プロローグ 黄昏のザールブルグ
「こんばんは、エリー」
日暮れも近い職人通り。家路に向かう職人や、夕食のための買い物に出てきたおかみさんたちがせかせかと忙しく行き交う中、赤いとんがり屋根の工房のドアをノックしているのは、上等そうな赤い錬金術服に身を包んだ少女である。彼女の錬金術服の襟には、鮮やかな金色の記章が光っている。
錬金術を教えるザールブルグ・アカデミーのマイスターランクに籍を置くアイゼル・ワイマールは、学友のエルフィール・トラウム(愛称エリー)が開いている工房を訪ねてきたところだった。先日、エリーに調合を依頼した猫目石を受け取りに来たのである。
ノックしてしばらく待っていたアイゼルが、ふと眉をひそめ、大きなエメラルド色の瞳にいぶかしげな表情が浮かぶ。いつもなら、すぐにエリーの明るい声で、
「は〜い、開いてま〜す!」
と返事があるところなのだが。
「留守なのかしら。おかしいわね、お昼にアカデミーで会った時には、夕方は必ずいると言っていたのに」
アイゼルは、工房の扉に手をかけ、そっと押す。頑丈な扉は、わずかなきしみをあげて開いた。鍵はかかっていない。
「入るわよ」
誰にともなく声をかけ、工房に足を踏み入れる。
ランプの灯りに照らされた工房の中に、エリーの姿はない。しかし、作業台の上はつい先ほどまで調合が行われていたかのように散らかっている。また、作業台の下からは、なにやら物音が聞こえてくる。ガラスのぶつかる音、なにかを乳鉢ですりつぶす音、遠心分離器が回転する音・・・。
アイゼルの顔が、ふっとほころぶ。エリーが雇っている妖精たちが働いているのだ。
「お仕事中、悪いけれど、ちょっとお邪魔するわよ」
声をかけ、作業台の下をのぞき込む。青い服の妖精がふたり、緑の服の妖精が3人、忙しそうに身体を動かしていた。そのひとりが振り向く。
「あ、こんにちは」
同時に、アイゼルに気付いた妖精たちが手を止め、ぞろぞろと作業台の下から出てくる。
「いらっしゃい」
「おねえさん」
「なにか」
「ご用ですか」
立っていてもアイゼルの膝までしかない妖精は、みな同じ顔でにこにことアイゼルを見上げる。
アイゼルはいささか居心地が悪くなりながら、
「あ、あの、エリーはお留守かしら。約束があって来たのだけれど」
青妖精のひとりが、
「おねえさんなら、さっき、あわてて『飛翔亭』まで出かけていきました。何でも、頼まれていた約束の期限が今日までだったのを、忘れていたとかで」
と答える。
「あら、そうなの。じゃあ、また改めて来ることにしようかしら。ええと、あなたは・・・?」
「はい、ぼく、ピコっていいます」
実は、アイゼルが新入生の時に初めて雇った黒妖精が、このピコだったのだが、もちろんアイゼルはそんなことは覚えていない。もっとも、普通の人間には妖精の顔の区別ができないのだから、それも仕方がないことかも知れない。
その時、あわただしい足音と一緒に、オレンジ色の錬金術服に栗色の髪の少女が工房に駆け込んできた。
「あ、良かった、アイゼル、待っててくれたんだ」
息をはずませながらも、エリーはアイゼルに椅子を勧める。そして、
