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〜120000HIT記念リクエスト小説〜

『彼』の決意 Vol.1


Scene−1

「・・・ということだ。次に――」
あの人の訓示は、いつも簡潔だ。余計な言葉など口にしなくとも、ひとつひとつの言葉に十分すぎるほどの重みがある。そして、ぼくはあの人の言葉をひとことでも聞き漏らすまいと耳を傾け、低いがよく通る声音を心に刻みつける。引き締まった口元から時おりのぞく白い歯に心を奪われ、刺し貫くような鋭さをたたえた黒い瞳が、ぼくの上に少しでも長く視線をとどめてくれることを願う。
夕刻のシグザール城。昼番と夜番の騎士隊員が交代する時間だ。
昼番のぼくは、上級聖騎士のひとりとして、謁見室の警固に当たっている。ヴィント陛下の下を訪れる外国の使節やザールブルグの貴族、ギルドの代表者などは、謁見室に入るまでに幾重にもチェックされるので、不届き者が陛下やブレドルフ殿下を襲うような事件が起こることはまずない。1日中、重い聖騎士の鎧に身を包み、不動の姿勢で待機しているのは名誉な役目だが、退屈だとひそかに愚痴をこぼす騎士もいる。だが、ぼくは決してそんなことはない。
だって、謁見室には、いつもあの人の姿があるから。
もちろん、あの人は陛下やモルゲン卿の用事で外出することもあるし、時にはザールブルグ市民の護衛として街の外へ出かけることもあるらしい。しかし、それ以外の時は、あの人はいつも謁見室の周囲でにらみを利かせている。
そして、ぼくの視線はついついあの人を追ってしまう。
陛下と密談しようとしてかがみこんだ時に額にかかった黒髪を払うしぐさ。何ものをも見逃さない冷徹な光をたたえた黒い瞳。手甲と肩当ての隙間からのぞく、黒い肌着に包まれたたくましい腕――。
そう、ぼくは蒼く輝く聖騎士の鎧の下にかくされた、あの人のたくましい身体を知っている。まだ騎士見習いだった頃、訓練を終えた先輩の聖騎士たちの筋肉をほぐすマッサージをするのが、新入りのぼくらの仕事だった。そしてある時、ぼくは王室騎士隊長をマッサージする役を割り当てられたのだった。
一目惚れ――だったのかも知れない。
そう・・・。ぼくは、恋に落ちてしまった。
あれから、もう何年が経っただろう・・・。
「――以上だ」
あの人の声に、ぼくははっと我に返った。
夕刻の訓示が終ると、昼番の騎士は宿舎に引き上げ、夜番の騎士が配置につく。
ぼくは、第一分隊長となにやらささやき交わしているあの人を何度も振り返り、後ろ髪を引かれる思いで、他の昼番の騎士たちに混じって宿舎へ向かう。
ふた月あまり先に迫った武闘大会についてや、最近ひそかに流れているヴィラント山に出没するという火を吐く怪物の噂話、若い騎士たちが出入りする酒場の女給の品定めなど、同僚や後輩たちのとりとめのない会話が耳に入ってくるが、ぼくの心は再びあの人の下へ飛んでいる。
――ああ、エンデルク様。
こうして心の中であの人の名前をつぶやくだけで、胸が苦しく、やるせない気持ちでいっぱいになる。
笑わないでくれ。誰かを本気で好きになった経験がある人だったら、ぼくの気持ちはわかってくれるだろう?
