか、ダグラス。ここで失敗したら、最下位決定だぞ」
「おう、上等だ! 2か5を出しゃいいんだろうが。それっ!」
ダグラスは、力をこめてルーレットを回す。
カラカラカラ・・・。
軽い音を立てて、ルーレットが回る。念力をこめるかのようににらみつけるダグラス。
「よし、行け!」
だが、数字は無情にも、2を通り過ぎて3で止まった。
「ははは、これでダグラスの最下位は決まりだな」
「くっそぉ! 今度はこうは行かねえぞ、次だ次!」
わめくダグラスに、ナイトハルトが冷ややかに声をかけた。
「ちょっと待った、次のゲームをする前に、罰ゲームをやってもらわないとな」
「何をすりゃいいんだよ」
ふてくされた様子のダグラスが、うなるように言う。
ナイトハルトは声をひそめ、
「ちょっと地下の酒蔵へ行って、20年物のブラウワインを1本、ちょろまかして来いよ」
ダグラスは目をむいた。
「何だと! 俺に、こそ泥の真似をしろって言うのかよ」
「堅い事、言いっこなし。お前もうまいワインを飲みたいだろ、わかりゃしねえって」
「そうそう、仕方ないよ、罰ゲームなんだから」
「くっそぉ、お前ら、ぐるになって俺をはめやがったな!」
「おいおい、人聞きの悪いことを言うなよ。ゲームは公正だぜ。ダグラスがついてなかっただけだ」
「そりゃまあ・・・そうだけどよ」
ダグラスはぶつくさ言いながら、出口に向かう。
「仕方ねえ。それじゃ、ちょっと行って来るぜ」
Scene−5
それと同じ頃。
娯楽室のほぼ真上に位置するウルリッヒの私室では、緊迫した勝負が展開されていた。
若い騎士たちの部屋とは異なり、室内は広く、大きく開け放された窓から涼風が吹き入ってくる。
窓際にしつらえられた小テーブルを挟んで、エンデルクとウルリッヒが黙したまま、対峙していた。
ふたりが見下ろすテーブルの上には、白と黒の市松模様に塗り分けられた木製の盤が置かれ、様々な形をした木彫りの駒が盤の上に散っている。駒も白いものと黒いものの2種類に分かれている。
沈黙が支配する中、駒を動かす軽い音だけが響く。
シグザール王室騎士隊を預かる新旧の指導者が没頭しているのは、チェスの勝負だった。
チェスは、昔から騎士や貴族階級の間でたしなまれてきた歴史ある遊戯だ。古来、騎士たちは、戦いに赴く旅にも盤と駒を携帯し、戦の合間を縫っては互いの智略を競い合い、磨き合ってきたものだという。今、エンデルクとウルリッヒが使っている盤と駒も、始祖カールの時代から王室に受け継がれてきた由緒あるものだ。
盤上の戦いは一進一退を繰り返し、黒と白に分かれた駒は、すでに半分以上が盤上から取り去られている。緊張感に張りつめた空気を楽しむかのように、エンデルクもウルリッヒも口元に笑みを浮かべ、鋭い視線を盤上に走らせている。
終局が近いことは、ふたりともよくわかっていた。ただ、読めないのは、どちらが勝つかということだけだった。
つと、黒番のエンデルクが意を決したように、手を伸ばした。なめらかな動きでルークを動かし、黒のキングに肉薄しようとしていた白のナイトを取る。
その手を見たウルリッヒの口元が、かすかに緩む。
「焦ったか、エンデルク・・・。クイーンががら空きだぞ」
盤上に残っていた数少ないポーンを前進させる。
「あと一手で、終わりだ」
エンデルクは、ちらと鋭い視線をウルリッヒに向ける。見返すウルリッヒの目に、ふと不安の色がよぎる。エンデルクの黒い瞳は、笑っていた。
「フ・・・。ウルリッヒ殿は、女性に甘いですな」
「何だと・・・?」