「ほんとに、あわてちゃったよ。明日からヘウレンの森に採取に行こうと思ってたら、ディオさんから頼まれてた依頼をすっかり忘れてて・・・。まあ、なんとか間に合ったけどね」
聞いたアイゼルが、心配そうな顔をする。
「ヘウレンの森ですって? たしか、そこって、最近、吸血鬼が出ると噂になっていたのではなくて? 危なくはないこと?」
「うん、だから、ハレッシュさんとダグラスに護衛を頼んでいるんだ。ちょうど、風乗り鳥が渡って来る季節だからね、行って来ないと」
エリーは言葉を切り、妖精たちを振り向く。
「もう、みんな、気が利かないんだから! お客様にお茶ぐらい出してよ。さあ、ピーポーはミスティカティを入れて、プリチェはチーズケーキを出してきなさい。ピューイ、あなたは猫目石を包んでおいてね。ピコは、そのへんの道具を片付けて・・・」
妖精たちに次々と指示するエリーを、目を丸くしてアイゼルが見つめる。
「ねえ、エリー、前から聞きたかったのだけれど、どうして妖精さんたちの見分けがつくわけ? ノルディスも不思議がっていたわ。あたしが見ても、みんな同じ顔に見えるのに」
問い掛けられたエリーも、不思議そうな顔をして、
「前に、ノルディスからも同じことを聞かれたけど、わかんないんだよね。う〜ん、どうしてなんだろう。自分でもわからないよ」
そして、お茶を載せたお盆をよちよちと運んできた緑妖精に、なにげなく
「ありがとう、ピーポー」
と声をかける。
それを、あきれたようにアイゼルのエメラルド色の瞳が見つめている。
ほぼ同じ時刻。
シグザール城の中庭では、王室騎士団の戦闘訓練が行われていた。
ヴィント前国王が日ごろから口にしていた通り、騎士団が他国との戦いに使われていたのは、もう昔のことだ。しかし、王国のあちこちには、いまだ盗賊や狂暴な魔物が出没している。そのような敵から国民を守るために、王室騎士団は訓練を怠らなかった。
日は暮れかけ、中庭のそこここに掲げられた松明の灯りに照らされて、訓練用の軽鎧に身を固めた聖騎士たちが、模擬刀で渡り合っている。もちろん、木で作られた模擬刀とはいえ、生身でまともに受ければ大けがをすることもある。騎士たちは、実戦なみの真剣さで訓練に取り組んでいた。
訓練を指揮するのは、王室騎士隊長のエンデルク・ヤード。ザールブルグの剣聖の名をほしいままにするエンデルクは、15年ほど前にふらりと現れて以来、騎士隊長としてシグザール王国を守る盾となっている。毎年暮れに開かれる武闘大会でも、1回の準優勝を除いて、毎回優勝をさらっている。(準優勝に終わった回のことは、本人はあまり触れられたくないようだ)
今もエンデルクは、若手の中でもっとも成長株の聖騎士ダグラス・マクレインに稽古をつけているところだった。
「てえっ!」
気合をこめて、ダグラスが打ち込んでくる。それを受け流しながらも、エンデルクはこの若武者の最近の腕の上げ方に舌を巻いていた。このままで行くと、今年の武闘大会は、今まででいちばん苦しい戦いになるかもしれない・・・。
ふと思いをはせていたエンデルクは、これまでにない殺気を感じて、はっと注意を戻した。
「隙あり!」
ダグラスが、思いもかけぬ素早い動きで切り込んでくる。
(このままではやられる!)
