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〜50000HIT記念リクエスト小説<網海月様へ>〜

竜虎の対決:策謀篇 Vol.1


Scene−1

夕日が、西の空を深紅色に染めながら、アーベント山脈の向こうに沈もうとしている。
シグザール王国の王都ザールブルグの城壁に映えていた茜色の光も、いつしか黄昏の薄闇へと変わりつつあった。
シグザール城では昼番と夜番の警護の騎士の交代が行われ、街中では夕餉の香りがあちこちの家からもれ、家路を急ぐ職人たちの足音が石畳の道に絶え間なく響く。
そして、錬金術を教える魔法学院ザールブルグ・アカデミーでも、1日の終わりを告げる鐘の音が何度も鳴りわたっていた。授業を終えて中庭で一息入れていた生徒たちも、ある者は寮棟の自室へ戻ろうとし、ある者は図書館へこもって学習の遅れを取り戻すべく、急ぎ足で目的の場所へ向かう。
そんな中、アカデミーの筆頭教師であるイングリドは、研究棟の2階にある自室へ戻ると、抱えていた分厚い書物を机の上に置き、ランプに灯をともした。窓から見える中庭の木々は夕闇の中に沈み、その向こうにちらちらと、寮棟の窓からもれる灯りがまたたく。
イングリドの研究室はきちんと片付けられており、作業台にはきれいに磨かれた様々な調合器具が整然と置かれている。壁に造り付けられた棚には色とりどりの薬品が入ったガラス壜が並び、もう一方の壁の書棚には錬金術の研究書がぎっしりと詰まっている。イングリドが自分で書き著したものもあれば、遠く錬金術発祥の地であるケントニスから取り寄せた書物まで、様々である。
普段のイングリドなら、そのまま机に向かって、生徒たちから提出された課題の採点をしたり、研究書の執筆をしたりという作業に余念がないところなのだが、今日の彼女は違った。
ランプを手に、研究室の奥の扉を開ける。そこは、イングリドの寝室だった。
女性の部屋としては驚くほど質素で、部屋のほぼ3分の1を占めるベッドと、ベッド脇の化粧台、クローゼットの他には家具らしい家具もない。装飾品といえば、部屋の片隅に置かれたなにやら不思議な模様が描かれた壷があるだけだ。
イングリドは、身体を投げ出すようにベッドに腰を下ろすと、髪飾りを外した。軽くウェーヴのかかった薄水色の髪が、肩から背中へと流れ落ちる。化粧台からブラシを取ると、イングリドは豊かな髪をくしけずり始めた。
髪を整え終わると、イングリドは化粧台の上から鳥の羽のような形をした銀製の髪飾りを取り上げ、それで髪を留めた。髪飾りの中央には、虹色をした丸い宝石が埋め込まれており、ランプの光を浴びて七色にきらめく。
次にイングリドは、昼間の授業の実験で薬品の匂いが染み付いた錬金術服を脱ぎ捨てると、クローゼットから別の錬金術服を取り出して身に着けた。紫色の錬金術服で、青い縁飾りが胸元を飾り、身体の線が比較的はっきりとわかるつくりになっている。本来、今夜の目的からすれば、ドレスにでも着飾りたいところだが、これまで錬金術一筋の生活を送ってきたイングリドは、きらびやかなドレスなど持っていない。また、錬金術師にとっては錬金術服こそ正装であるという矜持もあった。
化粧台に向かったイングリドは、乳白色の液体が入ったガラス壜を手に取ると、中の液体を左の手のひらにたらした。そして、両手を使って額から頬にかけてゆっくりとすりこむ。それが終わると、鏡に映った自分の顔を見やり、満足げに微笑んだ。
続いて、口紅を取り上げる。師匠だったリリーからレシピを受け継いだ、濃いピンク色の口紅だ。その口紅を塗ると、再び鏡に向かって微笑む。
さらに、イングリドは両手の爪にマニキュアを塗り、左手首には、これも七色に輝くブレスレットを着けた。
最後に、化粧台のいちばん奥に置かれていたロケットを取り上げる。ロケットは、中央に丸い金属製の蓋がついており、つながれた鎖で、ペンダントのように首にかけることができるようになっている。イングリドはその蓋を開けた。その中には、ある人物の肖像画が収められていた。それをしばらくの間じっと見つめ、イングリドは艶然と微笑んだ。そして、落ち着いた所作で首にかける。
身支度を整えたイングリドは、部屋の隅に置かれた奇妙な壷に近寄る。全体的に赤っぽい陶製の壷には、魔術的な紋様やルーン文字が描かれている。
イングリドは、ひとつ息を吸い込むと、壷の蓋を取った。
たちまち、壷の中からピンク色をした気体が立ち昇る。妖しげな靄めいた気体を、イングリドは両手を使ってあおぐようにしながら、全身に浴びる。
しばらく、壷のそばに立ち尽くしていたイングリドは、やがて壷の蓋を閉め、化粧台の前に戻った。
化粧台の鏡に映ったイングリドは、普段の姿からは想像もできないほどの変身を遂げていた。いつもアカデミーで指導や研究にあたっているイングリドは化粧っ気ひとつなく、アクセサリー類も最小限しか身に着けていない。しかし、今のイングリドは上品に着飾り、妖艶といってもいい雰囲気を漂わせていた。 髪はみずみずしくゆるやかに流れ、青と褐色という左右の色が異なる瞳は神秘的な光をたたえている。右の目元にある泣きぼくろも、顔の造作を損なうどころか、色っぽさを際立たせている。ほんのりと赤く染まった頬、まっすぐな鼻筋と、上品な口元に浮かんだ意味ありげな微笑は、どんな男性の心をもとろかさずにはおかないように見える。
しばらく、満足げに鏡を見つめていたイングリドは、立ちあがるとローブをはおった。
ランプを吹き消し、そっと廊下へ出る。
研究棟の裏口から外へ出ると、人目を避けるように木々の間を抜けてアカデミー正門に向かう。
門の外では、御者付きの二輪馬車が静かに待っていた。
イングリドは滑りこむように馬車へ乗りこむ。
御者が一鞭くれると、馬車はゆっくりと石畳の道を進み始めた。

