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〜5周年アンケート御礼リクエスト小説<卯の花さまへ>〜

パメラのザールブルグ放浪記 Vol.1


Scene−1

ふわふわふわ・・・。
青い空を、真っ白な雲が流れていく。
ふわふわふわ・・・。
はるか前方、西の地平線に、赤黒い岩肌をむき出しにした険しい山が、次第に悪魔めいた不吉な姿を現してくる。しかし、魔の山と呼ばれるヴィラント山ですら、今は懐かしく暖かな風景に感じられる。
ふわふわふわ・・・。
眼下には、なだらかにうねる緑の大地が広がっている。北へ目を移せば、雪と森林の国カリエルへと連なる針葉樹林帯があおあおと大地をおおいつくしているのが見える。
ふわふわふわ・・・。
緑の大地に、ぽつんと人工的な建物が見えてくる。かつてはシグザール王国の辺境を守る要だったベルゼンブルグ城も、時の流れに侵食されて、きらびやかな白亜の城から灰色がかった廃墟へと変貌を遂げてしまっている。
ふわふわふわ・・・。
進行方向の南側では、曲がりくねるストルデルの流れが大地を割って瀑布となる。その大いなる流れを追って行けば、もう間もなく見えてくるはずだ。何物にも代えがたい素晴らしき故郷、ザールブルグが。
ふわふわふわ・・・。
ほんの何人かの親しい人だけに別れを告げ、旅立ってから、もう何年が経ったことだろう。錬金術士としての自分を見つめなおし、自分だけの力で何が成し遂げられるのかを確かめる――ただそれだけのために、いったんは過去を振り捨てて見知らぬ土地へ渡った少女は、こうして帰って来た。間違いなく、一回りも二回りも成長を遂げて・・・。
ふわふわふわ・・・。
もうすぐ、懐かしい人たちに再会できる。両親、ヘルミーナ先生、エルフィール、アカデミーで共に学んだ学友たち、酒場に集う冒険者たち、そして、かけがえのないただひとりの人・・・。
何度も読み返して、そらんじて言えるまでになってしまったノルディスからの手紙を、そっと握りしめる。
ふわふわふわ・・・。
錬金術士アイゼル・ワイマール。グラムナートの小国カナーラントの辺境の村でひとりの少女と出会い、錬金術の手ほどきをした。そして、初めての弟子とも言えるヴィオラート・プラターネの成長を手助けし、見守り、冒険を共にして、ヴィオラートの故郷カロッテ村の復興を後押しした。
ふわふわふわ・・・。
ザールブルグの貴族であるワイマール家の長女でもない。アカデミー講師ヘルミーナの、お気に入りの弟子でもない。かつて学術都市ケントニスを訪れた『旅の人』のように、旅の錬金術士としてカロッテ村に錬金術を根付かせた。そればかりではなく、グラムナート全土を震撼させた大事件の収拾にも一役買うことになった。
ふわふわふわ・・・。
もちろん、あの事件が解決できたのは、平和を愛するすべての人が力を合わせたからに他ならない。はるかなザールブルグからの応援、フィンデン王国の冒険者たちの粘り強い努力、過去からもたらされた思いもよらぬ魔法――どれひとつが欠けても、世界はまったく違ったものになってしまっていたろう。もちろん、自分という存在が欠けても・・・。
ふわふわふわ・・・。
事件の片がついてからも、カロッテ村にとどまり続けた。愛弟子の成長と行く末を見届けるために。
「一緒に旅をしてみない?」
この質問に、ヴィオラートは首を横に振った。
「今は、村をもっともっと繁栄させたいから」
しかし、彼女はこうも言った。
「でも、いつか、時が来たら――」
その時が楽しみだ。
ふわふわふわ・・・。
そして、ある日、アイゼルはカロッテ村に別れを告げた。『空飛ぶじゅうたん』に乗って。
「帰りたくなったら、使うといい。ふふふ」
意味ありげな笑みと共に、師が残していってくれたものだ。
船と馬車を乗り継ぐよりも、何倍も速く故郷へ帰れる。
ふわふわふわ・・・。