エンデルクは本能で動いた。ヴィラント山の火竜フランプファイルの前肢を両断した剣技がうなる。
「うぁっ!」
悲鳴と共に、ダグラスの模擬刀が弾き飛ばされて宙をくるくると舞い、中庭のはずれまで飛んでいく。
「しまった・・・」
エンデルクがつぶやく。見下ろすと、自分の右肩を抱え込んだダグラスが、苦痛に顔をゆがめている。
ダグラスが、苦しげにつぶやく。
「くそ・・・肩が・・・。う・・・明日は・・・。」
「おい!」
エンデルクは、ひざまずくとダグラスを抱き起こす。肩にそっと触れると、いちばん近くにいた金髪の聖騎士に声をかける。
「すぐに医者に連れて行け・・・。肩が折れているかも知れん・・・」
金髪の騎士は、しばらくエンデルクの顔を見ていたが、やがてわれに返ったように、ダグラスの身体を受け取る。ダグラスを肩にかつぎ、引きずるようにしてゆっくりと城門の方へ歩き始める。
金髪の騎士は、ダグラスに話しかけるでもなく、ひとりごとのようにつぶやく。
「ぼくはね、君がうらやましいよ・・・。エンデルク様が、ぼくに対してあんなに真剣に稽古をつけてくれたことはない。でもね、ぼくはあきらめないよ・・・。あるところで、強力な惚れ薬があるという噂を聞いたのさ。きたない、と言われたってかまわない・・・。ぼくの望みは、ただひとつさ・・・」
しかし、ダグラスは既に気を失っていた。
騎士たちが訓練の後片付けをしている中庭に立ち、エンデルクはあごに手を当てて、何事かしきりに考え込んでいるようだった。
第1章 ヘウレンの森の吸血鬼
その翌朝。
赤いとんがり屋根の工房は、早朝から騒がしい。
「うわぁ、寝過ごしちゃったよ! ダグラスとハレッシュさんが外門で待っているのに・・・。早く行かなくちゃ」
工房の中をバタバタと走りまわりながら、エリーがあわてて身支度をしている。妖精たちもそれを何とか手伝おうとしているのだが、かえって邪魔になっているようだ。
「ちょっと、あたしの帽子はどこ? ピーポー、探してくれない?」
「それよりおねえさん、そんなにくしゃくしゃな髪のままでいいんですか。少しは櫛も入れた方が・・・」
「もう、ピコったら、アイゼルみたいなこと言うのね。それどころじゃないのよ」
「おねえさん、かごと杖・・・」
「あ、ありがとう、ピューイ。それよりピーポー、帽子は見つかった?」
「あの、おねえさん、かご・・・」
「かごはもういいのよ。帽子、あたしの帽子は?」
「だから、おねえさん、帽子・・・かごの中」
「え? ああ、あったあった。あたしってば、何やってるんだろ。そうだ、早く行かなきゃ」
「痛っ!!」
「あ、ごめん、踏んじゃった。大丈夫よね、プリチェ。じゃあ、行ってくるわね」
「おねえさん、にんにくは持っていかなくていいんですか? 吸血鬼が出るから、にんにくは絶対持って行くんだ・・・って」
「え? まあ、いいや。ピコ、後でヘウレンの森に持って来て!」
「あ、あの・・・後でって?」
「ああ、だめ、もう間に合わない。じゃあね!」
採取かごを背負い、魔法の杖を片手に職人通りを走り抜けていくエリー。両手ににんにくを抱え、それをピコが見送る。
「・・・どうすればいいかな?」
仲間を振り向き、ピコがつぶやく。
「おねえさんの言う通り、持って行ってあげた方がいいんじゃない?」
ピーポーが、他人事のようにあっさりと言う。(だって他人事だもの)
「何で、いつもぼくばかり・・・」
ピコはため息をつきながら、出かける支度を始める。
エリーは、息を切らせてザールブルグの外門を出る。
「ごめんなさい! 遅れちゃって」
槍を持ち、門柱にもたれていた大柄な戦士ハレッシュ・スレイマンが、いつものことさ、というふうに微笑みながらうなずく。