その時、暗い影になっていた正門から湧き出すように現われたひとつの人影があった。
去り行く馬車に鋭い視線を浴びせながら、その人影はじっと腕組みをしたまま動かない。雲間からのぞいた月明かりが、その人物を照らし出す。
それは、もうひとりのアカデミー教師、ヘルミーナだった。


Scene−2

その翌日の昼。
アカデミーのロビーは、忙しげに行き交う生徒たちでにぎわっていた。
正面玄関を入ったところにあるロビーからは、図書室や研究棟、寮棟へと向かう廊下が伸び、右手には調合器具や参考書、簡単な調合材料などを販売しているアカデミーショップがある。
ショップのカウンターに向かって、3人のアカデミー生徒が買い物をしていた。エリー、ノルディス、アイゼルの3人である。
栗色の髪に栗色の瞳、オレンジ色の錬金術服を身につけているエリーは、アカデミーへは補欠入学だったため、寮に入ることができず、ザールブルグの下町にあたる『職人通り』で工房を開いて自活しながら錬金術の研究に励んでいる。知的な顔立ちにクリーム色の錬金術服のノルディスは、エリーと同じイングリド教室に所属しているが、入学以来ずっと学年首席を維持している秀才だった。もうひとり、赤い錬金術服にエメラルド色の瞳が印象的なのはアイゼルである。ザールブルグでも屈指の貴族ワイマール家の息女だが、幼い頃に起こったある事件をきっかけに錬金術の道を志している。
エリーは、ショップのカウンターの奥を覗きこみながら、しきりに首をひねっている。
「ええと、どうしようかなあ・・・。新しい参考書もほしいんだけれど、その前に器具を揃えないとちゃんとした調合ができないし。あ、あと『ほうれんそう』と『祝福のワイン』も買っていかなくちゃ。でも、お金が厳しいんだよね」
「あらあら、貧乏な人は大変ねえ。まあ、補欠入学だったのだから、それも自業自得というものね。試練だと思ってがんばりなさいな」
アイゼルがからかう。
「アイゼル、そんなことを言ってはエリーがかわいそうだよ。そうだ、エリー、少しなら銀貨を貸してあげることもできるけど」
と、ノルディス。アイゼルがノルディスを横目でにらむ。
しかし、エリーは首を横に振った。
「嬉しいけど、ノルディス、あたしは自分の力でがんばりたいんだよ。こんなところで人に頼っていたら、マルローネさんのような立派な錬金術師になれるはずがないもの」
「ご立派だこと。でも、以前のように過労や栄養失調で倒れないようにすることね。そんな面倒事に巻き込まれるのはごめんですからね」
「わかってるよ、アイゼル」
と、エリーはショップ店員のルイーゼに向き直った。
「それじゃ、ルイーゼさん、今日はこれとこれを・・・」
青い瞳と流れるような金髪が愛らしいルイーゼは、すまなそうに微笑みながら、エリーの注文品を棚から取り出す。
「ごめんなさいね。まけてあげたいのはやまやまなのだけれど、アカデミーの規則で、そうするわけにはいかないのよ。昔のように、全品半額のバーゲンセールでもあればよかったのにね」
「へ? 全品半額のバーゲンセール?」
「そんなの、あったんですか」
ルイーゼは夢見るように微笑みながら答える。別に上の空になっているわけではなく、この表情がルイーゼの地顔なのだ。
「ええ、わたしがまだ学生だった頃よ。当時は、3月の8日と9日の2日間は、ショップで売っている品物は全部半額になったの。みんな、その日に合わせて買い物をするものだから、ショップが混み合ってしまって、あの頃店員だったアウラさんもてんてこまいだったわ」
「でも、そんなありがたいイベントが、なんでなくなっちゃったんですか? あたしにとっては死活問題なのに・・・」
エリーが情けない声を出す。ルイーゼは首をかしげ、
「さあ、わたしもよく知らないのだけれど、アカデミーが財政難になってしまって、バーゲンセールをする余裕がなくなったんだとか、聞いたことがあるわ」
「はあ、そうですか」
がっくりと肩を落とすエリーに、元気付けるようにノルディスが話しかける。
