戻る

君には見えない


「ありがとうございました。また来てね」
ルイーゼのにこやかな声に見送られて、エリーはアカデミーのショップのカウンターを離れる。今日は、しばらく前から作りためていた月の粉を売却に来たのだ。
歩きながら、受け取った代金を財布に入れようとして、ふと眉をひそめる。 いつも使い慣れている銀貨の中に、金色に光るコインが1枚混ざっているのだ。

(あ・・・、また違うおかねが混ざってる。これって、教えてあげた方がいいのかなあ)
ロビーで立ち止まり、しばらく頭を悩ます。
(本当は、教えて返してあげた方がいいんだろうなあ。でも、この前そう言った時、ルイーゼさん、すごく悲しそうな顔をしちゃったし・・・。どうしようかなあ・・・シグザール金貨って、調合の材料にもなる貴重品だし・・・)
なかなか決断が下せないでいると、背後から声がかかった。
「あら、エリーじゃない。何ぼんやりと突っ立ってるのよ。通行の邪魔よ」
「あ、アイゼル」
振り返ると、同期生のアイゼルが、腰に手を当ててあごをつんと上げ、エリーをにらんでいる。しかし、すぐにアイゼルのエメラルド色の瞳は笑みを浮かべた。言い方はきついが、これがアイゼルのいつもの調子なのだ。

入学した当初は、理由もなくいやみを言われたりして悩んだこともあるエリーだったが、3年も付き合えば、お互いのこともわかってくる。最近は、エリーがアイゼルの部屋へ行って錬金術の話に花を咲かせたり、アイゼルがエリーの工房にアイテムの依頼をしに来るようにもなっていた。
同級生で学年主席のノルディスなど、たまにエリーが独りでいると「あれ、アイゼルは一緒じゃないのかい?」と聞くほどだ。
「そうだわ、あなたが読みたがっていた参考書、手に入ったのよ。今なら貸してあげてもよくってよ。さあ、あたしの部屋にいらっしゃいよ」
と言うと、アイゼルは先に立って寮棟の方へずんずん歩いて行く。エリーの都合など、お構いなしだ。
「あ、待ってよ、アイゼル〜」
エリーがあわてて後を追う。結局、金貨はエリーの財布の中に収まることになってしまった。

「まあ、それであなた、そのまま持って来ちゃったわけ? あきれた人ね。それってネコババじゃなくって? 本当にしようのない人ね。いくら貧乏だからって・・・」
まくしたてるアイゼル。
(だって、人が悩んでる時に、アイゼルが強引に連れ出しちゃうから、返しそびれちゃったんだよ・・・)
エリーは心の中でつぶやいたが、口に出すのは止めた。
「それはあなたの意志が弱いからでしょ!」と言い返されるに決まっているからだ。
とはいえ、金貨のことを話したのは、アイゼルにお説教をされるためではない。

「ね、ねえアイゼル、あたしのことはもういいから、本題に戻ろうよ。ルイーゼさんのことに」
ふかふかしたアイゼルのベッドに腰掛けたエリーは、高級な羽根布団の感触を楽しみながら、隣に座ったアイゼルに話しかける。
「え? ああ、そうだったわね。なんでルイーゼさんが、あんなによくお釣を間違えたりするのか、という話だったわね」
「そう。あたしたちも困るけれど、ルイーゼさんがいちばん悩んでるはずだよ。アカデミーからも、叱られるんじゃないのかなあ」
アイゼルが実家からわざわざ取り寄せたという参考書『貴族たちの優雅な生活』を借りるためにアイゼルの部屋に来たエリーだが、話題はすぐにルイーゼのことに移っていたのだった。

「あの人って、アカデミーの卒業生とは言っても、2年も留年しているっていうじゃない。結局、性格がとろいのよ。こればかりは、治らないんじゃなくって?」
「だけど、前にイングリド先生が言ってたよ。ルイーゼさんって、基礎知識の試験はいつも満点だったって。ただ、調合が苦手だから、いい成績が取れなかったらしいよ」
アイゼルのきつい言い方に、ついルイーゼの肩をもつエリー。だが、アイゼルの舌鋒は衰えを知らない。
「それよ、それ。調合が苦手だったら、いくら知識があったって、何にもならないじゃないの。やっぱり性格よ、性格。それ以外に考えられないわ」
「そうかなあ・・・」
エリーは考え込む。