ぼくの心の内が表情に出てしまったのだろうか、追い越しざまに振り向いた若い騎士が変な顔でぼくをまじまじと見た。が、彼はすぐに目をそらし、真面目くさった顔ですたすたと歩み去る。
もちろん、ぼくが――、その・・・エンデルク様を慕っていることは、周囲にはバレバレだと思う。だが、そのことで面と向かって冷やかしたり、ぼくを変態呼ばわりする者はいない。もっとも、陰で何を言っているかはわからないけれど。
誤解しないでほしい。このたったひとつの点だけを除けば、ぼくは他の者と変わらない、優秀な聖騎士なんだ。でなければ、騎士隊でも精鋭が集まる謁見室警固隊に配属されるはずがない。
血筋だって立派なものだ。ぼくの一族は、シグザール王国建国の時代から王室に仕えてきた由緒ある血筋で、代々、王室騎士隊に優秀な人材を送り込んでいる。20年ほど前、ぼくが生まれたばかりの頃、騎士隊に所属していた叔父も、ぼくと同じように謁見室の警固を務めていたそうだ。決してたくましくはないが均整の取れた身体と、さらさらの金髪に、自分で言うのも口幅ったいけれど端麗な顔立ちは、一族にずっと受け継がれてきたものだ。
もっとも、この血筋に息づいているのがそれだけでないことは、みんなもわかるだろう。つまり・・・その、男なのに男の人を愛してしまうという性癖も、ぼくの一族が昔から受け継いできた特徴らしいのだ。幸いなことに、そういう特徴が顕れるのは一世代にひとりいるかいないかという程度なので、一族の血が絶えることはなかった。
くだんの叔父も、当時、騎士隊の副隊長だったウルリッヒ様――つまり今の騎士隊特別顧問モルゲン卿に、かなわぬ想いを抱いていたらしい。
ああ、一度でいい、エンデルク様に――。
「あっ!」
またぼうっと白昼夢にひたってしまっていたのだろう、ぼくは正面からすごい勢いでやって来た誰かにどしんとぶつかられてしまった。よろめいて、あわてて踏みとどまる。
「おっと、悪ぃ! ――あ、いや、失礼しました」
ぞんざいに謝った後、ぼくが先輩だと気付いてぎこちなく丁寧に謝り直したのは、若手聖騎士のダグラスだ。ダグラスは太く男っぽい眉毛をつり上げ、肩をそびやかしてじろりとぼくをにらむ。
「でも、ぼんやり歩いてるあんたも悪いんだぜ」
「あ、ああ、そうだな、すまない」
ダグラスは口は悪いが、悪気があるわけではない。もともと一本気で、形式ばったことが苦手な性格なのだ。だから、年下の彼になれなれしい口をきかれても、それほど腹は立たない。
ダグラスは若手ではナンバーワンの実力者だと言われている。まだ経験が浅く、礼儀作法に問題があるため、城門の警固や王室広報の配布といった雑用をやらされているが、剣の腕は侮れない。いや、正直に言ってしまえば、ぼくよりもはるかに上だ。荒削りで隙も多いが、ツボにはまった時の強さはエンデルク様も認めているほどだ。現に、昨年の武闘大会では並み居る強豪をなぎ倒し、決勝進出を果たしている。ぼくはと言えば、騎士隊内部の予選で敗退してしまったというのに。
「非番になったと思ったら、もう練習かい」
ダグラスが手にした鍛錬用の模擬刀を目にして、ぼくは言った。
「ああ、武闘大会まで、もう間がないからな。今年こそ、隊長をぶっ倒して、俺が優勝してやるんだ」
にやりと不敵な笑みを浮かべて、ダグラスは訓練場の方へ行ってしまった。
(ぼくだって、エンデルク様を倒したいよ、ダグラス・・・)
心の中でつぶやき、ついその場面を想像して赤面してしまう。ダグラスが言ったこととは、意味が違うのだが・・・。

つい先日のことを思い出す。
ダグラスと親しくしているらしい、ある女の子のことだ。田舎から出てきて、アカデミーに補欠入学し、『職人通り』に店を開いて自活しながら錬金術の勉強をしているという。
エリーという名のその女の子は、今年に入った頃から、頻繁に謁見室を訪れるようになっていた。どうしたわけか、庶民にはなかなか手に入らない通行許可証を入手したらしい。人なつっこい性格らしく、ぼくたち警固の聖騎士にも、おじけることなく話しかけてくる。もちろん、勤務中の私語は厳禁だから、返事をする者はいないが。・・・あ、いや、何度かは、ぼくがあの人の名前をつぶやくところを聞かれてしまったかも知れない。
エリーが錬金術士だということを耳にして、ぼくは一計を案じたのだ。
錬金術を極めれば、不可能は可能になり、無から有を創り出すことができるという。錬金術がもたらす様々な魔法の道具の中には、人の心を自由にできる薬もあるらしい。
ぼくは、さりげなくエリーに尋ねてみたのだ。
「『惚れ薬』というものが、手に入らないだろうか」
もちろん、相手が誰かなどということは、口が裂けても言えない。
即答せず、思い悩んだ顔で帰っていったエリーは、何日かしてやってくると、きっぱりと言った。
「もちろん錬金術なら『惚れ薬』を作ることはできます。でも、薬で人の心を操るようなことは、良くないと思います。あたしにはできません」
彼女の意見がもっともなことだというのは、理性ではわかった。でも、正直ぼくは落胆し、同僚から身体の具合でも悪いのかときかれる始末だった。

宿舎の自分の部屋へ戻ると、狭いベッドにひっくり返って、石の天井を見上げる。
枕の下に、ひそかに手に入れたエンデルク様の肖像画を隠していることは、誰にも知られたくないぼくの秘密だ。
目を閉じて、あの人の姿を思い浮かべる。
ああ、ひとことでいい、あの人に――エンデルク様に、言葉をかけてもらいたい。
騎士隊の一員に対する、上司から部下への命令ではなく、あの人個人としての言葉・・・。
愛のささやきなんて贅沢は言わない。ぼくを部下ではなくひとりの男として認めてくれる、そんな言葉がほしい。
まずはお友達から・・・と、誰かが言っていなかっただろうか?