その向こう側に、聖騎士の鎧を身に着けた後ろ姿を見つけ、エリーはおずおずと近付く。
ダグラスは、きっと怒っているだろう。
「こちとら年末の武闘大会に備えて、1日たりとも修行をサボるわけにはいかねえんだ。お前の冒険になんか付き合っていられるか!」
と渋るダグラスを、ようやく口説き落としたのだ。それなのに、出発の朝に遅刻したのでは、いったい何を言われることか・・・。
「ご、ごめんね、ダグラス・・・。ねえ、怒ってるよね」
下を向いたまま、エリーは聖騎士の背中に声をかける。
ゆっくりと騎士がこちらを向く気配がする。だが、予想していたダグラスの罵詈雑言は聞こえてこない。その代わり、低いが落ち着いた力強い声がエリーの耳に響いた。
「残念だが、ダグラスは来られない・・・」
「え・・・? エンデルク様!!」
ようやく気が付いたエリーが、素っ頓狂な声を上げる。
「すまない・・・。昨日の訓練で、ダグラスにけがをさせてしまった・・・」
「え、けがって? どうしたんですか、ダグラス?」
「不幸な事故だった・・・。右の肩を折ってしまったのだ。今は眠っている・・・」
これを聞いたエリーが、顔をくもらせる。心配そうに、
「で、大丈夫なんですか、眠っているって・・・。意識が戻らないんですか?」
エンデルクの鎧にすがりつくようにして、エリーが問い掛ける。エンデルクはわずかに顔をほころばせ、
「心配することはない。ダグラスが、右腕が動かないのに宿舎を抜け出そうとするものでな・・・。どうしても、きみとの約束を守りたかったらしい・・・。隊長として、それを許可することはできないのでな、彼には睡眠薬を使わざるを得なかった・・・」
エンデルクの言葉に、エリーはほっとした表情になる。だが、ふと眉をひそめると、
「じゃあ、ヘウレンの森には、ハレッシュさんとふたりで行かなくちゃならないのか・・・。誰か、別の人を雇わないといけないなあ」
「その心配は要らないよ、エリー」
笑みを浮かべたハレッシュが、静かに言う。
「隊長が、特別に付き合ってくださるそうだよ」
「え、隊長って・・・それじゃ、エンデルク様が!?」
目を丸くするエリー。
「でも、エンデルク様を雇えるほどの銀貨を、用意してないですよ」
エンデルクは、落ち着いた表情のまま、
「今回は、無料でいい・・・。ダグラスにけがをさせてしまったお詫びだ。それに、ヘウレンの森には、近いうちに行こうと思っていたところだ・・・」
「さあ、エリー、突っ立ってないで、そろそろ出かけようぜ。俺も、隊長と一緒に行動するのは久しぶりなんで、緊張しちまってるけどな」
ハレッシュが、言葉とは反対にリラックスした調子でうながす。元は騎士団に勤めていたハレッシュにとって、エンデルクはいまだに「尊敬する騎士隊長」なのだろう。一緒に冒険できるのが嬉しくてたまらない様子だ。
「さあ、指示してくれ・・・。今日は、きみが指揮官だ・・・」
エンデルクに声をかけられ、エリーは気を取り直して叫ぶ。
「わかりました、それじゃ・・・。ヘウレンの森に向かって、出発!!」
ヘウレンの森への途上は、何事もなく過ぎた。この時期、普段なら盗賊の群れが出没するのが常なのだが、今回は気配すらない。
「そりゃ、『ザールブルグの剣聖』の姿を見ちゃ、並の盗賊は出て来れやしないだろうよ」
いぶかしむエリーに、ハレッシュがあっさりと答える。
確かに、聖騎士の剣を手挟み、無言で歩を進めるエンデルクの姿は、それだけで他を圧倒する存在感があった。
森へ到着してからも、エンデルクはエリーの指示を受けながら、黙々と材料探しをしている。
「ね、本当にいいのかしら。エンデルク様に材料探しなんかさせちゃって・・・」
薮の中を探りながら、エリーがハレッシュに言う。太い木の幹に足をかけ、槍で上の葉叢を突ついていたハレッシュは、