その時、部屋のドアが軽くノックされた。
「は〜い、開いてま〜す」
と応えたエリーが、はっと口をつぐむ。つい自分の工房にいるつもりで、返事をしてしまったのだ。
そんなエリーを横目でにらむアイゼルだが、ドアをそっと開けた訪問者が誰か気付くと、さっと立ち上がり、出迎える。

「やあ、アイゼル。・・・エリーもいたんだね。部屋を間違えたのかと思っちゃったよ」
入って来たのは、エリーの同級生、ノルディスだった。いつものように、小脇に難しそうな分厚い本を抱えている。
「この前、アイゼルが話していた、ヘルミーナ先生が授業でやってみせたというオリジナル調合なんだけど、その調合法のヒントになりそうな記事を見つけたんで、持ってきたんだよ」
「え、本当? あ、ありがとう、ノルディス」
アイゼルはノルディスにソファを勧め、あたふたとお茶を入れる準備をする。

(アイゼルったら、声のトーンがいつもと全然ちがうよ・・・)
と、思わず笑みをもらすエリーに近付くと、アイゼルは小声で言う。
「何ぼさっとしてるのよ。あなたもティーカップを出すくらい手伝いなさいよ!・・・あ、いいのよ、ノルディス、お客様なんだから座っていて」
(じゃあ、あたしはお客様じゃないっていうの? そりゃ、あたしとノルディスでは「お客様」ランクが全然違うんだろうけど・・・)
と、エリーの独白。

「そうか・・・。そう言えば、ぼくに思い当たることがあるよ」
アイゼルが入れなおしたミスティカティをすすりながら、エリーが話題をルイーゼのことに戻した時、ノルディスが思い出したように言った。
「ルイーゼさんって、目が悪いんじゃないかと思うんだ」
「え、目が? あんなに大きくて、きれいな瞳なのに」
といぶかるエリーに、アイゼルのきつい一言が返る。
「ばかね、あなたは。見た目と中身は全然関係がないのよ」

一瞬、黙り込んだエリーだが、気を取り直して、
「で、でもノルディス、どうしてそう思うの?」
「実は、こんなことがあったんだ。寮でぼくの向かいの部屋にいる1年生なんだけど、彼が以前、友達に『アカデミーショップのお姉さんは自分に気があるにちがいない。いつも買い物をするたびに、なにか言いたそうにじっと見つめられるんだ』と嬉しそうに話していたんだ。
ところが、つい先日、その1年生がしょげて帰ってきてね。どうやら思いきってルイーゼさんをお茶に誘ったらしいんだけど、相手にもされなかったらしい。『じゃあ、あの意味ありげな視線は何だったんだ!?』と騒いでいたけどね」

「ふうん・・・そんなことがあったんだ」
「つまり、ルイーゼさんは、目が悪いから、自分でも意識せずに相手をじっと見つめてしまうんじゃないかと思うんだ」
「そうか、それで、その1年生は、ルイーゼさんの視線の意味を誤解して・・・」
「あははは、ばかみたい。でも、なんとなくかわいい気もするわね、新入生らしくて」
笑うアイゼルの傍らで、エリーは小声でつぶやく。
「そう言えば、アイゼルも、よく誰かのことをじっと見つめているけど・・・あわわ」
耳元まで真っ赤になったアイゼルに両手で口をふさがれ、続けられなくなってしまう。
それに気付いたのか気付かないのか、ノルディスはゆっくりとお茶を飲み干すと、にっこり笑って、
「一度、ルイーゼさんに確かめてみた方がいいかも知れないね。それからアイゼル、参考書は置いて行くから、わからないことがあったら、いつでも聞きに来て。それじゃ、ぼくは部屋に帰るよ」
そっとドアを閉め、出ていくノルディス。

「そ、それじゃ、あたしもそろそろ・・・」
後を追うように立ち上がるエリーの服の裾を、アイゼルがぐいとつかむ。
「あ・な・た・は、お茶の後片付けをしていきなさい。もう、本当に、さっきは心臓が止るかと思ったわ。ノルディスの前で何を言い出すかと思えば・・・」
「だったら、さっさと告白しちゃえばいいのに」
「それが簡単にできたら、苦労しないわよ。あなたはいいわね、気楽で」
言い合いながらも、二人は仲良く並んでティーカップと皿を洗う。