穏やかな日差しを浴び、涼やかな風を切って宙を行くのは、本当に気持ちがいい。
『空飛ぶじゅうたん』にぴったりと寄り添うようにして飛んでいる、その姿さえなければ。
ふわふわふわ・・・。
「ああ、もう! いつまでくっついて来るのよ! 落ち着いて考え事もできないじゃない!」
栗色の髪を振り乱し(風が強いので、整えようとしてもむだなのだ)、アイゼルは叫ぶ。しかし、相手はどこ吹く風だ。
ふわふわふわ・・・。
「あら、だって、『ついて来てもいい』って言ったじゃない?」
200年前のグラムナートで流行したクラシックなドレスと髪飾りをまとい、ごていねいに日傘を広げた長い髪の少女は、ころころと笑う。アイゼルと違って少女の髪は風に乱れることもなく、日傘が風の抵抗を受けている様子もない。何よりも異様なのは、彼女の身体を通して、向こうの景色がかすかに透けて見えることだ。
ふわふわふわ・・・。
「あ、あたしはね、『勝手にしなさい!』って言ったのよ。『来てもいい』なんて言ってませんからね!」
「そうね、でも『来るな』とも言わなかったわよね。だから、勝手について来たのよ。だって、楽しそうじゃない? うふふ」
ふわふわふわ・・・。
ああ、確かにそうだった。なぜ、あの時きっぱりと拒否しなかったのか。『口は災いの元』とはこのことだ。
カロッテ村を発つ準備をしていた時、壁からすうっと出てきたこの少女が、こう言ったのだ。
「ねえ、あたしもザールブルグって街へ行ってみたいわ。この前は、お仕事をしただけで、ゆっくりできなかったし」
びっくりして、落ち着いて考えをまとめる余裕もなく、彼女をその場から追い払いたい一心で、「勝手になさい」と言ってしまったのだ。
ふわふわふわ・・・。
「わかったわよ、ついて来るのはかまわないから、そんなに近くに寄って来ないでよ! あたしは――幽霊とか怪談とか肝試しとか、苦手なんだから!」
「あら、幽霊が怖いっていうのは、心が素直な証拠よ」
「幽霊にほめられても嬉しくないわよ! ねえ、パメラ、お願いだから、あたしの目の前でふわふわしないで!」
ほとんど悲鳴だ。
ふわふわふわ・・・。
「は〜い。じゃあ、背後でふわふわするわね」
「そ、それはもっとダメぇ!!」
パメラ・イービスは、200年前のフィンデン王国で普通に生活していたらしい。その後、本人も詳しい状況は覚えていないそうだが、若くして死んで幽霊となり、成仏できないまま首都のメッテルブルグ中心部の宿屋の一室に取り憑いていた。だが、好奇心旺盛なパメラは部屋を訪れた錬金術士と仲良くなり、冒険の旅を共にしたり店番までやってのけるようになった。
アイゼルも、例の事件の時に、否応なくパメラと知り合わざるを得ない状況に置かれてしまった。その後も、物怖じしないヴィオラートがカロッテ村までパメラを連れて来てしまい、縁を切ることができないでいるのだ。
ふわふわふわ・・・。
(もう! ザールブルグに帰ってまで、こんな風につきまとわれるなんて、冗談じゃないわ)
はっと気付き、パメラを振り向く。
「あなた、ザールブルグへ着いたら、どうするつもりなの?」
「えっと、そうねえ・・・」
パメラは上目遣いに考え込む。
「やっぱり、錬金術士さんのところに、お世話になろうかしら。楽しいことがいっぱいありそうだし。うふふ」
「あ――あたしのところはダメよ!」
声がひっくり返る。
ふわふわふわ・・・。
「う〜ん、じゃあ、どうしようかしら? ヘルミーナさんのところは、ちょっと怖いし」
「そ、そうね。ヘルミーナ先生なら、幽霊だって実験材料にしてしまいそうだしね・・・そうだわ!」
アイゼルの顔がぱっと明るくなる。エメラルド色の瞳がきらりと光った。
「パメラ、あなたにぴったりの宿があってよ」


Scene−2

シグザール王国の王都ザールブルグは、暖かな午後の日差しに包まれている。