「さてと、これからどうしようか。図書室へ行って今日の復習でも・・・」
「そうね、賛成だわ」
アイゼルがすぐに答える。
エリーは首を振って、
「悪いけど、今日は工房へ帰るよ。納期が迫ってる作業もあるし、途中で酒場へ寄って、仕事の依頼があるか聞いておきたいし」
「そうか・・・。でも、無理はしないようにね」
「うん、ありがと」
正面玄関から出ていくエリーを見送って、ノルディスとアイゼルは図書室へ向かおうとした。
その背後から声がかかる。
「アイゼル、ちょっといいかしら?」
振り向くと、立っていたのはアイゼルの師であるヘルミーナだった。
黒の錬金術服に紺色のローブといういつものいでたちで、薄紫色の髪を無造作に束ねて背中におろしている。ケントニス出身者特有の左右の色が異なる瞳には鋭い光が宿り、口元には意味ありげな微笑を浮かべている。
「はい、なにかご用でしょうか」
答えながら、アイゼルはヘルミーナの視線にさらされて居心地の悪い思いを味わっていた。師匠の持つ不気味な雰囲気には、この先いくら時間がたっても慣れることはあるまい。
「用がなければ呼び止めたりしないわ。ちょっとわたしの部屋へ来てちょうだい」
言い捨てると、ヘルミーナは返事も待たず、すたすたと研究棟への廊下を歩み去っていった。

「こんにちは〜」
エリーはいつものように明るく挨拶をして、酒場『飛翔亭』の扉を押し開けた。
まだ昼間なのに、酒場は冒険者たちでにぎわっていた。エリーは顔見知りの冒険者たちにぴょこんと頭を下げてみせ、カウンターに向かった。
『職人通り』のほぼ中央に位置するこの『飛翔亭』は、単なる酒場ではなかった。酒や料理を出すのはもちろんだが、ここは冒険者たちの情報交換の場でもあり、様々な仕事を斡旋してくれる場でもあった。エリーも、工房を開いた当初から、ここ『飛翔亭』でアイテムの採取や調合の仕事をもらい、生計を立てていた。
細長いカウンターの向こう側には、いつもと変わらず店主のディオと、その弟のクーゲルが控えている。
「よう、あんたか。今日は何の用だ?」
エリーが歩み寄ると、口ひげをととのえ眼鏡をかけた店主のディオが親しげに声をかけた。
「ええと、なにかあたしにできそうな仕事はないかと思って・・・」
エリーの希望に応じて、ディオは壁に張り出された依頼の一覧を示す。しかし、今回は難しいものばかりで、エリーが受けられそうな依頼はなかった。
残念そうな表情を浮かべたエリーに、ディオは顔を寄せてささやく。
「ところで、どうだ、耳寄りな情報があるんだが、聞いていかないか」
そして、指を1本立てて見せる。情報料が銀貨100枚というしるしである。ここで銀貨100枚を支払うのは厳しかったが、エリーは好奇心に負けて銀貨を支払った。
ディオは、声を低くし、ささやくように言った。
「アカデミーに、イングリドって先生がいるだろう」
「あ、はい、あたしの先生ですけど」
エリーが目を丸くする。まさか酒場の噂話に自分の師匠の名が出るとは想像もしていなかったのだ。
「そのイングリド先生だが、ここのところ、毎晩のように貴族の開くパーティに入り浸ってるらしいぜ。しっかり化粧をして着飾って・・・。ザールブルグの上流階級では、かなりの噂になってるらしい」
「そんな、まさか・・・。イングリド先生が・・・」
エリーは絶句した。授業に厳しく、研究に没頭し、朝から晩まで錬金術に浸りきっているというのが、エリーにとってのイングリドのイメージだった。社交界やらパーティやらには興味も関心も示したことはない。そのようなものとは、もっとも縁遠い存在だった。
「それだけではないぞ」
傍らから、それまで黙っていたクーゲルが口を開いた。
クーゲルはザールブルグの貴族や王室とも独自のコネクションを持っており、その情報は信頼できる。
「その、イングリド先生だが・・・」
クーゲルは重々しい口調で続けた。
「信頼できる筋からの情報によると、どうやら、さる貴族の殿方と、親密な関係になっているらしい」