片付けを終えると、エリーはアイゼルから借りた参考書をかかえ、
「それじゃ、これは借りて行くね。1週間くらいしたら、返しに来るから」
「いいわ、あたしの方から取りに行くわよ。ちょうど、あなたにお願いしておいた星の砂の期限もその頃だし、それと一緒に受け取ることにするわ」
「(ぎく)・・・え、星の砂?」
「まさか、あなた、忘れてたって言うんじゃないでしょうね」
「あ、あははは、まさか、そんなわけないじゃない。やだなあ。ちゃんと、用意しておくから。そ、それじゃね」
と、エリーは足早に部屋を出て行く。
ひとりになったアイゼルは、座って机に頬杖を突き、窓からザールブルグの空を見上げて、ため息をついた。

エリーは、寮棟の廊下を出口に向かいながら、思っていた。
(しまった、アイゼルの依頼をすっかり忘れてたよ・・・。星の砂か、材料、あったかなあ。ショップで買っていかなくちゃだめだね、きっと)
そのまま、ショップのカウンターに向かう。
客の姿はなく、カウンターの影でルイーゼが一心不乱に本を読みふけっている。

「こんにちは、何を読んでいるんですか」
エリーの声にルイーゼは顔を上げ、微笑む。
「あら、いらっしゃい。今、読んでいたのは、星の本よ。ザールブルグからは見えない、南の方の星座について書かれた本なの。けっこう面白いわよ」
「でも、ここって、あまり明るくないじゃないですか。こういう薄暗いところで読んでいると、目が悪くなりませんか?」
エリーの問いに、ルイーゼは顔をくもらせる。

「そうね・・・きっと、そのせいで、目が悪くなったのかもね。だからなのかしら、この前もお釣を間違えちゃったし」
「眼鏡は、かけないんですか? よく見えるって話ですけど」
「実は、持っているのよ。でも、先輩たちにさんざん笑われて、絶対かけないことに決めたのよ。これはもう、意地みたいなものね」
「え、そうなんですか。どんな眼鏡なんですか」
「え、見たいの? だめよ、部屋の机の奥に隠してあって、誰にも見せないことにしているの」
「はあ・・・」
思いがけず、かたくななルイーゼに、エリーはどうすることもできず、材料を買って帰るしかなかった。


1週間後の夜。
「ふう、すっかり遅くなっちゃったわ。エリー、いるかしら」
アイゼルは、明りがもれるエリーの工房のドアをノックする。依頼していた星の砂と、参考書を取りに来たのだ。
「は〜い、開いてま〜す」
中から聞こえるエリーの声に、ドアを開ける。
が、工房の中の空気がいつもと違う。
作業台のところで、エリーが妖精のひとりと向き合っている。どうやら言い争っていたような雰囲気だ。

エリーは振り向き、アイゼルに気付くと、同意を求めるように言う。
「あ、アイゼル、いいところに来てくれたね。アイゼルからも言ってやってよ。ピコが、言うことを聞いてくれないんだよ」
ピコというのは、エリーの前にいる緑の服を着た妖精の名前らしい。

ピコは激しく首を横に振って、
「だって・・・だめですよ。採取や調合だったら、できることは何でもしますけど、お姉さんがやれって言ってるのは、泥棒じゃないですか」
「違うわよ、黙ってちょっと借りてくるだけだって、さっきから言ってるでしょ」
「世間では、それを泥棒って言うんじゃないでしょうか。それに、もし見つかったら・・・」
「それは大丈夫よ。絶対見つからないように、こうしてアイテムも用意したんだから」
「でも、やっぱり・・・」

そばで聞いているアイゼルには、さっぱり話がのみこめない。
「ねえ、アイゼルはどう思う?」
エリーが真剣な目をして聞く。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。さっぱりわけがわからないわ。最初から説明してくださらないこと?」
アイゼルがあわてて言う。エリーは、それもそうだと思い直して、作業台の方に椅子を引き寄せ、アイゼルに勧める。ピコは作業台の上にちょこんと座って、涙目で、ふたりを交互に見ている。

「・・・そんなわけで、やっぱりルイーゼさんは、目が悪かったのよ」
「そう。ノルディスの推測が当たっていたわけね。さすがね」
「で、何とかしてあげたいと思ったんだけれど、どうしていいかわからなくて・・・。で、ルイーゼさんの眼鏡を実際に見てみれば、なにかいい考えが浮かぶかも知れないと思って」
「それで、妖精を使ってこっそり盗み出そうと思ったわけ? あきれた人ね」
「だって、何回頼んでも、ルイーゼさん、うんと言ってくれないんだもん」
「でも、見つかったりしたら、厄介なことになるんじゃなくて? まあ、あなたが全責任を負うんでしょうから、あたしには関係ないけど」