城壁から少し離れたところで『空飛ぶじゅうたん』を下りたアイゼルは、外門から街へ入ると、すたすたと一直線に『職人通り』へ向かった。門を入ってすぐに出会った少年に小銭を与え、丸めた『空飛ぶじゅうたん』をアカデミーまで運んでくれるように頼んでおく。こんなにかさばるものをかついで街中を歩くわけにはいかない。
お昼時の喧騒も影をひそめ、朝や夕方には家と職場を行き来する職人や買い物に出かけるおかみさんたちでごったがえす『職人通り』も、ひとときのまどろみに沈んでいるかに見える。
アイゼルは、そばを滑るように動いていくパメラには見向きもしない。だが、パメラには、空を飛んだり壁をすり抜けたりして町の人を驚かさないよう、あらかじめ言い含めてある。これまでのところ、パメラも言いつけを守って、おとなしくしているようだ。ザールブルグの威容に圧倒されているのかも知れない。
本来なら、『空飛ぶじゅうたん』に乗ったまま、真っ先にアカデミーへ駆けつけたいところだ。誰よりも逢いたい相手が、そこにいる。ノルディスは相変わらず実験室で調合に没頭しているか、図書室で難解な書物を読みふけっていることだろう。
(あまり根を詰めていなければいいけれど・・・)
アイゼルは思った。カロッテ村でヴィオラートからレシピごと買い取ってきた育毛剤が、荷物の中に忍ばせてあるのを思い出す。今すぐに必要になるということはないだろうが、『転ばぬ先の杖』とも言う。もっとも、渡すのは武器屋の親父で実験して、効果を確認してからにしよう。そのために、余計に買い込んできたのだ。
それよりもまず、はるばるグラムナートからくっついて来た疫病神を厄介払いしなくては。
数年も離れていたにもかかわらず、『職人通り』の風景は少しも変わっていない。雑然とした家並み、少々荒っぽいが人情味にあふれた住人たち、昼間から酔っ払った冒険者の歌声――懐かしい空気がアイゼルを包み、思わずこみ上げてきた想いをあわてて抑えつけた。
涙をこぼすのは、あの人に逢った時だ。それまで無駄にしてなるものか。
酒場『飛翔亭』の前を通り過ぎ、鋳掛け屋カロッゾの店の角を曲がると、赤いとんがり屋根の工房が目に飛び込んでくる。
「あ、目的地はあそこね」
物珍しそうにあたりをきょろきょろ見回していたパメラが、工房に目をとめて、声を上げる。
「へ? どうしてわかったの?」
驚いて尋ねるアイゼルに、パメラはさも当然というように答える。
「あら、だって錬金術の香りがするもの」
そういえば、水と金属と火薬と土と植物のごった煮のような独特のにおいが、空気の中にかすかに感じられる。
「もう、エルフィールったら、相変わらず掃除もせずに散らかしてるんでしょうね」
アイゼルはくすっと笑って、勢いよく工房に歩み寄った。
10年以上も前から変わらない、風雨にさらされて年季が入った木彫りの看板が揺れている。
――『エリーのアトリエ』
それを見ただけで、おびただしい思い出が、堰を切ったように心にあふれてくる。
どんな顔をして、彼女に会ったらいいだろう。照れくさくて絶対に口に出しては言えないけれど、心の底からそう思っている、かけがえのない親友に。
親友だからこそ、幽霊を預かってくれなどという常識外れのわがままも言えるのだ。
様々な思いに埋もれて身動きが取れなくなってしまわないうちに、アイゼルは強くドアをノックした。
「は〜い、開いてま〜す」
明るく元気の良い声が返ってくる。昔のままだ。
深呼吸し、思い切ってドアを大きく引き開けると、アイゼルはエリーの工房に足を踏み入れた。

オレンジ色の錬金術服に身を包み、へんてこな輪っかの帽子をかぶった小柄な姿が、雑多な調合道具が置かれている作業台から顔を上げ、ぽかんとしてこちらを見つめている。
アイゼルも一瞬、感極まった。だが、あわてて咳払いをし、つんと目をそらして、わざと気取った口調で言う。
「お久しぶりね、エルフィール。相変わらず散らかった――」
最後まで言えなかった。エリーが歓声をあげ、ぶつかるように抱きついてきたからだ。