「クイーンに気を取られすぎです」
ひらめくような動きで、エンデルクの指が盤上を滑る。ここまで、ほとんどその存在を主張せずに隅に控えていた黒のビショップが、白のキングをとらえた。エンデルクが静かに言う。
「チェック・メイト」
「くっ・・・」
ウルリッヒはくちびるをかんだ。
その時、まるで勝負がつくのを待っていたかのように、扉にノックの音が響く。
「お邪魔するよ」
のっそりと入ってきたのは、眼鏡をかけた風采の上がらない男だった。だが、眼鏡の奥に光る鋭い目を見れば、ただ者ではないことがわかる。
「これは、ゲマイナー卿」
ウルリッヒが立ち上がって迎える。
シグザール王国秘密情報部長官ゲマイナーは、堅い挨拶は抜きだとでも言うように、軽く片手を振る。
「陛下がお呼びだよ、モルゲン卿」
そして、チェスの盤上にちらりと目を走らせる。
「ゲームの続きなら、俺が代わってやろう」
ウルリッヒは首を横に振った。
「いや、もう勝負は決したよ。惜しいところだったが」
「ふ、そうかな?」
ゲマイナーはにやりと笑った。
「俺ならば、ここからでも勝てる」
「何だと?」
エンデルクもいぶかしげな表情を浮かべた。
「有り得ぬ。ここから、どう逆転できるというのだ」
ゲマイナーは両手を広げ、自信満々で言った。
「ふふふ、賭けるか、エンデルク?」
「くだらぬ。勝ちが決まっている賭けになど、乗る気はない」
「俺は、そうは思わないね。どうだ、負けた方が、王の酒蔵からドムハイト・ブランデーの逸品を一瓶かすめとって来るというのは?」
エンデルクが眉をつり上げた。
「ゲマイナー卿、貴公は、国の財産を私物化せよと?」
「堅い事を言うな。どうせ、あのブランデーは、もともと俺がグラッケンブルグの老舗酒屋から口八丁で巻き上げてきた品だ」
ゲマイナーは、挑発するような口調で続ける。
「騎士隊長殿は、誰の挑戦からも逃げないと聞いていたが、俺の聞き違いだったのかな?」
エンデルクは小さくため息をついて、肩をすくめた。
「自分が勝つとわかっている賭けに乗る気はせぬが、卿がどうしてもとおっしゃるなら・・・」
「よし」
ゲマイナーはウルリッヒがそれまで座っていた席に腰を下ろし、盤上をながめた。
ウルリッヒが、興味深げに見守る。どう見ても、白番が詰んでいるのは間違いないのだが・・・。
ゲマイナーは、正面に座りなおしたエンデルクを見て、にやりと笑った。
そして、おもむろに盤に手をかけると、180度ぐるりと回転させて、テーブルに置き直した。左右が逆になる。
「これで、黒番・・・つまり俺の勝ちだ」
「それは・・・ルール違反だ」
あっけにとられて、つぶやくように言葉をもらすエンデルクに、ゲマイナーは真剣な表情で言う。
「そう・・・。確かにルールには、こんなことをやっていいと書いてはおらん。だが、勝つためにはどんな手でも使う・・・それが俺の流儀だ。そして、俺たちの敵の中には、ルールなど踏み付けにして平気でいるような連中がごまんといるはずだ。ルールを守っていたのでは、勝てない時もある。いいか、エンデルク。きれい事だけでは、騎士隊長は務まらんのだぞ」
「・・・御意」
エンデルクがうなずく。ウルリッヒは微笑んだ。これがゲマイナー流の教育なのだ。自分も何回、この手で教訓を叩き込まれたことか。
「さてと。では、約束通り、ブランデーを取って来てもらおうか」
ゲマイナーは笑った。
Scene−6
ダグラスは、足音を忍ばせて厨房の脇を抜け、地下の酒蔵へ向かう石の階段を降りていった。