「そこは大丈夫。以前に調合で作ったけど、使い道がなくてしまってあった『デア・ヒメル』装備を出してきたんだよ」
と、エリーは作業台を指す。そこには、参考書では見たことがある、靴と手袋と指輪のセットが置いてあった。昔、ザールブルグを騒がせたという神出鬼没の怪盗デア・ヒメルが身につけていたというアイテムの、レプリカだ。
「この指輪で透明になれるし、靴と手袋を着ければ素早さも倍増だし、ばっちりだよ」
「んま、こんなものまで作っていたなんて・・・」
アイゼルはあごに手を当てて考え込む表情になったが、やがて、緑色の瞳に笑みが宿り、小さなため息をつく。
「ほんとに、あなたって、とんでもないことを考え付く人ね。でも、ルイーゼさんの眼鏡がどんなものかは、あたしも見てみたいわ」

エリーの目にも、わが意を得たり、といった表情が浮かぶ。そして、エリーとアイゼルは、申し合わせたかのように、作業台の上のピコに視線を合わせる。
おびえて後ずさりするピコ。
「妖精というのは、雇い主の命令には絶対服従ではなかったこと?」
アイゼルの、氷のような視線と声が、ピコを貫く。
「・・・え、え〜と、そ、それは・・・」
口ごもるピコに、アイゼルは容赦なくたたみかける。
「どうなの? はっきりなさい!」
「は・・・はい」
「だったら、つべこべ言わず、エリーの言うことを聞きなさい! いいこと!」
目に涙をいっぱい溜めたピコは、首振り人形のように何度もうなずく。
アイゼルはエリーを振り向くと、(あとは任せたわよ)というふうに、軽くうなずいてみせた。

エリーは、麻痺したように動かないピコに歩み寄ると、そっと頭をなで、語りかける。
「ね、お願いよ、ピコ。これは、人助けなんだから。それに、なにかあったら、全部、あたしとアイゼルが責任を持つから」
「ちょっと待ちなさいよ。なんで、あたしまでが責任取らされるのよ」
「ここまで来たら、アイゼルも共犯者だよ。でも大丈夫、ピコなら絶対に失敗しないから」
「本当かしら」
と、焼け焦げの痕が目立つピコの服を、うさんくさげにアイゼルが見やる。
エリーはピコをかばうように言う。
「心配いらないよ。・・・でも、万一のことがあるかも知れないから、アイゼルも一緒に行こうよ。どっちみち、帰り道でしょ?」
「もう、なんでこうなるのよ!・・・わかったわよ、勝手になさい」


そして、真夜中。
エリーとアイゼルは、アカデミーの中庭の片隅に立つ大木の下にいた。この大木は、アカデミーの事務棟に寄り添うように立っており、大きな枝が建物に向かって張り出している。
ルイーゼの部屋は事務棟の最上階にあり、ちょうどその部屋の窓が、枝から手の届くところにあるのだ。今の季節、窓は涼風を入れるために開け放されている。

「今、どのあたりかしら?」
声をひそめ、アイゼルがささやく。
エリーはじっと頭上を見上げる。
「よくわからないけど、あのスピードからすると、そろそろ窓のあたりに着くんじゃないかな」
「もう、早く帰って来ないかしら。二度とこんなことに付き合わされるのはごめんだわ」
「そんなこと言って、アイゼルったら、けっこう楽しそうじゃない」
「ばかなこと言わないで。あなたと、あの鈍くさい妖精だけでは心配だから、来てあげたのよ」

そんな会話が下で交わされている間に、ルフトリングをはめて透明になったピコは、幾重にも重なる葉や小枝をかき分けて、大木を登って行く。身に付けたデア・ヒメル手袋と逃げ足の靴のおかげで、いつになく身体が軽く感じられる。だが、心は軽くなってはいなかった。
(なんでこんなことばかりやらされるんだろう。ぼく、なにか、悪いことしたのかな・・・?)
「森へ、森へ帰りたい・・・」
つぶやきながら葉叢を抜けると、水平に伸びた枝の先が、開いた窓に触れ合わんばかりになっているのが見えた。
(あそこが、お姉さんが言っていた部屋の窓かな?)
器用に枝を伝って、窓のそばまで行き、そっと中をうかがう。薄いカーテンが風に揺れるその奥は暗く、動くものの気配はない。