「今、何とおっしゃったのですか? イングリド先生が・・・?」
アイゼルは問い返した。
ここは、ヘルミーナの研究室だ。先ほどアカデミーのロビーで声をかけられたアイゼルは、すぐに師の研究室に出向いたのだった。
今、ヘルミーナはアイゼルに背を向けて窓辺に立ち、両腕を組んでいる。
「ふふふふふ。何度も言わせる気? いいこと、毎晩のように着飾って、イングリドがどこかへ出かけていっていることは確かなのよ。行く先は、おそらく貴族のパーティでしょうね。まったく、あの女らしくないことだわ」
「でも、それがあたしと、どんな関係があるんですか」
「ふふふふ、大ありよ。あなたには、わたしのためにひと働きしてほしいの。イングリドがパーティでどんな行動をし、誰と話をしているのか、それを調べてもらいたいのよ。上流階級のパーティには、招待状がないと入りこめないものね。それに、あの女には気付かれたくないし。だから、わたしが自分で出ていくわけにはいかないのよ。ふふふ」
「で、でも、あたしだって、パーティなんかには・・・」
「今週末に、ワイマール家・・・つまりあなたの実家でパーティが開かれるそうね」
「あ・・・」
アイゼルは息をのんだ。
「ワイマール家の主催するパーティに、娘であるあなたが出席するのは、ごく自然なことだわ。これなら、イングリドも怪しまないでしょう。いいこと、あなたは目立たないようにしながら、あの女の行動を観察して、後でわたしに報告するのよ。ちゃんとやってくれたら、そうね、お礼として・・・」
ヘルミーナは振り返ると、謎めいた微笑を浮かべてアイゼルを見つめた。
「わたしが開発した秘伝の薬のレシピを伝授してあげるわ。どんな男の心でも思いのままに操れる、素敵な惚れ薬よ。これを使えば、そうね、あの主席の男の子だって、すぐにあなたのものにできるわよ。どう、悪い話じゃないでしょう? ふふふふ」
「そ、そんなもの要りません!」
アイゼルは必死に叫んだ。しかし、代償はどうあれ、ヘルミーナの頼みを断れないことだけははっきりしていた。もし断ったりしたら・・・その先を、アイゼルは想像したくもなかった。
肩をがっくりと落としたアイゼルが退出すると、ヘルミーナは再び窓辺に立ち、アカデミーの中庭を見下ろした。
その両の瞳に、妖しい光が宿っている。
「ふふふふふ、急に色気づくなんて、どういうことなのかしら、イングリド? まあ、だいたいの想像はつくけれどね。それにしても、相手はいったいどんな男なのかしら・・・。まあいいわ、必ず秘密は暴いてあげる。そして、絶対に・・・」
鬼気迫る調子のヘルミーナのつぶやきを耳にする者は、誰もいなかった。