「アイゼル! 無事だったんだね! 帰って来たんだね! アイゼル!」
「ちょ、ちょっと、何するのよ! やめてよ、恥ずかしいじゃない!」
アイゼルがもぎ放そうとしても、エリーは背中に回した手を緩めない。ぎゅっと力をこめ、久しぶりに会った親友の感触を確かめている。
「アイゼル・・・。ほんとにアイゼルなんだ・・・」
「もう、わかったわ、わかったから、放してよ。苦しいじゃない」
王室主催の武闘大会で決勝進出を果たしたこともあるだけに、エリーの腕力は見かけより強い。本当に息ができなくなりそうで、アイゼルは懇願口調になった。心の片隅で、ノルディスもこういう反応をしてくれるだろうかと考えたが、どこか冷静な頭で、望み薄だと判断する。
エリーはようやく身を放すと、我に返ったのか、照れくさそうに下を向いた。
「どう、気が済んだ?」
アイゼルも照れくささを隠すために、冷たい口調を装う。
「あ、あはは、ごめんね、アイゼル。でも、いきなり帰って来るんだもの。びっくりしちゃって、嬉しくって、つい・・・」
「本当に、あなたらしい子供っぽい反応ね」
「アイゼルも、相変わらずだね。あ、でも・・・」
エリーはふと気付いたように、一歩下がってアイゼルの全身をながめた。アイゼルの錬金術服はザールブルグにいた当時とあまり変わってはいないが、多少は大人っぽいデザインになっている。
なにか褒め言葉が出てくるのかと期待したが、それは見事に裏切られた。
「アイゼル・・・。ちょっと太ったみたい」
「な、何を言い出すのよ!」
過去に他にも何人かから同じ事を言われたことがあるのはおくびにも出さず、アイゼルは大きなエメラルド色の目でにらみつける。
「レディに対して失礼じゃない! そりゃ、少しは体重は増えたかも知れないけれど、成長したって言ってほしいわね。それに――」
お返しとばかりにエリーに流し目をくれ、
「ちっとも胸が成長していないあなたよりは、よっぽどましだと思うけど」
「あ、ひどいなあ」
エリーは恨めしそうな目を向けたが、怒ったふりにも限界があった。
次の瞬間、ふたりは顔を見合わせ、工房の床にぺたんと座り込むと、手を取り合って心の底から楽しそうに笑い出したのだった。

「あ、あの・・・」
背後から聞こえる声に気付いたのは、ひとしきり笑い合ってからだった。
「あ、いらっしゃいませ!」
急にエリーがぴょこんと立ち上がり、お辞儀をする。いつの間にか、クラシックな服装の少女が日傘を手に立っていたのだ。客だと思ったのだろう。
アイゼルも、ようやくパメラのことを思い出した。
「違うのよ、エルフィール。こちらはグラムナートからザールブルグを見学に来た、パメラよ」
「パメラです。よろしく〜」
にっこりすると、パメラはころころ笑った。
「あ、アイゼルと一緒に来たんだ。エルフィール・トラウムです。こちらこそよろしく」
「エルフィールさんね。錬金術士さんは大好きよ、うふふ」
「エルフィールじゃなくて、エリーでいいよ」
「わかったわ、エリーさん。しばらくお世話になります」
パメラはぴょこんと頭を下げる。
「へ? お世話って?」
きょとんとするエリーに、アイゼルはあわてて説明する。
「あ、あのね、エルフィール。本当は、あたしがパメラの面倒をみてあげなければいけないのだけれど、ほら、あたしはザールブルグに帰って来たばかりで、身の周りの整理もあるし、挨拶回りもしなければならないし、いろいろと忙しいのよ。だから、ヒマなあなたならいいかと思って。しばらくの間、パメラをあなたの工房に置いてあげてくださらない?」
「えええ? あたしだって、ヒマなわけじゃないんだよ」
「何よ、妖精さんがひとり増えたと思えばいいじゃない」
「妖精さんと人間とは違うよ。ベッドだって、うちにはひとつしかないし」
「あら、あたしだったら、ご心配なく。ベッドの上に浮いて寝るから」
「へ? 浮いて?」
目を丸くするエリーに、パメラは平然と、
「寝室は2階なのかしら?」