これからやろうとしていることを考えると足がすくむ。が、エリーの(これは、人助けなんだから・・・)という言葉を思い出し、思い切って窓枠を乗り越える。窓のすぐ内側には机が置いてあり、その脇にベッドがある。ベッドに横になった人影は、金髪の頭を壁の方に向けており、静かな寝息が聞こえてくる。
ピコは椅子を押して行ってその上に立ち、机の引き出しを開けて、中をそっと調べる。
(あった・・・!)
ふたつ目の引き出しから目的のものを見つけ出すと、ピコはほっとして、その品物を背中のかごに入れた。
(さあ、早く帰ろう)
急いで部屋を出ようとした拍子に、机の端に置いてあった本を蹴飛ばしてしまった。本は床に落ち、大きな音を立てる。ピコは凍り付いたように動かなくなる。

「ふにゃ?」
ベッドの方で声がし、ルイーゼが半身を起こそうとする。
「なあに? 誰か、いるの?」
窓辺で凍り付いたまま、ピコは必死に頭を働かせた。よく考えてみれば、指輪のために透明になっているのだから、そのまま逃げてしまえば良かったのだが、パニック寸前だったピコはそれに気が付かない。
今にもルイーゼは起き上がってきそうだ。

ピコは、腹を決めた。落ち着こうと努力し、声を出す。
「・・・これは、夢です」
「え、夢?」
半分寝ぼけ声で、ルイーゼが答える。
「そう、だから、安心して、おやすみなさい」
「そう・・・そうね」
ルイーゼは、そのまま元の姿勢に戻り、寝返りを打つと、本当に寝入ってしまった。

ピコは、脱兎のごとく窓を飛び出すと、転がるように枝を伝って降りて行く。
「あっ!」
あと少しというところで足を滑らせたピコは、そのまま葉や小枝と一緒に落下し、待ちくたびれて座り込んでいたアイゼルの膝の上に着地した。
「きゃああっ!」
びっくりして思わず大声を上げるアイゼル。
一瞬の後。
事務棟の1階にある宿直室に、明りが点った。
事情を理解したエリーは、透明なままになっているピコを横抱きにし、アイゼルの手を引いて、寮棟の方に走り出した。

その晩、宿直をしていた講師が耳にしたという叫び声の正体は、結局わからず、アカデミー七大怪談のひとつ『深夜の悲鳴』として名を残すこととなった。

1時間後、寮棟のアイゼルの部屋。
足が痛いのびっくりしたのと、不平たらたらのアイゼルをようやくなだめたエリーは、ピコのかごから戦利品を取り出した。
「これが、ルイーゼさんの眼鏡・・・」
ひとめ見たエリーが、目を丸くする。ベッドの上でぶつぶつ言っていたアイゼルも、思わず身を乗り出してきた。

まん丸のレンズは分厚く、牛乳瓶の底のようにうっすらと渦巻き模様が透けて見える。そして、フレームは真っ黒だ。
「やだあ、センスない!」
「それに、これって、ものすごく度が強くなくて? ちょっとエリー、かけてみなさいよ」
「え、あたしが?」
「当たり前でしょ。こんなことをやり始めたのはあなたなんだから」
「うん・・・わかったよ」
と、エリーはルイーゼの眼鏡をかけてみる。

とたんに、当たりの景色が一変した。
「なに、これぇ・・・!」
壁に掛かった趣味のいい風景画や、調合道具が並んだ作業台、きれいに飾られたベッドとそこに座ったアイゼル、部屋の隅でいじけているピコ・・・。それらすべてが歪み、ぐるぐる回る。ちょうど、祝福のワインを飲み過ぎた時のようだ。立っていられず、床にうずくまる。
「き、気持ち悪い・・・」
がまんできずに目を閉じたエリーの耳に、アイゼルの声が飛び込んでくる。