(今年こそ、隊長をぶっ倒してやる・・・)
とりとめのない思いをめぐらしていると、不意に、さっき聞いたダグラスの言葉が胸によみがえってきた。
それと共に、昨年の武闘大会の決勝後の場面が思い出されてくる。もちろん、ぼくはなんとかして当日の会場警備の任務を同僚に代わってもらい、観客席の最前列からエンデルク様を応援していた。健闘むなしく、精根尽き果てた状態で敗れたダグラスに、エンデルク様は手を差し伸べて引き起こし、めったに見せない笑みを口元にかすかに浮かべて、ふたことみことささやきかけていた。
もちろん、愛の言葉などであったはずがない。
だけれど、それを見ていたぼくは、ダグラスに猛然と嫉妬したことを覚えている。
そのことが、まるで昨日のことのように脳裏に浮かんだのだ。
そして、いつの間にか、その場面では、ダグラスの代わりにあの人に助け起こされているのは、ぼく自身になっていた。
「――そうか!」
ぼくは跳ね起きた。
あの人に認めてもらうには、やはりダグラスのように、剣の実力を示すのが一番の早道だ。もし、今度の武闘大会で、ぼくが決勝に進出し、エンデルク様を相手に――勝つなんて贅沢は言わない、一太刀でも浴びせることができれば、あの時のダグラスのように、あの人に優しくしてもらえるかも知れない。
――よし、やってやる!
だが、ここで冷静さが戻って来る。
どうやったら、ぼくが決勝へ進出できるというのか。
騎士隊員は、誰しも自分の腕を天下に示したいと思っている。しかし、武闘大会は大きなイベントだけに、騎士隊の全員が出場しようものなら、会場警備や大会運営が成り立たなくなってしまう。そのため、事前に騎士隊内部で予選会を行い、それを勝ち抜いた少数の者だけが本大会に出場できるのだ。その意味では、当日、受付を済ませれば誰でも出場できる冒険者などと比べると、格段に条件は厳しいと言える。
もちろん、前年度の優勝者は無条件で出場の権利があるから、あの人は別格だ。
つまり、少なくともあの人と同じ戦いの場に立つ権利を得るためだけでも、騎士隊内部の厳しい予選会を勝ち抜かなければならないのだ。その予選会まで、あとひと月足らず。
もちろん、それなりに戦える自信はあるけれど、武闘大会についてはこれまでダグラスのように真剣に取り組んだことがなかったので、結果は運次第としか言いようがない。確実に勝ち抜くためには、どうしたらいいのだろうか。
しばらく考えていたぼくは、やがて心を決めた。
良くないことかも知れないが、やはりこれしか方法はなさそうだ。
明日、非番になったら彼女のところへ行ってみることにしよう。


Scene−2

翌日――。
城門を出たぼくは、中央広場を横切って左に曲がり、狭い石畳の道を人々が忙しげに行き交う『職人通り』へと足を踏み入れた。
『職人通り』はザールブルグの下町に当たり、商店や酒場が立ち並ぶ、もっともにぎやかで庶民の活気にあふれた場所だ。下級騎士だった頃はよく巡回に来ていたものだが、最近は足が遠のいていた。久しぶりなので迷ってしまうのではないかと不安に思っていたが、しばらく歩くとすぐに赤いとんがり屋根が目に入った。
非番の騎士が街をぶらぶら散歩しているのだ、というようなさりげない風を装って、ぼくはその建物に近づく。風に揺れる木彫りの看板に、『エリーのアトリエ』と記されている。
(自然体で行け。こんなところはいつも来慣れているというように振舞うんだ)
気にするなと心に言い聞かせても、つい必要以上に人目を意識してしまう。それはやはり、これから依頼しようとしていることに関して、ぼくの心に一抹の後ろめたさが残っていたからだろうか。
立ち止まり、ノックをしようとした時、不意に扉が開いて、大柄な人影が出てきた。
酒場にたむろしている冒険者のひとりだと、ひと目でわかる。たくましい筋肉質の身体つきで褐色の髪を短く刈り上げ、軽鎧に真っ赤なマントをはおっている。どちらかと言えばぼくの好みのタイプだが、あの人の足元にも及ばない。