と、ふわふわと浮かび上がる。
そして、そのまま天井に溶け込むように消えていった。
「へ? え? なに、今の――?」
エリーは凍りついたように、目を見開いて天井を見つめている。アイゼルは額に手を当て、諦めたように大きくため息をついた。
「ああ、もう! ごめんなさい、最初に言っておかなければいけなかったわね。パメラは幽霊なのよ」
ミスティカティを淹れてエリーを落ち着かせ、アイゼルはパメラと出会ってからのいきさつを簡単に説明した。
「だからね、パメラはユーディットさんやヴィオラートとも一緒に住んでいたことがあるし、錬金術士には慣れているのよ。大丈夫よ、調合の邪魔をしたり、迷惑もかけないと思うから――」
「そうじゃなくて。向こうが錬金術士に慣れていても、あたしが幽霊に慣れてないんだよ・・・」
エリーが情けない声を出す。早く用事を済ませてアカデミーのノルディスのところへ駆けつけたいアイゼルは、業を煮やしてきつい口調で言った。
「何よ、親友の頼みが聞けないの? こんなことを頼めるのはあなたしかいないと思って、真っ先にここにやって来たっていうのに」
言ってしまってから、アイゼルははっと顔を赤らめる。思わず、普段なら言えない言葉を口に出してしまったのだ。
この言葉に、エリーはにっこりと笑顔になる。
「うん、頼りにしてくれて嬉しいよ、アイゼル。わかった、パメラさんはいくらでもうちにいていいよ」
「ありがとう、エルフィール」
肩の荷を下ろしたせいか、アイゼルも素直にお礼を言う。
「それじゃ、あたしはそろそろ――」
「あ、そうだね。ヘルミーナ先生や、いろんな人に挨拶しなきゃいけないもんね」
「そうなのよ、いつまでもこんなところで油を売ってはいられないわ」
「アイゼル、嬉しかったよ。真っ先に会いに来てくれて」
「そうよ、あたしとしては、すぐにでもアカデミーへ行きたかったのよ。それをわざわざ――」
「でも、そうだよね。今、アカデミーへ行ってもノルディスは留守だもんね」
「そうよ、ノルディスは留――。・・・何ですってぇ!?」
アイゼルの声がひっくり返った。エリーがきょとんとする。
「え? 知らなかったの? ノルディスは古い薬学の文献を研究しに、何ヶ月も前からケントニスのアカデミーへ行っているんだよ」
「あ――あたしが知るわけないじゃない!」
「グラムナートを発つ時、手紙を出せばよかったのに」
「船と馬車で手紙が届くのよりも、『空飛ぶじゅうたん』で帰って来る方が早いと思ったのよ!」
アイゼルはこぶしを握り締め、厳しい顔で考え込んでいた。以前のアイゼルなら、ノルディスの不在という思いがけない事態に茫然自失して、泣き叫ぶだけだったかも知れない。しかし、グラムナートでの長い旅で鍛えられたアイゼルは、すぐに前向きに方策を考え始めた。
口元をきつく結び、エリーを振り向く。
「エルフィール! 妖精さんを貸してちょうだい」
「へ?」
「ああ、もう、鈍くさいわね! ケントニスへいちばん早く連絡を取るには、妖精さんを送るしかないでしょ? 費用はあたしが払うから!」
ケントニスは、遥かな西の海を渡った先にあるエル・バドール大陸東岸の学術都市だ。ザールブルグ錬金術の発祥の地でもある。錬金術を医薬に応用して人々を救いたいと考えているノルディスが、研究のためにケントニスへ滞在しているのも当然と言えよう。ケントニスとザールブルグとの間は、定期船と馬車を経由した郵便が行き来しているが、片道数ヶ月はかかる。その点、どこへでも瞬時に移動する能力を持った妖精なら、一瞬で手紙やメッセージを届けることができる。もっとも、要求される報酬はべらぼうなものなので、めったに利用されることはない。
「え、ええと・・・」
相手の言うことが十分に飲み込めず、目を白黒させているエリーに、たたみかけるようにアイゼルは続ける。
「妖精さんはどこにいるの?」
その問いに、エリーがはっとして天井に目をやる。