「あはははは、何よ、その顔、お、おかしい〜! もう、勘弁して・・・」
エリーが眼鏡を取り、そちらの方を向くと、ベッドから転げ落ちそうになって笑っているアイゼルが見えた。ようやく笑いやむと、アイゼルは笑いすぎて出てきた涙をぬぐいながら、息を切らして言う。
「やっと、わかったわ。これじゃ、ルイーゼさんもかけたくないわけだわ」
そんなアイゼルに、エリーは黙って眼鏡を差し出す。

「え、何・・・? あなた、まさか今度はあたしにかけろって言うの?」
「それはそうだよ。あたしだって、見る権利はあるはずだよ」
「そんな、あははは、これかけた自分を想像しただけで・・・あははは、ああ、おかしい、がまんできないわ」
再び笑い転げるアイゼルに、エリーは無理矢理ルイーゼの眼鏡をかけさせた。 アイゼルが顔を上げる。
ふたりの立場が入れ代って、同じ場面が繰り返された。

しばらくして、エリーとアイゼルは真剣な面持ちで顔を見合わせていた。作業台の上には、ルイーゼの眼鏡が置かれている。
「で、どうするの、エリー?」
「う〜ん。どうしようか。ルイーゼさんがお釣を間違わないようにするには、この眼鏡をかけてもらわないといけないんだけど・・・」
「でも、これでは、絶対にかけないわよ」
「そうだよね。どうしたらいいんだろう」
「眼鏡を見れば、なにか考えが浮かぶだろうって言ったのはあなたでしょ! 早く考えなさいよ」
「そんなこと言ったって・・・」

「何よ。それじゃ、今夜の苦労はまるっきり無駄骨だったってことじゃない。もう、あんなにびっくりしたのは初めてよ」
と、アイゼルはピコを見やる。ピコはもう『デア・ヒメル』装備を外し、いつもの緑妖精の姿に戻っていたが、おずおずと顔を上げ、
「で、でもおかげでぼくは、けがをしなくて済みました」
と、アイゼルに向かって頭を下げる。
「お礼を言われる筋合いはなくてよ。それにしても、ほんとに驚いたわ。目に見えない妖精が落ちて来るなんて、思ってもいなかったんですもの」
ピコに頭を下げられたアイゼルは、少し機嫌を直したようで、口調もやわらかになった。

ふと、エリーの目が光った。
「そう、それよ!」
「え、どうしたの、エリー」
「見えなければいいのよ!」
「それ、どういうこと?」
「わからない? ルイーゼさんの眼鏡よ。見えなければいいんじゃない」
「だって、眼鏡って、ものを見るためのものなのよ。見えない眼鏡なんて、意味がないじゃない」
「もう、じれったいなあ、違うよ、眼鏡をかけているところが、人の目に見えなければいいんだよ」
「あ、そうか・・・。でも、いったいどうやって?」
「それをこれから考えるんだよ。ルフトリングと同じような材料を使えば・・・」
「そうね、だったら、加工しやすいように・・・」
エリーとアイゼルは、夜が明けるまで相談を続けた。


そして、1週間後の早朝。
アイゼルは、自分が準備する約束になっている材料を持って、エリーの工房を訪れた。
「来たわよ、エリー」
「あ、アイゼル、待ってたよ。例のものは、持って来てくれた?」
「当然でしょ。おかげで1週間がまるまるつぶれちゃったわ。これで失敗したら許しませんからね」
「大丈夫・・・だと思うよ」
「頼りないわね。本当に、あたしがいないと、何にもできないんだから。いいわ、始めましょう」
「うん、そうだね。ピコ、あなたも手伝って」
と、エリーは作業台に向かい、ランプに火を入れる。アイゼルも肩を並べて乳鉢を手に取る。

ふたりが考え出したオリジナル調合の作業が始まった。ふたりの指示を受け、ピコが走り回る。
ガラス器具が触れ合う音、炎を強めるふいごの音、時折響く爆発音・・・。
そして、1日が過ぎた。

「あ、できた、できた、できましたよ」
ピコがはしゃいだ声を上げる。
「どうやら、うまくいったようね」
アイゼルがほっと息をもらす。
「うん、これならバッチリだよ」
と、目を輝かせるエリー。
3人の目の前に置かれたガラス瓶の中には、銀白色をした、水銀のように粘性の高い液体が溜まっていた。