「いいんじゃないのか。隊長にも、いい息抜きになってるのかも知れないぜ」
「そうかなあ・・・」
エリーは起き直り、大きく伸びをする。小さくため息をつき、
「それにしても、変だなあ。風乗り鳥の羽が、全然ないなんて。いつもなら、もう渡って来てるはずなのに、今年はまだなのかなあ」
風乗り鳥は、毎年、春と秋にシグザール王国へ渡って来る渡り鳥である。その羽は風の属性を持っており、高度な錬金術の材料として珍重されているが、なぜかヘウレンの森でしか採れない。
「さあ・・・な。もしかすると、吸血鬼が出るってんで、鳥たちも寄り付かなくなってるのかもな」
ハレッシュが、木の枝から叩き落としたハチの巣を差し出しながら、気楽な口調で言う。
「そんな、まさか。でも、吸血鬼の噂って、本当なのかしら。飛翔亭のディオさんは、真偽のほどはわからない・・・って言ってたけど」
うっそうと繁る森を見回し、不安そうにつぶやくエリー。
「おそらくは、本当だろう・・・」
「きゃっ!」
重々しい声と共に、不意に繁みの中から現れたエンデルクに、エリーは思わず小さな悲鳴を上げ、飛びのく。
それを意に介さず、エンデルクは静かな口調で続ける。
「ヘウレンの森に出現する吸血鬼・・・。その正体は、おそらくは、彼だ・・・」
「え、彼って?」
「心当たりでもあるんですか、隊長」
エリーもハレッシュも、異口同音に驚きの声をあげる。
「だからこそ、私もここに出かけてくる気になったのだ・・・。もちろん、ダグラスと、エリー、きみへの罪滅ぼしの気持ちもあるが・・・」
「でも、その彼って・・・。誰なんですか。本当に、吸血鬼なんですか」
「それは、わからぬ・・・。彼は、もう何十年も前に死んでいる。少なくとも、この世のものではない・・・。しかし、吸血鬼か否かは、噂からは判断がつかぬ。だから、それを確かめようと、ここにやって来たのだ・・・」
エンデルクは、ここまで語ると、口をつぐんだ。
「じゃあ、吸血鬼かどうかはわからないけれど、幽霊が出るってことは、確かなんですか?」
エリーが、恐る恐るという口調で尋ねる。うなずくエンデルク。
「やだあ、わたし、そういうの、苦手なんですよぉ」
エリーが自分の手で両肩を抱きしめ、身震いする。
「おいおい、幽霊が得意なやつなんて、いやしないよ。・・・いや、隊長は、別かもな」
ハレッシュも、口調は明るいが、表情はあまり気持ちが良さそうではない。エリーは頼もしそうにエンデルクを見やり、
「そうですね。エンデルク様なら、恐いものなんか、ないですよね」
それを聞いたエンデルクは、ふ、と口許をほころばせ、自嘲気味の笑みを浮かべた。
「そんなことはない・・・。完璧な人間など、この世には存在しない。私にも、苦手なものはいくつかある・・・」
「へえ、意外です。エンデルク様が苦手なものって、何なんですか?」
「そう・・・。強いて言えば、『はたき』だ・・・」
「へ? はたきって、掃除の時に使う? わたしも、掃除は苦手ですけど、別に道具が嫌いだとかそんなことは・・・あれ、どうしたんですか、ハレッシュさん」
ハレッシュは、身体を折り曲げ、口を押えている。具合が悪いのかと思いきや、どうやら笑いを必死にこらえているようだ。
「エリー、頼むから、それ以上は隊長を問い詰めないでやってくれ。武士の情だ」
ようやく普通に話せるようになったハレッシュが、エンデルクを見やりながら言う。ハレッシュは、エンデルクがなぜ『はたき』を苦手にしているのか、理由を知っているのだ。背中を向けていたエンデルクも、顔を森の奥に向けたまま、つぶやくように言う。
「そう・・・それについては、もう触れてほしくない。誰にでも、ひとつやふたつ、秘めておきたい事柄はある・・・。他にも苦手なものはあるが、それは、国防上の秘密だ・・・」