その青年は、目を伏せ、ぶつかりかけたぼくの姿も目に入っていないようだ。がっくりと肩を落とし、絶望しきった様子でとぼとぼと去っていく。丸めた背中が思いのほか小さく見えた。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気分になったが、ここへやって来た目的を忘れてはいけない。ぼくは、勇気を奮い起こして、閉まりかけた扉に手をかけ、中へ入った。
錬金術の工房というのは、見るのも初めてだったし、来る前にいろいろと想像もしていたのだが、それとは少し違っていた。おとぎ話に出てくるような魔女の秘密の部屋のような場所かと思っていたが、そんなおぞましい雰囲気はない。確かに、部屋の隅にある大きな釜からは得体の知れない湯気が立ち上っているけれど、作業台に並んだ道具は少しも妖しいものではなく、窓から差し込む日の光にきらめいている。壁際の棚に目を移すと、薬のびんや爆弾に混じって、見たこともない品々が並んでいる。
ぼくはしばらく、初めての場所を訪れた子どものように、きょろきょろと室内を見回していたらしい。
とげを含んだ若い女性の声に、ふと我に返る。
「――何度来ても、だめなものはだめなんですよ。そう言ったでしょう、ハレッシュさん」
「え? ぼくは――」
きょとんとして、ぼくは作業台の向こうから姿を現した小柄な女の子に問い返そうとした。いつもシグザール城にやって来る時と同じ服装をした錬金術士のエリーは、不機嫌そうな顔でぼくをにらんだが、すぐにはっと表情が変わる。
「あ、ごめんなさい。わたし、てっきりハレッシュさんが戻って来たんだとばかり・・・。すみません、早とちりしちゃって。ええと、なにかご用ですか?」
人違いをしたとわかって恥ずかしかったのだろう、エリーはやや頬を染めて、照れくさそうに笑みを浮かべて見せた。ぼくは、勇気がくじける前に、一気に言ってしまおうとする。
「あ、あの・・・。そうなんだ、ちょっと、お願いがあって――」
「はい」
「ええと、その・・・。強くなれる薬を作ってくれないか。お金はいくらでも出すから」
言い終わると、ぼくは大きく息をついた。
言ってしまった・・・。
ひと月先に迫った武闘大会の予選会で確実に勝ち、本大会へ出場するためには、錬金術の力を借りるしかない。ぼくはそう思ったのだ。『惚れ薬』が作れるなら、短期間に体力を増強して剣の腕前を上げ、強くなれる薬だってできるに違いない。
あとは、彼女の返事を待つばかりだ。
居心地の悪い沈黙が、工房にたれこめる。
ぼくは、この後のことをいろいろと想像していた。「そんなものはありません!」と冷たく断られるところから、「はい、これでいいですか」とあっさりと目的のものを渡される場面まで。
しかし、エリーの反応は、ぼくが想像していたどれとも違っていた。
「あなたもですか・・・?」
肩をすくめ、小さくため息をつくと、彼女はあきれたようにぼくを見た。
「ぼくも・・・って、どういうこと?」
ぼくはぽかんとして問い返した。
「たった今、ハレ――いいえ、冒険者の人が同じことを依頼してきたので、お断りしたばかりなんです」
「そうなのか・・・」
先ほど工房へ着いた時、肩を落として去っていった赤マントの大柄な冒険者の姿を思い出した。彼の落胆した背中がありありと思い浮かぶ。
「そうか、やっぱり錬金術でも強くなれる薬というのはできないんだね」
自分に言い聞かせるようにぼくはつぶやいた。やはり、無駄足だったか・・・。
「違います!」
エリーは鋭い口調で言い返した。つかつかと棚に歩み寄ると、ガラスのびんを取り上げて、ぼくに突きつける。びんの中には赤と茶の錠剤のようなものが入っている。
「これは『力の素』という薬です。これを飲めば、力が強くなって攻撃力も防御力も上がります。でも、武闘大会で優勝したいからなんていう人に売る気はありませんから」