城の厨房は、昼食の準備でごったがえしており、誰もダグラスに注意を向ける者はいなかった。
酒蔵へ降りたダグラスは、薄暗がりの中、目をこらした。
人目につくとまずいので、ランプを持って来てはいない。天井近くに作られた細い天窓から差し込む光だけが、唯一の灯りだ。
さして広くもない地下の酒蔵だが、床から天井まで何列もの棚が伸び、そこに酒樽や酒瓶が所狭しと収められている。騎士見習いの頃に、棚卸作業の手伝いに駆り出されたことはあったが、それ以来、ダグラスはほとんどここに足を踏み入れたことはない。
「ちっくしょう・・・。ワインの棚は、どこにあるんだよ」
低い声で毒づくと、手探りをしながら奥へ進んだ。
「こいつか・・・?」
手を伸ばすと、うっすらと埃の層におおわれたガラスの瓶がいくつも並んでいるのに手が触れた。
「くそ、どれが20年ものなんだか、わかりゃしねえや。・・・まあ、何でもいいか」
手近な瓶を手に取ったとたん、背後でがたり、と音がした。
ダグラスは凍り付いたように動きを止める。
(やべぇ、見つかっちまったか・・・?)
だが、聞こえてきたのは、もっとも予想しなかった人物の声だった。
「誰だ? そこにいるのは」
「た、隊長!?」
ダグラスの声がひっくり返る。本能的に、手に取ったワインの瓶を隠そうとする。暗闇の中なので、見えるはずもないのだが。
「ダグラスか? 何をしている?」
エンデルクの声も、意外そうだ。大きな影が、うっそりとダグラスのそばに姿を現す。
ダグラスはしどろもどろで、なんとかごまかそうとする。
「いや、これはちょっと・・・。その、まあ・・・、ちょっとした野暮用で・・・。た、隊長こそ、なんでこんなところに・・・?」
エンデルク相手に、こんな説明では納得してもらえないだろうとはわかっていたが、他に言いようもない。
「ふむ・・・」
エンデルクは黙り込んだ。てっきり叱責されるだろうと思っていたダグラスは、身を縮こめて次の言葉を待つ。だが、エンデルクの言葉は意外なものだった。
「フ・・・。私も、ちょっとした野暮用だ・・・。どうやら、お互いに、会わなかったことにした方がよさそうだな」
「へ?」
暗がりの中で、エンデルクが身じろぎした。わずかに差し込む光を反射して、琥珀色の液体が入った瓶がきらりと光る。
「た、隊長・・・?」
「フ・・・。そういうことだ。捕まれば、私もお前も同罪ということだな」
エンデルクの声には、面白がっているような響きがある。
「はああああ、脅かさないでくださいよ・・・」
ほっとしたダグラスは、息をつくと、背後の石壁にもたれかかった。
かすかなきしみの音が、ダグラスの耳に届く。
それは、危機を察知する本能的な反応だった。
わずかな違和感を感じてダグラスが身を起こしたとたん、それまで身をもたせかけていた壁と床の一部ががらがらと崩れ、闇の中へ落ちていった。
「うわっ!」
「大丈夫か、ダグラス」
エンデルクが近寄り、覗き込む。
崩れた壁と床があったところには、人ひとりが通り抜けられるくらいの穴が、ぽっかりと口を開けていた。
冷たく湿っぽい風が、かすかに吹き出してくる。内部はなぜか、ぼんやりと明るいようだ。
エンデルクは、鋭い目で穴の向こうの気配をうかがっているようだったが、やがて独り言を言うようにつぶやく。
「ふむ・・・。これは、放っておくわけにはいかぬな」
「行きますか、隊長」
「うむ」
シグザール王室騎士隊きっての勇士ふたりは、顔を見合わせてうなずき合った。
ふたりとも、賭けのことも罰ゲームのことも忘れ去っていた。