「それじゃ、まず実験してみるよ」
と、エリーは、筆を取り、その液体をたっぷりと含ませると、作業台の上に置いた木切れにゆっくりと塗り付ける。
最初のうちは、木切れは銀色の塗料を塗られただけのようだったが、塗料が乾くにつれて輪郭がぼやけていき、最後にはすっかり見えなくなってしまった。
「やったあ!」
息を詰めて見つめていたエリーとアイゼルは、一緒に叫び、抱き合って喜ぶ。
足元では、踏まれそうになったピコが作業台の下へ逃げ込んだ。

翌日。
エリーとアイゼルは、連れ立ってアカデミーのショップを訪れた。あたりに他の学生がいないことを確かめると、ふたりはそっとルイーゼに話しかける。
「あら、揃ってどうしたのかしら?」
ルイーゼがいつものように微笑んで迎える。
「あの、今日は、ルイーゼさんにプレゼントしたいものがあって・・・」
と、エリーはその品物を取り出し、カウンターに置く。昨日作ったばかりの塗料を塗った、ルイーゼの眼鏡だ。全部を見えなくしてしまうと不便なので、弦の部分だけ、塗り残してある。
ルイーゼは、きょとんとしている。
「え、何なの? プレゼントなんて、どこにも見えないけど」
「説明するのはめんどうね。ルイーゼさん、ちょっとこっちを向いてくださらないこと?」
と、アイゼルは透明眼鏡を手に取り、そのままルイーゼにかけさせる。

ルイーゼは目を丸くし、何度かまばたきする。
「あら、どうしたのかしら、はっきり見えるわ。目が悪くなる前みたいに・・・」
「どうですか、あたしたちが作った眼鏡は・・・」
「え、これ、眼鏡なの? でも、あたし、眼鏡はかけないって・・・」
「これでも、いやですか」
と、アイゼルが手鏡を差し出す。そこに映った自分の顔を見たルイーゼは、不思議そうに目の周りを探ってみる。
「おかしいわね。感触はあるのだけれど、目には見えないわ」
「これなら、笑われることもないですよ。それに、お釣も間違えないで済むし・・・」
嬉しそうにエリーが言う。それを聞いたルイーゼの表情も、ぱっと明るくなった。
「そうね。ありがとう。嬉しいわ」
「そうだ、ついでに買い物していきます。国宝虫の糸と・・・」
ルイーゼはいそいそと品物をカウンターに置き、釣り銭をエリーに手渡す。

「さあ、用も済んだし、あたしの部屋へ来なさいよ。この前の参考書の続編が手に入ったのよ」
と、アイゼルがエリーの袖を引っ張る。エリーは黙ってついて行ったが、寮棟の入口で立ち止まると、手のひらを差し出す。
「アイゼル、これ・・・」
それは、さきほどルイーゼが手渡した釣り銭だった。そこには、たくさんの銀貨に混じって、1枚のシグザール金貨が燦然と輝いていた。
泣いていいのか、笑っていいのか、複雑な表情のエリー。アイゼルはひとつため息をつくと、
「だから、最初に言ったでしょ。やっぱり性格なのよ、性格」
マントをひるがえすと、先に立って自分の部屋へ向かう。肩をすくめたエリーが、首を振り振り、後に続く。

ドアが開き、閉まる音が寮棟の廊下に響いた。

<おわり>


<付録>

−<君には見えない・レシピ>−
結界石2.0
鍾乳石2.0
液化溶剤2.0
中和剤(赤)1.0
ガラス器具・乳鉢を使用


○にのあとがき>

「カスターニェ買い出し紀行」に続いて書いた、ルイーゼさんネタの第2弾だったのですが。
ルイーゼさんは片隅に追いやられ、エリー&アイゼルの友情物語になってしまいましたね〜。

最初は、登場人物はルイーゼさん、エリー、ピコの3人だけの予定でした。
ところが、最初の場面を書いている時に、いきなりアイゼルが割り込んできて・・・。
あとは、ご覧の通り。

ここでは、エリーとアイゼルの交友値は、ほぼ100に近いです。告白イベントもとっくに終わって「応援するよ」状態ですね。

それにしても、ごめんね、ピコ。またいじめちゃって(お約束?)。

タイトルの「君には見えない」は、本編でエリーとアイゼルが調合するオリジナルアイテムの名前です。
ハレッシュさんや、例の「彼」が依頼してくるお薬のことではありません。名前が似ていますが、誤解なきように。

こんなふうに、キャラクターが一緒に調合して、ひとりでは作れないアイテムを作る、という設定がゲームにあってもいいのでは、という気がしました。


戻る