「国防上って・・・なんか、大袈裟だなあ」
目を丸くするエリーに、ハレッシュはまじめな顔をして答える。
「いやいや、そうとも言えないぞ。もしシグザール王国を狙う敵がいるとしたら、まず隊長を倒そうとするだろう。隊長の弱点が敵にわかったら、敵は必ずそこを突いてくる。だから、決して大袈裟な話ではないと思うぞ」
「でも・・・」
エリーは言葉にしようとして、口をつぐんだ。『はたき』を振りかざして襲いかかってくる敵の軍隊を想像してしまったのだが、触れられたくないというエンデルクの言葉を思い出し、尊重しようと思ったのだ。
「さて、そろそろキャンプの準備をしようぜ。ちと早いが、腹も減ったし」
と、ハレッシュが腰を伸ばそうとした、その時・・・。
なま暖かい強風が巻き起こり、木々の葉をざわめかした。
先ほどまで輝いていた太陽がかげり、急にあたりを暗闇が閉ざす。
「何? どうしたっていうの?」
不安にかられたエリーが立ち上がり、魔法の杖を握りしめる。
「来るぞ・・・。油断するな」
エンデルクの声は、いつになく鋭い。聖騎士の剣をすらりと抜き、油断なく身構える。
突然、深く繁った森の奥に、赤黒い炎が出現した。ひとつ・・・ふたつ・・・。
「鬼火だ!」
ハレッシュが叫ぶ。
いつの間にか妖しい風はやみ、逆にあたりには身震いするような寒気がたちこめている。
鬼火は、獲物をいたぶるかのようにゆらゆらと見え隠れしながら、じれったいほどゆっくりと近付いてくる。
そして、血も凍るような叫びが、響き渡った。
「私の庭から出て行け!!」
同時に、鬼火が飛ぶように宙を舞い、一点に凝縮する。
次の瞬間、鬼火は弾け飛び、そこには黒づくめの人影がたたずんでいた。
エンデルクと同じくらいの長身だが、黒いマントに包まれているために、体格はわからない。
エリーたちは、凍り付いたようにその姿を見つめている。
うつむいていた人影が、顔を上げた。
漆黒の髪に、貴族的な整った顔立ち。しかし、その瞳は先ほどの鬼火と同じ赤黒い炎の色に染まり、らんらんと輝いている。固く引き結ばれた唇は、血の色に濡れているように見えた。
「やはり、あなたか・・・。フォン・シュテルンビルト伯爵」
エンデルクが、異様なほど落ち着いた声で、語りかけるように声をかける。
「何を求めてさまよっている・・・? わたしは、あなたのことを知っている。戦いたくはない・・・」
しかし、吸血鬼はその言葉に反応する様子もなく、マントを跳ね上げるように両手を高くかざした。
闇のように黒いマントの裏地は、彼の目と同じ血の色に染まり、妖しい光を発している。その眼光に目をとらえられたハレッシュは、身体の自由がきかなくなるのを感じた。
「出て行けッ!!」
もう一度、声高く叫んだ吸血鬼は、マントを翻して宙を舞った。
「気を付けろ!!」
エンデルクが叫ぶ。だが、既に吸血鬼はハレッシュの傍らに降り立ち、しびれたように立ち尽くすハレッシュを抱きしめるようにしながら、その首筋に歯を立てようとしていた。
「危ない、ハレッシュさん・・・お願い、当たって!」
エリーが『陽と風の杖』を振り下ろす。青白い光球が飛び、吸血鬼のマントに当たって弾ける。
「ぐあっ!」
身をのけぞらす吸血鬼。その口許からのぞく鋭い牙から、ハレッシュの血がしたたる。吸血鬼の腕から離れたハレッシュは、そのままうつ伏せに地面に倒れ、動かなくなった。死んではいない。だが、完全に身体の自由を奪われていた。
起き直った吸血鬼は、血の色に染まった瞳で、エリーをはたと見据えた。
「目を見るな! ハレッシュと同じ目に遭うぞ!」
エンデルクが叫び、駆け寄ってくる。だが、その前に吸血鬼はエリーにおおいかぶさり、大きく口を開けてその牙をエリーののどに埋めようとしていた。