Scene−3

「ふう・・・」 アイゼルは、ワイングラスをもてあそびながら、何度目かのため息をついた。
ワイマール家の屋敷の1階にある広間でパーティが始まってから、しばらくの時間がたっている。
ザールブルグ社交界のパーティは、どこの家が主催するものであっても、そう変わるところはない。貴族階級が一同に会し、さらに裕福な商人や他国の外交官、王室関係者なども出席する。このような場で重要な商談がまとまったり、縁談が決められることもある。だから、パーティに出席することはザールブルグの上流階級の義務でもあった。
(でも、やっぱりこういう世界は、あたしには向いてないみたい)
アイゼルは思いをめぐらす。
彼女の両親は、アカデミーに入学して錬金術を学びたいというアイゼルの希望に、あまり賛成ではなかった。貴族は貴族らしく、というのが両親の考え方だったのだが、アイゼルは粘り強く説得して、自らの意思を通すことができた。だが、両親は今も心のどこかで、貴族の令嬢としての人生を歩んでほしいという希望を捨てきれずにいるのだろう。
そんな事情もあって、パーティに出席したいというアイゼルの願いは、両親を喜ばせた。
父親も母親も、会場の人波にのみこまれてしまっている。一段高いステージで静かに音楽を奏でる楽士たちや、お酒や料理の載ったトレイを持っててきぱきと動き回るメイド。アイゼルは壁際に立って、波のように寄せては返す人の群れを観察していたが、知った顔はあまりいない。みんな同じような顔に見える。肝心のイングリドの姿も、まだ見つけることができないでいた。
そんな時、アイゼルの目の前に、ひとりの人影が立った。
「やあ、こんにちは」
その男は20代の後半であろうか。背は高く、上から下まで高級品で身を固めている。純白のタキシードを着こなし、襟や袖には大粒のダイヤがあしらってある。純金製のネックレスとブレスレットが、これ見よがしにきらめく。女性のように長い金髪には軽くウェーヴがかかり、肩から背中へと流れ落ちている。顔立ちは整っているが、その目つきには、なんとはなしに品性のなさが感じられた。
アイゼルは視線をそらし、無視しようとしたが、男はグラスを片手に、馴れ馴れしく肩に手をかけてくる。
「君はあまり見かけない顔だねえ。それにしても、ザールブルグの社交界にこんなかわいい娘がいたことに気付かなかったなんて、ぼくもまだまだだな。ぜひお近付きになりたいものだ。ああ、きれいなバラの花よ、どうだい、今夜はぼくと一緒に素敵な一夜を過ごさないかい」
男は軽薄な口調でぺらぺらとしゃべり続ける。アイゼルは鳥肌が立つのを感じた。
「あの、あたし、用事がありますから」
立ち去ろうとするアイゼルを、男は引きとめようとする。アイゼルはよろけたふりをして、男の足を思いきり踏みつけた。
「あら、失礼」
男は一瞬ひるんだようだが、なおも薄笑いを浮かべて迫ってくる。
「ああ、君のつれない態度はますますぼくを魅了するよ。きみは美しき女豹、そしてぼくは狩人・・・」
アイゼルの堪忍袋の緒が切れた。
グラスを持っていない方の手でポケットから小さな布袋を取り出す。
(これでもくらいなさい!)
心の中でつぶやくと、自分は顔をそむけ、男の鼻先で袋を一振りする。袋から飛んだ粉を吸い込んだとたん、男の身体は硬直した。
ぐったりと倒れかかる男を、傍らにあったソファにもたせかけ、アイゼルは近くを通りすぎようとしたメイドに呼びかけた。
「あ、あなた、ちょっと手伝ってくれないこと? この人、急に具合が悪くなったみたいで・・・」
呼びとめられたメイドは、目を丸くした。
「まあ、ローネンハイム家の若様じゃないですか! どうなさったのです?」
「さあ、わからないわ。さっきまで話をしていたと思ったら、急に倒れてしまったの。あとのお世話はお願いね」
アイゼルは言うと、さっさとその場を離れた。先ほど使った『しびれ薬』の袋は、とっくの昔にしまいこんでいる。
(そう、あれが悪名高いローネンハイム家の跡取息子だったのね。噂通り・・・というより、噂以上にいやなやつだったわ。いざという時のために薬を用意していたのは正解だったわね)
考え込みながら歩いていたアイゼルは、誰かにぶつかりそうになって、あわてて身をよけた。
「あ、すみません」
「あら、あなた・・・」
聞きなれた声に、はっと顔を上げる。そこには、イングリドが立っていた。
「あなた、たしか、ヘルミーナのところの・・・」
「は、はい、アイゼル・ワイマールです!」