「たいへんだ! 2階でピコがひとりで休憩しているんだよ。パメラさんを見たら――!」
ピコは、エリーがアカデミーの新入生だった頃から雇っているお手伝い妖精だ。今は紺妖精にまで出世しているので、腕は確かなのだが、極端に気が弱い。いきなり幽霊のパメラに出会ったら、気絶するだけでは済まないかも知れない。
エリーはあわてて、工房の隅にある狭い階段を駆け上がった。アイゼルも後に続く。
「ピコ! 大丈夫? ピコ!」
呼びかけながら2階の狭い寝室に飛び込んだエリーは、あんぐりと口を開け、目を見張った。アイゼルはあきれたようにため息をつき、肩をすくめる。
古風なドレスをまとった少女がふわふわと宙に浮き、鈴の音のような笑い声を上げて、くるくると舞っている。床では紺色の服と帽子姿の男の子が、楽しそうに回転ダンスを踊っている。
エリーには初めてだが、アイゼルにとっては、何度もヴィオラートの店で見慣れた光景だった。
「あら〜? アイゼルさんもエリーさんも仲間に入る? 楽しいわよ、うふふふ」
ふわりと床に下り立ったパメラは、嬉しそうに紺妖精を見やり、にっこりする。
「それに、こんなところで妖精さんに会えるとは思わなかったわ」
「ピコ? 怖くないの?」
おそるおそるエリーが尋ねると、回転ダンスをやめたピコが楽しそうに、
「ええ、幽霊さんとボクたち妖精族は、親戚みたいなものですから」
「へ? そうなの?」
「まあ、どっちも人間離れしているところは共通しているわね。だから気が合うんじゃないかしら」
きょとんとするエリーに、アイゼルは軽くうなずいた。グラムナートでも、パメラと変てこな妖精パウルは、妙に意気投合しているようだった。
「あ、そういえば、エリーさんも、どこかあたしたちに似たところがあるみたい」
パメラがぽつりと言った。
「へ?」
再び目を丸くするエリー。背後でアイゼルはひくりと身を震わせた。パメラが敏感に感じ取ったのは、エリーの血筋に潜む、本人も知らないあの秘密のことなのだろうか。
「と、とにかく、その妖精さんを借りるわよ!」
あわてたようなアイゼルの声に、エリーはひざまずき、ピコに声をかける。
「ピコ、急で悪いんだけど、ケントニスまで行って、アカデミーにいるノルディスにメッセージを届けてほしいの。できるわよね」
「ええっ!」
大きく目を見開いたピコは、目をうるませ、不安げに身を震わせる。いつもの反応なので、エリーは気に留めない。
「いいこと、メッセージはこうよ。『アイゼル帰郷、すぐ戻れ』――。わかった!?」
アイゼルは叩きつけるように言う。
「は、はいっ! 行って来ます!」
あわててピコは駆け出すと、そのまま壁にぶつかりそうになる瞬間、虹色の光に包まれて消えた。まるで、一刻も早くアイゼルの前から逃げ出したいかのように・・・。
「あらら、妖精さんも、大変ねえ・・・」
ベッドの上にふわりと浮かんだパメラが、のんびりとつぶやいた。


Scene−3

翌日の午後――。
「それじゃ、あたしはちょっと『飛翔亭』に納品に行ってくるから、お店番をお願いね」
「は〜い、いってらっしゃ〜い」
「そのあと、もう何ヶ所か回らないといけないけれど、遅くはならないと思うから。よいしょっと」
大きな包みを抱えて工房を出て行くエリーを、パメラは手を振って見送った。
アイゼルと違って、肝試しもまったく平気なエリーは幽霊を怖がることもなく、すぐにパメラと仲良くなった。
パメラから聞く異国の話はとても面白く、昨夜も寝室でつい夜更かしをして話し込んでしまったほどだ。
だから、パメラを店番に残して出かけるのも不安ではなかった。なにしろ、パメラはカロッテ村でも錬金術士の手伝いで何度も店番の経験があるというのだ。
「ただし、お客さんを脅かしたりはしないでね」
「その点は大丈夫よ、うふふ」
しかし、パメラが店番を務めた時のヴィオラーデンの売り上げ状況を知っていたら、エリーもそれほどのほほんとはしていられなかっただろう。