「やめて!」
悲鳴に近い叫びと共に、エリーが右手に握った杖で吸血鬼を振り払う。死の抱擁から逃れたエリーは、そのまま『陽と風の杖』を構え、距離をおいて吸血鬼をにらみつける。
吸血鬼の赤黒い目とエリーの栗色の瞳が、にらみ合う。視線が空中でからみあい、火花を散らす。
意外にも、驚愕の色を浮かべて目をそらしたのは、吸血鬼の方だった。相手を麻痺させ自由に操ることのできる魔力のこもった視線を、なぜかエリーはいとも簡単に跳ね返してしまったのだ。
そこへ、エンデルクが聖騎士の剣を振りかざして斬り込む。
身を翻して逃れる吸血鬼。切り取られたマントの切れ端が、蝶のように舞う。
「もはや、話し合う余地はない・・・。そういうことか・・・」
静かにつぶやいたエンデルクは、再び剣を構え、吸血鬼に向き直る。
「ならば、あなたを静かに眠らせることが、私の義務だ・・・。行くぞ!」
エンデルクは目の高さに構えた剣を、微動だにさせず、じりじりと吸血鬼に近付く。
「はっ!」
気合もろとも剣を叩きつけるエンデルク。だが、手応えはなく、剣は空を切った。
「どこだ!?」
エンデルクは幾分かあわてた声で、あたりを見回す。
吸血鬼の姿は、かき消えている。宙に溶け込んでしまったかのようだ。
逃げ去ったのだろうか。
しかし、あたりを取り巻く寒気と闇は消えていない。
「待って、エンデルク様。動かないで」
エリーの落ち着き払った声が響く。驚いた顔で振り向くエンデルク。
エリーは両手で握りしめた杖を水平に構え、ゆっくりとあたりを見回す。
その栗色の目が光った。
「そこ! 右斜め2歩前!」
エリーの叫びに、エンデルクは本能的に反応した。言われるままに前進し、何も見えない空間に向かって剣を突き出す。
手応えは、あった。
なにか柔らかい固まりを、貫く感覚。
「ぐわあっ!!」
突然、その空間に、黒いマントに包まれた人影が現れた。真っ直ぐに突き出されたエンデルクの剣先が、吸血鬼の左胸、心臓のある位置を的確に貫いている。
吸血鬼は首をのけぞらせ、両手で胸をかきむしるように痙攣していたが、しばらくするとぐったりと動かなくなった。
「むん・・・!」
エンデルクが剣を引き抜く。そのまま吸血鬼フォン・シュテルンビルト伯爵の身体は、乾いた音を立てて地面に倒れる。その時には、その身体は死して幾十年を経た死体と同じ、からからに乾いたミイラのような姿となっていた。
それを見つめ、エンデルクは大きく息を吐き出す。エリーが寄って来て、恐る恐る吸血鬼の死体を覗き込む。
「うーん・・・。あれ、どうしたんだ、俺?」
少し離れた場所で、ハレッシュが身を起こし、不思議そうにつぶやく。吸血鬼が死んだため、その魔力から解放されたのだ。
エンデルクが、誰に話しかけるでもなく、静かに語り始める。
「シグザール王国の年代記によれば、ここヘウレンの森は、かつて壮大な荘園だったそうだ。その領主こそ、フォン・シュテルンビルト伯爵・・・。彼は、非常な愛妻家だったそうだ。しかし、彼は最愛の妻に先立たれてしまった・・・。この森の中には、彼の妻の墓が人知れず遺されているという。そして、伯爵は妻の墓を守るために、不死の姿となって森をさまよっていたのだろう・・・」
「悪い人じゃ、なかったんですね・・・」
エリーがしんみりと言う。
「ねえ、埋めてあげましょうよ。このままじゃ、気の毒で・・・」
「そうだな。できれば、奥さんの隣に埋めてやりたいけど、場所がわからないんじゃなあ」
ハレッシュも賛成する。
あたりにたちこめていた闇と寒気は消え去り、暖かい陽射しが戻って来ていた。
「よし・・・。では、あの木の下がいいだろう・・・」
ハレッシュがマントにくるんだ軽い死体を、エンデルクが指し示した木の根元に運ぶ。