エリーはきっぱりと言った。ふだんシグザール城で見かけるにこやかな表情とはまったく違う、真剣な顔つきだ。栗色の瞳が炎を放っているように見える。
「え・・・? どうしてわかるんだい。ぼくが武闘大会に――」
「ハレッ――さっきの冒険者の人が言っていましたから。その人、好きな女性がいるんですけど、お父さんに交際を反対されているんだそうです。武闘大会に優勝しなければ、付き合いを認めるわけにはいかないって・・・。だから、錬金術で手っ取り早く強くなれる薬はないかって」
「みんな、考えることは同じなんだな・・・」
つぶやいて、ぼくははっと顔を上げた。かあっと血が顔に昇る。
これではまるで、ぼくが好きな人のために武闘大会で優勝したがっていると告白したも同然ではないか。
だが、エリーは気付かなかったようだ。怒りを抑えつけたような口調で続ける。
「でも、わたし、お断りしました。その依頼を受けるわけにはいきませんって。そんな・・・ズルをして勝ったとしても、恋人は喜びませんよって。男だったら――、いえ、男も女も同じですけど、自分の力で正々堂々と闘わなくちゃ。そうすれば、たとえ負けたとしても、きっと気持ちは通じます。そうじゃありませんか?」
口をつぐむと、エリーはじっとぼくを見た。
「でも、『恋は盲目』って言うからね・・・」
言い訳するように、ぼくは言った。まだ心のどこかで、泣きついてでも土下座してでもなんとかエリーを説き伏せて、その『力の薬』を分けてもらえないだろうかと考えていたのだ。
「そんなことをしたら、他の、一生懸命努力している人が報われませんよ・・・」
悲しそうにエリーが言った。淡々とした口調だけに、ぼくは胸がえぐられたような気持ちがした。
「わたしも、アカデミーへ入学した頃、そんな風に思ってました。みんなはすごく知識があって、調合も上手にできるのに、わたしはどんくさくて失敗ばっかり。友達になりたいと思った相手にも冷たくされて、何もかもうまくいかなくて――」
エリーは、遠くを見るような目で窓の外を見やった。
「でも、そんな時、ある人が励ましてくれたんです。『はじめは誰もが無力だ、だが努力しろ、夢は追いかけていれば、いつか必ずかなう』って。わたしの夢は、まだまだ途中だけど、少しは近づいたのかなって思っています。苦しい時、挫折しそうになった時、この言葉を思い出すと、またがんばろうという気になれるんです」
エリーはそう言って、じっとぼくの顔を見た。真剣な眼差しをした彼女は、とても大きく見えた。
ふっとその顔が和み、恥ずかしそうに目を伏せる。
「すみません、わたしみたいな小娘が、聖騎士さんにお説教みたいなことをして・・・」
「い、いや、いいんだ」
ぼくは、あの人の顔を思い浮かべていた。
いつもあの人の姿を追ってきたぼくにはわかっている。あの人が、皆が寝静まった夜中に人知れず鍛錬に励んでいることを。闇の中で剣を振るい続ける、あの人の息づかいや飛び散る汗に、胸をときめかせたものだ。あの人が成し遂げた、武闘大会12年連続優勝という偉業は、絶えざる努力の賜物なのだ。
「ありがとう、大切なことを思い出させてくれて」
「へ?」
きょとんとするエリーに、ぼくはうなずいて見せた。
「ぼくが間違っていたよ。薬の力に頼って勝ったとしても、あの人は喜ばない」
「あの人・・・」
つぶやいて、エリーははっとし、目を伏せた。
「あ――」
もちろん彼女は、あの人に対するぼくの気持ちを知っているのだろう。もしかしたら、ダグラスにあることないこと吹き込まれているかも知れない。
だが、エリーは何も言わないでくれた。
いささか気まずくなったぼくは、お詫びとお礼もそこそこに、工房を出た。
しかし、心は晴れ晴れとしていた。
予選会まであとひと月。
それまでどう過ごせばいいか、ぼくにははっきりとわかっていた。

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