アイゼルの声がひっくり返った。
「ほほほほほ、そんなに緊張していては、パーティを楽しめないわよ。・・・そういえば、ワイマール家はあなたのご実家だったわね」
落ち着いた声で話すイングリドを、アイゼルはあらためてながめた。
確かに、アカデミーにいる時とはまったく雰囲気が違う。
身につけている服は、いつもと変わらぬ錬金術服だったが、髪飾りやブレスレットなど、普段は見かけない装飾品で身を飾っている。全身から、匂い立つような香水の香りがしていたが、決してそれは不快なものではなかった。肌は上気したようにつやつやと輝き、ルージュの塗られたくちびると、神秘的な光をたたえた瞳はなんともいえず深みのある魅力を発散している。まさに、これが大人の色気というものなのだろう、とアイゼルは感じた。自分のような、女性としては未熟な人間から見ても、吸い込まれそうな魅力を感じる。
「イングリド先生が、こんなところへ来られるなんて、珍しいですね」
懸命に自分を落ち着かせようとしながら、アイゼルは言った。
「あら、わたくしはドルニエ校長の代理として出席しているだけよ」
答えて、イングリドは艶然と微笑んだ。そして、アイゼルが次の言葉を思いつかないうちに、イングリドは何かに気付いたように視線をそらし、
「それじゃあね。あまり飲み過ぎないようになさい」
くるりと身をひるがえすと、パーティの人波の中へ消えていく。
その時、アイゼルはイングリドの胸元できらめいたものに気付いた。
あれは、ロケットだ。
自分が好きな人、仲良くなりたいと思っている人の肖像画を入れておくと、願いがかなうというアクセサリーだ。アイゼル自身は、まだ作ったことはないが、もし調合に成功したら、ひそかにノルディスの肖像画を入れようと心に決めている。
イングリドが首にかけているロケットには、いったい誰の肖像画が入っているのだろうか。
アイゼルは、ヘルミーナの指示とは関係なく、自らも好奇心にかられ、広間を横切りながらイングリドの姿を探した。
イングリドは、すぐに見つかった。壁際のソファに腰を下ろし、カクテルグラスを片手に、ひとりの紳士と談笑している。
年の頃は50前後と思われるその紳士の顔は、アイゼルも知っていた。整った顔立ちに、灰色の髪と灰色の口ひげ。身体には贅肉もついておらず、まるで“ロマンスグレイ”という言葉を絵にしたような人物だ。
彼の名はグスタフ・フォン・ローネンハイム。先ほどアイゼルが痛い目に遭わせてやった放蕩息子の父親であり、ザールブルグ有数の資産家であるローネンハイム家の当主である。
アイゼルが知っている限りでは、当主は数年前に連れ合いを病気で亡くし、今は独身のはずである。しかし、息子に似てローネンハイム家の血筋は争えず、若い頃から名うてのプレイボーイとして勇名を馳せたという。そして、そのプレイボーイ振りは、今でも現役だと。
(でも、まさかイングリド先生が、ローネンハイム家の当主と?)
アイゼルは半信半疑で観察を続ける。
楽士たちが奏でる音楽が変わり、ワルツとなった。
広間にはダンスのための空間ができ、互いにパートナーを見つけたカップルが、次々と踊り始める。
イングリドとローネンハイム氏も、その輪の中に加わっていた。
ふたりとも、手馴れた様子で軽やかにステップを踏み、ぴったりの呼吸で舞い踊っている。そのあでやかな姿は、周囲の注目をも集めていた。
1曲踊り終わると、次の曲が演奏されるのに構わず、ふたりは肩を寄せ合うようにしながらそっとその場を離れる。
アイゼルは身を低くしながら足音を殺し、その後をつけた。
なにやらにこやかに語り合いながら、イングリドとローネンハイム氏は2階へと続く階段を上っていく。
その先にあるのは、来客用の寝室や応接間だ。
ふたりは廊下を抜けて、月光に照らされたバルコニーへ出ていく。あたりには、他に人影はない。恋人たちが他人に邪魔されずに語り合うにはぴったりの場所だ。
アイゼルは、廊下の反対側の端で足をとめ、ため息をついた。
ここまで調べれば、もう十分だろう。それに、これ以上近付けば、気付かれてしまうかも知れない。また、いくらヘルミーナの指示とは言え、これ以上他人のプライバシーを暴くのははばかられる。
バルコニーで寄りそうふたりの影を背に、アイゼルは疲れ切った足取りで、パーティ会場へ戻っていった。

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