幸い、この時間帯はそれほどお客が来ることもない。
パメラはふわふわと工房の中をさまよいながら、調合器具や様々なアイテムを興味深そうにながめて回った。幽霊だから直接触れることはできないので、不用意に落として壊してしまう心配もない。
「ふうん、こっちでは中和剤にいろんな色があるのね。あら、これは何かしら。ピンク色で、とってもきれい。本当に、珍しいものばっかりね。こんな道具は、ユーディットさんやヴィオラートさんも使っていなかったわ」
その時、不意にドアが強くノックされた。
「あら、お客様だわ」
パメラはドアのところまで行ったが、もちろん自分で開けることはできない。
「いらっしゃいませ〜。『エリーのアトリエ』へようこそ〜。ドアは開いてますよ〜」
それに応えるように、ドアが大きく引き開けられた。
青い鎧に身を固めた若者が、つかつかと入ってくる。
「おい、エリー、仕事を頼みに来てやったぜ! あれ、誰もいねえのか?」
工房の中をじろりと見回し、ぞんざいな口調で言う。男らしい精悍な顔つきをしており、きりりとした眉の下の青い瞳は力強く、自信にあふれている。
(あら、いい男。好みのタイプだわ。・・・いいえ、この人こそ、あたしの運命の相手よ)
パメラは思った。眉毛のあたりが、グラムナートにいた自称“妖精族最強の戦士”パウルによく似ているが、その辺は気にしないことにする。とにかく、この人とお近づきになるチャンスだ。
「いらっしゃいませ〜」
パメラは飛びっきりの笑顔で、ダグラス――もちろん、やって来たのはシグザール王室聖騎士隊第一分隊長ダグラス・マクレインだ――の正面にふわりと立った。
「エリーさんは、あいにくお留守なんですけど、ご用件はあたし、パメラが承ります。何でもおっしゃってくださいね」
「エリー、おい、エリー! ――ちっ、留守かよ」
「ですから、あたしがお店番を頼まれていて――」
「ったく、鍵も掛けずに、無用心なやつだな。妖精のひとりぐらい、留守番に置いとけってんだ」
「あ、あの〜?」
まったく話がかみ合わない。
ダグラスはもう一度舌打ちして、くるりと背を向けた。
「しゃーねえ、出直して来るとすっか」
「ああ、待ってください!」
ふわりと飛んで出口に立ちふさがったパメラをあっさりと突き抜けて、ダグラスはすたすたと出て行ってしまった。
後には、パメラだけが、ぽつんと立ち尽くしていた。
「ふう・・・。やっぱり、こういう運命なのね。あたしが好きになるのは、霊感が少しもない人ばかりなんだわ」
悲しげにパメラがつぶやく。カロッテ村でもそうだった。ヴィオラーデンで店番をしている時に、店を訪れたヴィオラートの幼馴染ロードフリードに心を奪われ、何度も話しかけたのだが、ロードフリードは微塵も気付いてくれなかった。
霊感のない人には幽霊は見えない。これは厳然たる事実だった。
「あ〜あ、つまんない」
パメラはふと顔を上げた。顎に指を当てて上目遣いに考え込んでいたが、やがてぱっと顔が明るくなる。
「そうだわ、恋に破れた乙女には、新しい恋が必要なのよ。街へ出れば、さっきの人みたいな素敵な男性がたくさんいるはずだわ! あ、でも・・・」
再び考え込む。
「お店番を放り出して、ふわふわ出かけるわけにはいかないわよね。まず、エリーさんを見つけてお断りしておかなくちゃ。――そうと決まれば、エリーさんを探しに行こうっと」
店番の論理としては正しくないような気がするが、幽霊のパメラには人間の論理や常識は通用しないのかも知れない。
パメラは工房のドアをすうっと抜けて、『職人通り』に出た。
幸い、パメラがドアを抜けたところを目撃したのは一匹の野良猫だけだった。猫は全身の毛を逆立てて、ひと声うなると一目散に逃げていった。
アイゼルやエリーから受けた注意を覚えていたので、パメラは地面に沿って、行き交う人となるべくぶつからないようにしながら滑るように進んでいった。人と衝突しても、物理的にぶつかるわけではなく、突き抜けてしまうだけだが、そうなったら『職人通り』は大騒ぎになってしまうだろう。