そして、エンデルクとハレッシュは穴を掘り始めた。その間に、エリーは薪を集めて火をおこし、夕食の準備を進める。
「ひとつ、聞きたいのだが・・・」
手を休めず、エンデルクがエリーに言う。
「なぜ、あの時、吸血鬼の居場所がわかったのだ? 私ですら、気配もわからなかったというのに・・・」
「う〜ん、なぜでしょう。でも、心を落ち着かせたら、見えたんです」
エリーも、自信がない声で答える。
エンデルクは、考え込んだように無言で作業を進めた。
ふと手を休め、剣にこびりついた土を払おうと、剣を木の幹に打ちつける。
そのはずみで、頭上の葉叢から、なにかが降りてきた。
エンデルクの目の前で、宙に止まる。
「うわっ!!」
それに目をとめたエンデルクが、情けない声を上げて飛びのく。
「た、隊長!?」
「どうしたんですか、エンデルク様」
ハレッシュとエリーの視線が集まる。エンデルクは、腰を抜かしたように座り込んでいる。
エリーが、エンデルクを驚かせた『もの』に目をとめる。
「あれえ、な〜んだ、ただの毛虫じゃないですか。もしかして、エンデルク様の苦手なものって・・・」
「はあ、こいつは意外だったなあ」
ハレッシュも驚いている。
エンデルクは、起き上がって鎧に付いた土を払い落とすと、いくぶんか決まり悪そうに、
「国防上の機密事項だ・・・。他言は無用に願おう。それから、早くその代物を、どこかに処分してくれ・・・」
「はいはい、了解であります」
エリーは、毛虫を宙につなぎとめている糸をつまむと、そのまま繁みの奥に放り投げる。
エンデルクは咳払いをして、ハレッシュとエリーに威厳のこもった視線を向け、作業に戻るように促す。
ハレッシュは神妙な顔をして穴掘りに精を出し、エリーは太い生木を組み合わせた即製のかまどに火をおこすと、鍋をかける。
エンデルクも、何事もなかったような表情で、黙々と作業を続ける。
そこに、軽い足音をさせてエリーが近付く。
「でも、エンデルク様、苦手なものは少しずつ克服するようにした方がいいですよ」
「それは、わかっている・・・。しかし、どのようにすればいいのだ・・・?」
「まずは、慣れることですよ。・・・はい、毛虫」
同時に、エンデルクの首筋に、ちくちくした毛に覆われた指先ほどの柔らかな固まりが押し付けられた。
「うぎゃあ!!」
「あ・・・あれ? エンデルク様! 大丈夫ですか? エンデルク様!・・・だめだ、白目むいてる」
「お、おいおい、エリー、いったい隊長に何したんだよ!?」
「う〜ん、ちょっと刺激が強すぎたかなぁ」
エリーは、エンデルクの首筋に押し付けた『猫じゃらし』の草の穂をもてあそんだ。
「あ〜あ、隊長、完全に気を失ってるぜ。どうするんだよ」
「ま、お疲れでしょうから、スープができるまで、そのままにしておいたらどうかなあ」
「あきれたな。じゃ、あんたも穴掘りを手伝うんだぜ、いいな」
「ま、仕方ないか」
そう言って、杖を手に取るエリーの耳に、かすかに聞こえる声。
「あ、あれは・・・」
「お〜い、おねえさ〜ん」
繁みをかき分け、自分の背丈と同じくらいの採取かごを背負った青妖精が姿を現わす。
「ハアハア、やっと着いた。おねえさん、にんにくを持って来ましたよ」
ピコはかごを下ろすと、疲れきった様子で座り込む。だが、気絶して仰向けに横たわったエンデルクに気付くと、
「あれ!? エンデルク様、どうしちゃったんですか? ああ、間に合わなかったのか・・・。おいたわしや・・・」
帽子を取り、合掌するピコに、思わず苦笑いするハレッシュ。
エリーはというと、ピコが持ってきたにんにくを刻んでは、スープの鍋に放り込んでいた。
そして、失神したままのエンデルクの意識は、はるかな過去をさまよっていた。