おのぼりさんのようにきょろきょろとあたりを見回しながら進んでいくうちに、『飛翔亭』という看板が目に入った。エリーが依頼の品を納品に行くといっていた酒場の名前だ。
ドアを開けて入って行く冒険者姿の若者にぴったりとくっついて、パメラは酒場の中に滑り込んだ。さすがに直接、壁を抜けるような無茶はしない。

まだ昼間だというのに、酒場はにぎやかだった。
店自体はそれほど広くはない。正面の壁際には酒樽が並び、テーブル席がふたつ、他には右手のカウンター沿いに椅子が並ぶ。カウンターの奥には、ひげをたくわえた中年の男性がふたり立って接客している。顔立ちが似ているので、おそらくは兄弟なのだろう。ドアの脇の壁際には楽隊が3人並んで、テンポのいい音楽を奏でている。フロアでは、浅黒い肌を露わにした南国系の若い女性が音楽に合わせ、ステップを踏みながら軽やかに舞っている。
エリーの姿は見えない。どうやら行き違いになってしまったようだ。
だが、空気に混じった芳醇な酒の香り、めくるめく音楽と踊りに、パメラはすっかり夢中になってしまった。
「わあ、楽しそう。あたしも仲間に入れてもらおうっと」
手にした日傘をぱっと開き、気取った仕草で肩にかつぐと、パメラはふわりふわりと宙を飛んで、フロアの中央に下り立った。腰をくねらせながら踊り子がすぐそばを通り過ぎると、日傘をくるくる回して負けじと優雅に舞う。
ころころと鈴の音のような笑い声を上げ、スカートの裾を跳ね上げて(足はあるのかどうかわからない)、壁から壁へとふわふわふわ・・・。天井に浮かび上がってシャンデリアの周りをふわふわふわ・・・。勢い余ってテーブルにめり込み、上半身だけを突き出して、目の前の酔っ払いの老人に照れ笑い。だが、老人は驚く様子も見せず、目を細めてワインをちびりちびりやっている。
老人だけではない。楽隊も踊り子も、カウンター席の冒険者も、時ならぬ闖入者に気付いた様子もなかった。どうやら、今日の『飛翔亭』には、霊感のある人間はいないらしい。
「ああ、楽しかった」
息ひとつ乱すことなく(息をしていないのだから当たり前だ)、満足したパメラはにっこり笑った。下半身がカウンターにめり込んでいるのにも気付かない。目の前のカウンターでは、眼鏡をかけたマスターが無表情にグラスを拭いている。
奥から、にこやかな顔をした若い女性が現れた。
「お父様、交代しましょう」
店主ディオの一人娘で、里帰り中のフレアだ。
その声を聞いて、パメラはふと我に返る。
「そうだわ、エリーさんを探しに行かなくちゃ」
ふわふわと宙を滑るように動いて、壁際で振り返り、にっこり笑う。
「皆さん、ありがとうございました〜」
そして、壁を抜けてすうっと消えていった。
「ああ、わしはまだいい。クーゲルと代わってやってくれ」
ディオに言われて、フレアは叔父のクーゲルに近付く。
「クーゲル叔父様、代わりますわ。奥で休憩してください」
だが、クーゲルは返事をしない。
「クーゲル叔父様・・・?」
フレアはいぶかしげな顔をして、しげしげと叔父の顔を見やる。
「叔父様? どうなさったの? ――お父様! 叔父様が大変!」
異変に気付いたフレアは大声を上げて、父を呼ぶ。
「どうした?」
ディオもやって来て、弟に声をかける。
いつも冷静で、落ち着いた表情を崩さないクーゲルだが、今は様子が違った。
血走った目を大きく見開き、引き結んだくちびるとグラスを握った手は小刻みに震えている。よく見ると、首筋や腕には鳥肌が立っている。
「クーゲル叔父様!」
フレアの声が悲鳴に近くなる。
クーゲルは、凍りついたように身を硬直させ、立ったまま気絶していた。
なにか、とてつもなく怖ろしいものを目にしてしまったかのように。


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